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「徳宿城」の版間の差分

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城址の西側の「[[塔の峰]]」と呼ばれる地には徳宿城主代々の[[墓]]があり、北東約3.3kmの[[常磐原]]から[[西勝下]](かつおり)にかけての一帯には「[[合戦場]]」や「[[合戦塚]]」、「[[血流れ窪]]」といった戦いの惨状に由来する地名が残されている。また、[[那珂西城]]の[[III郭南東角]]の杉林の中にこの戦での134の[[首級]]を葬ったという「[[首塚]]」がある。
城址の西側の「[[塔の峰]]」と呼ばれる地には徳宿城主代々の[[墓]]があり、北東約3.3kmの[[常磐原]]から[[西勝下]](かつおり)にかけての一帯には「[[合戦場]]」や「[[合戦塚]]」、「[[血流れ窪]]」といった戦いの惨状に由来する地名が残されている。また、[[那珂西城]]の[[III郭南東角]]の杉林の中にこの戦での134の[[首級]]を葬ったという「[[首塚]]」がある。

<ref>{{Cite web|title=常陸・徳宿城(城郭放浪記)|url=http://www.hb.pei.jp/shiro/hitachi/tokushuku-jyo/|website=城郭放浪記|accessdate=2019年12月27日|language=ja}}</ref>
主郭は南端最高所で神社境内となっており、その周囲に土塁が残っている。北の二条の空掘は、二郭の西側に位置し、低い
土塁が残され三郭がある。


== アクセス ==
== アクセス ==

2019年12月27日 (金) 06:09時点における版

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(2019年9月)

徳宿城(とくしゅくじょう)は、常陸国(現:茨城県)鉾田市に存在した城。

歴史

平安時代末期頃、徳宿氏の初代親幹によって築城されたとされている。

桓武天皇の流を汲む常陸大掾氏一族の鹿島成幹は長男[1] 親幹を「北部の守り」として徳宿に配し、親幹は徳宿氏を称す。徳宿氏は子孫を安房烟田菅野谷等に配し、文明18年(1486年)まで9代で約300年間続く。

落城・徳宿氏の終焉

文明18年(1486年)5月、水戸城主の江戸適雅(江戸氏)に攻められる(徳宿合戦)。江戸氏が約2000名[2] に対し、徳宿氏は約300名[2] の劣勢のなか、同族の大掾氏一族の援軍(約1500名)が到着する前に攻め込まれ[2] 江戸氏に敗れ落城。城主は戦死し、徳宿氏は9代目の道幹をもって終焉となった。

その後

現在は徳宿城址として、本丸跡山林神社になっており、木造の祠石祠が建てられている。南の崖上には徳宿氏事蹟考碑が建てられている。

城址の西側の「塔の峰」と呼ばれる地には徳宿城主代々のがあり、北東約3.3kmの常磐原から西勝下(かつおり)にかけての一帯には「合戦場」や「合戦塚」、「血流れ窪」といった戦いの惨状に由来する地名が残されている。また、那珂西城III郭南東角の杉林の中にこの戦での134の首級を葬ったという「首塚」がある。

[3] 主郭は南端最高所で神社境内となっており、その周囲に土塁が残っている。北の二条の空掘は、二郭の西側に位置し、低い 土塁が残され三郭がある。

アクセス

鹿島臨海鉄道 徳宿駅から約1km(徒歩15分)。

関連項目

脚注

  1. ^ 常陸大掾平氏と鹿島鹿島デジタル博物館
  2. ^ a b c 案内板(鉾田市教育委員会)
  3. ^ "常陸・徳宿城(城郭放浪記)". 城郭放浪記. 2019年12月27日閲覧。

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