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'''顕誓'''(けんせい)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[浄土真宗|本願寺]]の僧侶。光教寺顕誓ともよばれる。
'''顕誓'''(けんせい)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[浄土真宗|本願寺]]の僧侶(追記) 。[[加賀国|加賀]][[光教寺]]住持。光教寺[[蓮誓]]の3男 (追記ここまで)。光教寺顕誓ともよばれる。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
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蓮如の孫。加賀光教寺の蓮誓の3男。[[享禄・天文の乱]]において、父蓮誓([[蓮如]]の四男)とともに、小一揆側で戦うが敗れ越前に逃れた。
顕誓は父蓮誓(蓮如の四男)とともに破門、追放された。


証如の後を継いだ[[顕如]]に仕え[[朝倉宗滴]]と和睦交渉を行ったが、天文24年([[弘治 (日本)|弘治]]元年・[[1555年]])7月に宗滴が本家当主[[朝倉義景]]の命令で加賀へ侵攻、越前と加賀の紛争が起こり交渉は失敗した。顕誓はこの出来事について勝祐([[超勝寺]][[実顕]]の弟)に原因があると主張、加賀にいた彼が勝手に[[甲斐国|甲斐]]の武田晴信(後の[[武田信玄]])と手を結び、[[能登国|能登]]の[[畠山晴俊]]や[[相模国|相模]]の[[北条氏康]]とも結託したため、[[越後国|越後]]の長尾景虎(後の[[上杉謙信]])が義景および能登の[[畠山義続]](晴俊の同族)と結び、宗滴の加賀出兵に至ったとしている。翌弘治2年([[1556年]])に[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]の調停で加賀・越前は和睦したが、交渉にあたった本願寺の家臣[[下間頼言]]が急死したことを抗戦派の超勝寺[[顕祐]](実顕の子)による毒殺と疑っている{{sfn|神田千里|2020|p=37-42}}。
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顕誓は宗派を代表する碩学の1人であり、本願寺一家の記録を『今古独語』『反古裏書』等にまとめた。これらは『顕誓領解之訴状』と同じく蟄居中に書いた物で、本願寺興隆の歴史を物語る貴重な史料として現代に伝えている{{sfn|辻川達雄|1996|p=224}}{{sfn|柏原祐泉|薗田香融|1999|p=112}}。
'''事績'''

顕誓は宗派を代表する碩学のひとりであり、本願寺一家の記録を「今古独語」「反古裏書」等にまとめた。

'''蟄居処分について'''

顕誓は[[永禄]]10年([[1567年]])に宗主顕如より塾居処分を受ける。
『顕誓領解之訴状」という史料によれば、御堂衆[[光徳寺乗賢]]が顕如に顕誓の法義解釈に異ありと進言したことによるようである。

== 系譜 ==


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[辻川達雄]]『蓮如と七人の息子』[[1996年]]、[[誠文堂新光社]]。ISBN 978-4-416-89620-4
戦国期本願寺「報思講」をめぐって
* [[柏原祐泉]]・[[薗田香融]]・[[平松令三]]監修『真宗人名辞典』1999年、[[法藏館]]。
* [[神田千里]]『顕如 <small>仏法再興の志を励まれ候べく候</small>』[[ミネルヴァ書房]]([[ミネルヴァ日本評伝選]])、2020年。
(追記) * (追記ここまで)戦国期本願寺「報思講」をめぐって


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[[Category:戦国武将]]
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[[Category:浄土真宗の僧]]
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[[Category:1570年没]]
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2023年7月1日 (土) 08:27時点における版

 
顕誓
時代 戦国時代
生誕 明応8年(1499年)
死没 元亀元年10月24日(1570年 11月21日)
別名 光慶(幼名)
諡号 光闡坊
官位 法印
主君 証如顕如
氏族 本願寺(大谷家)
父母 父:蓮誓、母:正親町持季の娘如専
兄弟 蓮能実玄顕誓
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顕誓(けんせい)は、戦国時代武将本願寺の僧侶。加賀 光教寺住持。光教寺蓮誓の3男。光教寺顕誓ともよばれる。

略歴

永正16年(1519年)に得度、大永元年(1521年)の父の死で光教寺を継いだ。大永5年(1525年)に叔父の本願寺法主 実如から孫証如(顕誓の従甥)の後を託された親族5名の1人に選ばれた[1] [2]

しかし享禄・天文の乱が勃発すると、享禄4年(1531年)に加賀で起こった内乱(大小一揆)で小一揆側で戦うが敗れ、証如に破門され友好関係にあった朝倉氏を頼り越前に逃れた。19年後の天文19年(1550年)に証如の意向で願得寺 実悟らと共に赦免され、本願寺に帰参した。これは証如が母鎮永尼を通じて外祖父蓮淳の遺言を伝えられたことが背景にあったが、朝倉氏との繋がりを重要視した鎮永尼の意向もあり、赦免後は朝倉氏との外交を担うことになった[3] [4] 。またこの際、赦免に浄照坊明春の個人的な尽力があったとされる(『反古裏書』)。

証如の後を継いだ顕如に仕え朝倉宗滴と和睦交渉を行ったが、天文24年(弘治元年・1555年)7月に宗滴が本家当主朝倉義景の命令で加賀へ侵攻、越前と加賀の紛争が起こり交渉は失敗した。顕誓はこの出来事について勝祐(超勝寺 実顕の弟)に原因があると主張、加賀にいた彼が勝手に甲斐の武田晴信(後の武田信玄)と手を結び、能登畠山晴俊相模北条氏康とも結託したため、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が義景および能登の畠山義続(晴俊の同族)と結び、宗滴の加賀出兵に至ったとしている。翌弘治2年(1556年)に室町幕府13代将軍 足利義輝の調停で加賀・越前は和睦したが、交渉にあたった本願寺の家臣下間頼言が急死したことを抗戦派の超勝寺顕祐(実顕の子)による毒殺と疑っている[5]

永禄2年(1559年)に御影堂鎰役、翌永禄3年(1560年)に法印となったが、永禄10年(1567年)に顕如より塾居処分を受け、播磨 英賀に塾居した。『顕誓領解之訴状』という史料によれば、御堂衆の光徳寺乗賢が顕如に顕誓の法義解釈に異ありと進言したことによるようである。塾居理由は乗賢による讒言の他、加賀・越前和睦交渉を進める顕誓への反対派の不満も原因とされている。塾居中は『顕誓領解之訴状』を書いて顕如へ提出したが、処分は解かれないまま元亀元年(1570年)に亡くなった[6] [7] [8]

顕誓は宗派を代表する碩学の1人であり、本願寺一家の記録を『今古独語』『反古裏書』等にまとめた。これらは『顕誓領解之訴状』と同じく蟄居中に書いた物で、本願寺興隆の歴史を物語る貴重な史料として現代に伝えている[6] [9]

脚注

参考文献


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