「塚原卜伝」の版間の差分
2011年2月3日 (木) 01:44時点における版
塚原 卜伝(つかはら ぼくでん、旧漢字では塚原卜傳、延徳元年(1489年) - 元亀2年2月11日(1571年 3月6日))は日本の戦国時代の剣豪、兵法家である。諱は高幹(たかもと)。通称は新右衛門あるいは土佐守、土佐入道とも。号は卜傳、朴伝とも書く。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。
生涯
鹿島神宮の神官、鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の子として常陸国(現在の茨城県)の鹿島に生まれる。幼名は朝孝。時期は不明だが後に塚原安幹の養子となり、名字が塚原となる。同時に諱を高幹とした。塚原氏の本姓は平氏で、大掾氏の一族・鹿島氏の分家である。
実父からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を学び、義父からは天真正伝香取神道流を学んだ。『関八州古戦録』、『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一の太刀」も養父の安幹から伝授されたという(松本政信から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したという説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術にさらに磨きをかけた。『卜伝百首』の後にある加藤信俊(相模守)による序では、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されている。生涯に斬って捨てた剣士の数は、記録に残っているだけでも212人である。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。
弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南したという。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。
そのうちのひとつに「無手勝流」というものがある。琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が塚原卜伝だと知ったその若者が決闘を挑んでくる。卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる若者は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしているのだと思いこみ、ますます調子に乗って卜伝を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、若者と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せると、若者が船を飛び降りるや否や櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた若者が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまうというものである。これは『甲陽軍鑑』にある話だが、どこまでが真実かは判然としない。
また、若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込んだ際、囲炉裏の鍋の蓋を盾にしたとする逸話があるが、宮本武蔵は塚原の死後に生まれており、これは史実ではない。
『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野(現・鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死亡とする。『鹿島史』によれば元亀2年3月11日(1571年3月6日)、83歳で死亡。 法名は宝剣高珍居士。墓は須賀村(現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあるとするが同寺は焼失し、墓のみが現存している。位牌は近くの長吉寺にある。
門下
伝承上弟子とされる人物も含む
塚原卜伝を題材にした作品
- 小説