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同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に[[海軍大学校]]甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。[[霞ヶ浦海軍航空隊|霞ヶ浦航空隊]]附兼教官となり、[[1926年]](大正15年)[[12月1日]]、[[少佐]]へ進級。海軍大学校教官、[[海軍航空本部]]出仕、[[連合艦隊]]司令部附を経て、[[第一航空戦隊]]参謀、[[横須賀鎮守府]]参謀、[[軍令部]]出仕(一班)兼[[海軍省#軍務局|軍務局]]出仕(一課)等を歴任した。少年飛行兵制度の創設を提案したのはこの少佐時代であった。[[中佐]]へ進級し[[ジュネーブ海軍軍縮会議]]随員を命ぜられ、[[国際連盟]]陸海軍問題常設諮問委員会海軍代表随員、同空軍代表随員、国際連盟軍備縮小準備委員会代表委員随員、国際航空委員会代表随員を兼任する。
同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に[[海軍大学校]]甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。[[霞ヶ浦海軍航空隊|霞ヶ浦航空隊]]附兼教官となり、[[1926年]](大正15年)[[12月1日]]、[[少佐]]へ進級。海軍大学校教官、[[海軍航空本部]]出仕、[[連合艦隊]]司令部附を経て、[[第一航空戦隊]]参謀、[[横須賀鎮守府]]参謀、[[軍令部]]出仕(一班)兼[[海軍省#軍務局|軍務局]]出仕(一課)等を歴任した。少年飛行兵制度の創設を提案したのはこの少佐時代であった。[[中佐]]へ進級し[[ジュネーブ海軍軍縮会議]]随員を命ぜられ、[[国際連盟]]陸海軍問題常設諮問委員会海軍代表随員、同空軍代表随員、国際連盟軍備縮小準備委員会代表委員随員、国際航空委員会代表随員を兼任する。


帰国後、再び海軍大学校教官、第一航空戦隊参謀を経て、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[11月15日]]、[[大佐]]昇進と同時に「神威」艦長となる。海軍航空本部総務部第一課長を経て、[[第一三航空隊]]司令に就任。第(削除) 一 (削除ここまで)三航空隊は第二連合航空隊司令官[[大西瀧治郎]]の麾下にあった。奥田には既に転任通知が届いていたが<ref>『自伝的日本海軍始末記』「[[有馬正文]]の遺言」</ref>、[[成都]]爆撃作戦への同行を望む大西に代わり、自ら指揮官として参加した。この攻撃は第一連合航空隊、第二連合航空隊の[[陸上攻撃機]]全63機で実施されたが、奥田が搭乗した総指揮官機は、[[戦闘機]]の迎撃によって被弾したのち、垂直降下して地上に激突。奥田は戦死した。奥田は降下前に直立し操縦員二人を一瞥した姿が目撃されている<ref>『海軍陸上攻撃機(上)』209-213頁</ref>。
帰国後、再び海軍大学校教官、第一航空戦隊参謀を経て、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[11月15日]]、[[大佐]]昇進と同時に「神威」艦長となる。海軍航空本部総務部第一課長を経て、[[第一(追記) 三航空隊|第十 (追記ここまで)三航空隊]]司令に就任。第(追記) 十 (追記ここまで)三航空隊は第二連合航空隊司令官[[大西瀧治郎]]の麾下にあった。奥田には既に転任通知が届いていたが<ref>『自伝的日本海軍始末記』「[[有馬正文]]の遺言」</ref>、[[成都]]爆撃作戦への同行を望む大西に代わり、自ら指揮官として参加した。この攻撃は第一連合航空隊、第二連合航空隊の[[陸上攻撃機]]全63機で実施されたが、奥田が搭乗した総指揮官機は、[[戦闘機]]の迎撃によって被弾したのち、垂直降下して地上に激突。奥田は戦死した。奥田は降下前に直立し操縦員二人を一瞥した姿が目撃されている<ref>『海軍陸上攻撃機(上)』209-213頁</ref>。


奥田ら戦死者の追悼式における大西の弔辞は涙で震え、大西は倒れてしまい病室に運ばれた<ref>『指揮官 (上)』pp174-175、『太平洋戦争名将勇将総覧』pp273-274</ref>。奥田の死はその翌日に、同期生である[[大西新蔵]]、[[三戸寿 (海軍軍人)|三戸寿]]から遺族に伝えられたが、その対応は毅然としたものであった<ref>『海軍生活放談』p425</ref>。
奥田ら戦死者の追悼式における大西の弔辞は涙で震え、大西は倒れてしまい病室に運ばれた<ref>『指揮官 (上)』pp174-175、『太平洋戦争名将勇将総覧』pp273-274</ref>。奥田の死はその翌日に、同期生である[[大西新蔵]]、[[三戸寿 (海軍軍人)|三戸寿]]から遺族に伝えられたが、その対応は毅然としたものであった<ref>『海軍生活放談』p425</ref>。

2014年12月17日 (水) 16:47時点における版

奥田 喜久司
生誕 1894年 2月4日
日本の旗 日本 兵庫県
死没 (1939年11月04日) 1939年 11月4日(45歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1915年 - 1939年
最終階級 海軍少将
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奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本海軍 軍人。少年飛行兵制度を発案する[1] ことで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。

人物・来歴

略歴

兵庫県出身。1914年(大正3年)12月9日海軍兵学校(42期)を卒業。席次は117名中54番。同期に小林謙五 中将加来止男少将らがいる。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。

同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。霞ヶ浦航空隊附兼教官となり、1926年(大正15年)12月1日少佐へ進級。海軍大学校教官、海軍航空本部出仕、連合艦隊司令部附を経て、第一航空戦隊参謀、横須賀鎮守府参謀、軍令部出仕(一班)兼軍務局出仕(一課)等を歴任した。少年飛行兵制度の創設を提案したのはこの少佐時代であった。中佐へ進級しジュネーブ海軍軍縮会議随員を命ぜられ、国際連盟陸海軍問題常設諮問委員会海軍代表随員、同空軍代表随員、国際連盟軍備縮小準備委員会代表委員随員、国際航空委員会代表随員を兼任する。

帰国後、再び海軍大学校教官、第一航空戦隊参謀を経て、1935年(昭和10年)11月15日大佐昇進と同時に「神威」艦長となる。海軍航空本部総務部第一課長を経て、第十三航空隊司令に就任。第十三航空隊は第二連合航空隊司令官大西瀧治郎の麾下にあった。奥田には既に転任通知が届いていたが[2] 成都爆撃作戦への同行を望む大西に代わり、自ら指揮官として参加した。この攻撃は第一連合航空隊、第二連合航空隊の陸上攻撃機全63機で実施されたが、奥田が搭乗した総指揮官機は、戦闘機の迎撃によって被弾したのち、垂直降下して地上に激突。奥田は戦死した。奥田は降下前に直立し操縦員二人を一瞥した姿が目撃されている[3]

奥田ら戦死者の追悼式における大西の弔辞は涙で震え、大西は倒れてしまい病室に運ばれた[4] 。奥田の死はその翌日に、同期生である大西新蔵三戸寿から遺族に伝えられたが、その対応は毅然としたものであった[5]

少年飛行兵制度

奥田が発案した少年飛行兵制度は、高等小学校を卒業した少年を教育し、早くから操縦技術を学ばせることによって、優秀な搭乗員を多数養成することを目的としたものであった。この制度によって養成されたものが、太平洋戦争初期に名人芸とも言われる技量を発揮した日本海軍航空部隊の主力をなした。

出典箇所

  1. ^ 『大海軍を想う』「少年飛行兵と射出機」
  2. ^ 『自伝的日本海軍始末記』「有馬正文の遺言」
  3. ^ 『海軍陸上攻撃機(上)』209-213頁
  4. ^ 『指揮官 (上)』pp174-175、『太平洋戦争名将勇将総覧』pp273-274
  5. ^ 『海軍生活放談』p425

参考文献

  • 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。 
  • 巌谷二三男『海軍陸上攻撃機(上)』朝日ソノラマ、1996年。ISBN 4-257-17305-X 
  • 大西新蔵『海軍生活放談』原書房、1979年。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
  • 児島襄『指揮官(上)』文春文庫、1992年。ISBN 4-16-714101-9 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、1971年。 
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
  • 歴史と旅増刊号『太平洋戦争勇将名将総覧』秋田書店、1996年

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