1行目:
1行目:
[[ファイル:Jōmon tunnel02.JPG|thumb|240px|常紋トンネル 生田原方]]
|image= Jōmon tunnel02.JPG
|line = [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[石北本線]]
|location = 常紋峠([[遠軽町]]{{*}}[[北見市]])
⚫
(追記) |coordinates= (追記ここまで){{ウィキ座標2段度分秒|43|50|23.4|N|143|32|43.4|E|type:landmark_region:JP-01|display=(追記) inline, (追記ここまで)title}}
'''常紋トンネル'''(じょうもんトンネル)は、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[石北本線]]にある[[単線]][[非電化]]の鉄道[[トンネル]]である。[[生田原駅]]と[[金華駅]]の間にあり、[[常呂郡]](旧・[[留辺蘂町]]、現・[[北見市]])と[[紋別郡]](旧・[[生田原町]]、現・[[遠軽町]])を結ぶ[[常紋峠]]下を通る。本トンネルの金華駅側には[[常紋信号場]]がある。
'''常紋トンネル'''(じょうもんトンネル)は、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[石北本線]]にある[[単線]][[非電化]]の鉄道[[トンネル]]である。[[生田原駅]]と[[金華駅]]の間にあり、[[常呂郡]](旧・[[留辺蘂町]]、現・[[北見市]])と[[紋別郡]](旧・[[生田原町]]、現・[[遠軽町]])を結ぶ[[常紋峠]]下を通る。本トンネルの金華駅側には[[常紋信号場]]がある。
同じ石北本線の[[石北トンネル]]([[北見峠]])同様、人家の全くないこの区間は同線の難所の一つであり、標高約(削除) 300 (削除ここまで) m、全長507 mのトンネルを掘るのに3年を要し[[1914年]](大正3年)に開通した。同年には[[標準軌]][[複線]]の[[大阪電気軌道]](現・[[近畿日本鉄道]])[[近鉄奈良線|奈良線]]の[[生駒トンネル]](3,388 m)が33か月の工期で完成しており、10年以上前の[[1902年]](明治35年)には既に[[中央本線]]の[[笹子トンネル (中央本線)|笹子トンネル]](4,656 m)が71か月の工期を要しながらも完成している。これらに比べ本トンネルは工期が長く、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかった当時の常紋峠における難工事ぶりが偲ばれる。
同じ石北本線の[[石北トンネル]]([[北見峠]])同様、人家の全くないこの区間は同線の難所の一つであり、標高約(追記) 347 (追記ここまで) m、全長507 mのトンネルを掘るのに3年を要し[[1914年]](大正3年)に開通した。同年には[[標準軌]][[複線]]の[[大阪電気軌道]](現・[[近畿日本鉄道]])[[近鉄奈良線|奈良線]]の[[生駒トンネル]](3,388 m)が33か月の工期で完成しており、10年以上前の[[1902年]](明治35年)には既に[[中央本線]]の[[笹子トンネル (中央本線)|笹子トンネル]](4,656 m)が71か月の工期を要しながらも完成している。これらに比べ本トンネルは工期が長く、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかった当時の常紋峠における難工事ぶりが偲ばれる。
== 建設とタコ部屋労働 ==
== 建設とタコ部屋労働 ==
13行目:
44行目:
[[1980年]](昭和55年)、当時の留辺蘂町(現在は[[日本の市町村の廃置分合|広域合併]]により北見市に編入)によって金華駅西方の高台(金華小学校跡地)に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。
[[1980年]](昭和55年)、当時の留辺蘂町(現在は[[日本の市町村の廃置分合|広域合併]]により北見市に編入)によって金華駅西方の高台(金華小学校跡地)に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。
本トンネルを始めとする北海道の土木事業における労働者については、(削除) [[小池喜孝]] (削除ここまで)『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』(削除) ([[朝日新聞社]]) (削除ここまで)に詳しく記述されている。同書は[[1977年]](昭和52年)に刊行され、[[1991年]](平成3年)に朝日文庫として再刊された(削除) (ISBN 4022606320) (削除ここまで)<ref>小池の著作は[http://www.h2.dion.ne.jp/~cha2/essay/kaitaku/main.htm こちら]のサイトでも閲覧できる。</ref>。
本トンネルを始めとする北海道の土木事業における労働者については、『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』(追記) {{Harv|小池|1977}} (追記ここまで)に詳しく記述されている。同書は[[1977年]](昭和52年)に刊行され、[[1991年]](平成3年)に朝日文庫(追記) {{Harv|小池|1991}} (追記ここまで)として再刊された<ref>小池の著作は[http://www.h2.dion.ne.jp/~cha2/essay/kaitaku/main.htm こちら]のサイトでも閲覧できる。</ref>。
== 蒸気機関車撮影の名所 ==
== 蒸気機関車撮影の名所 ==
急勾配の地に作られた常紋信号場および隣接する本トンネルは、かつては[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]][[重連運転|重連]]撮影・生[[録音]]の名所として[[鉄道ファン]]の間で知られていた(当時、撮影に訪れる鉄道ファンの便宜を図って、付近に定住者のいない常紋信号場で客扱いが行われた([[仮乗降場]]も参照))。
急勾配の地に作られた常紋信号場および隣接する本トンネルは、かつては[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]][[重連運転|重連]]撮影・生[[録音]]の名所として[[鉄道ファン]]の間で知られていた(当時、撮影に訪れる鉄道ファンの便宜を図って、付近に定住者のいない常紋信号場で客扱いが行われた([[仮乗降場]]も参照))。
*{{Cite book |和書 |last=小池 |first=喜孝 |authorlink=小池喜孝 |date=1977-06 |title=常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑 |publisher=[[朝日新聞社]] |ncid=BN01216281 |ref=harv }}
*{{Cite book |和書 |last=佐藤 |first=毅 |authorlink=佐藤毅|date=1977-06 |title=鎖塚・常紋トンネル : 囚人とタコ労働の記録 : 写真集 |publisher=オホーツク民衆史講座 |location=北見 |ncid=BN11679752 |ref=harv}}
*{{Cite book |和書 |last=小池 |first=喜孝 |authorlink=小池喜孝 |date=1982-06 |title=北海道の夜明け 常紋トンネルを掘る |publisher=国土社 |ncid=BA31459553 |isbn=4337056025 |ref=harv }}
*{{Cite book |和書|editor=常紋トンネル工事殉難者追悼碑建設期成会編 |date=1983-01 |title=トンネルの壁のなかから : 常紋トンネル工事殉難者追悼碑完成記念誌 |publisher=常紋トンネル工事殉難者追悼碑建設期成会|location=[[留辺蕊町]] |naid=BN01681623 |ref=harv }}
*{{Cite book |和書 |last=小池 |first=喜孝 |authorlink=小池喜孝 |year=1991 |title=常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑 |publisher=[[朝日新聞社]]|series=朝日文庫 |ncid=BN06028824 |isbn=4022606320 |ref=harv }}
*{{Cite journal |和書|author=久野英策 |date=2008-06 |title=偶然知った信号場 石北線常紋越えの思い出 (特集 SLブーム) -- (私の体験したSLブーム あの日あの時) |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |volume=58 |issue=6 |pages=50-52 |publisher=鉄道図書刊行会 |naid=40015979013 |ref=harv }}
*{{Cite journal|和書 |author=鉄道ジャーナル・編 |date=2014-01 |title=花道を行く 常紋越えのDD51 (特集 北海道の鉄道) |journal=[[鉄道ジャーナル]] |volume=48 |issue=1 |pages=73-77 |publisher=鉄道ジャーナル社 |naid=40019879141 |ref=harv }}
26行目:
68行目:
* [http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=65436400&slidex=1200&slidey=2000 国土地理院地形図 伊吹南西] - トンネル付近の地形図。
* [http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=65436400&slidex=1200&slidey=2000 国土地理院地形図 伊吹南西] - トンネル付近の地形図。
⚫
{{ウィキ座標2段度分秒|43|50|23.4|N|143|32|43.4|E|type:landmark_region:JP-01|display=title}}
{{Rail-stub}}
{{Rail-stub}}
2014年3月26日 (水) 20:30時点における版
常紋トンネル(じょうもんトンネル)は、北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線にある単線 非電化の鉄道トンネルである。生田原駅と金華駅の間にあり、常呂郡(旧・留辺蘂町、現・北見市)と紋別郡(旧・生田原町、現・遠軽町)を結ぶ常紋峠下を通る。本トンネルの金華駅側には常紋信号場がある。
概要
同じ石北本線の石北トンネル(北見峠)同様、人家の全くないこの区間は同線の難所の一つであり、標高約347 m、全長507 mのトンネルを掘るのに3年を要し1914年(大正3年)に開通した。同年には標準軌 複線の大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)奈良線の生駒トンネル(3,388 m)が33か月の工期で完成しており、10年以上前の1902年(明治35年)には既に中央本線の笹子トンネル(4,656 m)が71か月の工期を要しながらも完成している。これらに比べ本トンネルは工期が長く、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかった当時の常紋峠における難工事ぶりが偲ばれる。
建設とタコ部屋労働
本トンネルは凄惨過酷なタコ部屋労働で建設されたことでも有名である。施工当時、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたという。
1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷し、1970年(昭和45年)にその改修工事の際、壁から立ったままの人骨が発見された。また入口付近でも大量の人骨が発見された。人骨の一部には外力による損傷が見られたという。これにより「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」という鉄道員間の噂の一部、「常紋トンネルには人柱が埋まっている」が事実であることが確認された。
1980年(昭和55年)、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって金華駅西方の高台(金華小学校跡地)に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。
本トンネルを始めとする北海道の土木事業における労働者については、『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』(小池 1977)に詳しく記述されている。同書は1977年(昭和52年)に刊行され、1991年(平成3年)に朝日文庫(小池 1991)として再刊された[1] 。
蒸気機関車撮影の名所
急勾配の地に作られた常紋信号場および隣接する本トンネルは、かつてはD51 重連撮影・生録音の名所として鉄道ファンの間で知られていた(当時、撮影に訪れる鉄道ファンの便宜を図って、付近に定住者のいない常紋信号場で客扱いが行われた(仮乗降場も参照))。
参考文献
脚注
外部リンク