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'''神保 氏張'''('''じんぼう うじはる'''、[[大永]]8年([[1528年]]) - [[文禄]]元年[[8月5日]]([[1592年]][[9月10日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。本姓[[惟宗氏]]。通称宗五郎、安芸守。[[越中国]]守山城主。豊前守[[神保氏重|氏重]]の子。妻は[[織田信長]]の(削除) 妹 (削除ここまで)(後に離縁し、[[稲葉貞通]]室となる)。子に[[神保氏興]]・[[神保氏長|氏長]]。しばしば同族の[[神保長住]]と混同されるが別人である。
'''神保 氏張'''('''じんぼう うじはる'''、[[大永]]8年([[1528年]]) - [[文禄]]元年[[8月5日]]([[1592年]][[9月10日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。本姓[[惟宗氏]]。通称宗五郎、安芸守。[[越中国]]守山城主。豊前守[[神保氏重|氏重]]の子。妻は[[織田信長]]の(追記) 姉 (追記ここまで)(後に離縁し、[[稲葉貞通]]室となる)。子に[[神保氏興]]・[[神保氏長|氏長]]。しばしば同族の[[神保長住]]と混同されるが別人である。


越中[[守護代]][[神保氏]]の庶流。宗家の[[神保長職]]に臣従するが、長職の力が衰えると次第に独立するようになり、[[織田信長]]に接近して誼を通じる。しかし[[上杉謙信]]に攻められて降伏し、[[上杉氏]]に従属するも、謙信の急死後再び織田家に接近し、[[神保長住]](長職の子)、能登の[[長連龍]]らと共に織田家の越中・能登平定に協力した。
越中[[守護代]][[神保氏]]の庶流。宗家の[[神保長職]]に臣従するが、長職の力が衰えると次第に独立するようになり、[[織田信長]]に接近して誼を通じる。しかし[[上杉謙信]]に攻められて降伏し、[[上杉氏]]に従属するも、謙信の急死後再び織田家に接近し、[[神保長住]](長職の子)、能登の[[長連龍]]らと共に織田家の越中・能登平定に協力した。

2009年10月20日 (火) 06:25時点における版

神保 氏張(じんぼう うじはる大永8年(1528年) - 文禄元年8月5日(1592年 9月10日))は、戦国時代の武将。本姓惟宗氏。通称宗五郎、安芸守。越中国守山城主。豊前守氏重の子。妻は織田信長の姉(後に離縁し、稲葉貞通室となる)。子に神保氏興氏長。しばしば同族の神保長住と混同されるが別人である。

越中守護代 神保氏の庶流。宗家の神保長職に臣従するが、長職の力が衰えると次第に独立するようになり、織田信長に接近して誼を通じる。しかし上杉謙信に攻められて降伏し、上杉氏に従属するも、謙信の急死後再び織田家に接近し、神保長住(長職の子)、能登の長連龍らと共に織田家の越中・能登平定に協力した。

佐々成政の越中入封後は成政に臣従して功をあげ、嫡子氏興は成政の娘婿となり一門に準じた。小牧・長久手の戦いが始まると成政は徳川家康織田信雄方につき、秀吉方の前田利家と対立。能登末森城の戦いで敗北する。この時神保父子は前田軍の後詰阻止の任にあったが果たせず敗北の遠因となった。

成政は秀吉に降伏し、越中三郡を没収されるが、九州の役で戦功をあげ、肥後一国を得る。しかし入封間もなく国人一揆が勃発。氏張は隈本城籠城の指揮を執り城を守りきるなど奮戦するが、成政は一揆勃発の責任をとらされて切腹。佐々家は改易となり、氏張は浪人の身となる。天正17年(1589年)に徳川家康に仕え、下総国 香取郡に二千石を与えられた。文禄元年(1592)4月の家康の名護屋城出陣に際して江戸城 留守居役に抜擢されるが、8月5日没。65歳という。

墓所は千葉県 成田市(旧・大栄町)の宝応寺。子孫は旗本として存続した。

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