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== 生涯 ==
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[[台湾]]で[[台湾総督府]][[官吏]]である父・千早清次郎の次男として生まれる。[[鹿児島県立甲南高等学校|鹿児島二中]]を経て[[1934年]](昭和9年)11月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を卒業(第62期)。[[千早正隆]]海軍中佐は兄。
[[台湾]]で[[台湾総督府]][[官吏]]である父・千早清次郎の次男として生まれる。[[鹿児島県立甲南高等学校|鹿児島二中]]を経て[[1934年]](昭和9年)11月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を卒業((追記) [[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#62期| (追記ここまで)第62期(追記) ]] (追記ここまで))。[[千早正隆]]海軍中佐は兄。


=== 幼年期 ===
=== 幼年期 ===

2015年2月19日 (木) 09:16時点における版

千早 猛彦
大尉時代
生誕 1913年 9月26日
大日本帝国の旗 大日本帝国 台北州 淡水郡淡水街(現新北市 淡水区)
死没 (1944年06月11日) 1944年 6月11日(30歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1934年 - 1944年
最終階級 海軍大佐
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千早 猛彦(ちはやたけひこ、1913年(大正2年)9月26日 - 1944年(昭和19年)6月11日)は、日本の海軍 軍人真珠湾攻撃に参加し、のちメジュロ環礁偵察飛行に成功。戦死後二階級特進した海軍大佐である。

生涯

台湾台湾総督府 官吏である父・千早清次郎の次男として生まれる。鹿児島二中を経て1934年(昭和9年)11月、海軍兵学校を卒業(第62期)。千早正隆海軍中佐は兄。

幼年期

中学時代の猛彦は体が弱く運動は余り得意ではなかったが、兄に続いて海兵を志願した。しかし中学三年時に担任にこれを明かすと軍事教練の度にへばる事を叱責され発奮、山岳部に所属し体を鍛えた。五年進級時には軍人志望組の級長となり、二年間つとめた。兵学校進学後については中学時代の級友に手紙で訓練の様子を送り、任官後も戦地の様子を度々送っており、二・二六事件の際少尉候補生として砲術学校に在籍していた猛彦が陸戦隊員を率いて帝都防衛の任に着いたり、第一次上海事変の際には「」乗組で上海で陸戦隊として戦った事を知らせている。

偵察士官

遠洋航海から帰国後軽巡洋艦木曾」乗組、水雷艇「鵯」艤装員[1] 等を経て1937年(昭和12年)9月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。以後、偵察士官として歩む。

海軍では操縦員以外の飛行機搭乗員は一括して偵察員と呼び、複座機や大型機の比率が多かったため偵察員は操縦員と同数ぐらい必要であった。海軍兵学校(一部は海軍機関学校)出身である将校の飛行学生卒業時には、本人希望と適正を考慮し空中勤務士官として操縦、偵察のどちらかに振り分けたが、偵察士官に区分されても操縦もした[2]

航空母艦蒼龍」乗組として母艦搭乗員(空母飛行機隊)となり、次いで日中戦争(支那事変)下の1940年(昭和15年)1月には第十三航空隊に赴任。赴任直後の2月には現地中国で陸軍司偵隊の指導を仰ぎ、主に九八式陸上偵察機をもって中国で航空作戦に従事・活躍する。偵察や戦闘機誘導任務を行い、源田實によればその功績は甚大だったという。またこの時指揮官であった大西瀧治郎の信頼を得た[3] 。同年、鹿屋海軍航空隊 分隊長へ配転。

有能な偵察士官として知られるようになった千早は、1941年4月に空母「赤城艦上爆撃機隊の分隊長となり、後の太平洋戦争(大東亜戦争)・真珠湾攻撃に参加することとなる。 第二次攻撃隊に加わった千早機は戦艦に250キロ爆弾命中の戦果を報告。また第一航空艦隊航空参謀であった源田に見込まれ[3] 、特に戦闘機隊の帰路誘導[4] に当たった。

インド洋方面のイギリス海軍艦隊掃討、ミッドウェイ海戦に参加後の1942年(昭和17年)7月に横須賀海軍航空隊勤務となり、次いで基地航空部隊として編成された第一航空艦隊第一二一海軍航空隊偵察飛行隊長となる。新編の第一航空艦隊は大本営直轄として養成された部隊で、アメリカ海軍艦隊との決戦の主力を担う部隊として大きな期待がかけられ、幹部は真珠湾以来の歴戦かつ有能な士官が選ばれた。偵察の第一人者であった千早はその偵察機隊を預かることとなった。

陸軍司偵隊と千早

なお、この千早の偵察士官としての活躍の原点には帝国陸軍 航空部隊の存在がある。

1930年代当時の陸軍航空部隊は偵察任務に対し理解が深く、陸軍航空技術研究所藤田雄蔵 中佐らの進言により、海軍はもとより世界に先駆けて速度・航続距離のみを重視した世界初の戦略偵察機である九七式司令部偵察機を開発。制式採用された九七司偵は勃発直後の日中戦争に投入され大活躍、その運用部隊は独立飛行第18中隊(18Fcs)となった[5] 。その陸軍司偵隊の働きに刺激された海軍は、1939年11月に九七司偵を九八式陸上偵察機として制式採用。また、海軍陸偵隊の技量を向上させる為に陸海の垣根を越え陸軍司偵隊から教えを請う事を決定。翌1940年2月、司偵隊である飛行第44戦隊第1中隊(18Fcsの後身、中隊長は引き続き旧18Fcs長であった荒蒔義次大尉)は中国赴任間もない千早ら第十三航空隊偵察士官・下士官に対し、新鋭の九七司偵二型を用いた飛行場捜索要領・整備法等の伝習教育を行った[6]

元来、海軍航空は夜間飛行を不得意とする関係から(陸軍航空は夜間飛行および夜間戦闘の技量に優れる)、陸軍司偵隊は特に危険な夜間着陸をそつなくこなせるのに対し、海軍陸偵隊は照空灯の支援を要していた。しかしそれでは設備の間に合わない前線飛行場での運用には向かない為、陸軍司偵隊が簡単かつきわめて実用的な夜間着陸法として考案・使用していた、カンテラを滑走路の周囲に置き一種の飛行場灯火とする方法が海軍陸偵隊に教示されている。荒蒔からこの方法を教えられた千早は感心しのちに海軍航空全体に広まっている[7]

メジュロ環礁偵察

1944年(昭和19年)2月、アメリカ海軍はマーシャル諸島攻略戦により占領したメジュロ環礁を南太平洋における大規模補給基地として利用し始め、アメリカ機動部隊はハワイまで戻ることなく補給や修理を行えるようになっていた。メジュロ環礁内にどのような艦艇が出入りしていたり停泊しているか判れば、アメリカ側の次の作戦のおおよその内容と規模が推察できたのである。「あ」号作戦が3週間後に控えていた情勢下、海軍は敵機動部隊の動静を探るべく、メジュロ環礁への長距離強行偵察が計画された。当初、二式艦上偵察機が使用される予定だったが、まだ制式採用前ながら4月より生産開始されたばかりの高速の最新鋭機である艦上偵察機「彩雲」が配備されて、この任務に当てることとなった。

しかしトラック島から最短ルートで飛んでも1500(約2700km)の彼方にあるメジュロ環礁への往復飛行は、彩雲の最大航続距離を超えていた。どこか中継地点で燃料補給する必要があり、立ち寄り先として選ばれたのが、トラック島から1000浬(約1800km)、メジュロ環礁から530浬(約1000km)に位置し、不完全ながら飛行場が設営されているナウル島であった。 その頃のナウル島はまだ日本側の支配下にあったとはいえ、周りの制海権、制空権は敵の手に渡りつつあり、補給も途絶えがちであった。 かなりの距離を敵の制空圏内かそれに近い空域を飛ばねばならないこの極めて困難な作戦の成功を期するため、パイロットにはエキスパート中のエキスパートが任務に当たるのが絶対であり、千早大尉に白羽の矢が立った。 千早は121空偵察飛行隊長[8] であったが、他に適任者がおらず飛行隊長であるにも関わらず操縦桿を握ることとなり、偵察員と通信員の3名で彩雲に乗り込んだ。

5月29日朝テニアンを出発し、途中トラックを経由し、同日午後にナウルへ到着。ナウル守備隊員たちのために彩雲の機内には、タバコなどの嗜好品を積めるだけ積み込んできていた[8] 。久し振りに飛来した友軍機、それも最新鋭機にナウル守備隊員は千早らを驚喜して迎えたという。 翌30日朝ナウルからメジュロ環礁に向かった。環礁内はまさにアメリカ艦隊の巣窟であり、すぐさま残らず写真撮影を行いトラックへの帰途に就いたのだが、瞬く間にグラマン F6F ヘルキャットが追撃してきた。 彩雲はこれから1500浬先のトラック島まで飛ばなければならなかったので、燃料残量を考えればただスロットル全開で飛行すれば良いという状況ではなかったが、千早は追いすがるF6Fを振り切り、無事トラック島へ帰還した際は燃料ギリギリであったという。 前日からの総飛行距離5000km以上で、かつ敵機がいつどこから現れてもおかしくない過酷な長距離飛行であったが、偵察士官である千早の正確な洋上航法があっての成功であった。現像した写真から、正規空母5隻、補助空母2隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦10隻、輸送船2隻、タンカー16隻が停泊中であるのが判明した。

我ニ追イツクグラマン無シ」という電文が、いつ誰によって発信されたかハッキリせず、戦争後半においても高性能な日本機は存在したことを象徴する都市伝説になっているが、千早機がF6Fを振り切ったエピソードは正にこの電文伝説が生み出された状況の一つと考えられている。

6月8日千早は再びメジュロ環礁への偵察飛行[8] へ向かい、翌9日メジュロに到着したが敵艦隊はいなかった。この敵艦隊の出撃を捉えた千早の報告により『あ号作戦決戦準備』が発令され、マリアナ沖海戦が生起した。千早の偵察飛行は高く評価された。後に連合艦隊作戦参謀を務めた兄の正隆によれば、「開戦以来これほど敵艦隊の動静を的確にとらえたことは無かった」という。また当時連合艦隊参謀長であった草鹿龍之介は、その著書の中で「千早機の挺身偵察による功績」として取り上げている。

戦死

テニアンに帰還していた千早は空襲の合間をぬって出動。再び還ることはなかった。「機動部隊に単機で向かうんじゃ」[9] と笑いながら出撃したという。その功績は高く評価され二階級特進し海軍大佐に任ぜられた。日本海軍始まって以来の若い大佐であった[9] 。これは同期に二階級特進者が7人いるが、千早が一番早い為である。

脚注

  1. ^ この記述は参考文献に挙げたアジア歴史資料センターの資料による。
  2. ^ 太平洋戦争 陸海軍航空隊 大空を疾駆した無敵の銀翼 112〜113頁 飛行機乗りへの道(成美堂出版、1999年)
  3. ^ a b 『真珠湾作戦回顧録』p253〜255
  4. ^ 通常は艦上爆撃機ではなく、三人乗りで航続距離の長い艦上攻撃機が担う役割である
  5. ^ 殊勲の18Fcsは1939年1月に部隊感状を、5月には操縦者大室孟 大尉(のち航空自衛隊第7代航空幕僚長)が個人感状および異例の功四級金鵄勲章を拝受、またその活躍は天皇の上聞に達している。
  6. ^ 碇義朗 『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』 光人社、1997年、p.81
  7. ^ 碇義朗 『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』 光人社、1997年、p.81
  8. ^ a b c 超精密「3D CG」シリーズ20 日本海軍航空隊(双葉社、2004年)64,65頁によると、千早はトラック島に展開していた第一航空隊 偵察飛行隊長。トラックでタバコなど積み込み5月30日早朝トラック出発し巡航速度で約5時間後にナウル着。6月5日に同じルートでメジュロ再偵察。
  9. ^ a b 『太平洋戦争航空史話(下)』p53〜55

参考文献

  1. 『補任考課 職課 (士官)兵科(12)』【C05033989600】
  2. 『官房機密第3141号 11.11.30 海軍現役武官を商船学校に配属の件(4)』【C05034666900】

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