コンテンツにスキップ
Wikipedia

「草鹿龍之介」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
105行目: 105行目:
1945年[[4月25日]]兼海軍総隊参謀長。[[6月25日]]軍令部出仕。[[8月10日]]海軍総隊司令部附。8月15日終戦。[[中島親孝]](第3艦隊参謀)は、草鹿が断固たる決意を示した場面を見たことがない、ミッドウェー海戦の際は泰然と腰を抜かしていたと言われていた、また草鹿は博識で[[広島市]]に[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾が投下された際]]、原子爆弾について知っていたのは連合艦隊司令部では草鹿だけだったというという<ref name="聯合艦隊作戦室95">[[#聯合艦隊作戦室]]95頁</ref>。
1945年[[4月25日]]兼海軍総隊参謀長。[[6月25日]]軍令部出仕。[[8月10日]]海軍総隊司令部附。8月15日終戦。[[中島親孝]](第3艦隊参謀)は、草鹿が断固たる決意を示した場面を見たことがない、ミッドウェー海戦の際は泰然と腰を抜かしていたと言われていた、また草鹿は博識で[[広島市]]に[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾が投下された際]]、原子爆弾について知っていたのは連合艦隊司令部では草鹿だけだったというという<ref name="聯合艦隊作戦室95">[[#聯合艦隊作戦室]]95頁</ref>。


終戦後特攻した[[宇垣纏]]中将の後任として1945年8月17日[[第五航空艦隊]]司令長官となる。終戦に納得しない若手[[士官]]たちに「大命に従うのが私の考えであり、それに納得できないものは私を(削除) 切 (削除ここまで)れ」と説得した{{sfn|草鹿|1979|p=385-386}}。その後[[昭和天皇]]に拝謁し、天皇が「万民の為に我が身を犠牲にしてもよい」、「みなさん、どうか頼みます」と語った際には号泣したという{{sfn|草鹿|1979|p=385-386}}。
終戦後特攻した[[宇垣纏]]中将の後任として1945年8月17日[[第五航空艦隊]]司令長官となる。終戦に納得しない若手[[士官]]たちに「大命に従うのが私の考えであり、それに納得できないものは私を(追記) 斬 (追記ここまで)れ」と説得した{{sfn|草鹿|1979|p=385-386}}。その後[[昭和天皇]]に拝謁し、天皇が「万民の為に我が身を犠牲にしてもよい」、「みなさん、どうか頼みます」と語った際には号泣したという{{sfn|草鹿|1979|p=385-386}}。


1945年8月25日より、総理大臣である[[東久邇宮稔彦王]]の命により鹿屋連絡委員長となり、米進駐軍との交渉にあたる{{sfn|草鹿|1979|p=390}}。約1ヶ月後に任を終える{{sfn|草鹿|1979|p=394}}。
1945年8月25日より、総理大臣である[[東久邇宮稔彦王]]の命により鹿屋連絡委員長となり、米進駐軍との交渉にあたる{{sfn|草鹿|1979|p=390}}。約1ヶ月後に任を終える{{sfn|草鹿|1979|p=394}}。


1945年10月(削除) 15 (削除ここまで)日予備役編入。戦後は化学肥料の会社の顧問を務めた。
1945年10月(追記) 13 (追記ここまで)(追記) <ref name="jirei19451106">昭和20年11月6日付 海軍辞令公報 甲 第1973号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072141500 で閲覧可能。</ref> (追記ここまで)予備役編入。戦後は化学肥料の会社の顧問を務めた。


==人物==
==人物==
163行目: 163行目:
*[[1936年]](昭和11年)[[9月12日]]:陸海軍航空本部協調委員会幹事
*[[1936年]](昭和11年)[[9月12日]]:陸海軍航空本部協調委員会幹事
**[[11月16日]] 「[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]」艦長
**[[11月16日]] 「[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]」艦長
*[[1937年]](昭和12年)[[10月(削除) 20 (削除ここまで)日]]:(削除) 支那方面艦隊参謀兼 (削除ここまで)(削除) 3 (削除ここまで)艦隊(削除) 参謀([[パナイ (削除ここまで)(削除) 事件]]) (削除ここまで)
*[[1937年]](昭和12年)[[10月(追記) 18 (追記ここまで)日]]:第(追記) 三 (追記ここまで)艦隊(追記) 司令部附<ref>昭和12年10月18日付 海軍辞令公報 (追記ここまで)(追記) 外 第76号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072072400 で閲覧可能。</ref> (追記ここまで)
**[[10月20日]]:支那方面艦隊参謀兼第3艦隊参謀([[パナイ号事件]])
*[[1938年]](昭和13年)[[4月25日]]:軍令部第1部第1課長兼海軍技術会議議員([[広東]]攻略戦、[[海南島]]攻略戦)
*[[1938年]](昭和13年)[[4月25日]]:軍令部第1部第1課長兼海軍技術会議議員([[広東]]攻略戦、[[海南島]]攻略戦)
**[[4月25日]]:[[大本営]]陸軍参謀兼務
**[[4月25日]]:[[大本営]]陸軍参謀兼務
191行目: 192行目:
**[[4月7日]]:第2艦隊沖縄突入
**[[4月7日]]:第2艦隊沖縄突入
**[[4月25日]]:兼海軍総隊参謀長
**[[4月25日]]:兼海軍総隊参謀長
**[[5月1日]]:海軍総隊参謀長兼連合艦隊参謀長<ref>昭和20年5月19日付 秘海軍辞令公報 甲 第1804号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072104900 で閲覧可能。</ref>
**[[6月25日]]:軍令部出仕
**[[6月25日]]:軍令部出仕
**[[8月10日]]:海軍総隊司令部附
**[[8月10日]]:海軍総隊司令部附
**[[8月17日]]:第5航空艦隊司令長官
**[[8月17日]]:第5航空艦隊司令長官
**[[10月10日]]:第5航空艦隊廃止{{sfn|坂本/福川|2003|p=554}}、海軍省出仕<ref>昭和20年11月2日付 海軍辞令公報 甲 第1971号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072141500 で閲覧可能。</ref>
**[[10月13日]]:予備役被仰付<ref name="jirei19451106" />


== 脚注 ==
== 脚注 ==
215行目: 219行目:
* {{Cite book|和書|author=[[源田実|源田實]]|year=1998|title=真珠湾作戦回顧録(1刷)|publisher=文春文庫|isbn=4-16-731005-8|ref=真珠湾作戦回顧録(1刷)}}
* {{Cite book|和書|author=[[源田実|源田實]]|year=1998|title=真珠湾作戦回顧録(1刷)|publisher=文春文庫|isbn=4-16-731005-8|ref=真珠湾作戦回顧録(1刷)}}
* {{Cite book|和書|author=[[児島襄]]|year=1994|title=参謀(上)|publisher=文春文庫|isbn=|ref=4-16-714103-5}}
* {{Cite book|和書|author=[[児島襄]]|year=1994|title=参謀(上)|publisher=文春文庫|isbn=|ref=4-16-714103-5}}
* {{Cite book|和書|author=坂本正器/福川秀樹|year=2003||title=日本海軍編制事典|publisher=芙蓉書房出版|isbn=4-8295-0330-0|ref=日本海軍編制事典}}
* {{Cite book|和書|author=[[実松譲]]|year=1975||title=新版 米内光政|publisher=光人社|isbn=|ref=実松米内}}
* {{Cite book|和書|author=[[実松譲]]|year=1975||title=新版 米内光政|publisher=光人社|isbn=|ref=実松米内}}
* {{Cite book|和書|author=[[高木惣吉]]|year=1971||title=自伝的日本海軍始末記|publisher=光人社|isbn=|ref=高木}}
* {{Cite book|和書|author=[[高木惣吉]]|year=1971||title=自伝的日本海軍始末記|publisher=光人社|isbn=|ref=高木}}

2014年12月14日 (日) 07:50時点における版

草鹿 龍之介
生誕 1892年 9月25日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1971年11月23日) 1971年 11月23日(79歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 海軍中将
テンプレートを表示

草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年(明治25年)9月25日 - 1971年(昭和46年)11月23日)は、日本海軍 軍人剣道家。海軍兵学校41期生。最終階級は中将一刀正伝無刀流第4代宗家

生涯

住友本社 理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍石川県。草鹿家は加賀 大聖寺藩に仕えた一族である[1] 草鹿任一中将は従兄。

大阪天王寺中学校を卒業。豊田貞次郎近藤信竹は中学同窓で東龍太郎は同級生である。草鹿は進路を決定する際、父の命により西田幾太郎平沼騏一郎鈴木馬左也に面会し相談している。草鹿が軍人の道を歩むことに西田は反対したが、草鹿は第一高等学校に合格するも兵学校に進んだ。1910年9月12日海軍兵学校41期を次席の成績で入学。伍長補は伊藤整一だった[2] 。「千代田」に乗艦していた従兄の草鹿任一が兵学校に入校する龍之介を江田島まで案内した[3] 。兵学校では上級生が下級生を殴って鍛える風習があったが、草鹿は行わなかった[4] 。41期は2年時に学術優等章を授与されたものが17名に上る成績優秀者が多いクラスであった。1913年12月19日海軍兵学校41期を14番の成績で卒業。海軍少尉候補生。

1914年(大正3年)8月11日音羽」乗組。8月24日 日独戦役に従事。12月1日海軍少尉。1915年(大正4年)7月19日河内」乗組。1916年(大正5年)8月1日八雲」乗組(練習艦隊)。12月1日海軍中尉。1917年(大正6年)10月10日金剛」乗組。12月1日砲術学校普通科学生。1918年(大正7年)5月20日水雷学校普通科学生。12月1日「」乗組。1919年(大正8年)12月1日海軍大尉、砲術学校高等科学生。1920年(大正9年)12月1日「陸奥」分隊長兼艤装員。特務艦関東」分隊長となり、カムチャッカ地方に派遣された[5] 1921年(大正10年)2月10日」艤装員。3月19日「薄」航海長兼分隊長。10月1日関東」分隊長(露領沿岸警備)。1922年(大正11年)6月10日山城」分隊長(砲術学校練習艦)。

1922年11月20日横須賀鎮守府副官兼参謀。関東大震災に遭遇したが、デマに惑わされず状況を把握して人心の動揺を防ぐことに努めた[6] 1924年(大正13年)12月1日海軍大学校甲種学生24期。同期生20名(大洋会)には、学生長原忠一山口多聞福留繁小柳富次寺岡謹平など[7] 。在学中、草鹿は電気通信の授業中に電探のアイデアを思いつき、浜野力大尉に提案したが[8] 、浜野は「大尉の自分の提案を海軍が聞くわけない」と断り、後日「あのときやっておけば」と後悔したという[9] 1925年(大正14年)12月1日海軍少佐。

航空偵察員

1926年(大正15年)12月1日霞ヶ浦航空隊附。霞ヶ浦では安東昌喬司令に「別にこれといった任務はないから自分で勝手に勉強しろ」と言われ、「航空機による敵情偵知」をテーマに研究した。また偵察員の訓練を受けた[10] 。草鹿の初飛行は一〇式艦上偵察機の偵察員として行方不明機(一三式艦上攻撃機)を捜索することだったが、エンジン不調で彼の搭乗機も騎兵連隊錬兵場に不時着することになった[11]

1927年(昭和2年)6月1日霞ヶ浦航空隊教官兼海軍大学校教官。教官として航空戦術を担当する。草鹿が航空機に携わった経験は半年しかなかったが[12] 、軍の命令である以上勤務するしかなく、言うことがなくなって草鹿自身が「理屈の連続」と評する講義内容になってしまった[12] 。学生達からは航空哲学と揶揄された[13]

1928年(昭和3年)12月10日軍令部参謀兼海軍技術会議議員。当時軍令部でただ一人の航空担当者であった。[14] 1929年(昭和4年)8月10日米国出張(ツェッペリン号(ドイツ飛行船)同乗)。この計画が公表され草鹿は一躍有名人となり、靴屋の店先に彼が注文した靴が「草鹿少佐御用」と飾られたという[15] 。帰還した草鹿は、軍令部に対し「航空機に襲撃される危険性大、防御戦闘機5程度を飛行船に搭載し発着し得ること。軍需物資の空中輸送に期待が出来る」と報告した[16] 。草鹿はロンドン海軍軍縮会議後の航空軍備計画の中心におり[17] 、委任統治領を活用した航空機捜索網により潜水艦割当て量の削減を補えると提案した[18] 。また基地航空隊24隊の整備計画を提案し、承認された[19] 草刈英治が自決した際に上司の末次信正軍令部次長が「神経衰弱だろう」と言ったのに草鹿は激怒し、同席した中島権吉少将が仲裁し末次は謝罪した[20] 1930年(昭和5年)12月1日海軍中佐、第1航空戦隊参謀。12月13日 着艦飛行機制動装置実験委員。1931年(昭和6年)11月2日軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局服務第1班勤務。12月1日兼海軍大学校教官。1933年(昭和8年)8月4日航空戦教範起草委員会委員。9月1日磐手」副長(練習艦隊)。板倉光馬(少尉候補生)が無断飲酒で酔い潰れ大問題となった際には見所があるとして不問に処した[21]

1934年(昭和9年)11月15日海軍大佐、航空本部総務部第1課長兼海軍技術会議議員。航空本部には機密費接待費がないため必要となるたびに海軍省 副官との交渉に苦労したが、山本五十六が航空本部部長に着任すると草鹿の苦労を知って自ら交渉に乗り出し、金500(当時価格)を獲得して草鹿の苦労を減らしたという[22] 11月30日研究実験委員会委員。12月4日航空事業調査委員会幹事。1935年(昭和10年)2月1日兼海軍技術会議議員、海軍艦政本部技術会議議員。3月4日海軍航空本部航空事故調査委員会委員。11月4日航空費経済化調査委員会委員。1936年(昭和11年)9月12日陸海軍航空本部協調委員会幹事。11月16日鳳翔」艦長。

支那事変

1937年(昭和12年)10月20日支那方面艦隊参謀兼第3艦隊参謀。米国砲艦パネー号」を誤爆するパナイ号事件が発生する。草鹿は長谷川長官と共に事態収集に乗り出し、海軍報道班はあてにならないと考えたため、救援隊を派遣すると同時に新聞社を呼び寄せ、証拠保全のため、現場を実況フィルムにおさめた[23]

1938年(昭和13年)4月25日軍令部第1部第1課長兼海軍技術会議議員。大本営陸軍参謀兼務。草鹿は広東攻略戦、海南島攻略戦を推進した[24] 。「海の満州事変」と言われるこの作戦は陸軍の反対がある中、海軍主導で行われ米国の強い反発を招いた[25] 。草鹿は日独伊三国軍事同盟問題に対しては反対の立場をとっていた。大井篤によれば、当時の軍令部の課長で反対だったのは橋本象造と草鹿のみであったという[26] 4月25日 5月2日陸海共同作戦研究会委員。1939年(昭和14年)11月15日赤城」艦長。1940年(昭和15年)1月15日連合艦隊司令部附。11月15日海軍少将、第4連合航空隊司令官。1941年(昭和16年)1月15日第24航空戦隊司令官。

太平洋戦争

第一航空艦隊

詳細は「真珠湾攻撃」を参照

1941年4月15日第一航空艦隊参謀長。長官は南雲忠一中将。真珠湾攻撃の準備を命令された。1941年9月24日軍令部において大西瀧治郎中将が草鹿の真珠湾攻撃悲観論に同調し、10月初旬には二人で山本に真珠湾攻撃をやめフィリピン作戦に支援すべきと具申した[27] 。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲は断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わずに君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した[28] 。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた。草鹿は「あの時はまいった」という[29] 。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた[30]

草鹿参謀長は源田実航空参謀が案画し淵田美津雄飛行隊長が実行する好取組みと二人を評価しておりなるべく彼らの献策を入れて静かに見守った[31] 。出撃前の会議では、不安気な南雲に対し草鹿は「俺は鈍感なのか人は非常な大事をやる様に云ふが、何とも感じない」と宇垣纏連合艦隊参謀長に語った[32] 。宇垣は指揮官幕僚という立場の差を感じたという[33]

1941年12月8日、太平洋戦争劈頭のハワイ真珠湾攻撃でアメリカの戦艦4隻撃沈、2隻大破させアメリカ太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。

草鹿によれば、真珠湾の上空に残って、全攻撃隊の戦果を確認した淵田中佐から、真珠湾の戦況や戦果について詳しい報告を受け、大体において真珠湾の敵主力を潰滅せしめ得たことがわかった。攻撃は一太刀と定め、周到なる計画のもとに手練の一撃を加えたところ、奇襲に成功しその目的を達成することができた。機動部隊の立ち向かうべき敵はまだ一、二にとどまらないので、いつまでも獲物に執着すべきでなく、すぐ他の敵に対する構えが必要であるとして、何の躊躇もなく南雲長官に進言をして引き揚げることに決したという。また、『なぜもう一度攻撃を反復しなかったか』『工廠や油槽を破壊しなかったのは何故か』などの批判もあるが、これは、いずれも兵機戦機の機微に触れないものの戦略論であると思うという[34] 。「ただひと太刀と思い定め」「いつまでもここに心を残さず獲物にとらわれず」「いろいろ専門的批判もあるが、私に言わせれば、この際、これらは、いずれも下司の戦法である」とも反論している[35] 。また、草鹿によれば、私に面と向かって反対意見を具申した者は一人もいないという[36]

源田中佐と淵田中佐から付近に数日とどまり空母を撃滅する案が出たが、草鹿は「この作戦の目的は日本南方作戦部隊の側面、後方防衛にある。達成された以上とどまって無期限に長引かせるべきではない」と考えてその案を却下した[37]

宇垣纏連合艦隊参謀長は真珠湾攻撃と同時期に行われた第七駆逐隊(小西要人司令、駆逐艦)のミッドウェー島砲撃が効果薄しとみて、帰路についた一航艦に同島を空襲するよう下令した。草鹿は『参謀長として腹が立ちたり』『相手の横綱を破った関取に、帰りにちょっと大根を買ってこいというようなものだ』と怒り、命令を黙殺した[38]

その後も一航艦参謀長としてニューギニア、オーストリア、インド洋を転戦し連合軍の主要根拠地を覆滅しながらの大航海をした。ラバウル・カビエン攻略支援、ポートダーウィン攻撃、ジャワ海掃討戦などで活躍し太平洋の制空権を獲得した。インド洋に進出しセイロン沖海戦では群を抜く命中精度の急降下爆撃で空母ハーミーズ撃沈後余力を以て他多数撃沈、トリンコマリー港を爆撃する戦果を挙げた。一航艦はインド洋作戦までで確実に計471機は撃墜しており損失は10分の1もなく、艦艇には一隻の被害もなかった。[39] 。史上類のない連続的勝利を記録し南雲艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝から疲労と慢心が現れていた[40] 。連合艦隊司令部幕僚は、南雲と草鹿に批判的であり山本五十六長官に南雲の交代を要望したが「それでは南雲が悪者になる」と却下された。[41] 山口の草鹿評は「参謀長、先任参謀どちらがどちらか知らぬが臆劫屋揃」である[42]

詳細は「ミッドウェー海戦」を参照

帰還した一航艦に連合艦隊司令部の立案したミッドウェー作戦が命令された。軍令部で説明を受けた草鹿と白石萬隆第二艦隊参謀長はドーリットル空襲の騒ぎの直後であり敵機動部隊来襲を未然に防ぐためという先入観から主目的をミッドウェー基地攻略、副目的を敵機動部隊撃破と解釈した[43] 。長期作戦後で艦のドッグ入り、補充、修理、訓練と準備のため時間との戦いだった。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という。当時真珠湾で戦果をあげた航空部隊の戦死が一般と同じ扱いで士気に関わると一航艦で不満が高まっていた[44]

草鹿によれば「真珠湾以来成功が続いていたが、消耗もあり反対だった。ミッドウェー攻略自体多大な疑問があり連合艦隊から作戦は決定され強要された。しかし抵抗はしなかった」という[45] 。1942年5月4日研究会で草鹿は白石萬隆第二艦隊参謀長と延期を申請したが却下され5日に再び訪問した際に第二段作戦を手交され、その日は延期の申請をせずに帰った[46] 。またミッドウェー作戦は時期尚早であると山口多聞少将と源田実中佐が連合艦隊に反対したが、連合艦隊司令部はもう決まったことであると取り合わなかった。草鹿はここであきらめたことが間違いであったという[47]

戦訓分科研究会において、宇垣は草鹿に対し「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が草鹿を追及すると、源田参謀が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」とした[48] 。宇垣は「今後千変萬化の海洋作戦に於て果して其の任に堪えゆるや否や」と心配したという[49]

出撃前、草鹿は、攻撃日が決まっているので奇襲の機動余地がなく、空母はアンテナ受信能力不足で敵情がわかりにくいので、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを連合艦隊参謀長宇垣纏に取りつけた[50] 。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった[51] 。このことで一航艦は米機動部隊の奇襲を受けて敗北した。宇垣は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している[52]

この海戦では索敵が薄かったことで敵機動部隊の発見が遅れた。一段索敵と決めた草鹿は「攻撃兵力増やそうとして偵察を軽視した」と語っている[53]

1942年6月5日、一航艦はミッドウェー島基地攻撃隊を出撃させミッドウェー海戦が始まる。攻撃を終えた飛行隊長友永丈市大尉は南雲司令部に対し「第二次攻撃の要あり」と打電した。ミッドウェー攻略部隊のため制圧を間に合わせなければならず、米艦隊はハワイにいるという連合艦隊の敵情判断に従って行動していた南雲[54] は帰還中の偵察機からも報告がないため、山本五十六連合艦隊から米艦隊迎撃のために待機を指示されていた残り半数の攻撃隊を兵装転換して使うことに決定した。草鹿参謀長によれば「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」という[55]

しかし、偵察機が予期せぬ米軍機動部隊発見の報告があり、山口多聞少将(第二航空戦隊司令官)から即時攻撃の意見具申がされた。しかし南雲艦隊上空にミッドウェー島攻撃を終えた第一次攻撃隊100機が帰還し着艦収容を待っていた。そのため南雲は帰還部隊の収容を優先させた。草鹿によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに来て面白いように撃墜され、全く攻擎効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという[56]

一航艦はミッドウェー島基地航空隊の空襲を撃退し、米軍機動部隊から発進したTBD デバステーター雷撃機の攻撃も連続で全て撃退した。しかし、その直後に米軍機動部隊艦載機による急降下爆撃を受けて、主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)が炎上し、残った飛龍も撃沈され、空母4隻を失い敗北した。

南雲司令部の幕僚は南雲以下全員で自決すべきと大石保先任参謀が代表して上申したが、草鹿はそれを却下し、南雲長官に対しても説得しなだめた[57] 。連合艦隊司令部のある大和への敗戦報告には南雲の代わりに草鹿が幕僚を連れて向かった。第一声は「何と申してよいか云うべき言葉なし。申し訳なし」であった。草鹿は連合艦隊長官山本五十六に「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも、ただ復讐の一念に駆られて生還せる次第なれば、如何か復讐できるよう取り計らって戴き度」と嘆願し、山本はそれに「承知した」と答えた。宇垣連合艦隊参謀長は敗戦の報告に「大和」を訪れた草鹿に対し「参謀長に対しては当司令部としても至らざる所あり。相済まずと思量しあり」と謝罪した[58] 。草鹿によれば宇垣は謝る際に敵情がわかっていたようなことを言っていたという[59] 。攻撃隊を半数待機させることに関して草鹿は「自分は着任以来充分の偵察をなしこの一撃と全力を集中することを主義として訓練し又成功したり途中これを変更する気持ちになり得ざりしなり」と答えた[60]

雀部利三郎(航海参謀)はミッドウェー海戦後司令部一同の自決を却下した草鹿を「本当の意味で胆が座っていて、ああいうとき冷静になれる人」と評している[61]

第三艦隊

南雲長官と草鹿参謀長はミッドウェー海戦敗北の責任を取らされることなく、草鹿は新設された空母機動部隊(第三艦隊)で再び南雲長官のもと参謀長として残ったが、他の幕僚は全て下ろされた。草鹿によると、第三艦隊は建制化された点が大きな進歩で、巡洋艦、駆逐艦の増勢もありがたかった、大石保や源田実が司令部から去った点はさびしかったという[62]

1942年(昭和17年)8月、米軍がガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いが始まり、8月23日第三艦隊は現有戦力(「翔鶴」、「瑞鶴」、「龍驤」、戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻)を率いて支援に向かった。24日敵の爆撃があり第二次ソロモン海戦が開始し25日龍驤が魚雷を受けて沈没し、第三艦隊は「エンタープライズ」を大破させたがこれは徹夜の修理で航行し戦線離脱した。また第3艦隊は搭乗員の4割を失った。[63]

連合艦隊参謀長だった宇垣纏が戦艦「大和」から動かなかったため、草鹿が「前線をまわってみろ」と言うと、宇垣は飛行機で前線を視察し9月14日には日本軍の誤爆で危うい目にあった[64] 。戦後草鹿は「彼もいいところがある」と話した[65]

詳細は「南太平洋海戦」を参照

10月26日第三艦隊が敵偵察機から爆撃を受け南太平洋海戦が発生した。第三艦隊は米空母ホーネットを行動不能に追い込み、空母エンタープライズを中破、戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷という戦果をあげた。しかし第三艦隊も米艦載機SBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃で空母「翔鶴」(旗艦)、「瑞鳳」、巡洋艦筑摩が中破する。旗艦「翔鶴」艦長有馬正文は「もっと追撃すべし」との意見具申したが、草鹿は有馬を一喝し受け入れなかった[66]

1942年11月23日横須賀海軍航空隊司令。1943年 12月1日南東方面艦隊参謀長兼第11航空艦隊参謀長。司令長官は従兄の草鹿任一であった。通常避けられる人事であるが、任一の要望で実現した。龍之介はラバウルの戦力補給を中央と交渉していたが、1944年2月トラック被空襲でラバウルの飛行機を全てトラックに移されてしまった[67]

連合艦隊

1944年(昭和19年)4月5日連合艦隊参謀長に着任。連合艦隊司令長官豊田副武大将の指名であった[68] 5月1日海軍中将。[69] 宇垣纏(第一戦隊司令官)によれば草鹿の作戦指導は「腰が弱い」という[70]

1944年5月あ号作戦準備中にビアクに米軍が上陸すると、連合艦隊司令部は作戦命令方針に背き独断で決戦兵力をビアクに投入した。軍令部は現場の意向に従い5月29日渾作戦が開始する。しかし11日マリアナに米機動部隊が来攻し、13日連合艦隊司令部はあ号作戦用意発令を強行し、混乱で戦力を消耗したまま19日マリアナ沖海戦が開始する。空母3隻と航空戦力の大半を失って敗北する。連合艦隊では米艦隊がマリアナに来攻した場合の水上部隊の対応も決められていなかった。草鹿参謀長は「サイパンに来たら同地をしっかり確保している間にゆっくり準備を整えて作戦できると考えていた」という[71]

1944年8月16日の特攻兵器震洋による作戦に関する検討会では生還可能性も考えてほしいと意見したが、最終的にそういった措置が取られることはなかった[72] 。1944年10月23日レイテ沖海戦が起こり、同海戦で神風特攻隊が開始して以降、連合艦隊参謀長として携わる。1944年12月23日草鹿は第一連合基地航空隊との打ち合わせ会議で特攻兵器桜花の専門部隊である神雷部隊と比島の戦闘機による合同レイテ攻撃を討議する。[73] 1945年1月25〜30日桜花部隊で組まれた11航空戦隊総合訓練研究会があり2月1日草鹿は11航空戦隊を正規作戦に使用することを希望した。連合艦隊参謀神重徳大佐ももう一度総合訓練の後正規に使いたいと要望したが、その総合訓練はないまま実戦に投入した[74]

沖縄作戦が始まると連合艦隊司令部では神重徳参謀が戦艦による海上特攻を主張した。草鹿はそれをなだめたが神は「大和を特攻的に使用した度」と具申し軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿が鹿屋に出かけている間に神が計画した。淵田美津雄参謀によれば草鹿は不同意であったという。神は参謀長を通さずに豊田長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。神は草鹿に大和へ説得に行くように要請し草鹿は戦艦大和」の第二艦隊司令部を訪れ、伊藤整一司令長官に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と説得すると伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。[75] 伊藤は草鹿が兵学校入校時に配属された分隊の伍長補であり、草鹿自身は「何かにつけて下級生をかばう良き先輩であり、訣別の辞を伝えにいかなくてはならぬ破目になったことは皮肉な巡り合わせ」と述べている[76] 。4月6日、沖縄方面に向う「大和」以下第二艦隊を機上から見送ったことを『この時ほど苦しい思いを味わったことはない』と戦後回想した[77]

1945年4月25日兼海軍総隊参謀長。6月25日軍令部出仕。8月10日海軍総隊司令部附。8月15日終戦。中島親孝(第3艦隊参謀)は、草鹿が断固たる決意を示した場面を見たことがない、ミッドウェー海戦の際は泰然と腰を抜かしていたと言われていた、また草鹿は博識で広島市原子爆弾が投下された際、原子爆弾について知っていたのは連合艦隊司令部では草鹿だけだったというという[78]

終戦後特攻した宇垣纏中将の後任として1945年8月17日第五航空艦隊司令長官となる。終戦に納得しない若手士官たちに「大命に従うのが私の考えであり、それに納得できないものは私を斬れ」と説得した[79] 。その後昭和天皇に拝謁し、天皇が「万民の為に我が身を犠牲にしてもよい」、「みなさん、どうか頼みます」と語った際には号泣したという[79]

1945年8月25日より、総理大臣である東久邇宮稔彦王の命により鹿屋連絡委員長となり、米進駐軍との交渉にあたる[80] 。約1ヶ月後に任を終える[81]

1945年10月13日[82] 予備役編入。戦後は化学肥料の会社の顧問を務めた。

人物

剣術の達人であり、禅にも造詣が深かった草鹿は、実戦でも「手練の一撃を加えれば残心することなく退くべし」という理念を持っていた[83] 亀井宏(作家)は戦後インタビューした79歳の草鹿をなんとなく安心感をもたせてくれる、複雑な性格で、年齢の割りに恐ろしく反射神経が鋭く、観察眼が鋭いと記している[84] 。江草聖子(江草隆繁の妻)は、戦後に会った草鹿について「はじめてお目にかかったわけだが、茫洋として、一見、お坊さんのような感じであった」と述べている。草鹿は江草らがセイロン沖海戦で撃沈した英空母「ハーミーズ」の写真の隅に「心外無刀」と書き加えて聖子に贈っている[85]

一刀正伝無刀流剣術小南易知(無刀流開祖・山岡鉄舟の高弟)から学び、後に香川善治郎(無刀流第2代宗家)と石川龍三(無刀流第3代宗家)からも無刀流を学び、無刀流第4代宗家を継承した。第5代宗家は草鹿の弟子・石田和外(最高裁判所長官全日本剣道連盟 会長)である。

妻は、花房義質の姪で内閣統計局長 花房直三郎の娘・喜代子[86] 草鹿任一海軍中将は、父方の従兄である。

著書

  • 草鹿『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。ISBN 4-87538-039-9 
  • 草鹿『連合艦隊の栄光と終焉』行政通信社、1972年。(『聯合艦隊-草鹿元参謀長の回想』の改訂版)
  • 草鹿『一海軍士官の半生記』光和堂、1973年。ISBN 4-87538-019-4 

年譜

脚注

  1. ^ #提督 草鹿任一1頁
  2. ^ #草鹿半生記76頁
  3. ^ #草鹿半生記73頁
  4. ^ #高木24頁
  5. ^ #草鹿半生記124頁
  6. ^ #草鹿半生記174頁
  7. ^ #草鹿半生記185頁
  8. ^ #草鹿半生記192-193頁
  9. ^ #草鹿半生記194頁
  10. ^ #草鹿半生記197頁、プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房234-236頁
  11. ^ #草鹿半生記198頁
  12. ^ a b #草鹿半生記201頁
  13. ^ #草鹿半生記202頁
  14. ^ #草鹿半生記208頁
  15. ^ #草鹿半生記213頁
  16. ^ #草鹿半生記229頁
  17. ^ #草鹿半生記297頁
  18. ^ #草鹿半生記231頁
  19. ^ #草鹿半生記231頁
  20. ^ #草鹿半生記233頁
  21. ^ #どん亀艦長青春記47頁
  22. ^ #草鹿半生記251頁
  23. ^ #草鹿半生記274-275頁
  24. ^ #草鹿半生記282頁-285頁
  25. ^ #池田海軍120頁
  26. ^ #実松米内134頁-135頁
  27. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫107-108頁
  28. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦110頁
  29. ^ #亀井戦記632頁
  30. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂p29
  31. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂40頁
  32. ^ #戦藻録(九版)17頁
  33. ^ #蝦名 特攻機143頁
  34. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦 345頁
  35. ^ #良い参謀良くない参謀127頁
  36. ^ #亀井戦記13頁
  37. ^ ゴードン・プランゲ『トラトラトラ 太平洋戦争はこうして始まった』並木書房p343
  38. ^ #戦藻録(九版)40-41頁、#良い参謀良くない参謀129頁
  39. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫103頁、秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社34頁
  40. ^ 大浜徹也,小沢郁郎『帝国陸海軍事典』同成社p237
  41. ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 585-586頁
  42. ^ #戦藻録(九版)128頁
  43. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫83頁
  44. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫109-111頁
  45. ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房39頁
  46. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p132
  47. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂p40
  48. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦584頁
  49. ^ #戦藻録(九版)182頁
  50. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦165頁
  51. ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 585-586頁
  52. ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 251頁
  53. ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房234頁
  54. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦251-252頁
  55. ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房9-11頁
  56. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦290頁
  57. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂145-146頁
  58. ^ #戦藻録(九版)147-148頁
  59. ^ 戦史叢書43ミッドウェー537頁
  60. ^ #戦藻録(九版)147頁
  61. ^ #亀井戦記493頁。亀井の取材に。
  62. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂150-151頁
  63. ^ 星亮一『南雲忠一 空母機動部隊を率いた悲劇の提督』PHP文庫p322
  64. ^ #戦藻録(九版)189-190頁
  65. ^ #亀井戦記14頁
  66. ^ #高木257頁-258頁、#草鹿回想176頁
  67. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦p72
  68. ^ #吉田#海軍参謀259頁
  69. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦354ページ
  70. ^ #戦藻録(九版)337頁
  71. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦p354
  72. ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334-342頁
  73. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p12-13
  74. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p15
  75. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p274-275
  76. ^ #草鹿半生記80頁
  77. ^ #良い参謀良くない参謀140頁
  78. ^ #聯合艦隊作戦室95頁
  79. ^ a b 草鹿 1979, p. 385-386.
  80. ^ 草鹿 1979, p. 390.
  81. ^ 草鹿 1979, p. 394.
  82. ^ a b 昭和20年11月6日付 海軍辞令公報 甲 第1973号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072141500 で閲覧可能。
  83. ^ #良い参謀良くない参謀121-122頁,126-127頁
  84. ^ #亀井戦記10頁
  85. ^ #二つの時代60頁
  86. ^ #大衆人事録 東京篇「草鹿龍之介」
  87. ^ 昭和12年10月18日付 海軍辞令公報 号外 第76号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072072400 で閲覧可能。
  88. ^ 昭和20年5月19日付 秘海軍辞令公報 甲 第1804号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072104900 で閲覧可能。
  89. ^ 坂本/福川 2003, p. 554.
  90. ^ 昭和20年11月2日付 海軍辞令公報 甲 第1971号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072141500 で閲覧可能。

参考文献

  • 池田清『海軍と日本』中公新書、2010年。ISBN 4-12-100632-1 
  • 板倉光馬『どん亀艦長青春記 伊号不沈潜水艦長の記録』光人社NF文庫、1995年2月。ISBN 4-7698-2075-5 
  • 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社NF文庫、1993年。ISBN 4-7698-2016-X 
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。 
  • 高知大学名誉教授江草聖子『二つの時代 夫は"艦爆の神様"と言われて』光人社、1983年。ISBN 4-7698-0217-x {{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 蝦名賢造『最後の特攻機 覆面の総指揮官 宇垣纏』中央公論新社、2000年7月。ISBN 4-12-203677-1 
  • 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7 
  • 草鹿提督伝記刊行会編『提督 草鹿任一』光和堂、1981年。 
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 源田實『真珠湾作戦回顧録(1刷)』文春文庫、1998年。ISBN 4-16-731005-8 
  • 児島襄『参謀(上)』文春文庫、1994年。 
  • 坂本正器/福川秀樹『日本海軍編制事典』芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0 
  • 実松譲『新版 米内光政』光人社、1975年。 
  • 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、1971年。 
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』1939年。 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 中澤佑刊行会編『海軍中将 中澤佑』原書房、1979年。 
  • 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社NF文庫、2008年10月。ISBN 4-7698-2175-1  中島は第三艦隊通信参謀として草鹿参謀長を補佐した。
  • 野村實『海戦史に学ぶ』文春文庫、1994年。ISBN 4-16-742802-4 
  • 秦郁彦『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会。 
  • 明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』原書房。 
  • 山本親雄『大本営海軍部』白金書房、1974年。 
  • 吉田俊雄『良い参謀、良くない参謀 8人の海軍サブリーダーを斬る!』光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0786-4 
  • 吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』文春文庫、1995年。ISBN 4-16-736001-2 
  • 吉田俊雄『海軍参謀』文春文庫、1993年。ISBN 4-16-736005-5 

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /