コンテンツにスキップ
Wikipedia

「剣術」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
345行目: 345行目:
*[http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/540/1/6-255.pdf 幕末関東剣術流派伝播形態の研究2]
*[http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/540/1/6-255.pdf 幕末関東剣術流派伝播形態の研究2]
*[http://www.h6.dion.ne.jp/~bokuden/theme_16.html 身体技術伝承の近代化-旧弘前藩領における近世流派剣術から近・現代剣道への変容について]
*[http://www.h6.dion.ne.jp/~bokuden/theme_16.html 身体技術伝承の近代化-旧弘前藩領における近世流派剣術から近・現代剣道への変容について]
*[http://(削除) island (削除ここまで).(削除) geocities (削除ここまで).(削除) jp (削除ここまで)/(削除) kageryuuaisuikousai/kenpounohajimari.htm (削除ここまで) 剣法の原始]
*[http://(追記) www (追記ここまで).(追記) kageryuu (追記ここまで).(追記) com (追記ここまで)/ 剣法の原始]
*[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/4063 近世・近代における剣術・剣道の変質過程に関する研究-面技の重視と技術の変容-]
*[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/4063 近世・近代における剣術・剣道の変質過程に関する研究-面技の重視と技術の変容-]
*[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/5087 水戸藩における試合剣術に関する一考察-『公覧始末撃剣』の分析を通して-]
*[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/5087 水戸藩における試合剣術に関する一考察-『公覧始末撃剣』の分析を通して-]

2011年5月9日 (月) 23:41時点における版

曖昧さ回避 この項目では、日本剣術について説明しています。西洋の剣術については「西洋剣術」を、中国の剣術については「中国剣」をご覧ください。
剣術
けんじゅつ
現代における木刀での形の演武
現代における木刀での演武
使用武器 日本刀
発生国 日本の旗 日本
発生年 古代-中世?
創始者 多数
流派 多数(#流派)
派生種目 剣道
テンプレートを表示

剣術(けんじゅつ)は、日本刀で相手を殺傷する武術である。

概要

現代日本武道である剣道の母体となった。なお術の名称については中国では、片刃のと両刃(諸刃)のが明確に別の武器であると認識されているが、日本では刀と剣の認識が混ざってしまい曖昧となってしまった。日本では中国から伝来した刀剣が両刃(諸刃)の剣(つるぎ)から片刃の日本刀(かたな)へ完全に移行してしまったためである。「刀術」という名称もあるが、『本朝武藝小傳』など極少数の江戸時代の文献に使用されているが定着はしなかった。なお中国の剣術に対しては中国の剣を参照のこと。

日本の剣術と世界各国の剣術を比較すると、刃長60cm以上の刀を両手で持ち、互いにを用いずに戦うという形式は珍しく、中世ドイツイタリア両手剣による剣術があるくらいである。

戦乱のなかった江戸時代に大きく発展したため、戦場で着用する甲冑は前提とされず、平時の服装での斬り合いを想定しているが多い。実際の戦場での斬り合いは形通りではなく、袈裟(鎖骨頚動脈)に斬り込むことが主流であったともいわれている。また、ジゲン流(自顕流示現流)を習得した薩摩 藩士の戦いぶりにおいて、その斬殺死体のほとんどが袈裟斬りを受けて即死に至っていたともいわれる。

歴史

古代

日本において青銅製の武器の製作が開始されたのは、出土品から見て早くても紀元1世紀以降とされているが、この時代の日本にはまだ文字がなかったため、この時代の剣術については伝わっておらず、その有無・詳細は不明である。

製の剣の使用は軍事的優位の源泉であった。しかし国産の鉄製刀剣が盛んになったのは7世紀以降であって、推古天皇が「太刀ならば句礼(中国の)の真鋤(刀剣の意味)」と詠っているように、古代は大陸からの輸入品が主流であった。刀鍛冶である「鍛冶戸」が朝廷によって各地に置かれたのは8世紀以降である。これ以降、日本国内でも直刀蕨手刀などの多種多様な鉄の剣が作られるようになっていった。

平安時代

平安時代になると、日本国内での製鉄技術は大陸と遜色ないレベルにまで達した。さらに、従来の真っ直ぐな剣から、湾曲して人を斬りやすく、また上での戦いに適した形に進化し、やがて現在まで伝わる日本刀の原型ともいえる刀が登場する。

平安時代中期に武家が台頭すると、刀のが長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わり、現在にいたる。

平時の戦闘において、刀で攻防し、敵を殺傷するための技術(すなわち剣術は)この頃には確立された。

源平時代

平家物語』や『平治物語』に、剣術の技名のような記述が見られる。

鎌倉時代

武士国家の中心勢力としての地位を確立するにいたって、日本は大陸の儒教文化圏からは異なった、武芸と為政者がその習得を行うことに上位の価値を認める文化の形成を開始した。

戦国時代

戦国時代における剣術は、戦場での総合的な戦闘技術である「兵法」の一種であった。

戦場ではは主武器ではなく、鉄砲弓矢などの飛び道具を第一とし、白兵戦においては、をはじめ薙刀長巻野太刀大太刀など、長いリーチを持つ刃物を優先して使用した。多くの戦国大名が巨身の「力士」を雇い入れることに熱心であったのは、彼らでなければ振り回せない長刀を装備した上で、力士隊として編成して身辺警護や特殊兵力に用いるためであった。甲冑を装着した武者同士の太刀による戦闘方法は、当然、巨人がただ刀を振り回せばよいものとは異なり、介者剣術と呼ばれ、深く腰を落とした姿勢から目・首・脇の下・金的・内腿・手首といった、鎧の隙間となっている部位を狙うようなスタイルであった。甲冑武者同士の戦闘は最終的には組み討ちによる決着に至ることが多く、その技法が組討術であり、後の柔術の源流の1つとなった。現代武道柔道合気道は、その柔術より派生したものである。

南北朝時代は、「笑切・袈裟切・雷切・車切・片手打・払切・撫切・下切・立割・梨子切・竹割」等が『太平記』をはじめ諸文献に見えており、縦・横・斜めの基本形に止まっている。南北朝期の鎧兜の重装備では動作も敏捷性を欠くため、技術よりも武器のリーチや体力が重要であった。室町時代から戦国時代にかけて、足軽や雑兵が出現し、重装備から軽装備へと変わっていき、敏捷な動作が可能となった。永禄九年五月吉日 上泉伊勢守信綱柳生宗厳新陰流相伝自筆伝書に「上古の流有り、中古に念流新當流、亦復陰流有り。」と三大流派(兵法三大源流)を記している。しかし、この三流も卒然として成立したのではなく、先行の技法を体験した上に工夫考案されたものであることは言うまでもない(今村嘉雄『図説日本剣豪史』)。

新當流は「関八州古戦録」に依ると「鹿伏兎刑部 少輔より、刺撃の法を伝授された」となっており永禄年中「新當流」から「天真正伝香取神道流」を名乗る[1] [2] 。また陰流の愛洲久忠が誰から兵法を学んだかは明らかではないが、関東ではすでに飯篠家直天真正伝神道流が盛行しており、三河国高橋庄には中条長秀が百年も前に中条流を流布させていた[3] 。古い流儀で体系的に確認出来るのは『武備誌』に掲載された影目録の陰流、また天正年間に外他氏より御子神氏へ出された外他流の目録などが確認されている。鹿島神宮の御祭神武甕槌命武神軍神であると云うのが神道学上の定説であるが、『本朝武芸小伝』で日夏繁高が説く「常陸鹿島の神人の刀術」に就いて[4] [5] 宮本武蔵は『五輪書』の「地の巻」で「兵法の道と云事で常陸の国、鹿島・香取の社人共、明神の伝えとして流流をたてて、国々を巡り、人につたゆる事ちかき頃の儀也。今寛永二〇年(一六四三)一〇月上旬に記す。」と記し、「鹿島香取の社人たちが鹿島の神・香取の神の名を語って全国をわたり伝えているがこれは最近行われ始めたことだ」と述べている。ただし、それをさかのぼること160年前の文明一六年(一四八四)に発行された新当流兵法書が九州に伝わっているというように、武蔵の認識が必ずしも事実という訳ではない[6]

安土桃山時代

国内再統一の後、兵農分離刀狩が行われた。これ以前に、武士でない庶民が平素から帯刀していた習慣があったことは、日本人と剣術との関わりの深さを認識する上で重要である。

戦場ではなく日常での戦いが前提とされた剣術が主流になったのは、この頃からである。

江戸時代

甲冑着用が前提の介者剣術から、平服・平時の偶発的な個人戦を前提とする素肌剣術へと変わった。

また、平和な江戸時代において、など心法に重きを置く流派がでるなど変化していった。

殺人刀と活人剣

「殺人刀」(せつにんとう)と「活人剣」(かつにんけん)とは、元来はの『無門関』・『碧巖録』などの公案での用語である。

上泉信綱1566年(永禄9年)2月に肥後国丸目蔵人佐に与えた印可が「殺人刀・活人剣」とあり、また一刀流の本目録十四に「・殺人刀・活人剣」という名前が見られるように、武術に対して、他の禅の用語と同じく大きな影響をあたえた。

兵法家伝書

江戸時代初期の柳生宗矩が『兵法家伝書』において、次のように禅とは異なる意味で使用した。

「一人の悪に依りて、萬人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして萬人をいかす、是等誠に、人をころす刀は人をいかすつるぎなるべきにや」、「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ亂れたる世には、故なき者多く死する也。亂れたる世を治めむ爲に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人劔ならずや。こゝを以て名付くる所也」

仇なす悪に打ち勝って確実に殺すのが殺人刀であって、その悪を殺したゆえに万人が救われ「活きる」のが活人剣だと言う。兵法、すなわち刀で人を斬る行為にはこの両面がないとならないと諭し、日本の剣術が殺人技法にとどまらず昇華したことを示す。ここで臨済宗沢庵宗彭が柳生宗矩に『不動智神妙録』を与えたことにより、江戸柳生で「剣禅一致」が説かれた結果として「刀法の尾張柳生」に対して「心法の江戸柳生」と言われたことは史実であり、禅の考え方が影響を与えたことは否定できない。

なお現代の新陰流に伝わる、柳生宗厳の書状に「当流に構える太刀を皆殺人刀という。構えのなき所をいずれも皆活人劔という。また構える太刀を殘らず裁断して除け、なき所を用いるので、其の生ずるにより活人劔という」とある。

上記に挙げられている新陰流の刀法および兵法の武術的解釈では、活人剣と殺人剣という言葉に別の意味が存在する。新陰流には「転(まろばし)」と呼ばれる「相手の仕懸に対して転じて勝つ」根義がある。まず構えずに(新陰流ではこれを「無形の位」と呼ぶ)相手に仕掛けさせ、それに応じて「後の先」を取るわけである。ここでの活人という言葉は「相手(すなわち人)が動く」という意味で用いられている。この場合の活人剣とは逆の意味で、自分から構えを取って斬り込むことを殺人剣と呼ぶ。また「転」の根義により「浅く勝つ」こと、主に小手へ小さく鋭く打ち込む斬撃が多用されるため(技法、魔の太刀、くねり打ち、一刀両段、西江水などにも見られるが、最も典型的な技法は「転打ち」である)、結果として相手に致命傷を与えず勝つことも多く、その結果として「活人剣」と呼ばれることもある。

竹刀と防具の発明

古くから多くの流派で独自の袋竹刀(ひきはだ撓)や小手を使用した稽古は行われていた。しかし多くの場合形稽古が中心であり、試合稽古は技が乱れる、理合の習得が出来ない等の理由によりあまり行われていなかった。江戸時代中期から後期にかけて、現在の剣道防具竹刀の原型が直心影流発明され、続いて中西派一刀流でも防具が発明された。

それ以降、防具を着用し竹刀で打ち合う試合稽古が流行し、門弟の数が増えた。逆に尾張藩新陰流岩国藩長州藩片山伯耆流弘前藩當田流などといった形稽古中心で試合稽古を取り入れなかった流派では、門弟の数に著しい増加はなかった。また流祖以来試合を禁じていた流派が、やむなく試合稽古を行うようになった記録も残っている(島津家中における示現流などの例外はある)。

外部リンク

幕末

黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになり、各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術(素肌剣術)が最も実用性を帯びた時代といわれる。

幕府は、幕臣とその子弟を対象とした武芸訓練機関・講武所を設立し、剣術ほか武術を教授した。

北辰一刀流神道無念流鏡新明智流天然理心流心形刀流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛し、講武所も試合を推奨したため、他流試合が盛んになった。

剣客を生んだ主な地域は、剣術道場の多かった関東地方や、倒幕運動に積極的だった薩摩国土佐国がある。全国の流派の総数は、一説には700から800あったと言われている[要出典 ]

新選組など剣客集団が誕生し、一連の闘争や政争に関与し、明治維新に到った。

明治以降

武士階級の廃止、廃刀令による帯刀禁止などの近代化 政策により、剣術は前時代の遺物で不要なものであるという風潮が強まり、衰退した。

直心影流榊原鍵吉は、職を失った士族武芸者を救済するため、「撃剣興行」という剣術見世物を主宰した。庶民の注目と人気を集め、東京以外の地方圏にも及んだが、やがて廃れていった。また、剣術を見世物にすることについての批判も少なくなかった。

1877年(明治10年)、西南戦争が起きた。この戦争で、士族の警察官から編成された抜刀隊が活躍し、官軍の勝利に貢献したため、剣術が見直されることとなった。警視庁警視流が制定され、その後すべての巡査に対して剣術が必修となり、各都道府県警察に剣術家が多く就職した。この傾向はその後も継続し、現代の剣道でも警察官が上位を占めている。

一方、陸軍では、1884年(明治17年)にフランス陸軍より教官を招聘し、フェンシングを訓練した。陸軍に日本式の剣術が復活したのは1894年(明治27年)以降のことであった。また、警察官は下級巡査も含む全階級が帯刀していたのに対し、軍人は将校幹部のみが帯刀し、一般兵は帯刀できなかった。古来から戦場ではよりが主体だったとおり、近代版槍術である銃剣術が重視された。現在の日本軍である自衛隊も、剣道より銃剣道を重視しており、銃剣道人口の大半を自衛官が占めている。

1895年(明治28年)、日本武術を統括する団体「大日本武徳会」が発足した。同会は後に政府外郭団体となり、全国の武術・武道の振興に多大な功績を果たしたが、中央集権的性質が強かったため、流派剣術から剣道への画一化を進める結果ともなった。流派独自の形稽古の継承よりも、大日本武徳会の主催する試合や昇段審査で好成績を挙げることを目的とする剣術家が増え、形稽古はそれまで以上に衰退した。明治末から大正にかけて、大日本武徳会が「武術武道」に、「剣術を剣道」に改称し、旧制中学校体育部活動に剣道を採り入れたため、剣道が広く普及した。

なお、明治から昭和初期頃までの文献では、「剣道」というと日本剣術全般を指していることが多い。また、「武徳会流」という呼ばれ方もされており、剣術の一流派と認識されていたふしもある。稽古においては、現在の一般的な剣道では行われていない足技投げ技、抑え込んでの防具の面の剥ぎ取りなども行われていた。

1945年(昭和20年)、太平洋戦争に敗戦し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により大日本武徳会が解散させられ、武術・武道が禁止された。剣術にとって、明治維新以来の危機であった。剣道は一時的に「撓競技(しないきょうぎ)」と名を変え、フェンシングに似せた用具やルールを採用するなどして、従来の剣道とは無関係のスポーツという名目で命脈を保った。

GHQが撤退した1952年(昭和27年)に全日本剣道連盟が発足し、本来の剣術や剣道が稽古できる環境に戻ったが、形稽古派(剣術)と竹刀試合派(剣道)の二極化が進み、今日に至っている。ただし、一刀流諸派や直心影流など、剣道を併習している者が多い剣術流派も少なからずある。また、中山博道(神道無念流)の流れを汲む一剣会羽賀道場日本剣道協会では、形稽古と竹刀稽古の両方を重視し、戦前のままの足技や投げ技も含む稽古を続けている。

外部リンク

流派

念流系

一刀流系

神道流系

陰流系

東軍流系

二天一流系

林崎居合系

(剣術流派となった流派、もしくは剣術流派とされることがある流派のみ)

その他

剣術に関する漫画

フィクション、架空の剣術流派登場あり。

  • 死がふたりを分かつまで

関連項目

  1. ^ 柳生厳長 剣道八講
  2. ^ 富永堅吾 剣道五百年史 新當流極意剣図巻、飯篠長威入道門葉方波見正秀が永禄十二年にその弟子野堂喜六に与えた唯授一人の伝授書
  3. ^ 今村嘉雄『図説日本剣豪史』による
  4. ^ 神道史大辞典 鹿島信仰 吉川弘文館
  5. ^ 国史大辞典 鹿島信仰 吉川弘文館
  6. ^ だいやまーく「日豊風雲録」を出版-日豊中世歴史研究会 中世の郷土史掘り起こす-延岡・佐伯 夕刊デイリーweb 2010年04月13日

外部リンク

関連書

  • 歴史群像編集部 -『日本の剣術』連綿と受け継がれた武士の心と技、その秘伝を一挙公開! 歴史群像シリーズ 学研 ISBN 4056040141
  • 歴史群像編集部 - 『日本の剣術 (2) 』 歴史群像シリーズ 学研 ISBN 4056042306
  • 牧秀彦、新紀元社編集部編『図説 剣技・剣術』新紀元社 ISBN 4883173410
  • 牧秀彦、新紀元社編集部編『図説 剣技・剣術〈2〉』新紀元社 ISBN 4883173585
  • 牧秀彦、『古武術・剣術がわかる事典』これで歴史ドラマ・小説が楽しくなる! 技術評論社 ISBN 4774122696
  • 田中普門『古流剣術』 愛隆堂 ISBN 4750202150
  • 小島英煕 『素顔の剣豪たち』 日本経済新聞社 ISBN 4532162858
  • 小島英煕 『剣豪伝説』 新潮社 ISBN 4104177016
現代武道・武術 古武道・武術
徒手・組み手術
武器術
伝統・儀式
日本以外
警察・軍隊等
その他

カテゴリ  カテゴリ|ウィクショナリー ウィクショナリー

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /