「間部詮央」の版間の差分
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'''間部 詮央'''(まなべ あきなか)は、[[越前国|越前]][[鯖江藩]]の第3代藩主。間部家4代。第2代藩主・[[間部詮方]]の次男。母は[[有馬一準]]の娘。正室は[[朽木玄綱]]の娘・浄鏡院。通称は多門。
'''間部 詮央'''(まなべ あきなか)は、[[越前国|越前]][[鯖江藩]]の第3代藩主。間部家4代。第2代藩主・[[間部詮方]]の次男。母は[[有馬一準]]の娘。正室は[[朽木玄綱]]の娘・浄鏡院。(追記) [[仮名 ( (追記ここまで)通称(追記) )|通称]] (追記ここまで)は多門。
[[元文]]3年([[1738年]])、江戸に生まれる。長兄が早くに亡くなっていたため、嫡子となる。[[宝暦]]5年([[1755年]])12月25日、将軍[[徳川家重]]に[[御お目見]]する。同年12月28日、[[従五位|従五位下]]・主膳正に叙任する。宝暦11年([[1761年]])12月6日、詮方の隠居により家督を相続した。宝暦13年([[1763年]])6月22日、初めてお国入りする許可を得る。
[[元文]]3年([[1738年]])、江戸に生まれる。長兄が早くに亡くなっていたため、嫡子となる。[[宝暦]]5年([[1755年]])12月25日、将軍[[徳川家重]]に[[御お目見]]する。同年12月28日、[[従五位|従五位下]]・主膳正に叙任する。宝暦11年([[1761年]])12月6日、詮方の隠居により家督を相続した。宝暦13年([[1763年]])6月22日、初めてお国入りする許可を得る。
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'''父母'''
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* [[間部詮方]](父)
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* 純成院 (削除) ー (削除ここまで) [[有馬一準]]の娘(母)
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'''正室'''
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* 浄鏡院 (削除) ー (削除ここまで) [[朽木玄綱]]の娘
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'''子女'''
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* 喜久 (削除) ー (削除ここまで) [[織田秀綿]]正室
* 喜久 (追記) - (追記ここまで) [[織田秀綿]]正室
'''養子'''
'''養子'''
* [[間部詮茂]] (削除) ー (削除ここまで) 実弟
* [[間部詮茂]] (追記) - (追記ここまで) 実弟
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
2023年2月1日 (水) 04:07時点における最新版
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 1738年 12月12日(元文3年11月2日) |
死没 | 1771年 7月11日(明和8年5月29日) |
別名 | 多門(通称) |
官位 | 従五位下・主膳正 |
藩 | 鯖江藩主 |
氏族 | 間部氏 |
父母 | 父:間部詮方、母:純成院(有馬一準の娘) |
兄弟 | 詮央、詮茂、佐久間信邦、方元、田中方親、阿部正包、他。 |
妻 | 浄鏡院(朽木玄綱の娘) |
子 |
養子:詮茂 喜久(織田秀綿室) |
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間部 詮央(まなべ あきなか)は、越前 鯖江藩の第3代藩主。間部家4代。第2代藩主・間部詮方の次男。母は有馬一準の娘。正室は朽木玄綱の娘・浄鏡院。通称は多門。
元文3年(1738年)、江戸に生まれる。長兄が早くに亡くなっていたため、嫡子となる。宝暦5年(1755年)12月25日、将軍徳川家重に御お目見する。同年12月28日、従五位下・主膳正に叙任する。宝暦11年(1761年)12月6日、詮方の隠居により家督を相続した。宝暦13年(1763年)6月22日、初めてお国入りする許可を得る。
江戸上屋敷の火事や婚礼における経費、凶作などの不幸が重なって財政は火の車となり、詮央は厳しい倹約令を出して財政改革に取り組もうとしたが、その矢先に死去した。享年34(満32歳没)。嗣子が無かったため、弟の詮茂が継いだ。
系譜
[編集 ]父母
正室
- 浄鏡院 - 朽木玄綱の娘
子女
- 喜久 - 織田秀綿正室
養子
- 間部詮茂 - 実弟
参考文献
[編集 ]- 間部家文書刊行会編『間部家文書』第三巻 鯖江市、1984年