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'''小少将の君'''(こしょうしょうのきみ、[[生年不詳|982年]]?-[[1018年]]頃?)は、[[平安時代]]の女性。女房・女官。
'''小少将の君'''(こしょうしょうのきみ、[[生年不詳|982年]]?-[[1018年]]頃?)は、[[平安時代]]の女性。女房・女官。


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== 略歴 ==
== 略歴 ==
早世した[[源時通]]が実父で、のちに兄弟の[[源扶義]]の養女となったとされる(削除) <ref>{{Cite web|url= https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran52_4utf.html|title= 女房一覧 平安時代中期(4) |accessdate=2023年09月30日|publisher=}}</ref>{{出典無効|date=2024年08月31日}} (削除ここまで)<ref>安藤重和「大納言の君・小少将の君をめぐって―紫式部日記人物考証―」(『中古文学』 63号、1999年5月)20-28頁</ref>。
早世した[[源時通]]が実父で、のちに兄弟の[[源扶義]]の養女となったとされる<ref>安藤重和「大納言の君・小少将の君をめぐって―紫式部日記人物考証―」(『中古文学』 63号、1999年5月)20-28頁</ref>。


[[中宮彰子]]女房。同じく彰子に仕えていた[[紫式部]]とは親友で、土御門邸の東北の渡殿にあった局の隔てを取り払って共有していたと『[[紫式部日記]]』にある。
[[中宮彰子]]女房。同じく彰子に仕えていた[[紫式部]]とは親友で、土御門邸の東北の渡殿にあった局の隔てを取り払って共有していたと『[[紫式部日記]]』にある。


紫式部は小少将を「もてなし心にくく、心ばへなども、わが心とは思ひとるかたもなきやうに物づつみをし、いと世をはぢらひ、あまり見ぐるしきまでこめい給へり」と評している。また(削除) 、小少将の君は (削除ここまで)、「どことなく上品で優美で、二月頃のしだり柳の様子(削除) といった感じである。 (削除ここまで)姿態はとても可愛らしげで、物腰は奥ゆかしく、気立てなども自分では何も判断しかねるというように遠慮して、とても世間を恥じらい、あまりに見苦しいまでに子供っぽいところがある」とも評している<ref>{{Cite web|url=(削除) https (削除ここまで)://(削除) classicstudies (削除ここまで).(削除) jimdofree (削除ここまで).(削除) com (削除ここまで)/(削除) %E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98 (削除ここまで)/ |title= 紫式部日記(削除) 原文対訳 全文 (削除ここまで) |accessdate=(削除) 2022 (削除ここまで)-09(削除) -30 (削除ここまで)|publisher=}} </ref>。「こめく」「二月頃のしだり柳」は『源氏物語』「若菜」下巻の女楽における[[女三宮]]の形容に重なることは重要である。
紫式部は小少将を「もてなし心にくく、心ばへなども、わが心とは思ひとるかたもなきやうに物づつみをし、いと世をはぢらひ、あまり見ぐるしきまでこめい給へり」と評している。また、「どことなく上品で優美で、二月頃のしだり柳の様子(追記) 」「 (追記ここまで)姿態はとても可愛らしげで、物腰は奥ゆかしく、気立てなども自分では何も判断しかねるというように遠慮して、とても世間を恥じらい、あまりに見苦しいまでに子供っぽいところがある」とも評している<ref>{{Cite web(追記) (追記ここまで)|url=(追記) http (追記ここまで)://(追記) www.sainet (追記ここまで).(追記) or (追記ここまで).(追記) jp (追記ここまで)/(追記) ~eshibuya (追記ここまで)/(追記) modern55.html (追記ここまで) |title=(追記) 渋谷栄一訳 (追記ここまで) 紫式部日記(追記) (黒川本) (追記ここまで) |accessdate=(追記) 2024 (追記ここまで)-09(追記) (追記ここまで)|publisher=}} </ref>。「こめく」「二月頃のしだり柳」は『源氏物語』「若菜」下巻の女楽における[[女三宮]]の形容に重なることは重要である。


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『[[栄花物語|栄華物語]]』巻13「ゆふしで」には、[[寛仁]]元年(1017)7月10日、兄の[[源雅通 (宇多源氏)|源雅通]](推定37歳<ref>{{Cite book|和書 |title=紫式部日記全注釈・上巻 |year=1971|publisher=角川書店 |page=162 |author=萩谷朴}}</ref>)が亡くなり、[[藤原穆子]]([[源雅信]]室、倫子・時通母)が「いみじきもの」と思っていた小少将の君(推定34歳<ref>{{Cite book|和書 |title=紫式部日記全注釈・上巻 |year=1971|publisher=角川書店 |page=162 |last=萩谷朴}}</ref>)を娘の倫子が大切に慈しもうと心に決める記事がある。

2024年9月7日 (土) 23:15時点における版

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2024年9月)

小少将の君(こしょうしょうのきみ、982年?-1018年頃?)は、平安時代の女性。女房・女官。

上東門院小少将。姉に大納言の君・源簾子

略歴

早世した源時通が実父で、のちに兄弟の源扶義の養女となったとされる[1]

中宮彰子女房。同じく彰子に仕えていた紫式部とは親友で、土御門邸の東北の渡殿にあった局の隔てを取り払って共有していたと『紫式部日記』にある。

紫式部は小少将を「もてなし心にくく、心ばへなども、わが心とは思ひとるかたもなきやうに物づつみをし、いと世をはぢらひ、あまり見ぐるしきまでこめい給へり」と評している。また、「どことなく上品で優美で、二月頃のしだり柳の様子」「姿態はとても可愛らしげで、物腰は奥ゆかしく、気立てなども自分では何も判断しかねるというように遠慮して、とても世間を恥じらい、あまりに見苦しいまでに子供っぽいところがある」とも評している[2] 。「こめく」「二月頃のしだり柳」は『源氏物語』「若菜」下巻の女楽における女三宮の形容に重なることは重要である。

栄華物語』巻13「ゆふしで」には、寛仁元年(1017)7月10日、兄の源雅通(推定37歳[3] )が亡くなり、藤原穆子(源雅信室、倫子・時通母)が「いみじきもの」と思っていた小少将の君(推定34歳[4] )を娘の倫子が大切に慈しもうと心に決める記事がある。

この後、『紫式部集』では、亡くなった小少将を加賀の少納言と偲ぶ詠歌があることから、紫式部より若くして亡くなったことが分かる。したがって、寛仁元年以前の紫式部死亡説は否定され、かつ、小少将も兄雅通の死からほどなく亡くなったことになる[5]

参考文献

  • 上原作和「女房一覧」『紫式部伝-平安王朝百年を見つめた生涯』勉誠社、2023年10月
  • 岡一男「紫式部論」『古典の再評価-文芸科学の樹立へ』有精堂、1968年
  • 萩谷朴『紫式部日記全注釈』上巻、角川書店、1971年
  • 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』平凡社新書、2023年11月
  • 服藤早苗・東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち-家族・主・同僚・ライバル』明石書店、2023年12月

脚注

  1. ^ 安藤重和「大納言の君・小少将の君をめぐって―紫式部日記人物考証―」(『中古文学』 63号、1999年5月)20-28頁
  2. ^ "渋谷栄一訳 紫式部日記(黒川本)". 2024年9月閲覧。
  3. ^ 萩谷朴『紫式部日記全注釈・上巻』角川書店、1971年、162頁。 
  4. ^ 萩谷朴『紫式部日記全注釈・上巻』角川書店、1971年、162頁。 
  5. ^ 上原作和『紫式部伝-平安王朝百年を見つめた生涯』勉誠社、2023年、253-263頁。 

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