コンテンツにスキップ
Wikipedia

「北畠具教」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
45行目: 45行目:
*巷間、具教卿生害の時「十〜十二人を切り捨てた剣の達人」と描写しているがこの伝承は何の根拠もない小説家の類の作り話である。「[[勢州軍記]]」に「具教卿生害」に就いて詳しい記述がある。
*巷間、具教卿生害の時「十〜十二人を切り捨てた剣の達人」と描写しているがこの伝承は何の根拠もない小説家の類の作り話である。「[[勢州軍記]]」に「具教卿生害」に就いて詳しい記述がある。
「時は[[天正]]四年丙子冬十一月廿五日朝場所は多芸の御所から直線距離で約20km更に宮川の源流を遡った天害の要所三瀬にあった三瀬御所。打手は軽左京進(藤方刑部小輔の名代)、奥山常陸介、瀧川三郎兵衛尉、長野左京亮、四名いづれも譜代重恩の[[北畠氏]]の重臣であった。奥山常陸介は途中仮病にて心を翻し三名のみとなる。具教近習佐々木四郎左衛門尉三名出仕の由を言上す。国司乳人と若君達と共に出されて出座あって対面す。其の刹那長野左京亮座を立って槍を以て具教を突かんとする。[[国司]]太刀を抜いて槍を受けようとしたが近習の佐々木四郎左衛門尉かねてより逆心を企て具教の太刀の刀を抜きとり鞘と柄を結びつけてあったので太刀を抜く事が出来なかった。」
「時は[[天正]]四年丙子冬十一月廿五日朝場所は多芸の御所から直線距離で約20km更に宮川の源流を遡った天害の要所三瀬にあった三瀬御所。打手は軽左京進(藤方刑部小輔の名代)、奥山常陸介、瀧川三郎兵衛尉、長野左京亮、四名いづれも譜代重恩の[[北畠氏]]の重臣であった。奥山常陸介は途中仮病にて心を翻し三名のみとなる。具教近習佐々木四郎左衛門尉三名出仕の由を言上す。国司乳人と若君達と共に出されて出座あって対面す。其の刹那長野左京亮座を立って槍を以て具教を突かんとする。[[国司]]太刀を抜いて槍を受けようとしたが近習の佐々木四郎左衛門尉かねてより逆心を企て具教の太刀の刀を抜きとり鞘と柄を結びつけてあったので太刀を抜く事が出来なかった。」
以上、刺客は三名であり、十〜十二人を切り捨てたとの伝承は有り得ない。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2010年7月8日 (木) 03:30時点における版

 
北畠具教
時代 戦国時代
生誕 享禄元年(1528年)
死没 天正4年11月25日(1576年 12月15日)
別名 天覚(法号)、不智斎(法号)
戒名 寂光院殿心祖不智大居士
官位 参議、左中将、従五位下侍従従三位権中納言伊勢国司(知行国主)
氏族 村上源氏 中院家流、北畠家
父母 父:北畠晴具、母:細川高国の娘
兄弟 北畠具教木造具政北畠具親
正室:北の方[1] (六角定頼の娘)
北畠具房 長野具藤北畠親成
娘(織田信雄室:雪姫)、娘(不破直光室)
徳松丸、亀松丸
テンプレートを表示

北畠 具教(きたばたけ とものり)は、伊勢 国司である北畠家の第8代当主。

生涯

享禄元年(1528年)、第7代当主・北畠晴具の長男として生まれる。

天文6年(1537年)、従五位下侍従に叙任。以後も天文21年(1552年)に参議・左中将に叙任し、天文23年(1554年)に従三位・権中納言に叙位・任官しているなど、順調に朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。天文22年(1553年)、父の隠居により家督を相続して第8代当主となる。

弘治元年(1555年)、父・晴具の命により伊勢安濃郡を支配していた長野氏と戦い、永禄元年(1558年)に具教の次男・長野具藤を長野氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで勢力を拡大した。永禄6年(1563年)、長男の北畠具房に家督を譲って隠居する。しかし実権は依然として具教が握っていたようである。

永禄11年(1568年)から織田信長が伊勢に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。上洛を目論む信長は、北畠氏がその障害になると考え、永禄12年(1569年)、侵攻を開始した。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が信長に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末、遂に信長に降伏した。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・織田信雄を長男の北畠具房の養嗣子として迎え入れることとなる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄に嫁ぐこととなった。

その後は元亀元年(1570年)5月に出家して天覚[2] 、更に不智斎と号し、三瀬谷(多気郡 大台町)に隠居したが、天正4年(1576年)11月25日、信長と信雄の命を受けた旧臣たちの襲撃を受けて、殺害されてしまった。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が織田信雄の居城・田丸城において殺害され、これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られてしまうこととなる。

人物・逸話

  • 具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護、援助していた。自身も塚原卜伝に剣を学び、奥義である一の太刀を伝授されたと言われる剣豪である。また、具教の元を訪れた上泉信綱からも剣を学んだ。具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたと言われる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺すという凄腕を見せている(刀の刃が腹心により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも)。
  • 信長包囲網が敷かれた際には足利義昭と通じて密かに旧臣を動かすなどして信長に抵抗したといわれる。このため、信長に処断されることとなった。
  • 暗殺された20年後、上三瀬の住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる[3]
  • 巷間、具教卿生害の時「十〜十二人を切り捨てた剣の達人」と描写しているがこの伝承は何の根拠もない小説家の類の作り話である。「勢州軍記」に「具教卿生害」に就いて詳しい記述がある。

「時は天正四年丙子冬十一月廿五日朝場所は多芸の御所から直線距離で約20km更に宮川の源流を遡った天害の要所三瀬にあった三瀬御所。打手は軽左京進(藤方刑部小輔の名代)、奥山常陸介、瀧川三郎兵衛尉、長野左京亮、四名いづれも譜代重恩の北畠氏の重臣であった。奥山常陸介は途中仮病にて心を翻し三名のみとなる。具教近習佐々木四郎左衛門尉三名出仕の由を言上す。国司乳人と若君達と共に出されて出座あって対面す。其の刹那長野左京亮座を立って槍を以て具教を突かんとする。国司太刀を抜いて槍を受けようとしたが近習の佐々木四郎左衛門尉かねてより逆心を企て具教の太刀の刀を抜きとり鞘と柄を結びつけてあったので太刀を抜く事が出来なかった。」 以上、刺客は三名であり、十〜十二人を切り捨てたとの伝承は有り得ない。

脚注

  1. ^ 勢州軍記』に記述。
  2. ^ 『北畠氏の研究』 大西源一著
  3. ^ 大台町公式HP大台町のイベント・スポット


AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /