[[マサチューセッツ州]]フェアヘイヴン出身。母のシビル (Sybil)・ホイットフィールドは未婚女性で、母方の祖父パーネル (Parnel) に育てられた。叔父のジョージ ([[1789年]]–[[1882年]]) と同様、捕鯨船船長への道を歩み、[[1819年]]、15歳のときに叔父が船長を務めるマーサ (Martha) 号の船員となり、やがてパシフィック号の操舵手、ミズーリ号の二等航海士、ウィリアム・トンプソン号の一等航海士を務めた。[[1835年]]、コネチカット (フェアヘイヴン) のルース・Cというアイルランド人女性と結婚。その後ニューアーク (Newark) 号の船長として太平洋に向け出港するも、航海中の[[1837年]]5月、ルースが死去したことを知らされた。妻の死に打ちのめされ、[[1838年]]にフェアヘイヴンに帰港するまでは1年間も引きこもり状態となった<ref name ="Bernard">バーナード・ドナルド R. (Bernard, Donald R.) 著「ジョン万次郎の生涯と時間」(1992年) pp. 1–2; 41; 50; 214. McGraw-Hill. {{(削除) ISBN (削除ここまで)|0070049475}}</ref><ref name = "FVG">マサチューセッツ州フェアヘイヴン観光局 (2017) [https://fairhaventours.com/wp-content/uploads/2017/04/Fairhaven-Online-Book-2017.pdf ''Fairhaven Visitors' Guide''], pp. 12–13; 26.</ref>。
[[マサチューセッツ州]]フェアヘイヴン出身。母のシビル (Sybil)・ホイットフィールドは未婚女性で、母方の祖父パーネル (Parnel) に育てられた。叔父のジョージ ([[1789年]]–[[1882年]]) と同様、捕鯨船船長への道を歩み、[[1819年]]、15歳のときに叔父が船長を務めるマーサ (Martha) 号の船員となり、やがてパシフィック号の操舵手、ミズーリ号の二等航海士、ウィリアム・トンプソン号の一等航海士を務めた。[[1835年]]、コネチカット (フェアヘイヴン) のルース・Cというアイルランド人女性と結婚。その後ニューアーク (Newark) 号の船長として太平洋に向け出港するも、航海中の[[1837年]]5月、ルースが死去したことを知らされた。妻の死に打ちのめされ、[[1838年]]にフェアヘイヴンに帰港するまでは1年間も引きこもり状態となった<ref name ="Bernard">バーナード・ドナルド R. (Bernard, Donald R.) 著「ジョン万次郎の生涯と時間」(1992年) pp. 1–2; 41; 50; 214. McGraw-Hill. {{(追記) ISBN2 (追記ここまで)|0070049475}}</ref><ref name = "FVG">マサチューセッツ州フェアヘイヴン観光局 (2017) [https://fairhaventours.com/wp-content/uploads/2017/04/Fairhaven-Online-Book-2017.pdf ''Fairhaven Visitors' Guide''], pp. 12–13; 26.</ref>。
<!-- Note: The following is an exact reproduction of Nakahama's letter, including the original spelling, grammar, and punctuation. Do not correct it -->
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<blockquote>誇るべき友へ。こうして一筆啓上する機会を得ることができ、本当に嬉しく存じます。私のほうは何も変わりありません。そちらはご息災でしょうか。いつかまたお目にかかることができれば、何と幸せなことでしょう。アメリア夫人にも、何卒よろしくお伝えください{{efn|アメリア・ホイットフィールド ([[1791年]]–[[1869年]]) はウィリアムの叔母で、[[1857年]]に結婚するまでチェリー・ストリートのホイットフィールドの家とスコンチカット・ネックの農場で同居していた。<ref name ="Bernard" />}}。また皆様にお目にかかりたく存じます。船長殿、ご子息たちに捕鯨の仕事をさせてはいけません。彼らは日本にお送りください。お望みであれば、私が面倒を見させていただきます。そのときはぜひお知らせください。私がそのための準備を整えます。<ref name="Sword" /></blockquote>
<blockquote>誇るべき友へ。こうして一筆啓上する機会を得ることができ、本当に嬉しく存じます。私のほうは何も変わりありません。そちらはご息災でしょうか。いつかまたお目にかかることができれば、何と幸せなことでしょう。アメリア夫人にも、何卒よろしくお伝えください{{efn|アメリア・ホイットフィールド ([[1791年]]–[[1869年]]) はウィリアムの叔母で、[[1857年]]に結婚するまでチェリー・ストリートのホイットフィールドの家とスコンチカット・ネックの農場で同居していた。<ref name ="Bernard" />}}。また皆様にお目にかかりたく存じます。船長殿、ご子息たちに捕鯨の仕事をさせてはいけません。彼らは日本にお送りください。お望みであれば、私が面倒を見させていただきます。そのときはぜひお知らせください。私がそのための準備を整えます。<ref name="Sword" /></blockquote>
[[1870年]]、万次郎は[[普仏戦争]]視察団の一員として、軍事技術を学ぶためヨーロッパに派遣された。その帰路アメリカに立ち寄り、ワシントンで表敬を受けた後、ホイットフィールドやその家族とともに過ごしたあのスコンチカット・ネックの農場に汽車で向かった<ref>「河田小龍とジョン万次郎」(永国淳哉、北代淳二、Stuart M. Frankによる翻訳と注記。2003年)。[https://books.google.co.uk/books?id=4N3aqNBINz0C&pg=PA12 ''Drifting Toward the Southeast: The Story of Five Japanese Castaways, a Complete Translation of Hyoson Kiryaku (a Brief Account of Drifting Toward the Southeast) as Told to the Court of Lord Yamauchi of Tosa in 1852 by John Manjiro''], p. 12. Spinner Publications. {{(削除) ISBN (削除ここまで)|0932027563}}</ref>。万次郎の死から20年後、彼の長男は父がフェアヘイヴンの人々から受けた援助と教育への感謝の印として、14世紀に作られた[[日本刀]]を寄贈した。この刀は[[1918年]][[7月4日]]にホイットフィールドの墓所で献花式が行われた後、駐米日本大使から贈呈された<ref name= "Sword" />。当時のマサチューセッツ州副知事[[カルビン・クーリッジ]]が述べた歓迎の祝辞は、以下のように結ばれている。
[[1870年]]、万次郎は[[普仏戦争]]視察団の一員として、軍事技術を学ぶためヨーロッパに派遣された。その帰路アメリカに立ち寄り、ワシントンで表敬を受けた後、ホイットフィールドやその家族とともに過ごしたあのスコンチカット・ネックの農場に汽車で向かった<ref>「河田小龍とジョン万次郎」(永国淳哉、北代淳二、Stuart M. Frankによる翻訳と注記。2003年)。[https://books.google.co.uk/books?id=4N3aqNBINz0C&pg=PA12 ''Drifting Toward the Southeast: The Story of Five Japanese Castaways, a Complete Translation of Hyoson Kiryaku (a Brief Account of Drifting Toward the Southeast) as Told to the Court of Lord Yamauchi of Tosa in 1852 by John Manjiro''], p. 12. Spinner Publications. {{(追記) ISBN2 (追記ここまで)|0932027563}}</ref>。万次郎の死から20年後、彼の長男は父がフェアヘイヴンの人々から受けた援助と教育への感謝の印として、14世紀に作られた[[日本刀]]を寄贈した。この刀は[[1918年]][[7月4日]]にホイットフィールドの墓所で献花式が行われた後、駐米日本大使から贈呈された<ref name= "Sword" />。当時のマサチューセッツ州副知事[[カルビン・クーリッジ]]が述べた歓迎の祝辞は、以下のように結ばれている。
<blockquote>この剣は、かつては地位や身分や専制的階級の象徴だったが、ホイットフィールド船長が真の人道主義を示し、日本の少年が真の義務感を示したことにより、今や新しい意義を帯びている<ref name="Sword" />。{{efn|この剣は第二次世界大戦中においてもミリセント (Millicent) 図書館に展示されていたが1977年に盗難され、現在でも行方が分かっていない<ref name = "FVG"/>。}} </blockquote>
<blockquote>この剣は、かつては地位や身分や専制的階級の象徴だったが、ホイットフィールド船長が真の人道主義を示し、日本の少年が真の義務感を示したことにより、今や新しい意義を帯びている<ref name="Sword" />。{{efn|この剣は第二次世界大戦中においてもミリセント (Millicent) 図書館に展示されていたが1977年に盗難され、現在でも行方が分かっていない<ref name = "FVG"/>。}} </blockquote>
[[1987年]]、後に[[日本国]]の[[天皇]]となる[[皇太子]][[明仁]]がフェアヘイヴンのホイットフィールドの墓所に参拝した。現在でも、日本人観光客が墓地を訪れ捧げ物をしている<ref>Weisberg, Tim (2010). [https://books.google.co.uk/books?id=w6YjCgAAQBAJ&pg=PT36 ''Ghosts of the South Coast''], pp. 35–36 (electronic edition). Arcadia Publishing. {{(削除) ISBN (削除ここまで)|1614230099}}</ref>。1987年12月には、フェアヘイヴンの使節団が万次郎の出身地である[[高知県]][[土佐清水市]]を訪れ[[姉妹都市]]に調印し、ホイットフィールド・万次郎友愛会 (Whitfield-Manjiro Friendship Society) の設立へとつながった。[[2007年]]、ホイットフィールドの屋敷が老朽化し売りに出された。これを聞いた日本の友愛会の会員らは、フェアヘイヴンへの贈り物として、屋敷を購入し修復するための募金を集めた。この屋敷はジョン万次郎のフェアヘイヴンでの生活を紹介する博物館として、[[2009年]][[5月7日]]に開館した。開館式には日本からの募金の寄付者100人と、ニューヨークとボストンの日本総領事、またホイットフィールド家と中浜家の五世と六世の子孫らが出席した<ref>ホイットフィールド・万次郎友愛会 (2016)[http://www.whitfield-manjiro.org/the-manjiro-story.html "The Manjiro Story"]. Retrieved 12 February 2018.</ref><ref>''JapanInfo'', Vol. 22 (May 2009). [https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/en/c/2009/japaninfo0905.html "The Capt. Whitfield - Manjiro Friendship Memorial House Opens in Massachusetts"]. Consulate-General of Japan in New York. Retrieved 12 February 2018.</ref>。
[[1987年]]、後に[[日本国]]の[[天皇]]となる[[皇太子]][[明仁]]がフェアヘイヴンのホイットフィールドの墓所に参拝した。現在でも、日本人観光客が墓地を訪れ捧げ物をしている<ref>Weisberg, Tim (2010). [https://books.google.co.uk/books?id=w6YjCgAAQBAJ&pg=PT36 ''Ghosts of the South Coast''], pp. 35–36 (electronic edition). Arcadia Publishing. {{(追記) ISBN2 (追記ここまで)|1614230099}}</ref>。1987年12月には、フェアヘイヴンの使節団が万次郎の出身地である[[高知県]][[土佐清水市]]を訪れ[[姉妹都市]]に調印し、ホイットフィールド・万次郎友愛会 (Whitfield-Manjiro Friendship Society) の設立へとつながった。[[2007年]]、ホイットフィールドの屋敷が老朽化し売りに出された。これを聞いた日本の友愛会の会員らは、フェアヘイヴンへの贈り物として、屋敷を購入し修復するための募金を集めた。この屋敷はジョン万次郎のフェアヘイヴンでの生活を紹介する博物館として、[[2009年]][[5月7日]]に開館した。開館式には日本からの募金の寄付者100人と、ニューヨークとボストンの日本総領事、またホイットフィールド家と中浜家の五世と六世の子孫らが出席した<ref>ホイットフィールド・万次郎友愛会 (2016)[http://www.whitfield-manjiro.org/the-manjiro-story.html "The Manjiro Story"]. Retrieved 12 February 2018.</ref><ref>''JapanInfo'', Vol. 22 (May 2009). [https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/en/c/2009/japaninfo0905.html "The Capt. Whitfield - Manjiro Friendship Memorial House Opens in Massachusetts"]. Consulate-General of Japan in New York. Retrieved 12 February 2018.</ref>。
==脚注==
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==関連書籍==
==関連書籍==
*ベンフィ・クリストファー (Benfey, Christopher) 2003年 [https://www.nytimes.com/2003/07/20/books/chapters/the-great-wave.html "Floating World"], Chapter 1 of ''The Great Wave: Gilded Age Misfits, Japanese Eccentrics, and the Opening of Old Japan''. Random House. {{(削除) ISBN (削除ここまで)|0375503277}}. Excerpt published in ''[[The New York Times]]'' retrieved 12 February 2018.
*ベンフィ・クリストファー (Benfey, Christopher) 2003年 [https://www.nytimes.com/2003/07/20/books/chapters/the-great-wave.html "Floating World"], Chapter 1 of ''The Great Wave: Gilded Age Misfits, Japanese Eccentrics, and the Opening of Old Japan''. Random House. {{(追記) ISBN2 (追記ここまで)|0375503277}}. Excerpt published in ''[[The New York Times]]'' retrieved 12 February 2018.
*アーボン・スティーヴ (Urbon, Steve) 2015年5月3日 [http://www.southcoasttoday.com/article/20150503/NEWS/150509816 "Manjiro and Whitfield in the same photo? It may be a first"]. (万次郎とホイットフィールドが同じ写真に? 初めて発見されたものかも) ''The Standard-Times''. Retrieved via SouthCoastToday.com 12 February 2018.
*アーボン・スティーヴ (Urbon, Steve) 2015年5月3日 [http://www.southcoasttoday.com/article/20150503/NEWS/150509816 "Manjiro and Whitfield in the same photo? It may be a first"]. (万次郎とホイットフィールドが同じ写真に? 初めて発見されたものかも) ''The Standard-Times''. Retrieved via SouthCoastToday.com 12 February 2018.
ベンフィ・クリストファー (Benfey, Christopher) 2003年 "Floating World", Chapter 1 of The Great Wave: Gilded Age Misfits, Japanese Eccentrics, and the Opening of Old Japan. Random House. ISBN0375503277. Excerpt published in The New York Times retrieved 12 February 2018.