「ザ・ドリフターズ」の版間の差分
2019年4月27日 (土) 23:46時点における版
ザ・ドリフターズ | |
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出身地 | 日本の旗 日本 |
ジャンル |
コミックソング ロカビリー |
活動期間 | 1956年 - |
レーベル |
東芝レコード (東芝音楽工業→東芝EMI) ワーナー・ブラザース・パイオニア [1] サウンズ・マーケッティング・システム EXPRESS/EMI RECORDS (EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサル ミュージック) |
事務所 | イザワオフィス |
公式サイト | 「ザ・ドリフターズ」公式サイト |
メンバー |
加藤茶(ドラムス・ボーカル) 高木ブー(リードギター・キーボード) 仲本工事(リズムギター・ボーカル) 志村けん(ギター) |
旧メンバー |
いかりや長介(ベース) 荒井注(オルガン) その他多数 (詳細は「前期バンド時代のメンバー」を参照のこと) |
ザ・ドリフターズ | |
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メンバー |
いかりや長介(故人)-2004年3月 高木ブー 仲本工事 加藤茶 志村けん 1973年12月- 荒井注(故人)-1974年3月 すわ親治 1970年-1985年9月末 |
別名 | ドリフ |
結成年 | 1964年 |
事務所 | イザワオフィス |
出身 | 音楽バンド |
現在の活動状況 | 不定期・再放送 |
芸種 | 喜劇・コント |
過去の代表番組 |
8時だョ!全員集合 ドリフ大爆笑 |
同期 |
コント55号 横山やすし・西川きよし 笑福亭仁鶴 六代目桂文枝など |
公式サイト | 「ザ・ドリフターズ」公式サイト |
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ザ・ドリフターズ(英: The Drifters)は、日本の音楽 バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。
概要
1956年にマウンテンボーイズ(1952年 - 1955年)と東京ウエスタンボーイズが合併して結成(参考 [2])。クレージーキャッツの後輩。結成当初から4年ほどは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
当たりギャグは『8時だョ!全員集合』の欄を参照。
所属事務所
いかりや長介がリーダーに就任した当時は前リーダーの桜井輝夫が個人オーナーとしてメンバーの面倒をみる形をとっていたが、小野ヤスシら4人がドンキーカルテットを結成して脱退、かわって荒井注・高木ブー・仲本工事が加入し新生ドリフに切り替わりその活動が安定すると桜井はドリフの将来を見越してすべての権利を渡辺プロダクションに譲り渡した。1979年より当時のマネージャーだった井澤健(後述)が全額出資で立ち上げた「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→現名称:ユニバーサル ミュージック合同会社)で、デビュー当初より在籍していた。なお、東芝音楽工業在籍中「ドリフのツーレロ節」のみ、当時渡辺プロが出資していたワーナー・ブラザース・パイオニア(→ワーナー・パイオニア→現名称:ワーナーミュージック・ジャパン)から出ている。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システム(→アポロン→バンダイ・ミュージックエンタテインメント→ ランティス→現名称:バンダイナムコアーツ)から発売された。
メンバー構成
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかった。初期のメンバーには、坂本九や小野ヤスシらがいたが、このうち小野は新リーダーになったいかりやに反発して、ジャイアント吉田(現在、催眠カウンセラーの吉田かずお)らとともに4人で脱退し、ドンキーカルテットを結成した。そのとき、残ったのはいかりやと加藤だけであった。
その後、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。ただし、荒井注の活動休止宣言(実質的な脱退宣言[2] )の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現:すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることはない。さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定はなく、現在4人の構成となっている。
いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。
芸名の由来
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇。ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)。こうした経緯から、クレージーキャッツをドリフターズの師匠格とするような記述もあるが、特に芸について指導を受けたわけではないので(集団としてはなおのこと)これは正確ではない。
ミュージシャンとしてのドリフ
前期バンド時代はともかく、「新生ドリフ」はカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけたなかにし礼の作詞と川口真のアレンジは、独自の「ドリフ・ミュージック」を作り上げた。
1966年6月30日、ビートルズ日本公演の前座を務めた。僅か1分15秒の出演時間ではあったが[3] 、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴ・スターのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。その際、ポールのベースがいかりやのベースにぶつかり疵は付かなかったものの激昂。何も言うことができずにいたが、後に「疵が付いて欲しかった」と話した。
「新生ドリフ」以降は歌謡グループとしての活動も顕著となり、コミックソングのほか、民謡・軍歌等、日本で歌い継がれてきた曲の替え歌を多くレコードに吹き込む(ディスコグラフィーの項参照)。
1970年に「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。彼らの「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。この年の『第21回NHK紅白歌合戦』に出場が内定していたが、加藤茶の交通事故により出場を辞退した[4] 。
後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったため、音楽とはほど遠い存在になったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止してしまったわけではなかった。これは、高木ブーが日本屈指のウクレレ奏者であることや、CMでいかりや長介がウッドベースを披露したり、加藤茶がドラマーの実力をたびたび番組内で披露していることからもわかることである。また90年代以降は、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。
2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援に来たことは過去にもたびたびあった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。だが、いかりや長介亡き今日、ドリフにとってはこれが現時点で歌手として最初で最後の紅白出場となる見通しである。
コメディアンとしてのドリフ
元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後の彼らのキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。
1970年代になると憧れていた先輩バンドである、「ハナ肇とクレージーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。
お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。
志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「いかりやから加藤を中心として4人共にいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。
後期は、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり振り回されるという笑いのパターンになり、イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。あるいは、金田一コントのように志村の独り舞台に近いものになり、加藤を含め他の四人は脇に回ることも多くなった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。それまでの荒井の人気の高さ故だが、志村を前面に押し出そうと、他のメンバー特にいかりやと加藤によるサポートがあった。この頃には3枚目としての仲本も強調され、一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れることがしばしば見受けられた。リハーサルでダメ出しをされても、生放送のドサクサに実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を若干ながら崩すこととなる。
撮影用ではあるがケーキや鶏卵、牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗中傷をネタにすることはなく、かつ素人いじりをしなかった[5] 。また、体を張ったギャグや音楽ネタも多い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。日本だけでなく、台湾などでも彼らは人気がある[6] 。
『8時だョ!全員集合』、『ドリフ大爆笑』、テレビ朝日『ドリフと女優の爆笑劇場』等の番組にゲスト出演した一流俳優、一流女優、アイドル歌手、演歌歌手までが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることをバーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも許されたばかりか、ドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながらしゃべって笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあり、この点ではドリフに対する信頼の高さをうかがわせた。
メンバー
加藤茶
(1943年03月01日) 1943年 3月1日(81歳) 本名:加藤英文(かとう ひでゆき)
- 1962年メンバー入り。1964年のドリフ再結成当初は最年少だった。いかりや没後、現行ドリフでは最も古いメンバー。ドラムとボケ担当。
- 結成当時からメンバー内の一番人気であり、いかりやから落ちの期待を一身にかけられていた。ドリフを実質的に牽引し、メジャーに押し上げた功労者でもある。いかりやと衝突することもあったが、グループ内では人間関係の調整役を果たしていた。いかりやの葬儀の際には弔辞を読んだ。
- ドリフの映画では、いかりやと共に物語の中心を担い抜群のコメディセンスを発揮している。
- 国民的人気者だったが、「あの時キツかった。しんどくてネタもあまり出なくなってきた」とし、荒井が脱退したいと加藤に相談した際に二人でいかりやに話そうと約束。しかし、荒井がさっさと一人で話をしてしまい、「大変なことになったぞ」と話すいかりやに脱退の話を言い出せなくなり、そのままメンバーとして残ることになった。
- 志村がブレイクした後は志村のボケ・ツッコミの受け役に回ることが多かったが、それは本人が自ら志村のサポートに回った結果である。実際、「志村がいて助かった」と公言している。志村の著書でも、「後から入ってきたくせにいいところを取りやがって」というようなギスギスしたライバル関係はなかったと語られている。
高木ブー
(1933年03月08日) 1933年 3月8日(91歳) 本名:高木友之助(たかぎ とものすけ)
- 中央大学 経済学部卒業。1964年9月に荒井と同時にドリフ入り。自称、いかりや没後の四代目リーダー。初期ではリードギター担当。最も印象が薄いが、「ドリフの中では最も音楽性が高い」とのいかりやの評価もある。
- ドリフ脱退が決定していた小山威の後釜ギターとして仲本をドリフに誘った人物。仲本を誘う際、嘗てのハワイアンバンドのメンバーである青木健か仲本のどちらをドリフへ誘うべきか悩んだが、いかりやがあまりにも早急にメンバー補充を求めており、直ぐに連絡が付き、なおかつ対バンした事もあった仲本を誘ったという本人の証言がある[7] 。
- ドリフが音楽活動をやめた理由を「志村がギターしか弾けないので自分がキーボードを担当した。しかし、自分は荒井ほどキーボードが弾けなかったのでドリフは音楽活動をやめた」と発言している。
- 1984年9月14日、『全員集合』のリハーサル中にアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱したこともある。
- 大変な愛妻家としても有名で、その愛妻と死別して以来、独身を貫いている。ドリフの結婚歴のあるメンバー(荒井注を含む)で唯一離婚歴がない。
仲本工事
(1941年07月05日) 1941年 7月5日(83歳) 本名:仲本興喜(なかもと こうき)
- 学習院大学 政治経済学部卒業。東京商工会議所の内定を得ていたが、高木が脱退するギタリスト小山威の後釜として仲本をいかりやに紹介し内定を蹴って1965年1月1日付でドリフ入り。初期のドリフでは、ギターとロック系ボーカル担当。ビートルズの前座で「ロング・トール・サリー」のボーカルを取ったのも彼である。
- コントでは、「要領のいい、リーダーに媚を売る役」、「内心、何を考えているのか分からない役柄」を演じることが多く、全てのメンバーにしっかり合わせられる器用さがあった。また、学生時代に体操部で身につけた床運動(マット体操)での軽快な身のこなしも有名だった。
- 1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検の上略式起訴された。賭けた金額は当時の金額で約100万円だった。
志村けん
(1950年02月20日) 1950年 2月20日(74歳) 本名:志村康徳(しむら やすのり)
- 高校時代の1968年、いかりやに直々に懇願しドリフの付き人となるが、1年余りで脱走。志村の著書では、あくまで「社会勉強のための休養」となっている。その後、加藤の口添えで出戻り、加藤の付き人兼加藤家居候を経て、お笑いコンビ「マックボンボン」を結成。日本テレビ『ぎんぎら!ボンボン!』も担当したが、人気が出ず2年余りで解散。しかし、脱退する荒井の後釜として、1973年12月にドリフ見習いとなり、1974年3月9日に正式メンバーとなる。
- 加入後、2年近くはギャグが受けずスランプ状態に陥っていたが、東村山音頭やカラスの勝手で一気にブレイクし、子供の人気を獲得。さらに新たなネタやギャグを連発し、ドリフのエースとなった。
- 映像では荒井の脱退後に初期はキーボード、のちにギターを弾いており元々コメディアン志望ではあるが、ソウル・ミュージックに精通している。
- 「一人になった時に、何かが現れる」というコントでは、客席の子どもたちが舞台に向かって一斉に「志村!うしろ、うしろ!!」と声援を送る、という恒例のパターンを生み出した。
- 仲本同様、1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検のうえ略式起訴された。
- 本名の志村康徳名義で中央競馬の馬主としても活動している。
- 1970年代からビートルズのレコードコレクターとして、所有している種類や枚数はかなりの数である。自身の番組内にビートルズナンバーを度々使用している理由の一つでもある。
- ドリフメンバー唯一の未婚者で、結婚歴もない。
- ドリフメンバーで唯一、戦後生まれである。
元・新生ドリフメンバー
荒井注
(1928年07月30日) 1928年 7月30日 - (2000年02月09日) 2000年 2月9日(71歳没) 本名:荒井 安雄(あらい やすお)
- 元・正メンバー。二松學舍大学 文学部卒業。1964年9月に高木と同時にドリフ入り。ドリフ入りした当初は「リーダー(いかりや)より年上では何かと問題がある」ということで、加入後しばらくは高木とほぼ同年代(1934年7月30日生まれ)と年齢を詐称していた。なお、当初はドリフのメンバーですら彼の正確な年齢を知らなかった。
- オルガン(ピアノ)担当。しかし、クレージーウエスト時代にピアノの欠員が出て、それまで担当していたスチールギターから急遽転向した経緯があったため、ロカビリーのスリーコードしか弾けず、演奏できるレパートリーは数少なかった。いかりやの著書によれば、いかりやは彼のレパートリーの少ないことを知らないままヘッドハンティングしたことを後悔したという。
- コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、シカトし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが人気を博した。「なんだ、バカヤロー!」と「This is a pen!」のギャグは有名。いかりやの著書では新生ドリフのコントにおけるキャラクター付け(役割)が最初に決まったと述べられている。
- 1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。当初は芸能界引退を示唆していたにも関わらず、半年後にはドラマなどで復帰した[8] ため、ドリフメンバーから反感を買うこととなり、和解までには3年間を要したという。和解後はドリフの番組に度々ゲスト出演をするようになった。
- 荒井が亡くなる直前の2000年の正月放送の「フジカラー・フィルム」のCM撮りで6人ドリフとして14年3カ月ぶりの全員集合となり、大きな話題となった。七福神をモチーフとしたもの[9] 。結局これが彼ら6人が勢揃いした最後の映像となった。
- 2000年2月9日午前4時30分、肝不全のため死去。
いかりや長介
(1931年11月01日) 1931年 11月1日 - (2004年03月20日) 2004年 3月20日(72歳没) 本名:碇矢長一(いかりや ちょういち)
- ドリフの三代目リーダー。1962年にドリフのメンバーとなり、1964年より正式リーダーとなる。新生ドリフでは加藤と並んで最古参メンバーだった。ベース、ツッコミ(時にはボケ)担当。
- コントでは、わざと汚れ役の権力者を演じ、加藤や志村の仕返しというパターンで笑いを取ることが多かった。
- ワンマンな一面があり、コントネタの厳格なまでの作り込みや、ギャラの配分(いわゆるワリ)をめぐってメンバーと衝突することも少なくなかったが、新生ドリフを立ち上げて以降は、そうした厳しさを含めた采配ぶりによって、メンバーを見事にまとめ上げた。
- 1987年のNHK 大河ドラマ『独眼竜政宗』の出演をきっかけに本格的な俳優としての活動を始め、日本テレビ系『取調室シリーズ』やフジテレビ系『踊る大捜査線』などでシリアスな演技を見せた。
- 2004年3月20日午後3時30分、原発不明頚部リンパ節癌のため死去。
付き人
- すわしんじ
(1952年11月14日) 1952年 11月14日(71歳) 本名:諏訪園 親治(すわぞの ちかはる)
- 元付き人・見習い。幻のドリフ第六の男。日劇でのドリフ公演では、すわを含めた6人構成のコントが披露された。
- 1970年頃、加藤の運転手として採用される。1972年頃、付き人に昇格。『(荒井時代の)全員集合』に志村より先に出演し、「奇声を上げながらやたら走りまくったあげく加藤のクシャミでズッコケるブルース・リー」役で笑いを取る。グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。結果としては、先輩に当たる志村がドリフに加入することとなった。その後、正メンバーになることなく1985年に脱退。いかりやは、メンバー昇格を延ばし延ばしにした結果すわを脱退に追い込んでしまったと悔やみ、その才能を惜しんでいた。
- 脱退後は、一時サラリーマン生活を送る。1990年に政治風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」に参加し、中心的な存在となるが脱退。その後は、ソロライブや松崎菊也、石倉直樹とコント公演「はだかの王様」や沢田研二主演の音楽劇に出演するなど、地道ながら精力的に活動を続けている。
- 2001年でのNHK『思い出のメロディー』にドリフターズが出演した際、ゴーウェストの曲目の際に「馬」の扮装でコーナー出演(本名の諏訪園親治名義での出演)。伏線は後述する「主な出演番組」の項目の「飛べ!孫悟空」を参照。
- いかりやの葬儀のときには、残された4人の現メンバーとともにいかりやの棺を運んでいた。
前期バンド時代のメンバー
ドリフは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。
- 岸部清(1931年1月3日 - 2019年2月11日)
- 初代リーダー。ギター担当。元・東京ウエスタンボーイスの出身。1959年の春頃に脱退。1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り脱退して渡辺プロマネージャーとなる。その後芸能事務所「第一プロダクション」社長を歴任したが第一プロは2017年9月に業績の悪化と岸部の高齢化もあり解散。音楽出版社協会(MPA)副会長、音事協の名誉理事を兼任。2019年2月11日、肺癌により死去。
- 大野義夫(1931年9月9日 - )
- 結成当時のメンバーで、元・マウンテンボーイズの出身。1957年2月に脱退。バンジョー担当。現在も芸能活動をしているが、メディアへの露出は殆ど無く、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度。現在も現役で音楽活動をしており[10] 、「大野義夫&カントリーメイツ」を率いてライブ・コンサート・ディナーショーなどを行っている。結成当時の元メンバーで現在もシンガーもしくは器楽奏者として音楽関係に携わっていることが判明している唯一の人物である(岸辺も音楽関係に携わってはいるが、岸辺は組織人として携わっているに過ぎず、音楽活動自体はしていないため)。なぎら健壱や寺本圭一との親交が深く、元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中では高木ブーと親交がある。
- 山下敬二郎(1939年2月22日 - 2011年1月5日)
- ボーカル担当。1957年11月脱退。ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。平尾昌晃、ミッキー・カーチスと並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。実父は落語家で喜劇俳優の柳家金語楼。本人はコメディの分野には進んでいないが、『ドリフ大爆笑』に1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。2011年1月5日胆管がんによる腎不全のため死去 71歳没
- 吉田博久
- 結成当時のメンバー。スティール・ギター担当。1959年の末に脱退。
- 鈴木修
- 結成当時のメンバー。ベース担当。1959年の末に脱退
- 桜井輝夫(1931年1月- )
- 2代目リーダー。ギター、ボーカル担当。1965年の夏頃に脱退。1959年の末に岸部リーダー時のメンバーが小野以外全員脱退した後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木、高橋一を誘って4人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。ドリフをロカビリーからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘッドハンティング。一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木、仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)。1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年にドリフの管理を渡辺プロダクションへ譲渡して脱退。フジテレビ系バラエティ番組『ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある[11] 。
- 井上ひろし(1941年8月23日 - 1985年9月19日)
- ボーカル担当。1959年11月に脱退。水原弘、守屋浩と並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手。山下の脱退後、ドリフのバンドボーイから昇格。長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。映画「青春を賭けろ」にも出演。代表曲は「雨に咲く花」。ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが急性心筋梗塞のため44歳という若さで死去。
- 坂本九(1941年12月10日 - 1985年8月12日)
- ボーカル・ギター担当。1958年11月脱退。雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズのボーヤとして加入し8月に正メンバーとなってボーカルをやっていた。同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月にダニー飯田とパラダイス・キングに移籍の形で脱退。「8時だョ!全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。1985年には日本航空123便墜落事故で死去 44歳没
- 小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日)
- 元・正メンバー(1959年 - 1964年)。コンガ、ボーカル担当。1964年の秋に脱退。井上ひろしとザ・ドリフターズの最末期に加入。加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。1964年の夏にいかりやと対立してドリフを脱退。後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだったことを知っている者は少ない。脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテットを結成。1970年よりソロ活動となり、バラエティー番組で活躍。ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。腎盂がんのため都内の病院で死去 72歳没
- ポン青木
- 1960年に桜井輝夫とザ・ドリフターズにメンバー入り。ビブラフォン担当。1962年に脱退。いかりやがドリフに加入して暫くの後にスクラップサウンズに移籍の形で脱退。いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。脱退原因は不明だが、既に故人であることが判明している[12] 。脱退後、1970年代には真木ひでとのマネージャーを務めていた[13] が白血病により40代の若さで他界した。
- 高橋一
- 桜井輝夫に誘われてポン青木とともにメンバー入りし、解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当楽器やいつごろ脱退したのかなどの詳細については資料が無く、不明。
- 田中良夫
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。テナー・サックス担当。1962年に脱退。加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反対して脱退。
- 三好明
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。ピアノ担当。1962年に脱退。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反対して脱退。
- 小山威
- エレキギター担当。1964年の末に脱退。彼が脱退する代わりのギターが仲本となる。いかりやが正式なリーダーとなって音楽コント色が強まったこと及び体調不良により脱退[14] 。
- 高松秀晴(1942年3月16日 - [15] )
- 正式なメンバーではなく専属シンガー。1960年5月、第一プロダクション(ドリフターズの初代リーダーとされる岸部清が現在社長を務める芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。桜井輝夫とザ・ドリフターズにボーカルがいなかったことから抜擢され1960年〜1962年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得たほどの実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可が得られなかったため、実際には出場していない)。現在の動向は不明。
- 木の実ナナ(1946年7月11日 - 、本名池田鞠子)
- 正式なメンバーではなく専属シンガー。しかし、高木の証言によれば元メンバー。本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。1961年〜1962年の初頭頃、専属シンガーだった。彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。
- ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )
- ギター担当。1964年の秋に脱退。元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われて1962年にドリフ入り。しかし、そのいかりやのワンマンぶりに愛想を尽かし、1964年に小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退し、ドンキーカルテットを結成。現在は芸能界の他、催眠術師として、執筆活動や催眠法のクリニックなどで活躍している。大野義夫と親交があり、2017年2月22日に高木ブーや大野義夫らが出演するライブのMCを行う。
- 飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日)
- フィドル担当。1964年の秋に脱退。小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退。ドンキーカルテットを結成するがこちらも結成後に暫くして脱退。後に11PMの水曜日のレポーターとして活躍。2003年に死去 62歳没
- 猪熊虎五郎( - 2001年11月4日)
- キーボード担当。1964年の秋に脱退。長身でメガネが特徴。ドンキーカルテットに移籍。ドンキーのメンバーでは最後にドリフに加入。後に声優もこなしたが、後に芸能界から引退。2001年に死去 69歳没
- 綱木文夫
- サックス担当。1965年の夏頃に脱退。1964年春に桜井と繋がりのあった渡辺プロより「ドリフのメンバーになって助けてやってくれないか?」と言われてメンバー入り。中野にあるお寺の息子で、売れない頃のドリフターズは稽古場として彼の実家であるお寺を利用していた。新生ドリフがお笑いを確立する前のれっきとした正メンバーだった(1964年 - 1965年)。彼は正メンバーとして残りたがったが真面目気質でコメディに向いていなかったため、ドリフが1965年に正式に渡辺プロ傘下へ預けられる直前でいかりやから脱退を命じられる。経年経過が著しく、彼に関する資料も殆ど残ってないため、生死も含めて現在の動向は不明。
関係者
ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされそうになった芸能人を紹介する。
- 山田康雄(1932年9月10日 - 1995年3月19日)
- 『全員集合』が開始された頃に、『ルパン三世』の声優として有名な山田に演技指導を受けていたというエピソードもあり(山田の本業はコメディ劇団テアトル・エコーの俳優のため)、それが縁で『ルパン』の収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演したという。また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。脳出血のため東京都立荏原病院で死去 62歳没
- 山田の追悼本において小林清志が、『ルパン三世』のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。
- 水木一郎(1948年1月7日 - )
- 1963年頃付き人をやっていた。
- 井山淳(いやま淳)
- 元付き人。1972年に志村が結成したマックボンボンの最初の相方。志村と共に冠番組の『ぎんぎら!ボンボン!』に出演していた。また1969年、ドリフの映画『ドリフターズですよ!全員突撃』にガードマン役として出演。やや強引な売り込みが祟ってのネタ切れによる人気低迷で『ぎんぎら!ボンボン!』のリニューアル番組『シャボン玉ボンボン』が打ち切りになった後、失踪してしまい、解雇処分となった。
- 福田正夫
- 元付き人。志村が結成したマックボンボンの井山失踪後の相方。自衛隊出身であり、「自分は芸能界でなくてもやっていける」と強気でコンビ結成後の練習に身が入らず、芸能界を引退。マックボンボンは自然消滅的な形で解散の道を辿る。
- 桑田佳祐(1956年2月26日 - )
- サザンオールスターズは、デビュー当時コミックバンドと思われていた。いかりやは桑田に目を付け、TBSプロデューサー居作昌果を通して高木が辞めそうになった時に桑田にドリフ加入を打診していた。
- 後にサザンで出した曲「マンピーのG★SPOT」のジャケットでは加藤茶を真似た禿ヅラを被った格好をしており、ライブでその曲を歌う時はその格好をすることが多い。
- サザンのデビュー曲「勝手にシンドバッド」の名前は、1977年9月に志村がギャグで使用していた。
- 居作昌果(いづくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)
- 元TBSテレビプロデューサーで、独立後テレビ制作会社「タイクス」を設立、同社の代表取締役社長を務めた。『8時だョ!全員集合』や前枠番組の『お笑い頭の体操』、『クイズダービー』をプロデュースした。71歳没。
- 井澤健(1935年9月9日 - )
- ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、影のドリフメンバーと呼んでいた程ドリフに貢献した人物。現在ドリフの所属するプロダクション「イザワオフィス」オーナー 社長。
- 久世光彦(1935年4月19日 - 2006年3月2日)
- 元TBSテレビプロデューサーで、作家・演出家。演出面でいかりやのコントに感心し、いかりやの弟子となった。荒井の芸能界復帰に力を尽くした。『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』、『ムー』、『ムー一族』などのテレビドラマのプロデュース・演出を手掛けたことで知られる。70歳没。
- たかしまあきひこ(1943年5月24日 - 2016年10月16日)
- 音楽面のブレーン的存在。ドリフ及び志村の冠番組の大半で作曲を担当。『全員集合』の少年少女合唱隊コーナーではピアノ伴奏者として出演もしていた。膵臓癌のため死去、73歳没。
- 山田満郎(1943年 - 2016年6月5日)
- 全員集合のコントの仕掛けを作っていた美術スタッフ。後に番組の回顧として『8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術』を執筆。肝臓がんのため死去。73歳没。
- ビートルズ
- 来日公演の際にドリフが前座をつとめた。演奏曲は「ロング・トール・サリー」。6/30夜公演、7/1昼公演ともに映像が残されている。当時テレビでドリフの演奏が見られることはなかったが、近年になり日本テレビ『いつみても波瀾万丈』にいかりや、加藤、高木らがそれぞれ出演した際にその一部が放映された。
- 萩原芳樹(1952年 - )
- コメディアン、放送作家。自身が司会を務めた『小柳ルミ子ショー』にマックボンボンがコントで出演していた。いかりややドリフのマネージャーから、マックボンボンやドリフのメンバー候補に挙げられた事がある(自身のブログの記事 「伝説のコンビ『マックボンボン』」 より )。
- 小泉孝太郎(1978年7月10日 - )
- いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。そのときの父・小泉純一郎のコメントは「力をつけてもらわないと...」だった。
- いかりやとは「金曜エンターテイメント」枠で放送されたドラマ(『壁ぎわ税務官』など〉や映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』で共演している。
- ドリフと同じイザワオフィス所属。
- 豊岡豊(1930年5月29日 - 2012年11月30日)
- ドリフが歌唱するときにバックで演奏していた豊岡豊とスイング・フェイスのリーダー。肺がんのため死去。82歳没。
- 加藤茶の証言によると、荒井注脱退時にいかりや長介が後釜としてメンバー入りさせようと検討していた(最終的に加藤の推薦により志村けんが加入することとなった)[16] 。
ドリフの歴史
前期バンド時代
以下、雑誌「ミュージックライフ」、いかりや長介著「だめだこりゃ」、高木ブー著「第5の男」、および加藤茶の証言などを基に極力矛盾が少なくなるように整合させた、いかりやが正式リーダーになるまでの経緯を紹介する。
なお、新生ドリフ結成の解釈には、おなじみ5人のメンバーが揃った時と渡辺プロ移籍時の2通りがあるが、本記事ではイザワオフィスの公式発表に従い後者とする。
- サンズ・オブ・ドリフターズ
- 1956年春頃からプレスリー人気が日本にも波及するようになり、カントリーウェスタンバンドの中で、当時最新の音楽だったロカビリーに行くか純粋にカントリーのままで留まるか、路線を巡り合従連衡が起こった。ロカビリーはドラムが必要だが、カントリーには邪道だと思われていた。そんな背景の中で、同年秋頃に「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成。名の由来はアメリカのThe Driftersの息子(Sons)という意味からつけた。岸部清がリーダー。1957年2月に山下敬二郎が加入、駐留米兵相手のウエスタン兼ロカビリーバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。大野と親交のある高木は、碇矢が3代か4代目のリーダーと語っている。(結成当初は岸部と大野のWリーダー説があるため)
- 結成メンバー(昭和31年頃):岸部清、鈴木修、吉田博久、多田正幸、根本節夫、清水一夫、新井利昌、斉藤任弘、大野義夫の9人
- この時のメンバー2(昭和32年頃):岸部、鈴木、吉田、多田、根本、清水、新井、斉藤、大野、山下敬二郎の10人
- この時のメンバー3(昭和32年頃):岸部、鈴木、吉田、多田、根本、清水、新井、山下、新家治、中島治之の10人
- 1956年春頃からプレスリー人気が日本にも波及するようになり、カントリーウェスタンバンドの中で、当時最新の音楽だったロカビリーに行くか純粋にカントリーのままで留まるか、路線を巡り合従連衡が起こった。ロカビリーはドラムが必要だが、カントリーには邪道だと思われていた。そんな背景の中で、同年秋頃に「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成。名の由来はアメリカのThe Driftersの息子(Sons)という意味からつけた。岸部清がリーダー。1957年2月に山下敬二郎が加入、駐留米兵相手のウエスタン兼ロカビリーバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。大野と親交のある高木は、碇矢が3代か4代目のリーダーと語っている。(結成当初は岸部と大野のWリーダー説があるため)
- 井上ひろしとザ・ドリフターズ
- 1957年11月、山下は曲直瀬信子(渡辺プロ名誉会長渡辺美佐の妹)の手でバンドグループウェスタンキャラバンへ引き抜かれし脱退し、代わりのボーカルとしてバンドボーイから井上ひろしが昇格。1958年初頭にのちの2代目リーダーとなる桜井輝夫が加入する。1958年5月バンド名を「井上ひろしとザ・ドリフターズ」に変更したが、井上はバンドリーダーではなかった。井上は「ミュージックライフ」1958年4月号のウエスタンロカビリー部門では20位に入っている。一時期は同じくバンドボーイから1958年8月に正メンバーへ昇格した坂本九も在籍。1958年頃、坂本はバンド内でボーカル兼ギターではあったが、アイドル顔好きの岸部から「その顔ではメインボーカルは無理」と主にギターを任されてしまい、どうしてもメインボーカルとしてやって行きたい気持ちが強く、日劇ウェスタンカーニバル出演後にこれまた曲直瀬信子に見初められて加入後わずか6ヶ月余りで引き抜かれ、一旦芸能界を休業し学業に専念のため脱退という形を取った後ダニー飯田とパラダイスキングへ加入した。この時岸部は、渡辺美佐の依頼を受け、日劇ウェスタンカーニバルの構成を手伝ったにも拘わらず、引き抜かれたことでかなり立腹していた。その後、坂本の後釜として城操(ボーカル)、小山仁義(ボーカル兼ギター)が加入する。そして1959年春、岸部はバンドを辞め渡辺プロダクションの嘱託マネージャーとして井上の売り出しに本腰を入れることにする。2代目リーダーとして桜井が務めるが、大きな音楽の方向性は岸部の意向が大きかった。当時ドリフはロカビリーが売りのバンドであったが、岸部が井上を売り出すために徐々に歌謡曲を歌うようになり井上のバックバンド的な存在となってしまった。1959年3月に、東芝レコードから井上ひろしとザ・ドリフターズとして「銀のランプ/白い霧のブルース」を出している。同年夏には小野ヤスシも加入したが、小野加入直後の同年秋には井上が脱退した。
- この時のメンバー1(1958年頃):岸部、鈴木、吉田、新家、能勢武、桜井輝夫、井上ひろしの7人
- この時のメンバー2(1958年頃):岸部、鈴木、吉田、新家、能勢、桜井、井上、坂本九の8人
- この時のメンバー3(1959年頃):桜井、鈴木、吉田、新家、能勢、井上、城操、小山仁義の8人
- この時のメンバー4(1959年頃):桜井、鈴木、吉田、新家、能勢、井上、城、小山、小野ヤスシの9人
- 1957年11月、山下は曲直瀬信子(渡辺プロ名誉会長渡辺美佐の妹)の手でバンドグループウェスタンキャラバンへ引き抜かれし脱退し、代わりのボーカルとしてバンドボーイから井上ひろしが昇格。1958年初頭にのちの2代目リーダーとなる桜井輝夫が加入する。1958年5月バンド名を「井上ひろしとザ・ドリフターズ」に変更したが、井上はバンドリーダーではなかった。井上は「ミュージックライフ」1958年4月号のウエスタンロカビリー部門では20位に入っている。一時期は同じくバンドボーイから1958年8月に正メンバーへ昇格した坂本九も在籍。1958年頃、坂本はバンド内でボーカル兼ギターではあったが、アイドル顔好きの岸部から「その顔ではメインボーカルは無理」と主にギターを任されてしまい、どうしてもメインボーカルとしてやって行きたい気持ちが強く、日劇ウェスタンカーニバル出演後にこれまた曲直瀬信子に見初められて加入後わずか6ヶ月余りで引き抜かれ、一旦芸能界を休業し学業に専念のため脱退という形を取った後ダニー飯田とパラダイスキングへ加入した。この時岸部は、渡辺美佐の依頼を受け、日劇ウェスタンカーニバルの構成を手伝ったにも拘わらず、引き抜かれたことでかなり立腹していた。その後、坂本の後釜として城操(ボーカル)、小山仁義(ボーカル兼ギター)が加入する。そして1959年春、岸部はバンドを辞め渡辺プロダクションの嘱託マネージャーとして井上の売り出しに本腰を入れることにする。2代目リーダーとして桜井が務めるが、大きな音楽の方向性は岸部の意向が大きかった。当時ドリフはロカビリーが売りのバンドであったが、岸部が井上を売り出すために徐々に歌謡曲を歌うようになり井上のバックバンド的な存在となってしまった。1959年3月に、東芝レコードから井上ひろしとザ・ドリフターズとして「銀のランプ/白い霧のブルース」を出している。同年夏には小野ヤスシも加入したが、小野加入直後の同年秋には井上が脱退した。
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ
- 1959年11月、井上の独立と相前後して桜井とバンドボーイ的な立場だった小野以外のメンバーが桜井の路線変更に反対し全員脱退。一部メンバーが1959年12月に城操をボーカルとしたファイヴ・サンズを結成して単独及び井上のバックバンドとして活動を始めドリフターズは解散危機となる。桜井は歌謡曲路線と決別してグループ名も「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」となる。また、ポン青木、高橋一が加入し、次第に音楽主体のコミカル路線を歩むこととなる。しかしながら、まだコミックバンドとしては未熟だったため、コミック以外の唄を歌うための苦肉の策として専属シンガー高松秀晴を加えてバンドとしての体を整えていた。
- この時のメンバー1(昭和35年頃):桜井、小野、ポン青木、高橋一の4人
- この時のメンバー2(昭和35年頃):桜井、小野、青木、田中良夫、三好明、ポコ宮本の6人※(注記)高松秀晴(専属シンガー)
- 1959年11月、井上の独立と相前後して桜井とバンドボーイ的な立場だった小野以外のメンバーが桜井の路線変更に反対し全員脱退。一部メンバーが1959年12月に城操をボーカルとしたファイヴ・サンズを結成して単独及び井上のバックバンドとして活動を始めドリフターズは解散危機となる。桜井は歌謡曲路線と決別してグループ名も「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」となる。また、ポン青木、高橋一が加入し、次第に音楽主体のコミカル路線を歩むこととなる。しかしながら、まだコミックバンドとしては未熟だったため、コミック以外の唄を歌うための苦肉の策として専属シンガー高松秀晴を加えてバンドとしての体を整えていた。
- 碇矢長一とザ・ドリフターズ
- 1962年、桜井がコミカル路線を強化するため「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」のベーシストをやっていたが、演奏の合間のお笑いに熱を入れすぎたり、交通事故を起こしてバンドから孤立していた碇矢長一(当時は芸名でなく本名)をヘッドハンティングした。碇矢は、アメリカの一流ミュージシャンが演奏だけではなくジョークも上手い事に感銘を受け、司会やコミカルな演奏を行うようになって、客層が音楽目当てとギャグ目当てに二分される原因となり時田は内心不満に思っていたという。その少し前には「クレイジー・ウエスト」(ミッキー・カーチスのバック・バンド)のメンバーだった加藤英文(同じく当時は芸名でなく本名)が、コミックに興味が無く脱退したドラマーの後釜として田中の誘いで参加し、メンバーとしての活動を始めていた。加藤の証言ではドリフ加入時には総勢15人のメンバーがいたとのこと。この15人の中に高松が含まれていたかは不明だが、仮に含めたとしても加藤を除いて14人となるため、下記のこの時のメンバー2のメンバー以外にも名前が全く知られていないメンバーが複数人存在していたことになる。また、碇矢は、自分が移籍した直後に、マウンテンプレーボーイズ時代から旧知の間柄でコミック向きだったジャイアント吉田を誘ってドリフに加入させる。そして、碇矢がリーダー代行という形で「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に改称し、ドリフを本格的なコミック・バンドとして9人で再々編して出発することになる。しかし完全にコミックバンドへ方向転換し始めた矢先、コミカル路線に難色を示すメンバー(田中、三好)が脱退。その後、暫くして青木も移籍という形で脱退したため、メンバーに飯塚を加えることとなる。これが、現在万人に知られているドリフの母体、原形である。
- この時のメンバー1(1960年頃):桜井、小野、青木、田中、三好、小山威の6人※(注記)高松
- この時のメンバー2(1962年頃):桜井、小野、青木、田中、三好、小山、加藤英文、碇矢長一、ジャイアント吉田の9人※(注記)高松
- この時のメンバー3(1962年頃):桜井、碇矢、加藤、小野、吉田、小山、青木の7人※(注記)高松、木の実ナナ
- この時のメンバー4(1962年頃):桜井、碇矢、加藤、小野、吉田、小山の6人※(注記)高松、木の実
- この時のメンバー5(昭和37年頃):桜井、碇矢、加藤、小野、吉田、小山、飯塚文雄の7人※(注記)高松
- 1962年、桜井がコミカル路線を強化するため「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」のベーシストをやっていたが、演奏の合間のお笑いに熱を入れすぎたり、交通事故を起こしてバンドから孤立していた碇矢長一(当時は芸名でなく本名)をヘッドハンティングした。碇矢は、アメリカの一流ミュージシャンが演奏だけではなくジョークも上手い事に感銘を受け、司会やコミカルな演奏を行うようになって、客層が音楽目当てとギャグ目当てに二分される原因となり時田は内心不満に思っていたという。その少し前には「クレイジー・ウエスト」(ミッキー・カーチスのバック・バンド)のメンバーだった加藤英文(同じく当時は芸名でなく本名)が、コミックに興味が無く脱退したドラマーの後釜として田中の誘いで参加し、メンバーとしての活動を始めていた。加藤の証言ではドリフ加入時には総勢15人のメンバーがいたとのこと。この15人の中に高松が含まれていたかは不明だが、仮に含めたとしても加藤を除いて14人となるため、下記のこの時のメンバー2のメンバー以外にも名前が全く知られていないメンバーが複数人存在していたことになる。また、碇矢は、自分が移籍した直後に、マウンテンプレーボーイズ時代から旧知の間柄でコミック向きだったジャイアント吉田を誘ってドリフに加入させる。そして、碇矢がリーダー代行という形で「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に改称し、ドリフを本格的なコミック・バンドとして9人で再々編して出発することになる。しかし完全にコミックバンドへ方向転換し始めた矢先、コミカル路線に難色を示すメンバー(田中、三好)が脱退。その後、暫くして青木も移籍という形で脱退したため、メンバーに飯塚を加えることとなる。これが、現在万人に知られているドリフの母体、原形である。
- ドンキーカルテットとの分裂
- 1963年、桜井は徐々にライブに出演しないようになるが、名目上のリーダーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は実質的なリーダーとして練習の鬼と化した。また、この時期に碇屋長兵衛という芸名で出ている。
- 1964年、碇矢のワンマンぶりに耐えかね、小野、吉田、飯塚、猪熊が揃って脱退、「ドンキーカルテット」を結成する。宙ぶらりんの状態となった加藤をどうするかで碇矢と脱退組との間で協議したが、脱退組がグループ名を「カルテッド(4人組)」と決めていたことで変更が難しいのと、当時辛うじて顔が売れていた加藤を残留させればドリフは残せると言う小野の考えから、小野はドリフに残るよう加藤を説得した。この件について加藤はいかりやがまだ存命であった頃には「長さんにあの顔で『お前はどうするんだ!!』言われたらやっぱり残ります...って言いますよねぇ」といかりやの顔の迫力に負けて「残ります」と言ったと経緯を語ることが多いが、いかりやはこれを受け狙いのフィクションだと否定し、実際は桜井が普通の口調で「加藤、お前はどうするんだ?」と訊いたのが事実だという。また、小野らが正式に脱退を決めていないうちから仕事をブッキングしていたのに違和感を覚えた事も、残留を決めた理由の一つだったという。小野らの脱退のきっかけは、碇矢がコントの練習中に、身が入らないメンバーに対して怒り出し「お前らなんか辞めちまえ!」と恫喝した事である。既にグループ名を決め、脱退後の仕事もブッキングしていたことで「仰せの通り辞めさせて頂きます」と言って、あっさり辞める意思を示してしまい、焦った碇矢は、この4人が京都へ移動する際の列車の車内にまで追い掛けてまで「俺が辞めるからドリフに残ってくれ」と何度も説得した。しかし小野らは、碇矢がリーダー代行となった当初から、音楽よりもコントを重視する姿勢に嫌気が差していて、ドリフが売れ始め、ようやくまともな収入を得られるようになったことから仕方なく残っていただけであり、結局脱退する運びとなった。騒動の責任を取り桜井が辞めて、正式に碇矢が3代目のリーダーになったが、引き続き桜井はオーナー的立場で面倒を見た。この結果、残されたメンバーはリーダーの碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、渡辺プロとの繋がりからメンバー入りしたサックスの綱木だったが、小山は病気で入院中で、綱木は臨時雇いであり、実質のメンバーは、いかりやと加藤だけだった。その後、石川禎男(ベースギター)が極々短期間メンバーとして加入している。
- この時のメンバー1(1963年頃):桜井、碇矢、加藤、小野、吉田、飯塚、小山、猪熊虎五郎の8人
- この時のメンバー2(1964年頃):桜井、碇矢、加藤、小野、吉田、飯塚、猪熊、小山、綱木文夫の9人
- この時のメンバー3(1964年頃):桜井、碇矢、加藤、綱木、小山の5人
- 高木・荒井の加入
この時のメンバー1(1964年頃):碇矢、加藤、綱木、小山、高木友之助、荒井ヤスヲ、石川禎男、桜井(オーナー)の8人
- 桜井、小山の脱退と仲本の加入による新生ドリフ誕生
- 1964年冬、小山はバンドが完全にコミックバンドへに移行することに興味が無いことと体調不良もあり、脱退する意向を示した。後釜として碇矢が高木に早急なメンバー補充を求め、1965年初頭、「クレイジー・ウエスト」でのボーカル経験があり、「パップ・コーンズ」にも在籍したことがあり高木とは顔なじみの仲本こうじが参加。ここで初めて誰もが知る5人のメンバーが揃った。またこの後しばらくは綱木が正メンバーとして在籍し、6人構成だったことはあまり知られていない。
- 1965年夏頃、綱木は正メンバーとして残りたがったがコメディはに向いていないと判断され、脱退となる。その後、桜井の意向によりドリフは渡辺プロに預けられることとなり、桜井は完全に身を引いた。
- ドリフといえば通常、桜井の影響が完全に無くなり、碇矢が名実ともにリーダーになり、グループ名もリーダーの名前の冠が取れて「ザ・ドリフターズ」に改称したこの時期以降のことを指す。
- この頃までは、ドリフターズはジャズ喫茶出演が中心で、全国的には無名に近いバンドであり、辛うじて加藤の「カトちゃんぺっ」のギャグがTV放映でわずかに知られていた程度である。
- この時のメンバー1(1965年頃):碇矢、加藤、高木、荒井、綱木、仲本こうじ、桜井(オーナー)の7人
- この時のメンバー2(1965年頃):碇矢、加藤、高木、荒井、仲本の5人
※(注記)1965年以前は各文献で記述と年代の矛盾があり、正確な年次は不明な部分がある。ドリフは、渡辺プロとイザワオフィスの公式発表では1964年の新生ドリフ結成、小野や加藤の出演するバラエティー番組では1960年の桜井輝夫とザ・ドリフターズ結成、坂本が紹介される番組では1956年のサンズ・オブ・ドリフターズ結成を起源として紹介されている。
新生ドリフ時代
- 綱木の脱退とナベプロ移籍から全員集合まで
- 渡辺プロに移籍し、1965年に綱木が脱退した(新生ドリフメンバー脱退第1号。なお、この時はメンバーの補充はなかったため、以後は5人体制となった)後の1966年春、メンバーは事務所の先輩ハナ肇に芸名を付けられる。その後に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」と名乗ることもあった(短期間ながら、初期には「いかりや長一とザ・ドリフターズ」だったこともある)。これ以降、碇矢の名をいかりやと記述する。
- 初期新生ドリフは、ポスト「クレージーキャッツ」を自負するコミックバンドとしてジャズ喫茶出演やTV出演を行っていた。後述する『大正テレビ寄席』出演の頃からコントに軸足を移すようになる。この番組で後のライバルとなるコント55号と出会う。この頃から徐々にドリフの人気が高まる。そして、1967年には映画『なにはなくとも全員集合』で初主演を果たす。
- いかりやはこのメンバーを急場凌ぎと捉え、いずれ整理しようと自著『だめだこりゃ』に記している。音楽面に有能なメンバーに去られ、新メンバーは音楽面では劣ると見ていたから(特に荒井は満足にピアノが弾けなかった)である。しかし、『大正テレビ寄席』の山下武プロデューサーによれば、お笑いの技量はドリフがドンキーを凌いでいたという。番組としてはもっと出て欲しかったが、諸般の事情(司会の牧伸二がドンキーカルテットと同じ事務所だったこと)により数回の起用に留まり、そのためにドリフよりもドンキーを重用していたとのことである。
- 1968年、『大正テレビ寄席』や『あなた出番です!』を見ていたコメディアン志望の志村康徳が付き人として加入。この頃のドリフの番組は、コント55号に押され気味だった。
- 全員集合開始から荒井注脱退まで
- 1969年10月4日、居作昌果の誘いにより『8時だョ!全員集合』放送開始。コント55号を人気の面で圧倒し、ドリフは一躍お茶の間の人気者となったと同時に、全員集合は低俗番組のレッテルを貼られ、ドリフは人気と引き換えにPTAと地婦連から目の仇にされる。この番組を見ていたお笑い好きのバンド青年、諏訪園親治が1970年に加藤の運転手として加入、2年後に見習いとして全員集合に出演。
- 1973年秋、荒井が体力の限界を理由に脱退宣言(綱木に次いで2人目の新生ドリフメンバーの脱退)[17] 。志村が荒井の後釜として見習いとなる。荒井の後釜選びのとき、加藤がいかりやに志村を推薦し、悩んでいたいかりやも付き人の中で最も才能のある志村を選んだ。ファンは「荒井の後釜はすわである」と思っていた人が多く、当時無名の志村が後釜ということで違和感を覚えた人が多かった。当時のすわは付き人の中で最も世間に顔が売れており、かつ全員集合ではブルース・リーのものまねにより人気が出ていた。
- 志村けん加入から全員集合終了まで
- 1974年3月、荒井が脱退し、志村が正メンバーとなる。しかし、新人志村が軌道に乗らず人気に陰りが見え、萩本欽一の番組(フジテレビ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』)に再び押され気味となる。
- 1976年、志村は東村山音頭をヒットさせ、加藤・志村のヒゲダンスも人気を集め、再びドリフはお笑い界の頂点に返り咲く。また、翌1977年には『ドリフ大爆笑』、すわを含めた6人構成の『飛べ!孫悟空』が開始される。この絶頂期は1980年代初頭まで続く。
- 1983年頃には、いかりやとスタッフ、およびいかりやと加藤&志村組の不協和音が見られるようになり、全員集合は視聴率で『オレたちひょうきん族』に抜かれ、ドリフ人気に再び陰りが見え始める。そして1985年には16年間続いた全員集合が終了、さらに同年に全員集合の終了と相前後する形ですわが付き人を辞めた。
- 全員集合終了後
- 1985年の『全員集合』終了後には、『大爆笑』など一部を除き、基本的にメンバー全員揃っての活躍は一時停止状態となる。これをもってドリフターズが事実上解散したとする文献もある[18] 。そして、加藤と志村は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を立ち上げ、また加藤と志村が各々単独で冠番組を持つなどお笑いタレントに、いかりやは俳優、高木はミュージシャン、仲本は舞台とそれぞれの活動に励むようになる。
- 後に加藤・高木・仲本がこぶ茶バンドを結成し、地方巡業を行うようになった。
- 1990年代半ば、志村のゴールデンタイムのレギュラー番組が終了すると、『大爆笑』にて久々に5人全員のコントが復活するようになる。
- 2000年代に入ると「ザ・ドリフターズ」として集合することは、さらに少なくなったが、それぞれバラエティーやトーク番組、ドラマや舞台、CMなどに出ていた。1999年末に富士フイルムのテレビCMで荒井を含めて、久々の6人による「全員集合」となり健在ぶりを見せたが、荒井は翌2000年2月9日に肝不全のため死去。2001年8月に『第33回思い出のメロディー』出演、大晦日には『第52回NHK紅白歌合戦』に正式な歌手として最初で最後の出場を果たす。そして2003年12月8日、『ドリフ大爆笑』の最新オープニングの収録に臨み、2年ぶりに5人揃っての「全員集合」となった。
- 2004年3月20日、リーダーのいかりやがリンパ節 がんのため死去。
- 2005年、『中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル』でワンコーナーの短い時間ながら、中居と4人のメンバーでコントをした[19] 。
- 2017年、『志村けんのだいじょうぶだぁスペシャル』で12年ぶりに4人揃って共演した[19] [20] 。
これが現時点で公開された最後のドリフのコントである。2017年現在も解散宣言は出されず、最後の1人が死去することによって終焉を迎える自然消滅という形を採る方針、これは先輩グループである『ハナ肇とクレージーキャッツ』の現在存命のメンバーが犬塚弘のみであっても解散宣言がされないのと同様。なお、いかりやの死去以降はリーダー制がなくなり、誰がリーダーであるという取り決めは特に無いが、桜井リーダー時から在籍する最古参であること、現ドリフメンバーの中ではいかりやと最も古い付き合いであること、インタビュー時には代表としてコメントする機会が多いことなどから、加藤が実質的なリーダーである。だが高木がいかりや死後のリーダーを自称している
TV出演
主な出演番組
(ドリフターズ全員出演のものに限る)
- 『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』(1962年 - 1965年、日本テレビ系)
- ドリフ初のレギュラー番組。鈴木ヤスシと木の実ナナが司会のオーディション番組。ドリフは、コーナーレギュラーで音楽コントを披露していた。この番組で全員集合など座付き作家となった田村隆や以後の日テレドリフ番組を全て演出した白井荘也と出会うことになる。初めの頃は小野等も出ていたが、前述したクーデターの後には出演メンバーの変遷が見られ、後におなじみの5人のみの出演となる。この番組の後、ドリフはTVレギュラー出演が増える。
- 『大正テレビ寄席』(1963年 - 1978年、NETテレビ〈現:テレビ朝日〉系)
- 牧伸二の司会で渋谷東急文化会館にて収録。毎週日曜日の正午に放送された。「5秒間に1回笑わせる」ことをキャッチフレーズとして、様々な芸人による芸を披露した公開演芸番組(ネタ番組)。いかりやは、この番組で東西の寄席芸人やストリップ小屋のコメディアン、キャバレー主体の芸人といったあらゆるお笑い芸人と知遇を得て懇意にし、また彼らの様々な芸に触発され自分達のコントの形態を研究。その結果、今日に至るドリフのコント戦略の方針ができ上がった。また、コントグループとしてのドリフの知名度が上がった番組でもある。
- 当時、ドリフはコミックバンドとして主に演芸番組にゲスト出演していた。『お茶の間寄席』(フジテレビ系)『テレビ演芸場』(テレビ朝日系)『かねてつトップ寄席』(ABC)など。第一次演芸ブームのメンバーとして、ドリフも含まれていたのである。
- 『歌え!一億』(1965年、フジテレビ系)
- 伊東ゆかりとドリフによる歌謡番組。視聴率が伸びず、スポンサー(日本レイヨン=現:ユニチカ。一社提供)と局スタッフを集めた会議にて、高木が大いびきをかきながら居眠りをしてしまい、スポンサーを怒らせて番組終了となった。
- 『あなた出番です!』(1966年 - 1969年、日本テレビ系)
- 伊東とドリフによる、オーディション番組。後に『ドリフターズ大作戦!』と番組名が変更される。『歌え!一億』の雪辱を果たし、視聴率がアップした結果、ドリフに海外旅行のプレゼントがあった。それまで、メンバーにも秘密だった荒井の真の年齢が、パスポートに生年月日を記入する際に加藤に盗み見され公表される。
- 『ドリフターズドン!』(1967年、TBS系)
- ドリフのTV初主演でもあるお笑い番組。藤村俊二が主題歌の振り付けとギャグアドバイザーを行う。
- 『進め!ドリフターズ』(1968年、TBS系)
- 公開番組。職を探すドリフが毎回いろんな職に就いては失敗する内容。この番組の収録中にいかりやは首に下げていた笛が体に突き刺さり肋骨を損傷。この事故が原因でいかりやが倒れ、番組はそのまま打ち切りに。
- 『おれが一番!』(1968年、TBS系)
- 人気タレント2人または2組が、コントやトークや歌をやる。
- 『ドカンと一発!』(1968年、TBS系)
- ナショナル劇場として、クレージーキャッツや藤田まことら豪華メンバーで作られたコメディドラマ。
- 『突撃!ドリフターズ』(1968年、TBS系)
- 『チータ55号』の後を受けて登場した公開番組。ドリフが扮するガードマン会社「世界おたすけ商会」(SOS)に、毎回ゲストが仕事を依頼。
- 『ドリフターズ大作戦』(1969年、日本テレビ系)
- 副題は『あなた出番です!』。既述の通り元々は副題が正式タイトルだった公開視聴者参加番組。出場者がのど自慢や珍芸を披露。ドリフは司会進行役兼出場者の応援団。
- 『8時だョ!全員集合』(1969年 - 1985年、TBS系)
- 平均視聴率30%超(人気絶頂の数年間の平均視聴率は、40%を超えた)という、怪物公開生番組。最高視聴率は、プロボクサーの輪島功一をゲストに迎えた1973年4月7日の50.5%。この番組によって、ドリフは「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率戦争を長い間生き抜く。当時は、家庭用ビデオの普及していない(そして風呂付きの家も今より少なかった)時代で、その放送時間だった「土曜日の夜8時からの約1時間」はがら空き状態の施設や銭湯も多かった。キャンディーズも、その第二期より準レギュラー化する。膨大な生放送分を録画したものの中からセレクトされたものが、2004年になってDVD化され、その後もDVD化されている。
- 『ドリフのドパンチ!学園』(1970年、日本テレビ系)
- ゲストが校長、いかりやが教頭役に扮し、収録会場近辺の視聴者が生徒役。ドリフの他のメンバーが落ちこぼれ生徒役の公開学園コント。いかりやがこの番組で腹話術を披露。第1回の新聞発表タイトルは「いかりやに隠し子発覚!?」。
- 『日曜日だョ!ドリフターズ!!』(1971年、日本テレビ系)
- 渡辺プロが強引にTBS系の『8時だョ!全員集合』を一時休止してまで製作した公開生番組。内容・構成は『全員集合』とほぼ類似。セットは後に同局の『ハッチャキ!!マチャアキ 』や『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に流用された。
- 『クイズの王様』(1972年 - 1974年、フジテレビ系)
- 土曜21時からの30分クイズ番組。司会は石坂浩二。ドリフはコーナーレギュラーで、クレージーキャッツと隔週で出演した。
- 『スター・オン・ステージ あなたならOK!』(1973年、テレビ朝日系)
- 月曜20時からの60分オーディション番組。司会は高橋圭三。ドリフはサブ司会で、井上順と交代で出演した。
- 『ドリフ大爆笑』(1977年 - 1998年、フジテレビ系)
- 『8時だョ!全員集合』と共にドリフの代名詞ともいえるテレビ番組で、『火曜ワイドスペシャル』の月1回企画として放送された。現在、新作は製作されていないが、2003年12月23日、年末特番として編集版放送の際、オープニングとエンディングが新しく撮り直された。2003年では、1983年の時に踊っていたスクールメイツの娘がスクールメイツとして踊ったりしていた。リーダーのいかりやが翌2004年に死去したため、この映像がメンバー5人が一堂に会した最後のものとなった。なお、このドリフとしての最後の映像は、2003年12月8日に撮影されたものである。このタイトルの後ろに、「ドリフ大爆笑'77」など、その年の西暦のうちの下2桁の数字が付く。
- 『飛べ!孫悟空』(1977年10月 - 1979年3月、全74回、TBS系)
- 人形劇のアテレコではあるが、毎回のゲストも本物そっくりの人形でその本人がアテレコを担当した。ピンクレディーが主題歌を歌う(エンディングも同じ歌)。すわしんじは馬の役で、笑い声だけの出演。
- 『ドリフと女優の爆笑劇場』(1977年 - 1989年、テレビ朝日系)
- 『水曜スペシャル』枠で3か月毎に放送。
- 『TVプレイバック』(1985年 - 1989年、フジテレビ系)
- 日曜22:00 - 22:30放送。萩本欽一司会、石田純一と向井亜紀がレギュラー回答者だったが、その他、ゲスト回答者とともに「ドリフターズゲスト」として各人が2週連続で出演のローテーションを組んだ。
他に『新春かくし芸大会』、『NHK紅白歌合戦』、『テレビグランドスペシャル』、『ビッグスペシャル』、『ビッグワイド60分』、『4・10月だョ!全員集合』、『オリンパソン'80』などの単発物や特別番組を含めると、多数存在する。
主なCM出演
1979年から1980年までの2シーズンに渡って「ハクキンカイロ」のCMキャラクターを務めた。ドリフメンバーが赤穂浪士に扮した「忠臣蔵編」、及びスキーに興ずる「スキー編」の2篇が放映された。
1980年代前半、永谷園から当時発売されていたふりかけ「鮭っ子」・「味ぶし」・「焼き肉」・「焼たら子」のCMに出演。ただ、上記にもある通り、1981年に仲本・志村の二人がノミ行為の発覚で謹慎した際には、急遽いかりや・加藤・高木の三人のみ出演したバージョンが製作・放映された。
1999年末から2000年新春にかけて、(荒井注の節にもあるが)荒井を含めた6人のメンバーと田中麗奈が七福神に扮した「フジカラー・フィルム」の2000年新春版CMが放映される。
2006年7月1日から、いかりや死去後初めて4人が揃って出演した「ケーズデンキ」のCMが放映され、2015年3月まで続いた。
2009年4月から、ドリフターズをモチーフにしたパチンコ「CRフィーバードリフだよ!全員集合」(SANKYO)のCMが放映された。いかりやの出演シーンは過去の映像を基にした合成である。
この他、メンバー全員が出演しているわけではないが、キリン「淡麗グリーンラベル」のCMはドリフターズへのオマージュである。メンバー間の「イインダヨ!」「グリーンダヨ!!」の掛け合いが印象的。CMに使われている曲は「8時だョ!全員集合」のオープニング曲やその際のメンバー入場時に使われた曲をアレンジしたもので、出演者5人が『全員集合』オープニングの衣装を着て踊るバージョンもあった。また、同CMには志村けん本人が共演しているバージョンもあるが、実は登場する5人にはそれぞれモデルのドリフメンバーにちなんだ英語風の名前やキャラクター設定がなされており、出演者の風貌も5人それぞれのメンバーにそっくりな人(なお全員外国人である)を選んである。キャラクターの設定は次の通りで、「ザ・ウリフターズ(瓜二つ)」というグループ名がある。
- アンカー:5人のリーダー。いかりやが元ネタである(碇は英語でアンカー)。
- ブラウン:ムードメーカー。しばしば「へっくし!!」と変なクシャミをする。加藤が元ネタである(茶色が英語でブラウン)。
- ケント:一番の年下だが、態度がでかく失敗ばかりしている。志村けんが元ネタである。
- マット:ひかえめだが、まじめで正義感が強い。メガネを掛けたまま運動するのが得意。仲本が元ネタである(マットは仲本が得意とした体操のマットから)。
- ジェイコブ:食べることが大好きな芸達者。特技は居眠り。高木が元ネタである。
- ケン:ケントにそっくりなおじさん。演ずるのは志村本人である。
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
2001年(平成13年)/第52回 | 初 | ドリフのほんとにほんとにご苦労さんスペシャル[21] | 19/27 | 松田聖子 |
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
補足
前述のCM出演(2000年放送)や、NHKの歌番組(第32回思い出のメロディー)でのコントと歌のコーナー出演(2001年)、同じく上記の紅白への出演、『ドリフ大爆笑』の総集編のオープニングとエンディング新収録(2003年放送)など、2000年以降に於いてほぼ一年に一度は、早期に脱退した綱木を除くメンバーが全員集合する機会や企画がとられていた。
2004年が結成40周年に当たり、様々な番組企画、イベントなどが事務所やTVで予定されていたが、前述の通り、2000年に初期メンバーの荒井と2004年にリーダーいかりやの死去により、完全な「全員集合」の実現は不可能である。
ディスコグラフィー
シングル
枚 | 発売日 | タイトル | 収録曲 | 備考 | オリコン最高位 |
---|---|---|---|---|---|
東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||||
1st | 1967年 6月10日 | ズッコケちゃん | ズッコケちゃん 作詞:なかにし礼 作曲:不詳 池すすむ採譜[22] 編曲:萩原哲晶 |
デビュー曲として発表されたが、B面の「いい湯だな」の方が大ヒットしてしまったため、「いい湯だな/ズッコケちゃん」と紹介しているサイトもある。 | 44位 |
いい湯だな (ビバノン・ロック) 作詞:永六輔 作曲:いずみたく 編曲:萩原哲晶 |
「にほんのうた」シリーズ。別バージョン・ビバノンロック。オリジナルはデューク・エイセスの歌である。 1997年に日本石油(現:ENEOS)のコレカードのCMソングとして替え歌で歌った。これは、2000年に発売されたベストアルバム『ドリフだョ!全員集合 青盤』に収録されたため、入手可能である。なお、これが5人で歌った最後で且つ最新音源で、曲中にナレーションが入っている。 | ||||
2nd | 1969年 5月1日 | ミヨちゃん | ミヨちゃん 作詞・作曲:平尾昌晃 編曲:川口真 |
オリジナルは平尾昌晃の楽曲[23] 。 1995年に加藤茶が別バージョン「RAP MIYO-CHAN」を発表した。 |
11位 |
のってる音頭 作詞:なかにし礼 日本 民謡 編曲:川口真 |
原曲は秋田県民謡の「秋田音頭」。 アラン・リックマン主演映画『スノーケーキを君に』のなかで、シガニー・ウィーバーがこの曲に合わせ踊るシーンがある。 | ||||
3rd | 1969年 11月1日 | ドリフのズンドコ節 | ドリフのズンドコ節 作詞・作曲:不詳 補作詞:なかにし礼 編曲:川口真 |
原曲は「海軍小唄」。 1978年に、荒井注脱退により荒井のパートのみを差し替えた「志村けんバージョン」が「ゴー・ウェスト」のB面に収録。 |
2位 |
大変歌い込み 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は宮城県民謡「斎太郎節」(「大漁歌い込み」)。 | ||||
4th | 1970年 4月25日 | ドリフのほんとにほんとにご苦労さん | ドリフのほんとにほんとにご苦労さん 原詞:野村俊夫 替詞:なかにし礼 作曲:倉若晴生 編曲:川口真 |
原曲は「軍隊小唄」。 | 4位 |
冗談炭坑節 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は福島県民謡「常磐炭坑節」。 | ||||
5th | 1970年 11月5日 | 誰かさんと誰かさん | 誰かさんと誰かさん 作詞:なかにし礼 スコットランド民謡 編曲:川口真 |
原曲は「ライ麦畑を通り抜け」(日本では「故郷の空」として知られる)。 | 3位 |
ドリフのおこさ節 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は秋田県民謡「おこさ節」。 | ||||
6th | 1971年 5月5日 | ドリフのツンツン節 | ドリフのツンツン節 作詞:なかにし礼 作曲:不詳 編曲:川口真 |
原曲は各学校で伝承曲として歌われている「ツンツン節」。 | 18位 |
ドリフ音頭 北海盆歌より 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は北海道民謡「北海盆唄」。 | ||||
ワーナー・ブラザース・パイオニア いかりや長介とザ・ドリフターズ 名義 | |||||
7th | 1971年 12月20日 | ドリフのツーレロ節 | ドリフのツーレロ節 作詞:なかにし礼 作曲:不詳 編曲:川口真 |
原曲は美ち奴の「シャンラン節」。 | 52位 |
ドリフのラバさん 作詞:石田一松 補作詞:なかにし礼 作曲:石田一松 編曲:川口真 |
原曲は石田一松の「酋長の娘」。 | ||||
東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||||
8th | 1972年 4月25日 | ドリフの真赤な封筒 | ドリフの真赤な封筒 作詞:永田哲夫 補作詞:なかにし礼 ハワイ民謡[24] 編曲:川口真 |
原曲は1919年にアメリカで発表されたコミックソングの「オー・バイ・ジンゴ」。日本では、1937年に灰田勝彦が「真赤な封筒」として発表され、永田による日本語の歌詞をなかにしが更にコミカルにしている。 ジャケットに「ハワイ民謡」とクレジットされているがアルバート・フォン・ティルツァー作曲である。 ハワイアンタッチのシングルヴァージョンとは別テイクが存在する。 |
32位 |
ドリフのピンポンパン 作詞:阿久悠 作曲:小林亜星 編曲:川口真 |
原曲はフジテレビで放送された子供番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』で披露された「ピンポンパン体操」。 | ||||
東芝音楽工業 / 東芝レコード いかりや長介とザ・ドリフターズ 名義 | |||||
9th | 1973年 6月10日 | 〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 / 「にほんのうた」シリーズ"いい湯だな"より ドリフのビバノン音頭 | 〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 作詞:上野冷児・松原雅彦 日本民謡 編曲:たかしまあきひこ |
21位 | |
「にほんのうた」シリーズ"いい湯だな"より ドリフのビバノン音頭 作詞:永六輔 替詞:上野冷児・松原雅彦 作曲:いずみたく 編曲:たかしまあきひこ | |||||
東芝EMI / 東芝レコード いかりや長介とザ・ドリフターズ 名義 | |||||
10th | 1976年 3月20日 | ドリフのバイのバイのバイ | ドリフのバイのバイのバイ 原作詞:添田さつき 作詞:森雪之丞 外国曲 編曲:森岡賢一郎 |
原曲は1918年に発表された「パイのパイのパイ」(東京節)。 この曲より志村けんが参入。 |
90位 |
ドリフの英語塾 作詞・作曲:森雪之丞 編曲:宮川泰 |
|||||
東芝EMI / 東芝レコード | |||||
11th | 1976年 9月5日 | 加藤茶のはじめての僕デス / 志村ケンの全員集合 東村山音頭 | 加藤茶のはじめての僕デス 作詞:関沢新一 作曲:中沢勝彦 編曲:たかしまあきひこ |
オリジナルは子役時代の宮本浩次(エレファントカシマシ)が歌っている。 | 8位 |
志村ケンの全員集合 東村山音頭 作詞:土屋忠司 作曲:細川潤一 編曲:たかしまあきひこ |
原曲は「東村山音頭」。 | ||||
12th | 1978年 4月20日 | ゴー・ウエスト | ゴー・ウエスト 作詞:山下啓・田村隆 作曲・編曲:たかしまあきひこ |
25位 | |
ドリフのズンドコ節 作詞・作曲:不詳 補作詞:なかにし礼 編曲:川口真 |
前述の志村けんバージョン。 | ||||
サウンズ・マーケッティング・システム | |||||
- | 1980年 2月25日 | 「ヒゲ」のテーマ (ドゥー・ミー) | 「ヒゲ」のテーマ (ドゥー・ミー) 作曲:K.GAMBLE & L.HUFF 編曲:たかしまあきひこ プロデュース:志村けん |
原曲は、テディ・ペンダーグラスが1979年にリリースされたアルバム『Teddy』に収録されている「Do Me」。 演奏は、たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ。 |
5位 |
カラオケ"いい湯だな" | 文字通り「いい湯だな」のカラオケバージョンである。 | ||||
13th | 1980年 12月21日 | ドリフの早口ことば | ドリフの早口ことば 補作詞:いかりや長介[25] 作曲・編曲:たかしまあきひこ |
原曲は1973年にウィルソン・ピケットが発表された楽曲「Don't Knock My Love」の替え歌である。 『全員集合』の「ドリフ聖歌隊」でお馴染みのリズムに乗せて早口言葉を言う。 |
10位 |
カラオケドリフの"早口ことば" | 文字通り「ドリフの早口ことば」のカラオケバージョンである。 | ||||
- | 1982年 | ドリフのわんダードッグ[26] | ワンダー・ドッグ 作詞・作曲:Harry Thumann |
原曲はハリー・トゥマン (英語版)のプロデュースユニット「Wonder Dog」の「Living on a farm」。『全員集合』ではこちらの曲が「ドリフのわんダードッグ」として流され、加藤茶と志村けんが犬のかぶり物をした上で口パクで歌った。曲の特定の場所で変顔をするのが定番となっていた。 | - |
わんダー・ドッグ・ディスコ編 | 原曲は「Wonder Dog」の「Ruff Mix」。原曲のアルバムではこちらがタイトル曲(A面)となっている[27] 。 |
プロモーション・シングル
発表年 | タイトル | 収録曲 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|
東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||||
1970年 | ドリフのほろ酔い小唄 | ドリフのほろ酔い小唄 作詞:青木正義 補作詞:山上路夫 作曲:いずみたく 編曲:萩原哲晶 |
灘の酒造メーカーの組織「甲東会」のPR用に作られたシングルで、利き酒会などでの配布用であり非売品であった。 現在では、2000年に発売されたベストアルバム『ドリフだョ!全員集合 青盤』に収録されている。 |
アルバム
オリジナルアルバム
枚 | 発売日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||
1st | 1969年 12月 | ドリフターズ 全員集合!! | 最初の3枚のシングル両面分6曲に「会津磐梯山」「八木節」を加えた計8曲。その間にドリフによるコントが挟まる形となっている。 |
2nd | 1971年 7月 | ドリフターズ再び全員集合!! | 前作に続き、「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」以降のシングル3枚両面分の計6曲をA面に、5人のメンバーがそれぞれソロをとる5曲をB面に収録。 |
3rd | 1971年 12月 | ドリフの軍歌だよ全員集合!! | 収録曲のうち「ズンドコ節」や「ほんとにほんとにご苦労さん」はシングル発表曲とタイトルは類似するが、別のものである。後述のベスト盤である「赤盤」には「酋長の娘」以外の9曲のみが収録された。 |
サウンズ・マーケッティング・システム | |||
4th | 1981年 1月21日 | ドリフの早口ことば |
ベストアルバム
枚 | 発売日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
東芝EMI / 東芝レコード | |||
1st | 1989年 7月12日 | ビッグ・アーティスト・ベスト・コレクション ザ・ドリフターズ | |
2nd | 1991年 12月18日 | ドリフのシングルコレクション | |
3rd | 2000年 11月16日 | ドリフだョ!全員集合 赤盤 | シングルやLPの音源はもちろん、ソノシートの音源などをも収録し、ドリフのほとんどの曲が網羅されている。 赤盤・青盤とも、解説の最後のページに、「荒井注さんのご冥福を謹んでお祈りいたします。」と書かれている。 |
4th | ドリフだョ!全員集合 青盤 | ||
渡辺音楽出版 | |||
5th | 2004年 11月25日 | ザ・ドリフターズ ゴールデン☆ベスト | |
東芝EMI / 東芝レコード | |||
6th | 2005年 11月16日 | ドリフ映画ダョ!全員集合 | |
ユニバーサル ミュージック / EXPRESS/EMI RECORDS | |||
7th | 2016年 2月10日 | ザ・ドリフターズ ヒットコレクション〜ドリフだョ!なかにし礼だョ!全員集合〜 | なかにし礼が作詞を手掛けた多くの楽曲を収録したベストアルバム。 |
タイアップ曲
楽曲 | タイアップ |
---|---|
ズッコケちゃん | 映画『ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓』挿入歌 |
ミヨちゃん | 映画『ドリフターズですよ!全員突撃』挿入歌 |
ドリフのズンドコ節 | 映画『ズンドコズンドコ全員集合!!』主題歌 |
誰かさんと誰かさん | 映画『誰かさんと誰かさんが全員集合!!』主題歌 |
〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 | TBS系『8時だョ!全員集合』オープニングテーマ |
〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 | TBS系『8時だョ!全員集合』エンディングテーマ |
加藤茶のはじめての僕デス | NHK『みんなのうた』より |
ゴー・ウエスト | TBS系『飛べ孫悟空』挿入歌 |
その他
- 『8時だョ!全員集合』のオープニングテーマ
- 原曲:「北海盆唄」
- 『ドリフ大爆笑』のテーマ
- 『日曜日だョ!ドリフターズ!!』のオープニングテーマ
- 「月月火水木金金」の替え歌(上記『ドリフ大爆笑』のテーマとは歌詞が異なる)。
等々。
(1970年代、レコード発売時に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」名義で暫く活動していた)
書籍
子供にも人気が高かったため1970年代、榎本有也がコミカライズ「漫画ドリフターズ」を『月刊少年ジャンプ』に連載していたほか、『まんが全員集合ザ・ドリフターズ101のひみつ』(小学館)も手掛けた。このほか2000年代に至るまで、自伝や関係者による回顧、分析・評論・解説本が様々出版されたが、下記を除いて古本屋でも入手が難しい書籍が多い。
- いかりや長介『だめだこりゃ』(新潮社、2001年)
- 2003年に表紙の写真も一新され、新潮文庫で再出版されている。また、2004年のいかりやの死去直後に再出版。新潮文庫電子版が2011年10月に発売されており2016年現在入手可能。
- なお、息子のいかりや浩一も父の没後に父の長介について書いた書籍を出版しており、現在も入手可能である。
- 志村けん『変なおじさん』(日経BP、1998年)、『変なおじさんリターンズ』(日経BP、2000年)
- 新潮文庫より2冊の合本『変なおじさん完全版』(新潮社、2002年)が発売された。
- 高木ブー『第5の男』(朝日新聞社、2003年)
- ドリフ結成年次がちょうど1年ずれている。1年プラスすれば、他の文献と整合が取れるため、これは誤植である。
- 居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』(双葉社、1999年)
- 全員集合のプロデューサーからの視点が記されている。2001年に双葉文庫版が発売された。
※(注記)各文献間で、記述の矛盾がある(例えば「高木ブーの中央大学卒業」の部分は『だめだこりゃ』では中退をしたこととなっており、大卒メンバーは荒井・仲本だけとなっているなど)。
主演映画作品
主演映画については、「ザ・ドリフターズの映画」を参照のこと。
脚注
- ^ シングル「ドリフのツーレロ節」のみ。
- ^ 発表は『8時だョ!全員集合』の放送中にて、いかりや長介から発表されたが、いかりやは「(荒井は)しばらくお休みをいただく」と発言しており、脱退とは一言も言っていないため、公式見解では現在でも正式メンバーのままである。
- ^ 加藤茶によると、当初は5分程度の演奏時間を与えられていたが、開始時間がどんどん押され、最終的には1分もない時間で演奏して欲しいと言われ、それでは短すぎて演奏出来ないと現場で交渉した結果、1分15秒の演奏時間になったと後に発言している。
- ^ 『ダカーポ』1999年10月6日号(No.430)、60頁。
- ^ ただし、『8時だョ!全員集合』の前半コント冒頭で「オイッス!」をしなかった観客に対していかりやがツッコミを入れることはあった。また『ドリフのドパンチ!学園』は視聴者参加番組であり、当然番組コント中にドリフと素人の絡みも見られた。
- ^ たけし軍団に入る前のガダルカナル・タカとつまみ枝豆は、ドリフの偽物として香港で有名になっている(カージナルスを参照)。
- ^ 高木ブー『第5の男』p.100-101
- ^ ただしこれは本人の意志ではなく、復帰作となった『時間ですよ昭和元年』を手掛けた久世光彦が荒井のカムバックを執拗に要求して引かなかったための止むを得ない措置であったと久世とTBS時代の同僚で『8時だョ!全員集合』プロデューサーだった居作昌果が著書『8時だョ!全員集合伝説』で述懐している。
- ^ 毘沙門天に扮していた。
- ^ 大野義夫ホームページ
- ^ ウチくる!? 2001年度版
- ^ ポン青木 公式ホームページ より。
- ^ [1]
- ^ 高木ブー『第5の男』p.99-101
- ^ 高松秀晴プロフィール
- ^ たけしに加藤茶が明かした志村けんがドリフに加入した裏事情
- ^ 荒井は基本的に脱退として扱われているが、「全員集合」で志村けんの加入がいかりや長介より始めて紹介された時、いかりやは荒井の処遇について「脱退」とは一言も言っておらず「お休みをいただく」と言っている。このため、荒井はあくまでもドリフメンバーであり、脱退した事実は無い。過去のドリフについて特集が組まれる際に荒井が紹介される比率が高いことや、後年のフジカラーのCMに出演したりとドリフの現メンバーと共演することがあったのもそのため。
- ^ 「朝日年鑑1986」p.331。これによると、いかりやが全員集合終了後の活動を個別に行うコメントを出したことで「実質的な解散」としている。
- ^ a b "ドリフ、12年ぶりコントで"全員集合!" 加藤茶「死ぬまでやりたい」". サンケイスポーツ. (2017年3月5日). http://www.sanspo.com/geino/news/20170305/owa17030505050003-n2.html 2017年3月5日閲覧。
- ^ "ドリフが寝台列車で大騒動「志村けんのだいじょうぶだぁSP」明日放送". お笑いナタリー. (2017年3月14日). http://natalie.mu/owarai/news/224532 2017年3月15日閲覧。
- ^ 「ドリフの全員集合のテーマ(北海盆唄)」「誰かさんと誰かさん」「ドリフのズンドコ節」「志村けんの全員集合 東村山音頭」「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「ドリフのビバノン音頭」のメドレー。
- ^ 後に作曲:佐々木俊一とされる
- ^ 平尾のオリジナル・バージョンでは「作詞・作曲:平尾昌章、補作詞:音羽たかし、補作曲:津々美洋」とクレジットされている。平尾昌章 ミヨチャン 歌詞 j-lyric.net
- ^ ジャケット記載ママ。説明を参照。
- ^ 補作詞:いかりや長介となっているが、補作であるのは口伝され続けている早口言葉も歌詞に含まれていることからである。
- ^ ドリフのわんダー・ドッグ - YouTube
- ^ Wonder Dog - Discogs
関連項目
外部リンク
- イザワオフィス(所属事務所)