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'''服部 波山'''(はっとり はざん、[[文政]]10年([[1827年]])‐[[明治]]27年([[1894年]])[[9月10日]]<ref>『明治のおもかげ』114頁。</ref>)とは[[江戸時代]]から明治時代にかけての[[文人画家]]。
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== 略歴 ==
== 略歴 ==
文政10年、新石下村(現在の[[常総市]]新石下)の服部家に生まれる<ref name=":0">{{Cite web(削除) (削除ここまで)|title=テキスト / 日本画家服部波山 |url=https://adeac.jp/joso-city/text-list/d600030/ht400810/ |website=adeac.jp |access-date=2023年09月04日}}</ref>。後に江戸へ出て転々とした生活を歩み、上野広小路の鰻屋の養子となったこともあった<ref name=":0" />。名は兼蔵のちに謙蔵。寒松堂、波山山人、波山樵者と号す。江戸の根岸に住む。幼時より読書が好きであったため、自宅裏の相田某という学者に入門、22,23歳のころには師も舌を巻くほど、詩文に長じ、書もよくした。あるとき、[[渡辺崋山]]の絵をみて[[山水画]]を描きたくなり、画家をめざす。明治に入って下谷にいた[[饗庭篁村]]に人物画を師事した後、渡辺崋山、[[山本梅逸]]の画風または唐画を習い、山水画を得意として、[[滝和亭]]、[[奥原晴湖]]らとともに[[南画]]のひとりとして知られた。[[信濃国]]や[[紀伊国]]などを旅行しながら自然を描いた。また、明治中期になってもチョン髷をきらずにいて、[[大沼枕山]]、[[中根半嶺]]、[[山本龍洞]]らと交遊したほか、[[高橋応真]]らに[[漢籍]]を教えた。享年68。[[光源寺 (文京区)|駒込光源寺]]に葬られた。法名は徳水院仁誉波山居士。
文政10年、新石下村(現在の[[常総市]]新石下)の服部家に生まれる<ref name=":0">{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで)|title=テキスト / 日本画家服部波山 |url=https://adeac.jp/joso-city/text-list/d600030/ht400810/ |website=adeac.jp |access-date=2023年09月04日}}</ref>。後に江戸へ出て転々とした生活を歩み、上野広小路の鰻屋の養子となったこともあった<ref name=":0" />。名は兼蔵のちに謙蔵。寒松堂、波山山人、波山樵者と号す。江戸の根岸に住む。幼時より読書が好きであったため、自宅裏の相田某という学者に入門、22,23歳のころには師も舌を巻くほど、詩文に長じ、書もよくした。あるとき、[[渡辺崋山]]の絵をみて[[山水画]]を描きたくなり、画家をめざす。明治に入って下谷にいた[[饗庭篁村]]に人物画を師事した後、渡辺崋山、[[山本梅逸]]の画風または唐画を習い、山水画を得意として、[[滝和亭]]、[[奥原晴湖]]らとともに[[南画]]のひとりとして知られた。[[信濃国]]や[[紀伊国]]などを旅行しながら自然を描いた。また、明治中期になってもチョン髷をきらずにいて、[[大沼枕山]]、[[中根半嶺]]、[[山本龍洞]]らと交遊したほか、[[高橋応真]]らに[[漢籍]]を教えた。享年68。[[光源寺 (文京区)|駒込光源寺]]に葬られた。法名は徳水院仁誉波山居士。


== 作品 ==
== 作品 ==

2023年11月23日 (木) 22:48時点における最新版

服部 波山(はっとり はざん、文政10年(1827年)‐明治27年(1894年)9月10日 [1] )とは江戸時代から明治時代にかけての文人画家

略歴

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文政10年、新石下村(現在の常総市新石下)の服部家に生まれる[2] 。後に江戸へ出て転々とした生活を歩み、上野広小路の鰻屋の養子となったこともあった[2] 。名は兼蔵のちに謙蔵。寒松堂、波山山人、波山樵者と号す。江戸の根岸に住む。幼時より読書が好きであったため、自宅裏の相田某という学者に入門、22,23歳のころには師も舌を巻くほど、詩文に長じ、書もよくした。あるとき、渡辺崋山の絵をみて山水画を描きたくなり、画家をめざす。明治に入って下谷にいた饗庭篁村に人物画を師事した後、渡辺崋山、山本梅逸の画風または唐画を習い、山水画を得意として、滝和亭奥原晴湖らとともに南画のひとりとして知られた。信濃国紀伊国などを旅行しながら自然を描いた。また、明治中期になってもチョン髷をきらずにいて、大沼枕山中根半嶺山本龍洞らと交遊したほか、高橋応真らに漢籍を教えた。享年68。駒込光源寺に葬られた。法名は徳水院仁誉波山居士。

作品

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  • 『歳寒三友図』 紙本墨画 明治22年(1889年) 静岡県立美術館所蔵
  • 『明治書画帖』 大英博物館所蔵
  • 『名家書画春秋帖』 大英博物館所蔵

出典

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  1. ^ 『明治のおもかげ』114頁。
  2. ^ a b "テキスト / 日本画家服部波山". adeac.jp. 2023年9月4日閲覧。

参考文献

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