「大石氏」の版間の差分
2008年1月31日 (木) 12:34時点における版
大石氏(おおいしし)は、室町時代、戦国時代に関東地方で活躍した氏族。
藤原姓(信濃藤原氏)の後裔といい、信濃国 佐久郡大石郷に住んでいたことから大石氏を名乗ったといわれる。
概要
その末裔の大石為重は関東管領・上杉憲顕に仕えた。彼には男子がなく、1334年(正慶3年)に、縁戚関係にある木曽義仲の血筋を引くとされる大石信重(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。
その信重は観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。その戦功として、1356年(延文元年)武蔵国 入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、秋多町(現・あきる野市)の二宮に館を構えた。また、「武蔵国目代職」にも任じられた。
1384年(至徳元年)、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城した。応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めた。
1458年(長禄2年)、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から本拠を移した。15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国 守護の家臣に、木曽義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。1521年(大永元年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転した。
後北条氏が関東に進出し、1546年(天文15年)、北条氏康が河越夜戦で大勝する。その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領 山内上杉氏は武蔵国から排除され、越後国の長尾景虎を頼って没落する。主家の没落により、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎えて、自らは戸倉に隠居した。領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏はほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったといえる。
小田原の役により後北条氏が没落すると、大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えた。
系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。
木曾義仲 ┃ 基宗 ?(生母:巴御前?) ┃ 義茂 (宗仲) ┃ (数代略) ┃ 家教 大石為重 (信濃藤原氏?) ┣━━┳━━┳━━┓┌───┘ 家道 家村 家定 信重 ┃┌───┘ ┃ 家頼 (数代略) ┃ ┃ 定重 ┃ 北条氏康 定久 ┃┌───────┘┃ 氏照 定仲 ┃