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'''星野 光多'''(ほしの こうた、[[1860年]]([[万延]]元年) - [[1932年]]([[昭和]]7年))は、[[明治]]時代に活動した[[牧師]]である。[[フェリス女学院]]元教頭。[[大蔵省]][[官僚]]政治家、実業家の[[星野直樹]]は長男。
'''星野 光多'''(ほしの こうた、[[1860年]]([[万延]]元年) - [[1932年]]([[昭和]]7年))は、[[明治]]時代に活動した[[牧師]]である。[[フェリス女学院]]元教頭。[[大蔵省]][[官僚]]政治家、実業家の[[星野直樹]]は長男(追記) 。[[津田義塾大学]]の名誉学長の[[星野あい]]は妹{{Sfn|丹羽|1970|p=286}} (追記ここまで)


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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*弟・星野又吉 - 牧師
*弟・星野又吉 - 牧師
*妹・高杉幸 - [[フェリス和英女学校]]卒業後母校の教師となり、[[東奥義塾]]から[[青山学院大]]・[[北大]]の教授になった高杉栄次郎に嫁ぎ、弘前女学校(現・[[弘前学院聖愛高等学校]])の教頭になる<ref name=tsubota/>。子の英雄は[[弘前学院]]元校長<ref name=tsubota/>
*妹・高杉幸 - [[フェリス和英女学校]]卒業後母校の教師となり、[[東奥義塾]]から[[青山学院大]]・[[北大]]の教授になった高杉栄次郎に嫁ぎ、弘前女学校(現・[[弘前学院聖愛高等学校]])の教頭になる<ref name=tsubota/>。子の英雄は[[弘前学院]]元校長<ref name=tsubota/>
*妹・星野あい(1884-1972) - [[津田塾大学]]初代学長<ref name=tama>[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hoshino_a.html 星野あい]歴史が眠る多磨霊園</ref>。1887年にキリスト教受洗<ref name=tama/>。沼田小学校、横浜フェリス女学校、女子英学塾(1904年卒)を卒業後、津田梅子が設立した日本女性の海外留学を推進する「[[津田梅子#日本婦人米国奨学金制度|日本婦人米国奨学金制度]]」に選ばれ米国[[ペンシルベニア州]]の[[:en:Bryn Mawr College|ブリンマーカレッジ]]理学部に留学し、1912年卒業<ref name=tama/><ref>[https://archive.org/details/brynmawrcalendar07bryn/page/n37 Bryn Mawr College Calendar, 1914] Bryn Mawr, PA: Bryn Mawr College、1914</ref>。帰国後、女子英学塾に勤め、1918年コロンビア大学教育学部に短期留学して学位を得、1819年女子英学塾教頭、1929年塾長を務め、1943年には理系学部を増設して津田塾専門学校設立に尽力<ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E9%87%8E%20%E3%81%82%E3%81%84-1654439 星野 あい(読み)ホシノ アイ]コトバンク</ref>。1947年-1952年に津田塾大学学長を務めたのち、同大名誉学長となり、汎太平洋東南アジア婦人協会日本委員、国際基督教大学評議委員、日本国際協会婦人部委員なども務めた<ref name=kotobank/>。
*妹・(追記) [[ (追記ここまで)星野あい(追記) ]] (追記ここまで)(1884-1972) - [[津田塾大学]]初代学長<ref name=tama>[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hoshino_a.html 星野あい]歴史が眠る多磨霊園</ref>。1887年にキリスト教受洗<ref name=tama/>。沼田小学校、横浜フェリス女学校、女子英学塾(1904年卒)を卒業後、津田梅子が設立した日本女性の海外留学を推進する「[[津田梅子#日本婦人米国奨学金制度|日本婦人米国奨学金制度]]」に選ばれ米国[[ペンシルベニア州]]の[[:en:Bryn Mawr College|ブリンマーカレッジ]]理学部に留学し、1912年卒業<ref name=tama/><ref>[https://archive.org/details/brynmawrcalendar07bryn/page/n37 Bryn Mawr College Calendar, 1914] Bryn Mawr, PA: Bryn Mawr College、1914</ref>。帰国後、女子英学塾に勤め、1918年コロンビア大学教育学部に短期留学して学位を得、1819年女子英学塾教頭、1929年塾長を務め、1943年には理系学部を増設して津田塾専門学校設立に尽力<ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E9%87%8E%20%E3%81%82%E3%81%84-1654439 星野 あい(読み)ホシノ アイ]コトバンク</ref>。1947年-1952年に津田塾大学学長を務めたのち、同大名誉学長となり、汎太平洋東南アジア婦人協会日本委員、国際基督教大学評議委員、日本国際協会婦人部委員なども務めた<ref name=kotobank/>。
*妻・長谷川みね - 幸の学友。フェリスで教師を務める<ref name=tsubota/>
*妻・長谷川みね - 幸の学友。フェリスで教師を務める<ref name=tsubota/>
*子に[[星野直樹|直樹]]、茂樹([[東大]]卒業後[[国鉄]]入社、鉄道トンネル技師)、芳樹([[静岡新聞]]記者、[[共産党]]員、参議院議員、[[スワヒリ語]]学校経営)。
*子に[[星野直樹|直樹]]、茂樹([[東大]]卒業後[[国鉄]]入社、鉄道トンネル技師)、芳樹([[静岡新聞]]記者、[[共産党]]員、参議院議員、[[スワヒリ語]]学校経営)。

2019年5月9日 (木) 09:31時点における版

星野 光多(ほしの こうた、1860年(万延元年) - 1932年(昭和7年))は、明治時代に活動した牧師である。フェリス女学院元教頭。大蔵省 官僚政治家、実業家の星野直樹は長男。津田義塾大学の名誉学長の星野あいは妹[1]

生涯

横浜時代

上野国 沼田藩戸鹿野村の名主の星野宗七は、幕末の1868年に横浜外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。1860年に次男、光多が生まれた。遠祖は清和源氏という[1]

光多は横浜で外国人と商売をするめに英語が必要になり、アメリカ・オランダ改革教会 宣教師J・H・バラバラ塾に通うことになった。

光多は1874年(明治4年)12月、15歳で横浜公会でバラから洗礼を受けて、教会員になった。

1877年(明治11年)に中村敬宇同人社に入って3年間学び、中村とカナダ・メソジト教会G・カクランから薫陶を直接受けた。その時、同人社には平岩愃保岩本善治らがいた。1880年(明治13年)からさらに慶應義塾で2年間学んだ。途中で自由民権運動に参加したこともあった。[2]

1882年(明治15年)にはM・N・ワイコフが横浜に設立した先志学校の教師兼舎監として仕えた。その頃、長男直樹が誕生した。1883年にリバイバルが起こると、星野は群馬県議会議長で安中教会執事湯浅治郎の招きで高崎に赴任する。

1884年に家業の星野屋が傾いたため店を閉め一家で沼田に戻る[3] [4]

高崎教会時代

星野の伝道活動により約60名の受洗者が起こされ、1884年(明治17年)に西群馬教会(現・日本基督教団 高崎教会)を設立する。1884年5月16日に上州からは安中教会牧師海老名弾正湯浅治郎が、東京からはG・H・F・フルベッキ木村熊二植村正久津田仙が出席して星野の按手式をして、牧師就任式を行った。翌日、17日に高崎市宮元町(現・高崎市東町)に新築された教会堂で設立式をおこない、フルベッキ、木村、松山高吉小崎弘道海老名弾正、植村正久の6人の牧師が出席した。1887年(明治20年)には後に牧師として活躍する矢島宇吉に洗礼を授ける。このころ、上州ではハリストス正教と、光多らプロテスタントとが信者の獲得をめぐって激しく競いあった[5]

1989年(明治22年)日本基督一致教会本部より、足利教会(現・日本基督教団足利教会)に派遣され、教会の組織化を図り、1890年(明治23年)4月17日に組織化された教会が発足する。[6]

1890年ころから8年間、妹の幸(こう)や妻のみねとともに、フェリス女学院で教師を務める[7]

両国教会時代

1899年(明治32年)、日本基督教会 両国教会の2代目牧師に就任する。1905年(明治38年)、日露戦争終結後の暴動(日比谷焼打事件)により、両国教会の会堂が破壊される。

1920年(大正9年)には両国教会の牧師を引退する。

家族

出典

  1. ^ a b 丹羽 1970, p. 286.
  2. ^ 高橋2003年、88-89ページ
  3. ^ 絹先人考「35・星野宗七」上毛新聞、2007年12月9日
  4. ^ 「ぐんまルネサンス」 第2部 35 星野 宗七上毛新聞、2007年12月9日
  5. ^ 日本の近代製糸業とキリスト教精神杉本星子、杉本良男編『キリスト教と文明化の人類学的研究』国立民族学博物館調査報告 62:71‒91(2006)
  6. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、p.41
  7. ^ a b c d 高杉幸子坪田庸子「津軽地方の女子教符を考えるその1」弘前学院大学・短期大学紀要24号
  8. ^ a b 『日本近代化の精神世界: 明治期豪農層の軌跡』宮澤邦一郎、雄山閣, 1988
  9. ^ 星野銀治 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  10. ^ a b c 星野あい歴史が眠る多磨霊園
  11. ^ Bryn Mawr College Calendar, 1914 Bryn Mawr, PA: Bryn Mawr College、1914
  12. ^ a b 星野 あい(読み)ホシノ アイコトバンク

参考文献

外部リンク

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