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'''王 伯当'''(おう はくとう、生年不詳 - [[619年]]((削除) [[ (削除ここまで)武徳(削除) ]])1 (削除ここまで)(削除) 20 (削除ここまで)日)は、[[中国]]の[[隋末唐初]]の人物。[[滎陽郡]]浚儀県(現在の[[河南省]][[開封市]][[蘭考県]])出身<ref name=":0">{{cite wikisource2 | title=『旧唐書』巻67「李勣伝」 | wslink=舊唐書/卷67#徐世勣| wslanguage=zh}}</ref>。[[隋末唐初|隋末]]の群雄[[李密 (隋)|李密]]に仕えた。
'''王 伯当'''(おう はくとう、生年不詳 - [[619年]](追記) 1月20日 (追記ここまで)(武徳(追記) 元年12 (追記ここまで)(追記) 30 (追記ここまで)日)は、[[中国]]の[[隋末唐初]]の人物。[[滎陽郡]]浚儀県(現在の[[河南省]][[開封市]][[蘭考県]])出身<ref name=":0">{{cite wikisource2 | title=『旧唐書』巻67「李勣伝」 | wslink=舊唐書/卷67#徐世勣| wslanguage=zh}}</ref>。[[隋末唐初|隋末]]の群雄[[李密 (隋)|李密]]に仕えた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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同年12月、洛口倉城を夜襲した[[王世充]]を、総管の魯儒とともに打ち破った。隋将の費青奴を斬り、隋兵の多くを戦死・溺死させた<ref>{{cite wikisource2 | title=『資治通鑑』巻184 | wslink=資治通鑑/卷184 | wslanguage=zh}}</ref>。
同年12月、洛口倉城を夜襲した[[王世充]]を、総管の魯儒とともに打ち破った。隋将の費青奴を斬り、隋兵の多くを戦死・溺死させた<ref>{{cite wikisource2 | title=『資治通鑑』巻184 | wslink=資治通鑑/卷184 | wslanguage=zh}}</ref>。


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李密は王伯当のもとへ身を寄せ、敗戦の責任をとって自害しようとしたため、王伯当は彼を抱き留めて号泣した。[[唐]]の[[李淵]]に帰順することが決まると、李密は王伯当の家柄を重んじ、敗残者の自分とは同行しないよう勧めた。王伯当は「昔、[[蕭何]]は子弟を率いて[[劉邦]]に従いました。私は兄弟揃って公に従えなかったことを恥じていたのです。公が今日、利を失ったからといって去就を軽んじることができましょうか。たとえこの身が荒野に散ろうとも本望です」と言い、運命をともにすることを誓った<ref name=":1" />。
李密は王伯当のもとへ身を寄せ、敗戦の責任をとって自害しようとしたため、王伯当は彼を抱き留めて号泣した。[[唐]]の[[李淵]]に帰順することが決まると、李密は王伯当の家柄を重んじ、敗残者の自分とは同行しないよう勧めた。王伯当は「昔、[[蕭何]]は子弟を率いて[[劉邦]]に従いました。私は兄弟揃って公に従えなかったことを恥じていたのです。公が今日、利を失ったからといって去就を軽んじることができましょうか。たとえこの身が荒野に散ろうとも本望です」と言い、運命をともにすることを誓った<ref name=":1" />。

2024年9月22日 (日) 04:32時点における最新版

王 伯当(おう はくとう、生年不詳 - 619年1月20日(武徳元年12月30日)は、中国隋末唐初の人物。滎陽郡浚儀県(現在の河南省 開封市 蘭考県)出身[1] 隋末の群雄李密に仕えた。

生涯

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大業9年(613年)の楊玄感の乱に失敗して雍丘に逃れてきた李密を匿った[1] 。李密が翟譲に身を寄せた際に捕われると、王伯当は李密の献策を翟譲に伝えて釈放させた。李密が用いられることにより、翟譲集団は拡充していくことになる[2] 徐世勣とともに、李密を推戴するよう翟譲に説いた[1]

大業12年(616年)10月、隋将張須陀の討伐軍を李密・翟譲・徐世勣と協力して包囲撃滅し、張須陀を斬った[3] (大海寺の戦い (中国語版))。

大業13年(617年)2月、越王楊侗が派遣した劉長恭・房崱を、李密・単雄信・徐世勣の騎馬隊とともに急激して破った[4] (石子河の戦い (中国語版))。

同年11月、翟譲が粛清され、翟譲の士卒は王伯当・単雄信・徐世勣の所属となる[2]

同年12月、洛口倉城を夜襲した王世充を、総管の魯儒とともに打ち破った。隋将の費青奴を斬り、隋兵の多くを戦死・溺死させた[5]

武徳元年(618年)9月、王世充が洛水の南に陣営を張ると、王伯当は金鏞城 (中国語版)の守りについた。李密は北邙山 (中国語版)で王世充に敗れ、偃師城と洛口倉城を失った(邙山の戦い(618年) (中国語版))。王伯当は金鏞城を放棄し、北上して河陽に移った[2]

李密は王伯当のもとへ身を寄せ、敗戦の責任をとって自害しようとしたため、王伯当は彼を抱き留めて号泣した。李淵に帰順することが決まると、李密は王伯当の家柄を重んじ、敗残者の自分とは同行しないよう勧めた。王伯当は「昔、蕭何は子弟を率いて劉邦に従いました。私は兄弟揃って公に従えなかったことを恥じていたのです。公が今日、利を失ったからといって去就を軽んじることができましょうか。たとえこの身が荒野に散ろうとも本望です」と言い、運命をともにすることを誓った[2]

同年10月、唐に帰順し、左武衛将軍 (中国語版)となった。同年12月、李密が黎陽へ派遣される際に副将として従った。その途上の桃林県で再招集の勅令を受けたが、李密は恐れて謀反を企てた。王伯当は止めたものの李密は聞かなかったため、王伯当は言った。「義士は志を立て、存亡で心を変えることはありません。公から受けた恩義は私の命をもってお返しします。公は私の言葉を聞かないでしょう。ならば今はともに行き、生きるも死ぬも従います。しかし結局は何の成果もないことを恐れているのです」[2]

李密と王伯当は桃林県を占拠して畜産を奪ったのちに脱出し、南山を南東に進んでいたが、彼らを追跡していた唐将の盛彦師 (中国語版)の襲撃にあい、李密ともども殺された。その首は長安に送られた[2]

脚注

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参考文献

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