「F1世界選手権の歴史」の版間の差分
2008年8月16日 (土) 15:31時点における版
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F1世界選手権の歴史では、1950年より開催されているFIA フォーミュラ1世界選手権(FIA Formula One World Championship)の変遷について記述する。
F1誕生
1906年、フランスで初の四輪グランプリである「AFCグランプリ」が開催された。その後、徐々に車輌重量やエンジン排気量の規格(GPフォーミュラ)が整理され、1920年代にはヨーロッパ各地でもグランプリが行われるようになった。1930年代にはナチス・ドイツの威信を担うメルセデス・ベンツとアウトウニオンのモンスターマシンが大活躍したが、第二次世界大戦によりグランプリは中断を余儀なくされた。
終戦後の1946年、国際自動車連盟(FIA)の国際スポーツ委員会(CSI)は戦前のグランプリカーとヴォアチュレット[1] をもとに新たな規格を制定し、エンジン排気量が「自然吸気式4,500cc、過給式1,500cc」のマシンをフォーミュラカーレースの最高峰クラスに位置づけた。はじめはフォーミュラAと呼ばれたがフォーミュラ1(F1)という呼称のほうが定着し、その後正式名称となった。
グランプリが再開されるとイタリアのアルファ・ロメオが無敵を誇り、次いで新興のスクーデリア・フェラーリが台頭した。フェラーリは戦前にアルファ・ロメオチームの監督だったエンツォ・フェラーリが創設したチームであり、いわば親子関係の対決であった。
1949年には主要なグランプリのうち何戦かを選手権レースに指定し、総合ポイントにより年間王者を決めるというF1世界選手権構想が固まり、翌1950年からの開催が決まった。当初、選手権タイトルはドライバーのみに与えられ、マシンについては遅れて1958年からコンストラクター部門が制定された(当時コンストラクターの勝負はル・マン24時間レースなどのスポーツカーレースの方が重視されていた)。
なお、この世界選手権を「F1グランプリ」と呼ぶ例も多いが、歴史上「F1(レースカテゴリ)」と「グランプリ(各国最高峰のモータースポーツイベント)」と「世界選手権」は必ずしも同義ではなかった。日本グランプリやマカオグランプリなどF1以外で行われたグランプリもあり、イギリスのブランズハッチサーキットで開催されたレース・オブ・チャンピオンズ(1967年 - 1983年)のような非選手権F1レースも盛んに行われていた(イギリスや南アフリカではF1の国内選手権も開催された)。F1レースが「年間17戦前後のグランプリからなる世界選手権」という方式で定着するのは非選手権F1レースが廃止された1984年以降のことである。
1950年代
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
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1950年 | ジュゼッペ・ファリーナ | |
1951年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1952年 | アルベルト・アスカリ | |
1953年 | アルベルト・アスカリ | |
1954年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1955年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1956年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1957年 | ファン・マヌエル・ファンジオ | |
1958年 | マイク・ホーソーン | ヴァンウォール |
1959年 | ジャック・ブラバム | クーパー・クライマックス |
イタリア・ドイツ勢の争いとファンジオ
F1世界選手権は1950年5月13日のイギリスGPで開幕した。1950年代はヨーロッパ各国のGPに加え、世界選手権という名目上アメリカのインディ500もカレンダーに組みこんでいたが、実際は欧米間の交流は疎遠であった。
開幕時の構図はアルファ・ロメオ、フェラーリ、マセラティのイタリア3大ワークス・チームの争いとなった。アルファ・ロメオは「アルファの3F」と呼ばれるベテランドライバー[2] を擁し初年度を全勝で飾ったが、1951年はフェラーリの猛追にあい、資金難のため撤退を強いられた。スーパーチャージャー式エンジンのアルファ・ロメオが去ったのち、F1では1970年代末まで自然吸気式エンジンの時代が続く。
1952年と1953年は参加台数不足の懸念からF2規定での選手権となった。フェラーリが2年間に15戦14勝と圧勝し、エースのアルベルト・アスカリは2連覇を達成した。
1954年にエンジン排気量を「自然吸気式2,500cc、過給式750cc」とする新規定が施行されると戦前の強豪メルセデス・ベンツが復帰し、斬新な技術を投入したマシンで再びGPを席巻した。1955年にかけて12戦9勝を挙げたが、ル・マン24時間レースで大事故を起こした責任から同年末にレース活動を休止した。その後はフェラーリ対マセラティの勝負となるが、イタリア勢はワークス活動の撤退や有力ドライバーの事故死などで徐々に勢いを失った。
この創成期において最も成功を収めたドライバーがファン・マヌエル・ファンジオである。8年間に5度のドライバーズチャンピオンとなり、2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで46年間最多チャンピオン獲得記録者であった。
イギリス勢の台頭
1950年代後半にはイタリアの自動車メーカー系コンストラクターに代わり、イギリスの独立系コンストラクターが躍進した。多くは「バックヤード・ビルダー(裏庭のガレージが作業場のレーシングカー製造者)」と呼ばれる小規模チームであったが、優れたシャーシ設計技術によりF1界の中心勢力となっていく。量販型コベントリー・クライマックスエンジン(元は消火用ポンプのエンジン)の登場もイギリス勢の追い風となった。
1958年にはヴァンウォールが初施行されたコンストラクターズ選手権の初代王者となり、ドライバーズ選手権もフェラーリ所属のマイク・ホーソーンが制した。また、「無冠の帝王」と呼ばれたスターリング・モスはイギリスの国民的ヒーローとなった。
1959年、1960年は独自のミッドシップマシン[3] を熟成したクーパーがトップランナーに躍り出て、ジャック・ブラバムを擁しドライバーズ・コンストラクターズ選手権を連覇した。ミッドシップ革命は他チームにも波及し、アメリカのレース界にも影響を与えた。
1960年代
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
---|---|---|
1960年 | ジャック・ブラバム | クーパー・クライマックス |
1961年 | フィル・ヒル | フェラーリ |
1962年 | グラハム・ヒル | BRM |
1963年 | ジム・クラーク | ロータス・クライマックス |
1964年 | ジョン・サーティース | フェラーリ |
1965年 | ジム・クラーク | ロータス・クライマックス |
1966年 | ジャック・ブラバム | ブラバム・レプコ |
1967年 | デニス・ハルム | ブラバム・レプコ |
1968年 | グラハム・ヒル | ロータス・フォード |
1969年 | ジャッキー・スチュワート | マトラ・フォード |
ロータスとクラークの栄光
1961年にエンジン排気量を「自然吸気式1,500cc以下(過給式禁止)」とする新規定が施行され、「葉巻型」と呼ばれる軽量マシンによる競争となった。ブラバム(ジャック・ブラバム)やマクラーレン(ブルース・マクラーレン)のようなドライバーがオーナーを兼任するコンストラクターも誕生した。
フェラーリは1961年と1964年にダブルタイトルを制覇したが、本社経営が安定せず成績不振に陥る。代わってコーリン・チャップマン率いるロータスがアルミ製モノコック シャーシなど革新的な技術を生み出し、F1界のトレンドリーダー的存在となった。チャップマンに見出されたジム・クラークは通算25勝と2度のチャンピオンに輝き、1968年に事故死するまで最速ドライバーの名を欲しいままにした。その好敵手となったのがグラハム・ヒル、ジョン・サーティース、ダン・ガーニーらで、ヒルは伝統のモナコGPを5度制覇し「モナコ・マイスター」と讃えられた。
1960年代は北米レース界との交流が盛んで、クラークとヒルは1955年、1956年のインディ500を制覇した。ガーニーはイーグルを設立し欧米レース界で活動。マクラーレンもF1以前に北米のCan-Amシリーズで成功を収めた。
DFVエンジンとウイングの登場
1966年にエンジン排気量規定が「自然吸気式3,000cc、過給式1,500cc」に改められ、初年度と1967年は信頼性の高いレプコエンジンを積んだブラバムがダブルタイトルを連覇した。1967年には安価で高性能な量販型エンジン、フォード・コスワース・DFVエンジンが登場し、以後20年近くにわたり多くのチームに供給され、通算154勝を挙げることになる。
排気量が2倍になったためエンジンパワーの活用法が模索され、ダンロップ、グッドイヤー、ファイアストン三社の「タイヤ戦争」によりワイドトレッドタイヤが登場した。四輪駆動車 [4] の研究も行われたが、最も有効なのは走行中の気流を利用してダウンフォースを発生し、車体を路面方向へ押しつける手法であった。飛行機の翼を上下逆さにした格好のパーツ(ウイング[5] )が登場し、エアロダイナミクス(空力)開発競争の幕が開いた。
また、FIAが広告活動を解禁したことでタバコメーカーなどのスポンサーが参入し、F1界の商業的な拡大が始まった。伝統のナショナルカラーを捨て、F1マシンはカラフルなスポンサーカラーに彩られることになる。
1970年代
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
---|---|---|
1970年 | ヨッヘン・リント | ロータス・フォード |
1971年 | ジャッキー・スチュワート | ティレル・フォード |
1972年 | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス・フォード |
1973年 | ジャッキー・スチュワート | ティレル・フォード |
1974年 | エマーソン・フィッティパルディ | マクラーレン・フォード |
1975年 | ニキ・ラウダ | フェラーリ |
1976年 | ジェームス・ハント | フェラーリ |
1977年 | ニキ・ラウダ | フェラーリ |
1978年 | マリオ・アンドレッティ | ロータス・フォード |
1979年 | ジョディ・シェクター | フェラーリ |
F1サーカス
DFVエンジンとヒューランド製変速機の普及により、新興コンストラクターが「キットカー」と呼ばれるパッケージマシンを製作して続々と参戦した。F1製造者協会[6] (FOCA)会長バーニー・エクレストンの拡大路線により、F1は名実共に世界規模のモータースポーツイベントへ成長する。ドライバーも国際色豊かになり、世界各地を転戦しながら実力伯仲の戦いを繰り広げた。
ティレルはジャッキー・スチュワートを擁し、新興チームとして驚異的な活躍をみせた。スチュワートは3度のワールドチャンピオンに輝いただけでなく、安全面の啓蒙活動にも貢献した。ヨッヘン・リントは事故死後にチャンピオンの栄誉を授かり、若き王者エマーソン・フィッティパルディは後進のブラジル人ドライバーに大きな影響を与えた。マリオ・アンドレッティは欧米を股にかけて活躍し[7] 、ロニー・ピーターソンの豪快なドリフト走法が人気を集めた。
DFVエンジン勢の前に沈黙していた名門フェラーリはニキ・ラウダの抜擢により復活し、1970年代後半に黄金期を迎えた。ラウダは1976年中に瀕死の重傷を負いながら見事にカムバックし、引退・復帰をへて3度のワールドチャンピオンになるなどプロフェッショナルドライバーの規範を示した。
グラウンド・エフェクトカーとターボエンジン
空力デザインの試行錯誤により個性的な外観のマシンが登場した。サイドラジエター、ウェッジシェイプ(楔形)ボディ、スポーツカーノーズ、巨大な吸気ポッドなどが流行し、6輪車 [4] のような奇抜なアイデアもあらわれた。
フェラーリ、アルファ・ロメオ(エンジンメーカーとしてF1復帰)などの12気筒エンジン勢に対し、馬力勝負で劣るDFVエンジン勢は空力研究に活路を求めた。なかでも1977年にロータスが開発したグラウンド・エフェクト・カー [8] は一大発明となった。ベンチュリ効果によって車体底面の気圧を下げ「路面に吸いつくように走る」という画期的なアイデアはたちまち大流行し、その中から弱小ウィリアムズが上位進出のきっかけをつかんだ。また、同様の発想からファン・カー [5] という奇策も登場した。
同年にはルノーがターボエンジンを用いて参戦。トラブルを重ねながらも開発を進め、1980年代のターボエンジン時代の先鞭を付けた。フランス勢はルノー以外にもマトラ、リジェ、ミシュラン(ラジアルタイヤを導入)、エルフ支援のドライバーなど国を挙げてのF1進出が続いた。
1980年代
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
---|---|---|
1980年 | アラン・ジョーンズ | ウィリアムズ・フォード |
1981年 | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ・フォード |
1982年 | ケケ・ロズベルグ | フェラーリ |
1983年 | ネルソン・ピケ | フェラーリ |
1984年 | ニキ・ラウダ | マクラーレン・TAGポルシェ |
1985年 | アラン・プロスト | マクラーレン・TAGポルシェ |
1986年 | アラン・プロスト | ウィリアムズ・ホンダ |
1987年 | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ・ホンダ |
1988年 | アイルトン・セナ | マクラーレン・ホンダ |
1989年 | アラン・プロスト | マクラーレン・ホンダ |
FISA・FOCA戦争
F1がテレビ放映権料収入により巨大ビジネス化するなかで、運営を巡る権力争いが起きた。現場監督者のFOCA会長バーニー・エクレストンと組織統治者の国際自動車スポーツ連盟[9] (FISA)会長ジャン・マリー・バレストルの対立が表面化。コンストラクターもFOCA陣営(DFVエンジン勢)FISA陣営(ターボエンジン勢)とに分かれて一時は選手権分裂が危ぶまれた。両者は1981年のコンコルド協定で和解し、FISAが統轄面、FOCAが商業面を分担する体制を確立した。以後コンコルド協定は「F1界の法典」として機能するが、収入の分配や参戦資格などをめぐり様々な論争を起こしている。
FISA・FOCAの分裂騒動ではウイングカーの危険性が争点のひとつとなった。1982年にジル・ヴィルヌーブをはじめ重大な死傷事故が相次いだことから1983年よりフラットボトム規定[10] が施行され、ウイングカーは姿を消した。
ターボエンジン全盛期
自動車メーカーが相次いでターボエンジンの開発・供給に乗り出すとDFVエンジンの共栄時代は終わり、1000馬力を超える熾烈なパワー競争が繰り広げられた。FISAが厳しいエンジン規制を課すなか、燃費と出力のバランスに優れたターボエンジンが勝利を独占する傾向が強まり、TAGポルシェ、次いでホンダが最強エンジンと呼ばれた。
この2メーカーと組んで一時代を築いたのがロン・デニス率いる新体制マクラーレンであり、1984年から1991年までの8年間に6度ダブルタイトルを制覇した(1984年には16戦12勝、1988年には16戦15勝を記録)。また、ジョン・バーナードの設計で1981年に実用化されたカーボン製モノコックは、車体剛性を高め安全性の面でも顕著な進歩をもたらした。
ターボ時代に「四強ドライバー」と呼ばれたのが3度のワールドチャンピオンを分け合ったネルソン・ピケとアラン・プロスト、遅咲きのナイジェル・マンセル [7] 、驚異の新星アイルトン・セナである。マクラーレンで最強コンビを組んだプロストとセナは2年続けて接触でチャンピオンを決するという遺恨を残し、熾烈なライバル意識がコース内外で注目を集めた。
グループBや耐久レースで重大な事故が続発したため、FISAは1989年から「自然吸気式3,500ccエンジン、過給式エンジン禁止」とルール改訂し、ターボエンジンの時代は幕を閉じる。これを機に新興コンストラクターの参入が相次ぎ、1992年まで予備予選が実施された。
1990年代
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
---|---|---|
1990年 | アイルトン・セナ | マクラーレン・ホンダ |
1991年 | アイルトン・セナ | マクラーレン・ホンダ |
1992年 | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ・ルノー |
1993年 | アラン・プロスト | ウィリアムズ・ルノー |
1994年 | ミハエル・シューマッハ | ウィリアムズ・ルノー |
1995年 | ミハエル・シューマッハ | ベネトン・ルノー |
1996年 | デイモン・ヒル | ウィリアムズ・ルノー |
1997年 | ジャック・ビルヌーブ | ウィリアムズ・ルノー |
1998年 | ミカ・ハッキネン | マクラーレン・メルセデス |
1999年 | ミカ・ハッキネン | フェラーリ |
新時代のハイテクマシン
ターボエンジンの禁止後は総合的なマシン開発が鍵となり、セミオートマチックトランスミッション、アクティブサスペンション、トラクションコントロールシステムなどの電子制御装置が普及した。ダウンフォース発生に効果的なハイノーズが登場し、エイドリアン・ニューウェイ、ロリー・バーンら空力追求派のマシンデザイナーが脚光を浴びた。
ウィリアムズはルノーとのジョイントで5度のコンストラクターズタイトルを獲得し、1990年代を代表するチームとなった。ルノーはホンダから最強エンジンの名を引き継ぎ、ベネトンも含めて6年連続チャンピオンエンジンとなった。一方でハイテク競争による開発費の高騰で撤退するコンストラクターが相次ぎ、ロータス、ブラバム、マーチといった名門でさえ資金難から消滅の道をたどった。
セナの死と世代交代
費用と安全面の懸念から、1994年には電子制御技術が大幅に規制された。しかし、英雄セナの衝撃的な事故死など死傷事故が相次いだことから、さらなるスピード抑制対策が重ねられることになった。1995年にはエンジン排気量が「自然吸気式3,000cc」に縮小され、1998年からスリックタイヤに代わりグルーブドタイヤ(溝付きタイヤ)が導入された。同年には35年間にわたり通算368勝の大記録を残したグッドイヤータイヤが撤退した。
決勝中の燃料再給油が解禁されると、ハイペース走行とピットストップ戦略に長けたミハエル・シューマッハが時代の寵児となった。フランス勢に代わってシューマッハらドイツ勢が台頭し、メルセデス・ベンツエンジンが40年ぶりにF1に復帰した。
1996年、1997年の王者となったデイモン・ヒル、ジャック・ビルヌーブ [7] は往年の名手、グラハム・ヒル、ジル・ヴィルヌーブの息子であり、二世ドライバーの活躍はF1誕生から半世紀の歴史を象徴するものとなった。
ホンダ撤退後に低迷したマクラーレンはメルセデス・ベンツエンジンとブリヂストンタイヤとのジョイントで復活を果たす。ミカ・ハッキネンはF3以来のライバル、シューマッハとの対決を制して1998年、1999年のドライバーズチャンピオンに輝いた。
2000年代
年度 | ドライバーズ | コンストラクターズ |
---|---|---|
2000年 | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2001年 | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2002年 | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2003年 | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2004年 | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2005年 | フェルナンド・アロンソ | ルノー |
2006年 | フェルナンド・アロンソ | ルノー |
2007年 | キミ・ライコネン | フェラーリ |
フェラーリとシューマッハの王朝
1983年以来長くタイトルから遠ざかっていたフェラーリは1999年にコンストラクターズタイトルを獲得すると、 2000年から2004年までシューマッハとともに黄金時代を築いた。シューマッハは最多勝利(91勝)、ポールポジション獲得数(69回)などの歴代個人記録を更新し、2003年にはファンジオの持つワールドチャンピオン5回の大記録を塗りかえ、その数を7回まで伸ばした。
自動車メーカーの代理戦争
自動車業界の再編が進むなか、これまでエンジン供給者の立場にいた自動車メーカーが既存のコンストラクターを買収して参戦し、企業ブランドを賭けて激突する時代に突入した。マシン開発では空力の絶え間ない進化が最重要課題となり、各チームは多額の費用をかけて大型の風洞施設やスーパーコンピュータを導入した。また、ブリヂストンとミシュランのタイヤ戦争も加熱し、レース結果を大きく左右する要素となった。
自動車メーカーはF1の運営体制への不満からGPWC [11] (後にGPMA [12] に改組)を結成し、2008年より独立シリーズを発足する構えをみせた。一方、FIAのマックス・モズレー会長はトップチームで年間500億円超[13] にまで上昇した参戦経費を抑えこむべく、メーカーの反対を押し切りコスト削減策を断行した。2006年にはエンジンが「自然吸気式2,400cc V型8気筒」へ縮小され、2007年にはタイヤもブリヂストンのワンメイクとなった。
また、世界的なタバコ広告禁止運動により長くF1界の主力スポンサーであったタバコメーカーが撤退し、新たに情報通信・金融企業などが参入した。伝統あるオールドサーキットに代わり経済発展著しいアジア地域でのF1開催数が増え、贅沢な施設をもつサーキットが建設されている。
新世代ドライバーの台頭
ポスト・シューマッハ世代のドライバーでは育成機関やGP2で経験を積み、20代前半で活躍する若手選手の存在が目立つ。フェルナンド・アロンソは2003年に最年少優勝(22歳25日)、2005年に最年少チャンピオン(24歳58日)を記録するなど早熟の天才ぶりを発揮した。キミ・ライコネンはシューマッハの後任としてフェラーリ入りした2007年にチャンピオンに輝き、ケケ・ロズベルグ、ハッキネンに続く3人目のフィンランド人王者となった。
F1と日本
ホンダ第一期活動
二輪の国際レースで成功を収めたホンダは四輪レース最高峰のF1への挑戦を決め、1,500ccエンジン時代の1964年シーズン中盤より参戦を開始。1968年に撤退するまでに優勝2回(1955年メキシコGP、1967年イタリアGP)を記録した。ハリウッド映画『グラン・プリ』にもホンダをモデルにした「ヤムラ」チームが登場するなど国際的に認知されたが、日本国内ではスポーツカーレースにおけるトヨタや日産のワークス対決に注目が集まり、フォーミュラカーレースへの関心は相対的に低かった。
富士F1初開催
1974年よりマキがF1に挑戦したが、脆弱な体制のため決勝レース出場は叶わなかった。ドライバーでは高原敬武が1974年の非選手権レースにスポット参戦し「日本人初のF1ドライバー」となった。鮒子田寛は1975年の選手権にマキでスポット参戦したが予選不通過に終わった。
1976年にはF1が日本で初開催され、富士スピードウェイで「F1世界選手権・イン・ジャパン」(1976年の「日本グランプリ」が全日本F2000選手権に冠されていたための名称)が行われた。マキ、コジマら日本勢とブリヂストンタイヤが地元のみスポット参戦。高原のほか星野一義、長谷見昌弘ら国内トップドライバーも挑戦した。
熱烈なスーパーカーブームの影響でF1への関心度も増し、F1を題材とした漫画・アニメーション・プラモデルなどが子供達の人気を得た。1977年は正式に「日本グランプリ」の名で開催され、コジマ、ブリヂストンタイヤ、高原、星野、高橋国光が参戦したが、決勝中に観客11名をまきこむ死傷事故が発生。F1開催は2年のみで終わり、再び空白期に入った。
空前のF1ブーム
1983年、ホンダはエンジンメーカーとしてF1に復帰し、ウィリアムズとマクラーレンとのジョイントで1986年から1991年まで6年間コンストラクターズチャンピオン連覇という最強時代を築いた。1987年には中嶋悟が日本人初のフル参戦F1ドライバーとなり、10年ぶりの日本GPが鈴鹿サーキットで開催された。
バブル景気下でモータースポーツ熱が高まる中、「ホンダ、中嶋悟、アイルトン・セナ」人気により若者世代を中心に空前のF1ブームが巻き起こる。F1関連商品や情報が各種メディアをにぎわし、フジテレビの日本GP中継は20%を超える視聴率を記録した。海外投資熱にわく日本企業が相次いでスポンサーに参入し、マーチ(レイトンハウス)、アロウズ(フットワーク)、ブラバムを買収して日本人オーナーが誕生した。
ホンダに続くエンジンメーカーとして1989年からヤマハ、1990年にスバル(モトーリ・モデルニとの共同開発)、1992年から無限ホンダ(現M-TEC)が参戦。ドライバーも中嶋に続き鈴木亜久里、片山右京がフル参戦し、服部尚貴、鈴木利男、野田英樹がスポット参戦した。鈴木亜久里は1990年の日本GPで3位入賞し、日本人で初めてF1の表彰台に立った。
1994年と1995年にはTIサーキット英田(現岡山国際サーキット)でパシフィックGPが開催され、鈴鹿の日本GPとあわせて選手権の2戦が日本で開催された。
ブームの後退
ホンダは1992年末をもって第二期活動を終了する。バブル崩壊により日系スポンサーの撤退が始まり、1994年にはブームの中核にいたアイルトン・セナが事故死し、社会現象的な人気は終息に向かう。1996年には童夢がF1マシンを発表し、参戦を計画したが実現には至らなかった。ただし、日本GPは決勝日に10万人以上の観客動員を保ち続けており、F1ブーム以降安定したファン層が形成されたという見方ができる。
1990年代後半には井上隆智穂、中野信治、高木虎之助らが参戦したが、下位チームに所属したため目立った成績は残せなかった。一方、全日本F3000選手権経由でF1へステップアップしたエディ・アーバイン、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ラルフ・シューマッハらは優勝を争うトップドライバーに成長した。
無限ホンダエンジンはリジェ、ジョーダンと組んで2001年までに通算3勝を記録した。1997年からタイヤ供給活動を始めたブリヂストンはグッドイヤー、ミシュランと熾烈なタイヤ開発競争を展開。フェラーリの最強時代を支え、2006年にはタイヤメーカーとしてF1通算100勝を突破した。
ホンダとトヨタ
2000年代はチーム・ドライバーとも自動車メーカーが関与し、総合的にF1にとりくむ姿勢が目立つ。F1活動を休止していたホンダは2000年よりエンジン供給を再開。2002年には自動車生産台数世界3位(当時)のトヨタがフルワークス体制を立ち上げ、大型参戦として話題を呼んだ。
2001年にはホンダのSRS-F出身の佐藤琢磨がF1にデビュー。下部カテゴリのF3で国際的な実績を残してステップアップした新世代のドライバーとなり、2004年のアメリカGPでは日本人として14年ぶりの3位表彰台を獲得した。
2006年、ホンダがB・A・Rを買収して38年ぶりにフルワークス参戦を開始し、ハンガリーGPで通算3勝目を記録した。また、ホンダの支援を受けて鈴木亜久里が代表を務めるスーパーアグリが誕生。同チームより井出有治、山本左近がデビューした。
2007年には日本GPの舞台がトヨタ傘下の富士スピードウェイに移ったが、2009年以降は鈴鹿サーキットと交互開催することが決まっている。また、トヨタのTDP出身の中嶋一貴がデビューし、中嶋悟を父にもつ日本初の二世F1ドライバーとなった。
脚注
- ^ フランス語で「小さな車輌」を意味する小型フォーミュラーカー。戦後のフォーミュラ2(F2)のベースになった。
- ^ 初代ドラーバーズチャンピオンのジュゼッペ・ファリーナは当時44歳、ファン・マヌエル・ファンジオは39歳、ルイジ・ファジオーリは1951年イタリアGPで53歳22日という最年長優勝記録を残した。
- ^ 戦前のグランプリでは名車アウトウニオンPワーゲンが知られる。F1初のミッドシップマシンは1956年にブガッティが開発した(地元フランスGPのみ出走)。
- ^ a b 四輪駆動と六輪車は1983年のレギュレーション改正で禁止された。
- ^ a b ウイング、ファンカー(サクションカー)などはアメリカのシャパラルのCan-Amマシンを参考にしたもの。
- ^ F1コンストラクターの互助組織として1973年に設立。テレビ放映権の管理、レース主催者との開催交渉などを行った。のちに機能はFOAやFOMに引き継がれた。
- ^ a b c マリオ・アンドレッティ、ナイジェル・マンセル、ジャック・ヴィルヌーブはフォーミュラカー(オープンホイールカー)の二大選手権、F1とCART両シリーズを制覇した。
- ^ 別名ベンチュリカー。ボディ縦断面が逆ウイング形状という不正確なイメージに基づきウイングカーと呼ばれる場合もある。
- ^ FIAの国際スポーツ委員会(CSI)を拡張して1978年に独立。モータースポーツ界の最高機関として君臨したが、1993年に再びFIAに吸収された。
- ^ フロントタイヤ後端からリアタイヤ前端までの部分の車体底面が平面でなければならないとする技術規定。
- ^ グランプリ・ワールド・チャンピオンシップ(Grand Prix World Championship)。2001年5月に欧州自動車工業会(ACEA)に加盟するフィアット、フォード、ダイムラー・クライスラー、BMW、ルノーが結成。のちにフォードがF1から撤退し、フィアットが離脱した。
- ^ グランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション(Grand Prix Manufacturers Association)。旧GPWCのダイムラー・クライスラー、BMW、ルノーに日本のホンダ、トヨタが合流して2005年1月に結成。のちにルノーとトヨタが離脱した。
- ^ 『F1 マネー&サイエンス』(三栄書房 2007年)より2005年度の推定額。
参考文献
- 『F1全史 1 - 11巻』 ニューズ出版 1992年 - 2006年
- 檜垣 和夫 『影の支配者 ホンダ・トヨタは勝てるのか』 講談社+α新書 2002年 ISBN 4-06-272158-9
- 田中詔一 『F1ビジネス - もう一つの自動車戦争』 角川oneテーマ21 2006年 ISBN 4-04-710045-5