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|家祖= [[松平信平]]
|家祖= [[松平信平]]
|種別= [[武家]]<br/>[[華族]]([[子爵]])
|種別= [[武家]]<br/>[[華族]]([[子爵]])
|出身地= [[山城国]]
|出身地= [[山城国(追記) ]][[平安京 (追記ここまで)]]
|根拠地= [[上野国]][[多胡郡]]吉井(削除) → (削除ここまで)[[東京府]][[東京市]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田]]
|根拠地= [[上野国]][[多胡郡]]吉井(追記) <br/> (追記ここまで)[[東京府]][[東京市]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田]]
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'''鷹司松平家'''(たかつかさまつだいらけ)は、五[[摂家]][[鷹司家]]の支流で[[武家]]・[[華族]]だった家。本姓は[[藤原氏]]。[[江戸時代]]には[[紀州徳川家|紀伊徳川家]][[御連枝]]一門として[[徳川氏|徳川家]]一門待遇の[[親藩]]・[[定府]]の大名[[上野国]][[吉井藩]]主だった。[[明治維新]]後は'''吉井'''(よしい)に改姓し、[[子爵]]家に列した{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=379}}。
'''鷹司松平家'''(たかつかさまつだいらけ)は、五[[摂家]][[鷹司家]]の支流で[[武家]]・[[華族]]だった家。本姓は[[藤原氏]]。[[江戸時代]]には[[紀州徳川家|紀伊徳川家]][[御連枝]]一門として[[徳川氏|徳川家]]一門待遇の[[親藩]]・[[定府]]の大名[[上野国]][[吉井藩]]主だった。[[明治維新]]後は'''吉井'''(よしい)に改姓し、[[子爵]]家に列した{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=379}}。
== (削除) 概要 (削除ここまで) ==
== (追記) 歴史 (追記ここまで) ==
[[慶安]]3年([[1650年]])、[[松平信平|鷹司信平]]は[[江戸幕府]]3代将軍[[徳川家光]]の[[徳川将軍家御台所|御台所]]であった姉の[[鷹司孝子|孝子]]を頼り、家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光と孝子の間柄は非常に険悪であったが、家光は信平を歓迎して1000俵の[[蔵米|廩米]]と月俸200人扶持を与え、[[旗本寄合席|寄合]]に入れた。その後、[[承応]]2年([[1653年]])に4代将軍[[徳川家綱]]の配慮により、[[紀州藩|和歌山藩]]主[[徳川頼宣]]の次女・松姫を正室に迎える。翌承応3年([[1654年]])には[[従四位]]下・左近衛少将に任じられ、[[紀州徳川家|紀伊徳川家]]の[[御連枝]]一門として[[松平氏|松平姓]]を与えられて松平信平と名乗り、鷹司松平家が創始された。[[延宝]]2年([[1674年]])には[[上野国|上野]]と[[上総国|上総]]両国内において7000石の知行を与えられ、[[旗本寄合席|寄合旗本]]となった。その後、5代将軍[[徳川綱吉|綱吉]]の御台所が鷹司家出身の[[鷹司信子|信子]]だったことから、[[宝永]]6年([[1709年]])に信平の孫・[[松平信清]]は信子の信頼を得て上野国[[多胡郡]]など3000石を加増され、合計1万石で[[矢田藩]]を立藩、[[大名]][[諸侯]]に列した。その後、拠点を吉井に移し、[[吉井藩]]主となる。1万石の極小藩ながら、五摂家庶流の出自で御台所の親類、さらに[[徳川御三家|御三家]]連枝のため、徳川家一門にして[[国主|国主格]]という高い家格を有した。さらに[[江戸城]]内では、御三家、[[加賀藩|加賀]][[前田氏|前田家]]などと同じ[[大廊下]](下之間)の待遇を[[幕末]]まで受けた。歴代の藩主は江戸定府で[[参勤交代]]を免除され、領地である吉井には[[陣屋]]が設けられていた。現在、[[吉井陣屋]]の表門跡が残っている。
[[慶安]]3年([[1650年]])、[[松平信平|鷹司信平]]は[[江戸幕府]]3代将軍[[徳川家光]]の[[徳川将軍家御台所|御台所]]であった姉の[[鷹司孝子|孝子]]を頼り、家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光と孝子の間柄は非常に険悪であったが、家光は信平を歓迎して1000俵の[[蔵米|廩米]]と月俸200人扶持を与え、[[旗本寄合席|寄合]]に入れた。その後、[[承応]]2年([[1653年]])に4代将軍[[徳川家綱]]の配慮により、[[紀州藩|和歌山藩]]主[[徳川頼宣]]の次女・松姫を正室に迎える。翌承応3年([[1654年]])には[[従四位]]下・左近衛少将に任じられ、[[紀州徳川家|紀伊徳川家]]の[[御連枝]]一門として[[松平氏|松平姓]]を与えられて松平信平と名乗り、鷹司松平家が創始された。[[延宝]]2年([[1674年]])には[[上野国|上野]]と[[上総国|上総]]両国内において7000石の知行を与えられ、[[旗本寄合席|寄合旗本]]となった。その後、5代将軍[[徳川綱吉|綱吉]]の御台所が鷹司家出身の[[鷹司信子|信子]]だったことから、[[宝永]]6年([[1709年]])に信平の孫・[[松平信清]]は信子の信頼を得て上野国[[多胡郡]]など3000石を加増され、合計1万石で[[矢田藩]]を立藩、[[大名]][[諸侯]]に列した。その後、拠点を吉井に移し、[[吉井藩]]主となる。1万石の極小藩ながら、五摂家庶流の出自で御台所の親類、さらに[[徳川御三家|御三家]]連枝のため、徳川家一門にして[[国主|国主格]]という高い家格を有した。さらに[[江戸城]]内では、御三家、[[加賀藩|加賀]][[前田氏|前田家]]などと同じ[[大廊下]](下之間)の待遇を[[幕末]]まで受けた。歴代の藩主は江戸定府で[[参勤交代]]を免除され、領地である吉井には[[陣屋]]が設けられていた。現在、[[吉井陣屋]]の表門跡が残っている。
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[[元治]]2年([[1865年]])3月26日には[[米沢藩]]主[[上杉斉憲]]の五男である[[吉井信謹|信謹]](母方は鷹司信房の血筋)が松平(鷹司)信発の隠居にともない家督を相続した。
[[元治]]2年([[1865年]])3月26日には[[米沢藩]]主[[上杉斉憲]]の五男である[[吉井信謹|信謹]](母方は鷹司信房の血筋)が松平(鷹司)信発の隠居にともない家督を相続した。
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(削除) [[明治維新]]後には吉井家は[[華族]]に列した。[[慶応]]4年([[1868年]])1月27日、[[明治政府|新政府]]は松平姓を称していた諸侯に対し、本姓に戻すよう布告した<ref>{{Cite journal|和書|author=井戸田博史|date=1985|editor=国学院大学栃木短期大学史学会|title=平民苗字必称令 : 国民皆姓|journal=法政論叢|volume=21|issue=|pages=40-41|publisher=日本法政学会|naid=110002803974|url=https://doi.org/10.20816/jalps.21.0_39|format=PDF}}</ref>。2月22日、当時の当主信謹は(復姓でなく)吉井に改姓した{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=379}}。 (削除ここまで)吉井信謹は、明治12年([[1879年]])[[8月4日]]、隠居して満3歳になる長男の[[吉井信宝]]に家督を譲った<ref>『平成新修旧華族家系大成』</ref>。信謹はほどなく吉井家を離籍して上杉家に戻り、同年9月2日に上杉家分家(鷹司上杉家)を建てた。上杉信謹は明治41年([[1908年]])[[11月22日]]に56歳で[[卒去]]している<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E8%AC%B9-1110723 デジタル版 日本人名大辞典+Plus]</ref>。
[[王政復古]]後の慶応4年(1868年)1月2日に元将軍[[徳川慶喜]]ら旧幕府勢力が[[鳥羽・伏見の戦い]]を起こしたのを受けて[[日本国政府|新政府]]は1月10日に慶喜追討令を下し、慶喜は朝敵となった。1月27日に政府は本姓がありながら松平姓を受けた大名家に対して「徳川慶喜反逆二付テハ松平之苗字ヲ称シ居候族ハ(略)速二各本姓二復」すことを命じる布告を発した<ref>{{Cite journal|和書|author=井戸田博史|date=1985|editor=国学院大学栃木短期大学史学会|title=平民苗字必称令 : 国民皆姓|journal=法政論叢|volume=21|issue=|pages=40-41|publisher=日本法政学会|naid=110002803974|url=https://doi.org/10.20816/jalps.21.0_39|format=PDF}}</ref>。これを受けて当時の当主松平信謹は2月22日に(鷹司への復姓でなく)吉井に改姓した{{sfn|新田完三|1984|p=891}}{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=379}}。
[[明治]](削除) 17 (削除ここまで)年([[(削除) 1884 (削除ここまで)年]](削除) )7 (削除ここまで)月(削除) 8 (削除ここまで)日(削除) に吉井信宝は (削除ここまで)[[(削除) 子爵 (削除ここまで)]](削除) に叙 (削除ここまで)された{{sfn|小田部雄次|2006|p=(削除) 338 (削除ここまで)}}。(削除) 吉井子爵家の邸宅は (削除ここまで)[[(削除) 東京市]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田 (削除ここまで)]]に(削除) あっ (削除ここまで)た{{sfn|(削除) 華族大鑑刊行会 (削除ここまで)|(削除) 1990 (削除ここまで)|p=(削除) 379 (削除ここまで)}}。
[[明治]](追記) 2 (追記ここまで)年([[(追記) 1869 (追記ここまで)年]](追記) )[[6 (追記ここまで)月(追記) 17 (追記ここまで)日(追記) (旧暦)|6月17日]]の行政官達で (追記ここまで)[[(追記) 公家 (追記ここまで)]](追記) と大名家が統合 (追記ここまで)され(追記) て[[華族]]制度が誕生すると、吉井家も大名家として華族に列し (追記ここまで)た{{sfn|小田部雄次|2006|p=(追記) 13-14 (追記ここまで)}}。(追記) 6月24日に (追記ここまで)[[(追記) 版籍奉還 (追記ここまで)]]に(追記) より吉井信謹は吉井藩知事に任じられたが、同年12月26日に依願して知事を免じられ (追記ここまで)た{{sfn|(追記) 新田完三 (追記ここまで)|(追記) 1984 (追記ここまで)|p=(追記) 891 (追記ここまで)}}。
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吉井信謹は、明治12年([[1879年]])[[8月4日]]、隠居して満3歳になる長男の[[吉井信宝]]に家督を譲った<ref>『平成新修旧華族家系大成』</ref>。信謹はほどなく吉井家を離籍して上杉家に戻り、同年9月2日に上杉家分家(鷹司上杉家)を建てた。上杉信謹は明治41年([[1908年]])[[11月22日]]に56歳で[[卒去]]している<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E8%AC%B9-1110723 デジタル版 日本人名大辞典+Plus]</ref>。
[[明治]]17年([[1884年]])7月7日の[[華族令]]の施行で華族が五爵制になると、7月8日に吉井信宝は旧小藩知事{{efn|旧吉井藩は現米2160石(表高1万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=150}}}}として[[子爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=342}}。吉井子爵家の邸宅は[[東京市]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=379}}。
== 歴代当主と後嗣たち ==
== 歴代当主と後嗣たち ==
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*{{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1990年(平成2年)|title=華族大鑑|series=日本人物誌叢書7|author=華族大鑑刊行会|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820540342|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1990年(平成2年)|title=華族大鑑|series=日本人物誌叢書7|author=華族大鑑刊行会|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820540342|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1984年(昭和59年)|title=内閣文庫蔵諸侯年表|author=新田完三|authorlink=新田完三|publisher=[[東京堂出版]]|ref=harv}}
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(追記) |1-1= (追記ここまで)日本の子爵家
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[[Category:鷹司松平家|!]]
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[[Category:松平氏|家たかつかさ]]
[[Category:松平氏|家たかつかさ]]
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(削除) [[Category: (削除ここまで)日本の子爵家(削除) |よしいけ]] (削除ここまで)
[[Category:江戸時代の上野国]]
[[Category:江戸時代の上野国]]
2022年11月26日 (土) 18:03時点における版
鷹司松平家(たかつかさまつだいらけ)は、五摂家 鷹司家の支流で武家・華族だった家。本姓は藤原氏。江戸時代には紀伊徳川家 御連枝一門として徳川家一門待遇の親藩・定府の大名上野国 吉井藩主だった。明治維新後は吉井(よしい)に改姓し、子爵家に列した。
歴史
江戸時代
慶安3年(1650年)、鷹司信平は江戸幕府3代将軍徳川家光の御台所であった姉の孝子を頼り、家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光と孝子の間柄は非常に険悪であったが、家光は信平を歓迎して1000俵の廩米と月俸200人扶持を与え、寄合に入れた。その後、承応2年(1653年)に4代将軍徳川家綱の配慮により、和歌山藩主徳川頼宣の次女・松姫を正室に迎える。翌承応3年(1654年)には従四位下・左近衛少将に任じられ、紀伊徳川家の御連枝一門として松平姓を与えられて松平信平と名乗り、鷹司松平家が創始された。延宝2年(1674年)には上野と上総両国内において7000石の知行を与えられ、寄合旗本となった。その後、5代将軍綱吉の御台所が鷹司家出身の信子だったことから、宝永6年(1709年)に信平の孫・松平信清は信子の信頼を得て上野国多胡郡など3000石を加増され、合計1万石で矢田藩を立藩、大名 諸侯に列した。その後、拠点を吉井に移し、吉井藩主となる。1万石の極小藩ながら、五摂家庶流の出自で御台所の親類、さらに御三家連枝のため、徳川家一門にして国主格という高い家格を有した。さらに江戸城内では、御三家、加賀 前田家などと同じ大廊下(下之間)の待遇を幕末まで受けた。歴代の藩主は江戸定府で参勤交代を免除され、領地である吉井には陣屋が設けられていた。現在、吉井陣屋の表門跡が残っている。
歴代藩主は主に従四位下・侍従に叙されることを通例とした。これは徳島藩 蜂須賀家、佐賀藩 鍋島家、鳥取藩 池田家など20万石以上の国主大名と同位の官位 官職であり(1万石から7万石以下レベルの大名は従五位下が通例)、江戸城内の家格と合わせて幕府の中でいかに高い待遇と格式を受けていたかがわかる。
鷹司松平家の存在は非常に特異で、江戸時代を通して公家から武家に転身し、大名に列した唯一の家である。立藩以前から宗家たる五摂家・鷹司家との養子縁組や婚姻関係はほとんどなく、8代当主・信充の正室に関白 鷹司政熙の娘を迎えたのが唯一の例である。
歴代当主は家祖の信平以来「信」の通字を、庶子は「房」の通字を用いている。これらの通字の由来は信平の父・鷹司信房までさかのぼり、「信」については絶家となっていた鷹司家が織田信長の働きで再興された際、当主となった信房が信長から受けたとされるものである[2] 。
4代当主・信友が一方の本家といえる紀伊徳川家から信有を養子に迎えて以降、信有の血筋と信友の直系とが交互に家督を相続したが、幕末までに双方の血筋とも断絶し、他家から養子を迎えて存続している。
元治2年(1865年)3月26日には米沢藩主上杉斉憲の五男である信謹(母方は鷹司信房の血筋)が松平(鷹司)信発の隠居にともない家督を相続した。
明治以降
王政復古後の慶応4年(1868年)1月2日に元将軍徳川慶喜ら旧幕府勢力が鳥羽・伏見の戦いを起こしたのを受けて新政府は1月10日に慶喜追討令を下し、慶喜は朝敵となった。1月27日に政府は本姓がありながら松平姓を受けた大名家に対して「徳川慶喜反逆二付テハ松平之苗字ヲ称シ居候族ハ(略)速二各本姓二復」すことを命じる布告を発した[3] 。これを受けて当時の当主松平信謹は2月22日に(鷹司への復姓でなく)吉井に改姓した。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、吉井家も大名家として華族に列した。6月24日に版籍奉還により吉井信謹は吉井藩知事に任じられたが、同年12月26日に依願して知事を免じられた。
吉井信謹は、明治12年(1879年)8月4日、隠居して満3歳になる長男の吉井信宝に家督を譲った[6] 。信謹はほどなく吉井家を離籍して上杉家に戻り、同年9月2日に上杉家分家(鷹司上杉家)を建てた。上杉信謹は明治41年(1908年)11月22日に56歳で卒去している[7] 。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、7月8日に吉井信宝は旧小藩知事[注釈 1] として子爵に叙された。吉井子爵家の邸宅は東京市 世田谷区 代田にあった。
歴代当主と後嗣たち
吉井子爵家
系譜
脚注
注釈
- ^ 旧吉井藩は現米2160石(表高1万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当
出典
参考文献
関連項目