コンテンツにスキップ
Wikipedia

「堀口貞満」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
1行目: 1行目:
'''堀口 貞満'''(ほりぐち さだみつ、[[永仁]]5年([[1297年]]) - [[延元]]3年/[[建武 (日本)|建武]]5年([[1338年]]))は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将。
'''堀口 貞満'''(ほりぐち さだみつ、[[永仁]]5年([[1297年]]) - [[延元]]3年/[[建武 (日本)|建武]]5年([[1338年]]))は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将(追記) 。[[清和源氏]]の一門で[[上野国]]に土着した[[新田氏]]の支族。上野国[[新田郡]](新田荘)の東南端にある堀口郷(現在の[[群馬県]][[太田市]]堀口)を支配していた (追記ここまで)

[[堀口氏]]は[[清和源氏]][[新田氏]]の支族で、[[上野国]][[新田郡]]([[新田荘]])の東南端にある堀口郷(現在の[[群馬県]][[太田市]]堀口)の領主。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
永仁5年([[1297年]])の生まれ、父は[[堀口貞義]](従四位下[[美濃国|美濃]](削除) 守 (削除ここまで))。
永仁5年([[1297年]])の生まれ、父は[[堀口貞義]](従四位下[[美濃国|美濃]])。
[[元弘]]3年([[1333年]])、[[新田義貞]]の挙兵に参加し、巨福路坂(こぶくろざか)から[[鎌倉]]を攻略するなど活躍。建武元年([[1334年]])論功で正六位上大炊助に叙任される。さらに建武2年(1335年)には従五位上美濃守となった。

兄弟は兄の[[堀口貞樹]]、弟の[[堀口行義]]・[[堀口義之]]ら。子に[[堀口義満]]・[[堀口貞祐]]・[[堀口貞親]]・[[堀口貞安]]など。甥は[[堀口義継]](行義の子)。

[[元弘]]3年([[1333年]])、[[新田義貞]]の挙兵に参加し、(削除) [[ (削除ここまで)巨福路坂(削除) ]] (削除ここまで)(こぶくろざか)から[[鎌倉]]を攻略するなど活躍。建武元年([[1334年]])(削除) 、 (削除ここまで)論功で正六位上大炊助に叙任される。さらに建武2年(1335年)には従五位上美濃守となった。


以後、新田義貞の重臣として活躍。[[足利尊氏]]が、[[北条時行]]の挙兵([[中先代の乱]])に乗じて建武政権に叛旗を翻すと、[[矢作川]]での戦いで足利尊氏軍と戦ったと『[[梅松論]]』に記されている。
以後、新田義貞の重臣として活躍。[[足利尊氏]]が、[[北条時行]]の挙兵([[中先代の乱]])に乗じて建武政権に叛旗を翻すと、[[矢作川]]での戦いで足利尊氏軍と戦ったと『[[梅松論]]』に記されている。


建武3年([[1336年]])に西国で勢力を盛り返した足利尊氏が[[京都]]を占拠すると、新田義貞の軍に従い、[[後醍醐天皇]]らとともに[[比叡山]]に逃れた。このとき、足利尊氏から後醍醐天皇へ密使がきて後醍醐天皇が新田義貞に無断で足利尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、貞満が出発直前の後醍醐天皇に、「当家累年の忠義を捨てて足利に降伏されるなら義貞以下一族全員の首をはねてお出ましあるべし」と奏上し、後醍醐天皇は[[皇位]]を[[恒良親王]]に譲り、恒良親王と[[尊良親王]]を委任することで新田軍が[[官軍]]であることを保証してから下山したことは、『[[太平記]]』でも有名な一節となっている。
建武3年([[1336年]])に西国で勢力を盛り返した足利尊氏が[[京都]]を占拠すると、新田義貞の軍に従い、[[後醍醐天皇]]らとともに[[比叡山]]に逃れた。このとき、足利尊氏から後醍醐天皇へ密使がきて後醍醐天皇が新田義貞に無断で足利尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、貞満が出発直前の後醍醐天皇に、「当家累年の忠義を捨てて足利に降伏されるなら義貞以下一族全員の首をはねてお出ましあるべし」と奏上し、後醍醐天皇は[[皇位]]を[[恒良親王]]に譲り、恒良親王と[[尊良親王]]を委任することで新田軍が[[官軍]]であることを保証してから下山したことは、『[[太平記]]』でも有名な一節となっている(追記) 。その後、新田義貞に従って、子の[[堀口貞祐]]らとともに[[越前国|越前]]及び美濃各地で戦い、南朝暦の延元3年(1338年)に美濃から越前に進軍中に没した (追記ここまで)

その後、新田義貞に従って、嫡子の貞祐らとともに[[越前国|越前]]及び美濃各地で戦い、南朝暦の延元3年(1338年)に美濃から越前に進軍中に没した。

その後の貞祐は子の[[堀口貞兼|貞兼]]・[[堀口貞重|貞重]]と甥の[[堀口義忠|義忠]]・[[堀口貞治|貞治]](貞満の三男貞親と四男貞安の子)とともに新田本宗家に従って南朝方として奮戦したという。


== その他 ==
== その他 ==
23行目: 14行目:


=== 子孫 ===
=== 子孫 ===
* 美濃国[[(削除) 大野郡 (美濃国)|大野 (削除ここまで)(削除) ]][[坂本村 (削除ここまで)]]([[岐阜県]](削除) [[揖斐郡]][[揖斐川町]]([[坂内村]]) (削除ここまで)の[[揖斐川]]上流(削除) 付近 (削除ここまで))に、(削除) 貞満の末子の貞安 (削除ここまで)の子孫が(削除) 美濃に (削除ここまで)土着し、(削除) [[坂本氏]]と称したという(後に[[本巣郡]]に移住)。 (削除ここまで)戦国時代に(削除) なると (削除ここまで)[[齋藤氏]](削除) ・ (削除ここまで)[[明智氏]]に仕えたという。
* 美濃国[[(追記) 本巣 (追記ここまで)郡]]([[岐阜県]]の[[揖斐川]]上流)に(追記) は (追記ここまで)(追記) 堀口一族 (追記ここまで)の子孫が土着し、戦国時代に(追記) は (追記ここまで)[[齋藤氏]](追記) や (追記ここまで)[[明智氏]]に仕えたという。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2008年2月23日 (土) 23:40時点における版

堀口 貞満(ほりぐち さだみつ、永仁5年(1297年) - 延元3年/建武5年(1338年))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。清和源氏の一門で上野国に土着した新田氏の支族。上野国新田郡(新田荘)の東南端にある堀口郷(現在の群馬県 太田市堀口)を支配していた。

経歴

永仁5年(1297年)の生まれ、父は堀口貞義(従四位下美濃)。 元弘3年(1333年)、新田義貞の挙兵に参加し、巨福路坂(こぶくろざか)から鎌倉を攻略するなど活躍。建武元年(1334年)論功で正六位上大炊助に叙任される。さらに建武2年(1335年)には従五位上美濃守となった。

以後、新田義貞の重臣として活躍。足利尊氏が、北条時行の挙兵(中先代の乱)に乗じて建武政権に叛旗を翻すと、矢作川での戦いで足利尊氏軍と戦ったと『梅松論』に記されている。

建武3年(1336年)に西国で勢力を盛り返した足利尊氏が京都を占拠すると、新田義貞の軍に従い、後醍醐天皇らとともに比叡山に逃れた。このとき、足利尊氏から後醍醐天皇へ密使がきて後醍醐天皇が新田義貞に無断で足利尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、貞満が出発直前の後醍醐天皇に、「当家累年の忠義を捨てて足利に降伏されるなら義貞以下一族全員の首をはねてお出ましあるべし」と奏上し、後醍醐天皇は皇位恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山したことは、『太平記』でも有名な一節となっている。その後、新田義貞に従って、子の堀口貞祐らとともに越前及び美濃各地で戦い、南朝暦の延元3年(1338年)に美濃から越前に進軍中に没した。

その他

史跡

  • 群馬県太田市堀口(旧新田郡尾島町堀口)には、堀口館跡があり、それを示す木柱が早川の堤防脇に立てられている。

子孫

関連項目

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /