コンテンツにスキップ
Wikipedia

「斎藤十朗」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
9行目: 9行目:


[[2000年]]に選挙制度改革をめぐり、参議院の特別委員会において委員会への名簿の提出を拒否すると、斎藤は議長権限で野党の委員を選出した。[[10月19日]]、選挙制度改革をめぐる与野党調停に失敗し、責任をとる形で辞任。その後もしばらくの間無所属のままでいたが、[[2001年]][[4月2日]]、自民党に復党。三重県連会長となる。[[2004年]]、政界引退。[[第20回参議院議員通常選挙]]には[[津田健児]]が代わって立候補したが、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の[[芝博一]]に敗れた。3年前の[[第19回参議院議員通常選挙]]でも自民党候補は敗れており、これで自民党は参議院三重県選挙区での議席を失った。
[[2000年]]に選挙制度改革をめぐり、参議院の特別委員会において委員会への名簿の提出を拒否すると、斎藤は議長権限で野党の委員を選出した。[[10月19日]]、選挙制度改革をめぐる与野党調停に失敗し、責任をとる形で辞任。その後もしばらくの間無所属のままでいたが、[[2001年]][[4月2日]]、自民党に復党。三重県連会長となる。[[2004年]]、政界引退。[[第20回参議院議員通常選挙]]には[[津田健児]]が代わって立候補したが、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の[[芝博一]]に敗れた。3年前の[[第19回参議院議員通常選挙]]でも自民党候補は敗れており、これで自民党は参議院三重県選挙区での議席を失った。
==不祥事==
[[政治家の年金未納問題]]が注目された際に年金の未納が発覚している。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2008年8月2日 (土) 07:31時点における版

斎藤 十朗(さいとう じゅうろう1940年 2月5日 - )は、日本政治家(自由民主党 参議院議員)。第21代・第22代参議院議長

厚生大臣警察庁長官を務めた斎藤昇は父。妻は表千家家元千宗左の妹。

人物

三重県 伊賀市(旧伊賀町)出身。慶應義塾大学卒業後、三井銀行を経て、父・昇の死去に伴う1972年の参議院議員補選に父の後を継いで立候補し初当選。連続当選6回。自民党内では田中派竹下派→小渕派→橋本派に所属。第3次中曽根内閣厚生大臣として初入閣。また、自民党国会対策委員長、自民党参院幹事長、自由民主党参議院議員会長などを歴任。「参院のプリンス」と呼ばれる。

1995年、55歳の若さで第21代参議院議長に就任、慣例に従い自由民主党の党籍を離脱。1998年の改選時には異例の議長再任を果たした。この背景には斎藤の仲人をつとめた竹下登元首相の後押しもあった。議長として参議院改革に尽力し、押しボタン式投票を導入した。1999年 8月12日通信傍受法など「組織犯罪対策三法」採決では、野党が牛歩戦術を取った際、斎藤は議長職権で投票時間を制限して、牛歩を封じた。

2000年に選挙制度改革をめぐり、参議院の特別委員会において委員会への名簿の提出を拒否すると、斎藤は議長権限で野党の委員を選出した。10月19日、選挙制度改革をめぐる与野党調停に失敗し、責任をとる形で辞任。その後もしばらくの間無所属のままでいたが、2001年 4月2日、自民党に復党。三重県連会長となる。2004年、政界引退。第20回参議院議員通常選挙には津田健児が代わって立候補したが、民主党芝博一に敗れた。3年前の第19回参議院議員通常選挙でも自民党候補は敗れており、これで自民党は参議院三重県選挙区での議席を失った。

不祥事

政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。

外部リンク


先代
今井勇
厚生大臣
1986 - 1987
次代
藤本孝雄
先代
原文兵衛
自由民主党参議院議員会長
1992 - 1995
次代
遠藤要
先代
原文兵衛
参議院議長
第21・22代: 1995 - 2000
次代
井上裕

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /