「ザ・グレート・カブキ」の版間の差分
2012年3月13日 (火) 10:12時点における版
ザ・グレート・カブキ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ザ・グレート・カブキ カブキ 高千穂明久 タカチホ ヨシノサト デビル・サト ミスター・サトー ミスター・ヒト ヒト・トージョー タイガーマスク |
本名 | 米良明久 |
ニックネーム | 東洋の神秘 |
身長 | 181cm |
体重 | 110kg |
誕生日 | (1948年09月08日) 1948年 9月8日(76歳) |
出身地 | 日本の旗 日本 宮崎県 延岡市 |
所属 | 天龍プロジェクト |
スポーツ歴 | 水泳 |
トレーナー |
上田馬之助 ジャイアント馬場 |
デビュー | 1964年 10月31日 |
引退 | 1998年 9月7日 |
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ザ・グレート・カブキ(The Great Kabuki、本名:米良 明久(めら あきひさ)、1948年 9月8日 - )は、日本のプロレスラー、レフェリー。現在、プロレスラーとしてはセミリタイア状態。
アメリカでも大きな成功を収めたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ、代表的なペイントレスラーの一人。
来歴
ザ・グレート・カブキ以前
生まれは宮崎県だが、中学2年のとき愛知県 知立市に移っている。学生時代は水泳選手として活躍した。
1964年に日本プロレスに入団。同年10月31日、宮城県 石巻市での日本プロレスでの興行において、高千穂 明久のリングネーム(出身地にちなんで豊登が「高千穂」と名付けた)でプロレスラーとしてデビュー。デビュー戦の相手は山本小鉄であった[1] 。
1970年からアメリカ遠征に出る(このときのリングネームはデビル・サト。この「デビル・サト」と名乗るレスラーにおいて、高千穂は2代目である。初代は芳の里)。
1972年、日本プロレス崩壊の危機に際し、帰国。1973年3月8日、ジョニー・バレンタインを破りUNヘビー級王座を獲得するが、翌月の4月に日本プロレスが崩壊し、全日本プロレスへ移籍。同年10月、ヒト・トージョーのリングネームでサムソン・クツワダ(ヒロ・トージョー)と共にオーストラリアに遠征、ヒロ&ヒトの「トージョー・ブラザーズ」を結成してマーク・ルーイン&スパイロス・アリオンからNWAオーストラ=アジアン・タッグ王座を奪取した[2] 。
全日本マットでもクツワダとの「豪州遠征コンビ」で活動し、1976年10月21日にテッド・オーツ&ジェリー・オーツを破りアジアタッグ王座を獲得、翌1977年6月16日にグレート小鹿&大熊元司の極道コンビに敗れるまで戴冠した。同年12月には国際プロレスのマイティ井上をパートナーに『世界オープンタッグ選手権』に出場している。
その後はアメリカ・マットを主戦場とするようになり、ミスター・サトーまたはタカチホのリングネームで南部や中西部などNWAの主要テリトリーを日本人ヒールとして転戦。フロリダではミスター・サイトーとタッグチームを組み、1978年1月24日にペドロ・モラレス&ロッキー・ジョンソンからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームともタイトルを争った[3] 。
ザ・グレート・カブキとして
元々は正統派で堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年、テキサス州 ダラスにおいてアメリカ人のマネージャー、ゲーリー・ハートのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにしたオリエンタル・ギミックのペイントレスラー、ザ・グレート・カブキに変身。1981年1月10日、ザ・スポイラーを相手にデビュー戦を行った[4] 。当初ゲーリー側の思惑ではこのギミックは3ヶ月ほどでよく、次の大物を呼ぶまでのつなぎでしかなかった。[5] 。
なお、カブキと名乗るレスラーはアメリカでは1970年代初頭にも存在していたが、後の活躍によりこのリングネームは高千穂の代名詞となる(初代の「ザ・カブキ」と高千穂は1972年頃、デトロイトでタッグを組んだことがあるという[4] )。また、ペイントレスラーの元祖とされているが、カブキ以前にもペイントを施して試合を行うレスラーはいた。しかし、コンスタントにペイントレスラーとして活動し、流行のきっかけを作ったのはカブキであり、かつてのパートナーであるマサ斎藤はワールドプロレスリング解説時に「僕も昔、顔に塗ってこういうスタイルでファイトしてました。外人には受けるんですよね。カブキ以前にもいたことはいるんですけどね。でもやっぱり彼が元祖ですよ」と語っている。
顔にペイントを施し、着物や能面を着けて登場、ヌンチャクを操り毒霧を吹くという東洋系のヒールキャラクターが受けて、アメリカ各地の団体で活躍。時に連獅子姿の他に鎖カタビラに日本刀を携えた忍者をモチーフにしたコスチュームでも登場し、フォン・エリック・ファミリー、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、リック・フレアー、アンドレ・ザ・ジャイアント、トミー・リッチらのトップスターと対戦した[4] 。
1983年、ジャイアント馬場から帰国命令が出たため、全日本に凱旋帰国。帰国後もカブキのギミックのまま全日本プロレスに登場し、アメリカでの活躍もあって人気を得る。専門誌だけでなく一般誌にもとりあげられ、子供向けの本にまで登場し人気は馬場やジャンボ鶴田に引けを取らなかったものの、リング上の格は2人の後に甘んじ、ギャラの面においてもカブキにとっては決して満足のいく扱いではなかったという。後にムック本のインタビューで、カブキの凱旋帰国シリーズがTV放映権料を除く興行収益で全日本設立以来初の黒字(馬場が欠場していたのにも関わらず)になったり、一般マスコミの取り上げ方やTV出演依頼が殺到したため、馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬を買ってしまったことや、映画『カランバ』のプロモーション(映画CMを真似て、腕にロープを巻き、ジープで引っ張ってどこまで耐えられるか、というイベント)についても、映画配給会社がカブキを名指しして依頼が来たために、出演について直前までもめた事が明かされている。しかしながら、馬場は若手に対して「よくカブキの試合を見ておけ」と言っていたということから技術面においては認めていたようである。[5]
その後、ダラス地区のWCCWと全日本を行き来する形となっていたが、長州力らジャパンプロレスの参戦や、WCCWの新日本プロレスとの提携もあって扱いはさらに悪くなり、一時期は造反してテリー・ゴディとの共闘で外国人サイド扱いを受けるが、ギャラはゴディに比べて格段に低かったと言われる。そして長州らの新日復帰前後に全日正規軍に戻される形となり、天龍同盟との試合で熱い闘いを繰り広げ、再度脚光を浴びる。
1990年 7月30日に全日本を退団。この前日には鶴田と組んで世界タッグ王座を獲得している。
全日本プロレス退団後
全日本退団後は、天龍源一郎らが旗揚げしたSWSに入団。選手兼ブッカーとして活動する。SWS崩壊後はWARに所属するも数多くの団体に登場するようになる。新日本プロレスにも登場するようになり、平成維震軍の一員となった。
1993年5月25日、WAR日本武道館大会においてグレート・ムタとの「親子対決」が実現した。 実況アナウンサーから「地獄絵図」と形容される程の凄惨な試合を展開。結果はムタがレフェリーの海野宏之(現:レッドシューズ海野)にイスで暴行を加えたことによるカブキの反則勝ち。試合には勝ったものの、カブキは試合後腹の底から震えるような声で「ムータ〜〜!!」と叫び「My soooon! I kill you son of a bitch...」とマイクで続けた。
6月15日、新日本プロレス日本武道館大会において「二度目の親子対決」(IWGPヘビー級選手権試合)が実現した。ムタの猛攻に額を割られカブキは大流血となったが、血管が切れてしまい額から文字通りぴゅーっと勢いよく噴き出す血を倒れているムタの体に上からかけるおぞましい技を見せ、客を震え上がらせるとともに息子であるムタに格の違いを見せ付けた。マサ斎藤は「口からは毒霧、額からは血が...」と語った。結果はカブキが海野レフェリー(WAR)に毒霧を吹きかけ、さらに止めに入った田山正雄レフェリー(新日本)にもイスで暴行を加えたことによるカブキの反則負け。試合後カブキは「Hey! my son...look me father!? I'm tough I'm tough!! My son listen to me!! listen to me...next time next time I kill you」とマイクアピールを行い、あまりの過激さから、試合はタイトル戦にもかかわらずテレビ中継が中止となり、ビデオソフト化による放映となった。
1994年には、一度だけWWFに登場。ロイヤルランブルのランブル戦に出場した。
1995年より石川敬士が興した新東京プロレスに参戦し、1996年に発表された『インディー統一機構(ファイティング・フォー・フューチャー、略称『FFF』)』でもエース級選手の一人としての扱いを受けるが、FFFは旗揚げ前に頓挫。
1997年からはIWA・JAPAN所属となる。1998年に現役引退を表明。引退に際してムタの代理人である武藤敬司が「パパと一緒に試合がしたい」とコメントした。そして同年8月8日の新日本プロレス大阪ドーム大会ではカブキとムタの「親子タッグ」が実現。後藤達俊、小原道由組と対戦し、後藤からピンフォール勝ちを収める。試合後、ムタは控室に引き上げる際「I miss daddy...I love kabuki kabuki!!」と声を上げ、さらに「I miss daddy I love you I miss you I love you!!」とムタなりにカブキの引退に際してのコメントを送っている。
また同年7月には、漫画『プロレス・スターウォーズ』の中でしか実現していなかった、カブキ&ケンドー・ナガサキ(オリエンタル・ミステリータッグ)で、後楽園ホールのメインを飾った。
セミリタイア後
1998年に引退した後は、東京都 飯田橋にて居酒屋「串焼き・ちゃんこ かぶき」を経営する傍ら、IWA・JAPANにてレフェリーを務め、折を見て試合にも出場するセミリタイア状態となっており、時折観客として後楽園ホールなどにも足を運んでいる。インディレスラーのコーチとして指導に当たることもあるが「必ず基礎の受身からやる」「アルバイトをしながらプロレスをやっているようではダメになっていく」と語り、プロ意識を持つことの重要性を説いている。[5]
2009年12月6日の大阪プロレス、6人タッグ戦において久々にレスラーとして試合に出場。ミラクルマン、くいしんぼう仮面、タコヤキーダー組と対戦し(パートナーは松山勘十郎、救世忍者乱丸)10分00秒、竹とんぼ式ラリアットからのエビ固めでタコヤキーダーからフォール勝ちを収める。
2011年、折原昌夫がタイの知り合いに、地下格闘場でザ・グレート・カブキの子息[6] でTHE KABUKI (ザ・カブキ)と名乗っている格闘家がいると聞き、カブキ本人は「アメリカ時代の前妻との息子とは20年以上会っていない」と語り、天龍と共にに対面[7] 、後の2011年 8月21日の天龍プロジェクトの大会にて自らセコンドに付きデビューさせた[8] 。
11月10日、限定復帰し初めてでTHE KABUKIとタッグを組んだ[9] 。
獲得タイトル
- 日本プロレス
- UNヘビー級王座 : 1回
- 全日本プロレス
- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
- NWAオーストラ=アジアン・タッグ王座 : 1回(w / ヒロ・トージョー)
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- NWAフロリダ・タッグ王座 : 2回(w / ミスター・サイトー)
- NWA USタッグ王座(フロリダ版) : 2回(w / ミスター・サイトー)
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
- NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座 : 1回(w / リッキー・ロメロ)
- セントラル・ステーツ・レスリング
- NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座 : 2回(w / パク・ソン、キラー・カール・コックス)
- NWAビッグタイム・レスリング / WCCW
- NWA世界タッグ王座(テキサス版) : 1回(w / チャン・チュン)
- NWAアメリカン・ヘビー級王座 : 1回
- NWAテキサス・ブラスナックル王座 : 2回
- WCCW TV王座 : 1回
- ジム・クロケット・プロモーションズ
- NWAミッドアトランティックTV王座 : 1回
- ミッドサウス・レスリング・アソシエーション
- 中南部ルイジアナ・ヘビー級王座 : 1回
- コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
- CWAミッドアメリカ・ヘビー級王座 : 1回
得意技
派手な外見とは裏腹に、試合では決して技を多用せず「間」で勝負するレスラーだったと言える。投げ技、極め技、丸め込み技の類はほとんど使用せず、独創的で限られたプロレスムーブで試合を行う。
- 毒霧
- 元祖であり、カブキが使用したことによって米マットで活躍する日本人怪奇派レスラーの定番技となった。
- カブキの場合、あくまで見せ技としての使用が主要目的であり、試合中に攻撃として用いられることは少なかった。
- セミリタイア状態になってから徐々にその成分や仕掛けのヒントを書籍などで公開し出したが、使用する現役レスラーがいることを理由にその全貌は明らかにされていない。
- トラース・キック
- これもカブキが使用したことによりプロレス界に浸透したものであり、プロレス技としては元祖である。
- 主にコーナーへ振られたさいのカウンターとして用いたが、フィニッシュ・ホールドとしても用いられた。
- アッパー・ブロー
- 右腕を大きく振りかぶり、拳を固めた反対の左手で下から相手の顎ないしは頬を引き打つ独特のアッパー・ブロー。
- カブキが試合を組み立てる上で多用した技であり、主要打撃攻撃の一つ。ヘイトに伝授されている。
- 正拳突き(フィスト・ドロップ)
- セカンドロープ上を綱渡りのように2~3歩移動し、拳を固めた右腕を大きく振りかぶって相手の喉笛や胸元に叩き込む。最も多用されたフィニッシュ・ホールド。
- この仕掛け方はカブキ独自のものであり、コピーしたレスラーは今までで存在しない。
- 竹とんぼ式ラリアット
- 両手を広げて1〜2回転してから左腕で放つラリアット。後年の主なフィニッシュ・ホールドとして用いられている。
- オリエンタルクロー
- ダウンした相手の頸動脈を両腕で締め付ける、いわゆるコブラクローの形や、気管を絞め上げる反則技チョーククロー、もしくは尻餅を付いている相手の背後から肩、肩口の頚動脈を締めるショルダークローなど、形は様々である。
- カブキの使用するクロー攻撃の総称である。
- 各種反則攻撃
- 主にイス、ヌンチャクなどの凶器攻撃やガウジング、噛み付きなどの反則で急所攻撃はあまり行わなかった。
- 毒霧も米マットや全日本プロレス、WARでは反則と見なされ、即試合終了の扱いを受けていた。
- 水芸
- 厳密に言うと技では無いが、流血した際にまるで噴水のように額から血を噴出させる事が自らの意思で出来た(あらかじめ額を掌で叩いて血管を潰しておく、血が出やすいようにするとも)。
- やられ技としての使用のほか、上記したように相手に血をかける攻撃としても用いられた。
- 指折り
- これも技では無いが毒霧を上空に向かって噴き出すさいや、相手に攻撃を受けているさいに指の第一関節部分のみを折り曲げる事でオリエンタルなキャラクター像を作り出していた。
エピソード
プロレスリング・ノアの三沢光晴社長が不動産仲介会社リーヴライフ トゥエンティーワン(通称:ザ・リーヴ)のCMに出演したきっかけは、カブキの紹介によるものである。ノア所属選手のCM出演を切望していたザ・リーヴの佐藤和弘社長が、親交のあったカブキから三沢を紹介され、同年齢で、生まれた月、血液型も同じであったため意気投合した[10] 。
リングネーム
米良が用いたことがあるリングネーム
- 高千穂明久
- タカチホ
- ヨシノサト(アメリカ修行中に使用)
- デビル・サト(アメリカ修行中に使用)
- ミスター・サトー(アメリカ遠征中に使用)
- ミスター・ヒト(アメリカ遠征中に使用)
- ヒト・トージョー(オーストラリア遠征中に使用)
- タイガーマスク(韓国遠征時)
- カブキ
- ザ・グレート・カブキ(アメリカ遠征中の1981年より)
入場テーマ曲
- ヤンキーステーション
- ザ・グレート・カブキ時
- ザ・グレート・カブキ
- SWS時代のザ・グレート・カブキ時
脚注
- ^ 東京スポーツ 2011年4月7日発行 6頁参照
- ^ "NWA Austra-Asian Tag Team Title History". Wrestling-Titles.com. 2011年12月29日閲覧。
- ^ "NWA Florida Tag Team Title History". Wrestling-Titles.com. 2011年12月29日閲覧。
- ^ a b c 『デラックス・プロレス』昭和58年3月号P52「東洋の神秘 "カブキ" に直撃インタビュー」(1983年、ベースボール・マガジン社)
- ^ a b c 『格闘!プロレスクラシック』P79「第3章レスラーインタビューザ・グレート・カブキ」(2000年、イカロス出版)
- ^ 詳細は不明。
- ^ Kanemura & KABUKI vs NOSAWA & Fujita - (Tenryu Pro 08/21/11)
- ^ スポーツナビ 格闘技|ニュース|カブキの息子、天龍プロジェクト所属選手第1号に
- ^ 天龍源一郎プロレス35周年記念興行「Revolution〜WE ALL WANT TO CHANGE THE WORLD〜
- ^ "「三沢さん「ザ・リーヴ」CMで生き続ける". nikkansports.com 2009年6月21日付. 2009年12月18日閲覧。