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[[遠江国]]の要衝[[掛川城]]を居城として[[今川義元]]の西方([[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]])への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の[[紀伊]]守・[[朝比奈元智|肥後守元智]]の兄弟などに[[浜名湖]]西岸の[[宇津山城]]を託している。
[[遠江国]]の要衝[[掛川城]]を居城として[[今川義元]]の西方([[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]])への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の[[紀伊]]守・[[朝比奈元智|肥後守元智]]の兄弟などに[[浜名湖]]西岸の[[宇津山城]]を託している。
自身としても、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])の[[小豆坂の戦い]]では、総大将の[[太原雪斎]]を補佐する副将として出陣した(削除) (『[[改正三河後風土記]]』) (削除ここまで)
自身としても、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])の[[小豆坂の戦い]]では、総大将の[[太原雪斎]]を補佐する副将として出陣した。

今川軍の陣備えで、先鋒:松平(徳川)、第2陣:朝比奈、総大将:雪斎和尚、と改正三河後風土記に記述されている。


[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])には、[[岡崎城]]城主・[[松平広忠]]が[[横死]]すると、岡崎城接収の任にも当たっている。
[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])には、[[岡崎城]]城主・[[松平広忠]]が[[横死]]すると、岡崎城接収の任にも当たっている。

2008年8月12日 (火) 20:57時点における版

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時代 戦国時代
生誕 1497年(明応6年)
死没 1557年(弘治3年)
主君 今川氏親氏輝義元
氏族 朝比奈氏
父母 朝比奈泰煕
中御門宣秀の娘
朝比奈泰朝

朝比奈 泰能(あさひな やすよし、明応6年(1497年) - 弘治3年(1557年))は、戦国時代武将。又太郎。弥次郎。備中守。今川氏重臣朝比奈泰煕の子で朝比奈泰朝の父。掛川城主。

永正9年(1512年)、父の逝去により家督を継ぐが、若年のため叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。

泰能は今川氏氏親氏輝義元の3代に渡って仕えた。大永6年(1526年)に制定された今川仮名目録には、三浦二郎左衛門尉氏満と並ぶ重臣として記され、今川氏における外交文書などでは、太原雪斎とともに名を連ねている。 また寿桂尼の兄である中御門宣秀の娘を娶ることで主君今川氏の姻戚となった。

遠江国の要衝掛川城を居城として今川義元の西方(遠江三河)への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の紀伊守・肥後守元智の兄弟などに浜名湖西岸の宇津山城を託している。 自身としても、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。

今川軍の陣備えで、先鋒:松平(徳川)、第2陣:朝比奈、総大将:雪斎和尚、と改正三河後風土記に記述されている。

天文18年(1549年)には、岡崎城城主・松平広忠横死すると、岡崎城接収の任にも当たっている。

弘治3年(1557年)に病死。なお、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い尾張 鷲津砦を攻撃した将の名が「朝比奈泰能」となっている史料もあるが、実際は後を継いだ嫡子朝比奈泰朝のことで、親子を誤ったものと見られている。

別伝

一説に泰能は通称を弥太郎といい、武田信玄による駿府占領まで存命であったという。 泰能は急追する武田軍に突入して主君氏真や城中の女房衆の脱出の時間を稼ぎ、自らは市中で自害したとする。その墓が死没の地とする静岡市の大正寺に残る。 或いは同族の誰かと伝承が混同したものか。

関連項目

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