コンテンツにスキップ
Wikipedia

「黒羊朝」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
89行目: 89行目:
[[1419年]]にイラン中部の[[ガズヴィーン]]まで占領したところでカラ・ユースフは没するが、翌[[1420年]]に黒羊朝はティムール朝中央政権の[[シャー・ルフ]]による遠征を受け、黒羊朝は激しい抵抗を取れないままアゼルバイジャンまでの東方の領土を奪還された<ref name="haneda185"/>。
[[1419年]]にイラン中部の[[ガズヴィーン]]まで占領したところでカラ・ユースフは没するが、翌[[1420年]]に黒羊朝はティムール朝中央政権の[[シャー・ルフ]]による遠征を受け、黒羊朝は激しい抵抗を取れないままアゼルバイジャンまでの東方の領土を奪還された<ref name="haneda185"/>。


シャー・ルフが本拠地[[ホラーサーン]]に帰還するとカラ・ユースフの遺児{{仮リンク|カラ・イスカンダル|en|Qara Iskander|label=カラ・イスカンダル}}が王朝を再統一して勢力を回復し、アゼルバイジャンの支配を巡ってティムール朝と激しく争った。カラ・イスカンダルは[[白羊朝]]の[[カラ・ユルク・オスマン|カラ・オスマン]]を倒すなど東部アナトリアに覇を唱えるが、たびたびシャー・ルフの遠征を受け、シャー・ルフに忠実な兄弟の[[ジャハーン・シャー]]に王位を奪われた。ジャハーン・シャーはシャー・ルフによってタブリーズの知事に任ぜられ、ティムール朝の宗主権を認める代償に黒羊朝はアゼルバイジャンの支配を確実なものとする<ref name="haneda185"/>。
シャー・ルフが本拠地[[ホラーサーン]]に帰還するとカラ・ユースフの遺児{{仮リンク|カラ・イスカンダル|en|Qara Iskander|label=カラ・イスカンダル}}が王朝を再統一して勢力を回復し、アゼルバイジャンの支配を巡ってティムール朝と激しく争った。カラ・イスカンダルは[[白羊朝]]の[[カラ・ユルク・オスマン|カラ・オスマン]]を倒すなど東部アナトリアに覇を唱えるが、たびたびシャー・ルフの遠征を受け、シャー・ルフに忠実な兄弟の[[(追記) ジャハーン・シャー (黒羊朝)| (追記ここまで)ジャハーン・シャー]]に王位を奪われた。ジャハーン・シャーはシャー・ルフによってタブリーズの知事に任ぜられ、ティムール朝の宗主権を認める代償に黒羊朝はアゼルバイジャンの支配を確実なものとする<ref name="haneda185"/>。


[[1447年]]にティムール朝のシャー・ルフが没し、2年後にはその子[[ウルグ・ベク]]が殺害されてティムール朝の統一が乱れると、ジャハーン・シャーはティムール朝に対して反旗を翻し、黒羊朝は再び拡大に転じてイラン高原中部まで進出した<ref name="haneda186">羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、186頁</ref>。[[1458年]]、ジャハーン・シャーはティムール朝の中心地[[ホラーサーン]]に迫り、ティムール朝側の混乱に乗じて一時は都[[ヘラート]]を占領するほどの勢力を誇った<ref name="haneda186"/>。そして、支配領域の拡大に伴って行政機構も整備される。
[[1447年]]にティムール朝のシャー・ルフが没し、2年後にはその子[[ウルグ・ベク]]が殺害されてティムール朝の統一が乱れると、ジャハーン・シャーはティムール朝に対して反旗を翻し、黒羊朝は再び拡大に転じてイラン高原中部まで進出した<ref name="haneda186">羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、186頁</ref>。[[1458年]]、ジャハーン・シャーはティムール朝の中心地[[ホラーサーン]]に迫り、ティムール朝側の混乱に乗じて一時は都[[ヘラート]]を占領するほどの勢力を誇った<ref name="haneda186"/>。そして、支配領域の拡大に伴って行政機構も整備される。

2020年12月30日 (水) 15:58時点における版

黒羊朝
黒羊朝の国旗
(国旗)
黒羊朝の位置
首都 タブリーズ
君主
1378年 - 1388年 カラ・ユースフ (英語版)(第3代)
1438年 - 1467年 ジャハーン・シャー
変遷
成立 1375年
滅亡1468年

黒羊朝(こくようちょう、ペルシャ/アゼリー語:قرا قویونلو)は、イラク北部からアナトリア半島東部を経てアゼルバイジャンイラン西部に広がる遊牧地帯を支配したテュルク系イスラム王朝(1375年 - 1468年)。

トゥルクマーンと呼ばれるテュルク系遊牧民の部族連合を元とする遊牧国家であり[1] 、王朝名はトルコ語でこの部族連合がカラ・コユンル(Karakoyunlu/Qara Qoyunlu)、すなわち「『黒い羊』に属する者」と呼ばれたことに由来する直訳名称であるが、語源は不明である[2]

歴史

黒羊朝の部族連合を結んだトゥルクマーンたちはイルハン朝の時代にヴァン湖北岸を夏営地、モースル近辺を冬営地として遊牧生活を送っていた[3]

その一派の首長バイラム・ホジャは、イルハン朝が解体再編されていった14世紀後半に権力を確立し、周辺一帯を広く支配するイルハン朝の継承政権ジャライル朝に服属した[4] 。バイラム・ホジャの子カラ・ムハンマドはジャライル朝に反乱を起こすが敗北した[4]

第3代君主カラ・ユースフ (英語版)の時に、ティムールによる東部アナトリア遠征にジャライル朝とともに抵抗し、一旦は勢力を失った。しかし、1405年にティムールが没するとカラ・ユースフは勢力を盛り返し、アゼルバイジャン地方を支配するティムール朝の王子アブー・バクルを破って1408年にアゼルバイジャンの中心都市タブリーズを領有する[5] 。さらに1411年にジャライル朝の残党を滅ぼしてバグダードを占領、イラクまで勢力を広げる。

1419年にイラン中部のガズヴィーンまで占領したところでカラ・ユースフは没するが、翌1420年に黒羊朝はティムール朝中央政権のシャー・ルフによる遠征を受け、黒羊朝は激しい抵抗を取れないままアゼルバイジャンまでの東方の領土を奪還された[5]

シャー・ルフが本拠地ホラーサーンに帰還するとカラ・ユースフの遺児カラ・イスカンダル (英語版)が王朝を再統一して勢力を回復し、アゼルバイジャンの支配を巡ってティムール朝と激しく争った。カラ・イスカンダルは白羊朝カラ・オスマンを倒すなど東部アナトリアに覇を唱えるが、たびたびシャー・ルフの遠征を受け、シャー・ルフに忠実な兄弟のジャハーン・シャーに王位を奪われた。ジャハーン・シャーはシャー・ルフによってタブリーズの知事に任ぜられ、ティムール朝の宗主権を認める代償に黒羊朝はアゼルバイジャンの支配を確実なものとする[5]

1447年にティムール朝のシャー・ルフが没し、2年後にはその子ウルグ・ベクが殺害されてティムール朝の統一が乱れると、ジャハーン・シャーはティムール朝に対して反旗を翻し、黒羊朝は再び拡大に転じてイラン高原中部まで進出した[6] 1458年、ジャハーン・シャーはティムール朝の中心地ホラーサーンに迫り、ティムール朝側の混乱に乗じて一時は都ヘラートを占領するほどの勢力を誇った[6] 。そして、支配領域の拡大に伴って行政機構も整備される。

しかし、1467年、ジャハーン・シャーは、当時、黒羊朝に服属していた白羊朝ウズン・ハサンが勢力を拡大すると、ウズン・ハサンを討つために西に進軍した[7] 。しかし、ジャハーン・シャーが野営中にウズン・ハサンに急襲され落命すると黒羊朝はたちまち混乱し、分裂した。ウズン・ハサンは黒羊朝の王族たちを次々に破り、その後わずか2年足らずの間に黒羊朝の勢力は白羊朝により一掃されてしまった。黒羊朝滅亡後、指揮下の部族は白羊朝に吸収された[2]

黒羊朝を形成していた集団の一部はインドに移住し、16世紀初頭にクトゥブ・シャーヒー朝を創始した[3]

歴代君主

一覧
代数 名前 在位
1 バイラム・ホジャ 1366年 - 1380年
2 カラ・ムハンマド (アゼルバイジャン語版) 1380年 - 1389年
3 カラ・ユースフ (英語版) 1389/90年 - 1400年
1406年 - 1420年
4 カラ・イスカンダル (英語版) 1420年 - 1435/38年
5 ジャハーン・シャー (英語版) 1435/38年 - 1467年
6 ハサン・アリー 1468年 - 1469年

白羊朝により滅亡

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カラ・ユースフ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハサン・アリー 6
 

脚注

  1. ^ 羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、189頁
  2. ^ a b 羽田「カラコユンル」『岩波イスラーム辞典』、286頁
  3. ^ a b 小野「カラ・コユンル朝」『新イスラム事典』、185頁
  4. ^ a b 清水「黒羊朝」『アジア歴史事典』3巻、356-357頁
  5. ^ a b c 羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、185頁
  6. ^ a b 羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、186頁
  7. ^ 羽田「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、190頁

参考文献

  • 小野浩「カラ・コユンル朝」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 清水誠「黒羊朝」『アジア歴史事典』3巻収録(平凡社, 1960年)
  • 羽田正「カラコユンル」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 羽田正「東方イスラーム世界の形成と変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、182頁

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /