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その後、藤原信頼を見捨て長男'''義平'''、次男'''朝長'''、三男'''頼朝'''、一族の[[源義隆|陸奥六郎義隆]]、[[平賀義信]]、[[佐渡重成]]、家臣の[[鎌田政清]]、[[斉藤実盛]]、[[渋谷金王丸]]らを伴い、東国で勢力挽回を図るべく[[東海道]]を下る。その途上、たび重なる落武者狩りの襲撃を受け、朝長、義隆、重成は深手を負い亡くなる。また、頼朝ははぐれて捕らえられ、義平は[[北陸道]]を目指して離脱し、京に戻り、潜伏して報復のため平清盛暗殺を試みるが失敗する。
その後、藤原信頼を見捨て長男'''義平'''、次男'''朝長'''、三男'''頼朝'''、一族の[[源義隆|陸奥六郎義隆]]、[[平賀義信]]、[[佐渡重成]]、家臣の[[鎌田政清]]、[[斉藤実盛]]、[[渋谷金王丸]]らを伴い、東国で勢力挽回を図るべく[[東海道]]を下る。その途上、たび重なる落武者狩りの襲撃を受け、朝長、義隆、重成は深手を負い亡くなる。また、頼朝ははぐれて捕らえられ、義平は[[北陸道]]を目指して離脱し、京に戻り、潜伏して報復のため平清盛暗殺を試みるが失敗する。


義朝は[[尾張国]]にたどり着き、宿をとるため家来の[[長田忠致]]のもとに身を寄せるが、恩賞目当てで裏切った長田父子に入浴中に襲撃されてあえない最期を遂げた。[[享年]]38(削除) 歳 (削除ここまで)。後年、[[鎌倉時代]]になり、[[将軍]]の父に狼藉を働き殺害した罪をとがめられ、長田一族は処刑される。
義朝は[[尾張国]]にたどり着き、宿をとるため家来の[[長田忠致]]のもとに身を寄せるが、恩賞目当てで裏切った長田父子に入浴中に襲撃されてあえない最期を遂げた。[[享年]]38。後年、[[鎌倉時代]]になり、[[将軍]]の父に狼藉を働き殺害した罪をとがめられ、長田一族は処刑される。





2005年3月20日 (日) 04:08時点における版


源義朝(みなもとのよしとも 1123年(保安4年) - 1160年 2月11日(永暦元年1月3日))は、平安時代末期の源氏の武将。源為義の長男。父の源為義河内源氏源義家(八幡太郎義家)の子の源義親の五男であり、義親が九州で朝廷に抵抗したため討伐されたため、その後を継いだ。義朝は東国(関東地方)育ちで、義朝の代から河内源氏の基盤が、畿内(関西)から東国(関東)に移る。義平朝長頼朝義門希義範頼全成義円義経らの父。後に贈内大臣。

東国(関東地方)育ちで、東国を根拠地に勢力を伸ばし、三浦義明大庭景義ら有力な土豪を傘下に収める。河内源氏の基盤が畿内(関西)から東国(関東)に本格的に移ったのはこの義朝の代であり、特に鎌倉を中心とする相模国一帯と深い関わりを持った。その後上洛し、鳥羽院藤原忠通にも接近、1153年には下野守に任じられる。その一方で、父為義や弟達とは不仲だったようだ。

1155年、東国に下り勢力を伸ばしていた弟義賢を子の義平に討たせる。この為にもう一人の弟頼賢が復仇のため信濃に下り、頼賢と合戦になりかける。

1156年保元の乱の際に崇徳上皇方の父為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、平清盛と共に後白河天皇方として戦い勝利する。乱後、左馬頭に任じられる。しかし、義朝の戦功に代えての助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟の多くが処刑され、更に論功行賞でも清盛より低い官位に甘んじたことから大いに不満を持った。

その後も後白河院の信任厚い藤原信西からあからさまな冷遇を受けて、同じく信西を憎む藤原信頼に接近する。1159年、義朝は信頼と図って藤原信西・平清盛・重盛父子を滅ぼし政権を奪取しようとして挙兵。平治の乱と呼ばれる大乱となったが、謀略によって二条天皇を奪還した清盛が次第に形勢を有利にし、ついに武運尽きた義朝軍は壊滅する。

その後、藤原信頼を見捨て長男義平、次男朝長、三男頼朝、一族の陸奥六郎義隆平賀義信佐渡重成、家臣の鎌田政清斉藤実盛渋谷金王丸らを伴い、東国で勢力挽回を図るべく東海道を下る。その途上、たび重なる落武者狩りの襲撃を受け、朝長、義隆、重成は深手を負い亡くなる。また、頼朝ははぐれて捕らえられ、義平は北陸道を目指して離脱し、京に戻り、潜伏して報復のため平清盛暗殺を試みるが失敗する。

義朝は尾張国にたどり着き、宿をとるため家来の長田忠致のもとに身を寄せるが、恩賞目当てで裏切った長田父子に入浴中に襲撃されてあえない最期を遂げた。享年38。後年、鎌倉時代になり、将軍の父に狼藉を働き殺害した罪をとがめられ、長田一族は処刑される。


関連人物

詳細は各人物の項に。

  • 源義家 義朝の曽祖父。八幡太郎義家と呼ばれ、河内源氏が武家の棟梁となる基礎を築く。
  • 源義親 義朝の祖父、義家の次男。九州朝廷に抵抗したため討伐された。
  • 源為義 義朝の父。義親の五男。父義親が流罪になったため義家の養子となり河内源氏の棟梁を継ぐ。保元の乱当時は、義朝に家督を譲っていた。
  • 源義賢 義朝の次弟。父の為義と対立的な兄の義朝に対して「為義派」として関東に下り、新たな勢力基盤の形成を画る。そのため義朝の長男義平に討たれる。源義仲(木曽義仲)の父。
  • 源義憲 義朝の三弟。志田三郎義憲。兄義賢とともに関東に下向。常陸国に本拠を置き、義賢とともに義朝の勢力圏を脅かす。
  • 源頼賢 義朝の四弟。兄義朝と為義の決別後、父為義に頼りにされ保元の乱で一戦交える。
  • 源為朝 義朝の八弟。鎮西八郎為朝。数多い義朝の兄弟の中でも一番の豪傑。九州に勢力を持つが保元の乱に呼び戻され義朝・清盛と一戦交える。
  • 源行家 義朝の十弟。初名・義盛。新宮十郎義盛。平治の乱で兄義朝軍に参加。平治の乱の敗戦後は紀州熊野に雌伏。
  • 源義平 義朝の長男。鎌倉源太。平治の乱で活躍。平治の乱の敗戦後も挫けることはなく、単独、京都に潜入し平清盛暗殺のテロリスト的行為を企てる。
  • 源頼朝 義朝の三男。鎌倉幕府を開き武家政治を創始。
  • 源範頼 義朝の六男。
  • 源義経 義朝の九男。源平合戦における華々しい活躍と悲劇的な最期で、古来より民衆に人気が高い。
  • 鎌田政清 義朝の乳兄弟。第一の郎党
  • 鎌田政近 鎌田政清の子で、源義経の郎党となる。

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