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'''岐阜城'''(ぎふじょう)は、[[岐阜県]][[岐阜市]](旧・[[美濃国]]井之口)の[[金華山 (岐阜県)|金華山]](稲葉山)にある[[山城|山城跡]]。織田信長が、(追記) 斉藤龍興から奪取した (追記ここまで)稲葉山城(追記) の縄張りを破却し (追記ここまで)(追記) 、新たに造営し (追記ここまで)たものが(追記) 岐阜 (追記ここまで)(追記) である。信長公記 (追記ここまで)(追記) 、稲葉山、 (追記ここまで)井口山(追記) 、井口 (追記ここまで)(追記) 記載され (追記ここまで)(追記) い (追記ここまで)る。尾張国(追記) 小真木山から、濃州稲葉山へお越し、井口と申すを、今度改めて (追記ここまで)、岐阜(追記) と名付け (追記ここまで)たとい(追記) う。井口山からのつづきが、瑞龍寺山という (追記ここまで)

信長以前の[[斎藤氏]]が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。


==歴史・沿革==
==歴史・沿革==
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*[[大永]]5年([[1525年]])、[[斎藤氏]]の家臣であった[[長井長弘]]と[[長井新左衛門尉]]が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。[[長井氏]]の支配下となる。[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
*[[大永]]5年([[1525年]])、[[斎藤氏]]の家臣であった[[長井長弘]]と[[長井新左衛門尉]]が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。[[長井氏]]の支配下となる。[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
*[[永禄]]7年([[1564年]])、斎藤氏の家臣であった、[[竹中重治|竹中半兵衛重治]]と[[安藤守就]]が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。[[斎藤龍興]]らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。
*[[永禄]]7年([[1564年]])、斎藤氏の家臣であった、[[竹中重治|竹中半兵衛重治]]と[[安藤守就]]が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。[[斎藤龍興]]らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。
*永禄10年([[1567年]])、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が[[豊臣秀吉|木下藤吉郎]]の活躍により稲葉山城を攻略。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。
*永禄10年([[1567年]])、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が[[豊臣秀吉|木下藤吉郎]]の活躍により稲葉山城を攻略(追記) 。斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である (追記ここまで)。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。
*[[天正]]10年([[1582年]])、[[織田信忠]]が、[[本能寺の変]]で倒れると、家臣の[[斎藤利堯]]が岐阜城を乗っ取る。しかし、[[明智光秀]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗れると、降伏。
*[[天正]]10年([[1582年]])、[[織田信忠]]が、[[本能寺の変]]で倒れると、家臣の[[斎藤利堯]]が岐阜城を乗っ取る。しかし、[[明智光秀]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗れると、降伏。
*天正11年([[1583年]])、羽柴秀吉に反発した[[織田信孝]]は、[[柴田勝家]]と呼応し、挙兵。落城する。[[賤ヶ岳の戦い]]で柴田勝家も敗れる。
*天正11年([[1583年]])、羽柴秀吉に反発した[[織田信孝]]は、[[柴田勝家]]と呼応し、挙兵。落城する。[[賤ヶ岳の戦い]]で柴田勝家も敗れる。

2008年7月31日 (木) 13:24時点における版

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岐阜城
(岐阜県)
金華山山頂の岐阜城
金華山山頂の岐阜城
別名 稲葉山城
城郭構造 山城
天守構造 不明・非現存
独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再)
築城主 二階堂行政
築城年 建仁元年(1201年)
主な改修者 織田信長
主な城主 斎藤氏織田氏
廃城年 慶長5年(1600年)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財 なし
再建造物 天守、門
位置 北緯35度26分2.66秒 東経136度46分55.97秒 / 北緯35.4340722度 東経136.7822139度 / 35.4340722; 136.7822139
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岐阜城近影
岐阜城資料館
城から見た岐阜市街

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県 岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。織田信長が、斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。信長公記に、稲葉山、井口山、井口と記載されている。尾張国小真木山から、濃州稲葉山へお越し、井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けたという。井口山からのつづきが、瑞龍寺山という。

信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。

歴史・沿革

鎌倉・室町時代

戦国時代

近現代

  • 明治43年(1910年)5月15日に模擬天守が再建、落成。これは長良橋(初代)の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので木造、亜鉛(トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)であった。
  • 昭和18年(1943年)2月17日早朝に失火のため焼失。なお建築から34年たち老朽化のため建替えの話も出始めていたという。
  • 昭和30年(1955年)6月、再建期成同盟が発足。建設は市民、財界の浄財によるとの原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、約4ヶ月間で1,800万円が集められた。
  • 昭和31年(1956年)7月25日、鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成。天守閣の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工した。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われた。
  • 昭和48年(1973年)、大河ドラマ「国盗り物語」による観光ブームで、地理的展望がすばらしい観光地となり、同年の年間入場者数は43万7,209人を記録した。
  • 昭和50年(1975年)4月、隅櫓(岐阜城資料館)が完成。建設は創業30年を迎えた川島紡績(社長、川島精市)の全額寄付(総額6,000万円)によるもので、彦根城を参考に設計された。
  • 平成9年(1997年)、大改修が行われる。
  • 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(39番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

構造

山城。難攻不落の名城として知られているが、歴史上6回の落城にあっている。山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであった。

織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、永禄12年(1569年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間なのである。

天主・天守

信長時代の岐阜城の麓には4階建ての御殿があり、天主(てんしゅ)といったという[1] 。宮上茂隆の説[2] によると、京都 天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に移築されていたが、享保13年(1728年)の落雷によって焼失している[3]

観光

日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所

  • 岐阜城資料館入口

関連項目

脚注

  1. ^ 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社 2007年
  2. ^ 宮上茂隆作『復元模型 安土城』草思社 1995年
  3. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年

参考文献

  • 中日新聞岐阜総局編著 『岐阜城いまむかし』中日新聞本社,昭和57年,P143-170

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、岐阜城 に関連するメディアがあります。

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