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[[永禄]]年間に建立されたといわれているが、城が建立されたはっきりとした年は分かっていない。城を建立した佐々木氏(後の鮭延氏)は、[[出羽国]]に一大勢力を築いた[[大身]]、[[小野寺氏]]に使えていた武将であった。
[[永禄]]年間に建立されたといわれているが、城が建立されたはっきりとした年は分かっていない。城を建立した佐々木氏(後の鮭延氏)は、[[出羽国]]に一大勢力を築いた[[大身]]、[[小野寺氏]]に使えていた武将であった。


[[天文 (元号)|天文]]年間(1532年〜54年)に[[小野寺景道]]の時代に、[[武藤氏]]や[[最上氏]]と領有を争っていた[[最上地方]]全域の領有を図るため、佐々木貞綱(鮭延貞綱)を遣わし、当初は、[[鮭川]]と[[最上川]]が交わる岩花城(現[[戸沢村]])に入ったが、永禄6年(1563年)の庄内合戦の時に、武藤氏との戦いの敗れて岩花城を落とされてしまったため、真室郷まで(削除) 交代 (削除ここまで)し、天然の要害であるこの地に城を築いたとされる。[[鮭川]]を見下ろす山頂に城郭を築き、その周囲に濠や柵を構えた難攻不落の城であり、この築城を機に佐々木氏は地名に倣って鮭延氏と称する。鮭延城は、小野寺氏の南の拠点として、最上北部の領国経営を行うこととなった。
[[天文 (元号)|天文]]年間(1532年〜54年)に[[小野寺景道]]の時代に、[[武藤氏]]や[[最上氏]]と領有を争っていた[[最上地方]]全域の領有を図るため、佐々木貞綱(鮭延貞綱)を遣わし、当初は、[[鮭川]]と[[最上川]]が交わる岩花城(現[[戸沢村]])に入ったが、永禄6年(1563年)の庄内合戦の時に、武藤氏との戦いの敗れて岩花城を落とされてしまったため(追記) 、岩花の北方 (追記ここまで)、真室郷まで(追記) 後退 (追記ここまで)し、天然の要害であるこの地に城を築いたとされる。[[鮭川]]を見下ろす山頂に城郭を築き、その周囲に濠や柵を構えた難攻不落の城であり、この築城を機に佐々木氏は地名に倣って鮭延氏と称する。鮭延城は、小野寺氏の南の拠点として、最上北部の領国経営を行うこととなった。


[[天正]]9年(1581年)、[[最上義光]]によって鮭延城を攻められる。城主であった鮭延貞綱の子[[鮭延秀綱]]は、一度は抵抗したものの最終的に降伏する。しかし、領土を安堵されたため最上義光に恭順、鮭延城は小野寺氏から最上氏の城へと変わり、最上氏の武藤氏・小野寺氏攻略の拠点となる。鮭延秀綱は最上義光に使え続け、[[長谷堂城の戦い]]では目覚しい活躍を見せたため、論功報償により11,500石を与えられた。
[[天正]]9年(1581年)、[[最上義光]]によって鮭延城を攻められる。城主であった鮭延貞綱の子[[鮭延秀綱]]は、一度は抵抗したものの最終的に降伏する。しかし、領土を安堵されたため最上義光に恭順、鮭延城は小野寺氏から最上氏の城へと変わり、最上氏の武藤氏・小野寺氏攻略の拠点となる。鮭延秀綱は最上義光に使え続け、[[長谷堂城の戦い]]では目覚しい活躍を見せたため、論功報償により11,500石を与えられた。

2007年11月13日 (火) 06:04時点における版

鮭延城(さけのべじょう)は、山形県 最上郡 真室川町にあった。形式は山城である。真室城とも言われていた。

歴史

永禄年間に建立されたといわれているが、城が建立されたはっきりとした年は分かっていない。城を建立した佐々木氏(後の鮭延氏)は、出羽国に一大勢力を築いた大身小野寺氏に使えていた武将であった。

天文年間(1532年〜54年)に小野寺景道の時代に、武藤氏最上氏と領有を争っていた最上地方全域の領有を図るため、佐々木貞綱(鮭延貞綱)を遣わし、当初は、鮭川最上川が交わる岩花城(現戸沢村)に入ったが、永禄6年(1563年)の庄内合戦の時に、武藤氏との戦いの敗れて岩花城を落とされてしまったため、岩花の北方、真室郷まで後退し、天然の要害であるこの地に城を築いたとされる。鮭川を見下ろす山頂に城郭を築き、その周囲に濠や柵を構えた難攻不落の城であり、この築城を機に佐々木氏は地名に倣って鮭延氏と称する。鮭延城は、小野寺氏の南の拠点として、最上北部の領国経営を行うこととなった。

天正9年(1581年)、最上義光によって鮭延城を攻められる。城主であった鮭延貞綱の子鮭延秀綱は、一度は抵抗したものの最終的に降伏する。しかし、領土を安堵されたため最上義光に恭順、鮭延城は小野寺氏から最上氏の城へと変わり、最上氏の武藤氏・小野寺氏攻略の拠点となる。鮭延秀綱は最上義光に使え続け、長谷堂城の戦いでは目覚しい活躍を見せたため、論功報償により11,500石を与えられた。

だが、江戸時代に入り、最上氏が家督相続にまつわるお家騒動(最上騒動)が起こると、元和8年(1622年)に最上氏は改易され、近江国大森藩に移された。鮭延秀綱は、佐倉藩主土井利勝の元に預かりとなり、最終的に、土井氏の国替えに従って、古河城下の鮭延寺(茨城県 古河市旧総和町)へと去った。

最上氏の知行地は分割され、最上地方には、常陸松岡藩戸沢政盛が入部し、60,000石を賜る。当初は本城に入ったが、山城であったため狭隘かつ不便で、幕藩体制下の領国経営には適さなかったため、沼田の地にあった小城、沼田城を元に新庄城を築城し、それが完成すると新庄城へと移り、新庄藩を立藩する。これにより、鮭延城は廃城になり、城は破壊されて放置された。

アクセス

奥羽本線および山形県道35号真室川鮭川線に沿っており、鮭川に向かって突き出た山が城跡である。奥羽本線内町踏切を渡るとすぐに登山道があり、そこを上ったところが城跡である。城跡を示す石碑以外の遺構は一切残されていない。なお、麓の内町地区は、もともと鮭延城の城下町であった。

関連項目

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