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[[天正]]元年([[1573年]])に父が没して跡を継いだ信利は、当初[[上杉氏]]に臣従していたが、[[上杉謙信]]の急死後、いち早く[[織田信長]]に誼を通じた。織田軍は飛越を結ぶ交通の要地城生城を拠点として[[斎藤利治]]、[[佐々長穐]]、[[神保長住]]らを送り込み、[[月岡野の戦い]]で上杉軍に大勝した。信利も手柄をあげ、信利の弟[[斎藤信吉]]も[[今泉城 (越中国)|今泉城]]を攻略している。信長は斎藤兄弟の働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は[[織田信長]]よりの[[偏諱]]という。ところが[[本能寺の変]]が勃発すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。実は前年の秋以来上杉氏に通じていたらしい。その後も上杉景勝と結んで[[佐々成政]]に抵抗したが、[[神保氏張]]によって居城を奪われ、義兄[[三木自綱]]を頼って落ち延びた。
[[天正]]元年([[1573年]])に父が没して跡を継いだ信利は、当初[[上杉氏]]に臣従していたが、[[上杉謙信]]の急死後、いち早く[[織田信長]]に誼を通じた。織田軍は飛越を結ぶ交通の要地城生城を拠点として[[斎藤利治]]、[[佐々長穐]]、[[神保長住]]らを送り込み、[[月岡野の戦い]]で上杉軍に大勝した。信利も手柄をあげ、信利の弟[[斎藤信吉]]も[[今泉城 (越中国)|今泉城]]を攻略している。信長は斎藤兄弟の働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は[[織田信長]]よりの[[偏諱]]という。ところが[[本能寺の変]]が勃発すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。実は前年の秋以来上杉氏に通じていたらしい。その後も上杉景勝と結んで[[佐々成政]]に抵抗したが、[[神保氏張]]によって居城を奪われ、義兄[[三木自綱]]を頼って落ち延びた。


その後自綱の仲介によるか、旧敵佐々成政に仕えたらしいが、成政没落後[[徳川家康]]に召し出され、[[下総国]]、[[近江国]]で1500石を給された。慶長15年(1610年)8月4日、[[山城国]][[伏見]]にて没す。享年57。子孫は[[旗本]]として続いている。
その後自綱の仲介によるか、旧敵佐々成政に仕えたらしいが、成政没落後[[徳川家康]]に召し出され、[[下総国]]、[[近江国]]で1500石を給された。慶長15年(1610年)8月4日、[[山城国]][[伏見]]にて没す。享年57。子孫は[[旗本]]として続いてい(追記) る。[[元禄赤穂事件]]において、[[赤穂城]]引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔の一人であ (追記ここまで)る。


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2009年11月21日 (土) 05:16時点における版

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時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文23年(1554年)
死没 慶長15年8月4日(1610年 9月20日)
別名 次郎右衛門尉
諡号 不詳
戒名 日涼
官位 不詳
氏族 斎藤氏
父母 斎藤利基、神保氏
三木良頼
兄弟 信吉、信言
利次、利治、利政、正利
利信、女子(戸田由利妻)

斎藤 信利(さいとう のぶとし、天文23年(1554年) - 慶長10年8月4日(1610年 9月20日))は、戦国時代の武将。通称次郎右衛門尉越中国 城生城(蛇尾城)主。伯耆守利基の子。母は神保氏の娘。妻は三木良頼の娘。

越中斎藤氏は婦負郡楡原保(富山市八尾町細入村)一帯に勢威を張った国人領主で、桃井直常討伐に功があった祖・斎藤左衛門大夫入道常喜が文和年間に将軍足利尊氏より領地を賜ったことに始まるとされる。利仁流を称しているが、平家の武将越中前司盛俊の後裔との説もある。神保氏とは長らく敵対関係にあったが、天文年間に神保長職に攻められ服属した。

天正元年(1573年)に父が没して跡を継いだ信利は、当初上杉氏に臣従していたが、上杉謙信の急死後、いち早く織田信長に誼を通じた。織田軍は飛越を結ぶ交通の要地城生城を拠点として斎藤利治佐々長穐神保長住らを送り込み、月岡野の戦いで上杉軍に大勝した。信利も手柄をあげ、信利の弟斎藤信吉今泉城を攻略している。信長は斎藤兄弟の働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は織田信長よりの偏諱という。ところが本能寺の変が勃発すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。実は前年の秋以来上杉氏に通じていたらしい。その後も上杉景勝と結んで佐々成政に抵抗したが、神保氏張によって居城を奪われ、義兄三木自綱を頼って落ち延びた。

その後自綱の仲介によるか、旧敵佐々成政に仕えたらしいが、成政没落後徳川家康に召し出され、下総国近江国で1500石を給された。慶長15年(1610年)8月4日、山城国 伏見にて没す。享年57。子孫は旗本として続いている。元禄赤穂事件において、赤穂城引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔の一人である。

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