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'''三宅島'''(みやけじま)は、[[伊豆諸島]]の[[島]](削除) 。'''雄山'''(おやま)を中心としてしばしば激しく[[噴火]]をすること (削除ここまで)で(削除) 知られ、[[火山噴火予知連絡会]]によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要が (削除ここまで)あ(削除) る火山([[常時観測火山]])に選定されている<ref>{{Cite web |url = https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/47volcanoes.pdf |title = 火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山|publisher = 気象庁|accessdate = 2016年02月25日}}</ref>。また、[[日本]]の[[気象庁]]によって火山活動度ランクAの[[活火山]]に指定されてい (削除ここまで)る。島の全域が[[富士箱根伊豆国立公園]]となっており、行政区画は島全体が[[東京都]][[三宅村]]に属する。
'''三宅島'''(みやけじま)は、[[伊豆諸島]]の[[島]]である。島の全域が[[富士箱根伊豆国立公園]]となっており、行政区画は島全体が[[東京都]][[三宅村]]に属する。
== 地理(削除) ・地質 (削除ここまで) ==
== 地理 ==
[[File:Izu-Islands-Japanese-Map.png|thumb|left|[[伊豆諸島]]の地図。]]
[[File:080430 Miyakejima seen from the east side.jpg|thumb|250px|東側の海上から見た三宅島。2008年]]
東京都の本州島側地域から南海上175km、[[伊豆大島]]の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした島。伊豆-小笠原[[海嶺]]の上にあり、[[第四紀]][[更新世]]の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で[[噴火]]が始まり、島が形成されたと考えられている。
島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体であり、[[玄武岩]]質の[[成層火山]]である。頂上部に直径約3.5kmの桑木平[[カルデラ]]と、その内側に3,000年前の八丁平噴火(噴出量0.37 [[噴火#マグマ噴出量|DRE]] km{{sup|3}})の際に直径約1.6kmの八丁平カルデラが形成された。雄山はその中央火口丘であったが、2000年の噴火によって新たに直径約1.6kmのカルデラが形成され八丁平カルデラは消滅している。
玄武岩質マグマ起源の[[溶岩]]は粘性が低いため[[溶岩流]]となり、過去何度か流下している。1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。このほか、山腹には[[割れ目噴火]]も発生しており、線上に並ぶ[[スコリア丘]]や、海岸付近ではマグマが海水と接して発生する[[マグマ水蒸気爆発]]による爆裂火口地形([[マール (火山)|マール]])がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
1983年の測量では最高点の標高は814mだったが、2000年に始まった噴火によって、[[火口]]が直径約500m以上の範囲で陥没し拡大した事で、現在の最高点の標高は775m<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/320_index.html |title=伊豆・小笠原諸島の活火山 - 三宅島 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017年11月28日}}</ref>となっている<!--775.1m<ref>{{Cite press release |和書 |title=「三宅島」火山基本図を刊行 |publisher=[[国土地理院]] |date=2004年04月27日 |url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2004-0427-2.html |accessdate=2024年03月14日 |archiveurl= https://archive.is/FGGI8 |archivedate= 2013年05月01日 }}</ref>-->。2007年には[[日本の地質百選]]に選定された。
MiyakeFromKozuTyoJpDec04-01.jpg|[[神津島]]から見た三宅島
Miyake-jima Tairo Pond.jpg|大路池
橘丸から見た三宅島.jpg|大型客船([[橘丸]])から見た三宅島
<div style="max-width:250px; min-width:150px; float:right;">
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{{climate chart|'''三宅島'''
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|7.1|12.1|150.9
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|source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=44&block_no=47677&year=&month=&day=&view= 気象庁]
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東京都の本州島側地域から南海上175km、[[伊豆大島]]の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした島。伊豆-小笠原[[海嶺]]の上にあり、[[第四紀]][[更新世]]の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で[[噴火]]が始まり、島が形成されたと考えられている。
他の[[伊豆諸島]]の島々と同様に、基本的には年間を通して穏やかで温かく、降水量も少なくない。
しかし、[[台風]]の影響を受けやすく、大陸や大型の島嶼から離れた小さな島であり、概して平地も少ないなど、風水害が起きやすい。
島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体で、[[玄武岩]]質の[[成層火山]]である。頂上部に直径約3.5kmの桑木平[[カルデラ]]と、その内側に3,000年前の八丁平噴火(噴出量0.37 DRE km{{sup|3}})の際に直径約1.6kmの八丁平カルデラが形成された。雄山はその中央火口丘であったが、2000年の噴火によって新たに直径約1.6kmのカルデラが形成され八丁平カルデラは消滅している。玄武岩質マグマ起源の[[溶岩]]は粘性が低いため[[溶岩流]]となり、過去何度か流下している。1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。このほか、山腹には[[割れ目噴火]]も発生しており、線上に並ぶ[[スコリア丘]]や、海岸付近ではマグマが海水と接して発生する[[マグマ水蒸気爆発]]による爆裂火口地形([[マール (火山)|マール]])がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
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1983年の測量では最高点の標高は814mだったが、2000年に始まった噴火によって、[[火口]]が直径約500m以上の範囲で陥没し拡大した事で、現在の最高点の標高は775m<ref>{{Cite web |url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/320_index.html |title=伊豆・小笠原諸島の活火山 - 三宅島 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017年11月28日}}</ref>となっている<!--775.1m<ref>出典 : [http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2004/0427-2.htm] {{リンク切れ|date=2016年3月}}</ref>-->。2007年には[[日本の地質百選]]に選定された。
{{Miyake-jima weatherbox}}
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ファイル:Izu-Islands-Japanese-Map.png|伊豆諸島
ファイル:MiyakeFromKozuTyoJpDec04-01.jpg|[[神津島]]から見た三宅島
[[File:080430 Miyakejima seen from the east side.jpg|thumb|250px|東側の海上から見た三宅島。2008年]]
ファイル:Landsat Miyakejima Island.jpg|[[ランドサット]]衛星写真。山頂部からの噴煙が確認できる
2000年の噴火による火山ガスや噴火による泥流によって、周辺海域を含めた島の広範囲が影響を受けており、環境が激変している。かつては200種以上の[[野鳥]]がおり、通称「バードアイランド」と呼ばれる程に[[バードウォッチング]]の愛好者が良く訪れていた。なお、火山活動が比較的緩やかになったことで、これらの野鳥も回復しつつあるという。[[ツグミ科]]の[[アカコッコ]]は[[固有種]]で、「アカコッコ館」があり、島の象徴になっている。
ファイル:Miyakejima (Feb 2000) Relief Map, SRTM-1 (+Cldera Rim by 2000 Eruption).jpg|2000年の噴火前の三宅島地形図。点線はその噴火後のカルデラ縁を表している
ファイル:Miyakejima O-Yama Volcano crater.jpg|雄山の火口
[[ジャック・モイヤー]]が魅了された三宅島周辺海域は、[[魚類]]などが豊富で、様々な[[地形]]を有することから、[[スキューバダイビング]]が楽しめる場所でもあり、首都圏から多くのダイバーが訪れる。島周辺には多くのダイビングポイントがあり、約600種類以上海水魚が生息している。約90種類のサンゴが生息する北限域である。
ファイル:Miyake-jima Tairo Pond.jpg|大路池
ファイル:橘丸から見た三宅島.jpg|大型客船(橘丸)から見た三宅島
「長太郎池」は干潮時は外からの波が入って来ない<ref>{{Cite web |title=長太郎池 |url=https://www.miyakejima.gr.jp/see/choutarouike/ |work= 観る |website= 三宅島観光協会 |access-date=2024年02月04日 |language=ja}}</ref>天然の閉鎖性磯場であり、[[ハゼ]]や[[タカノハダイ]]から[[ウツボ]]、[[ガンガゼ]]、[[ヤドカリ]]、[[ヒトデ]]など、さまざまな海洋生物を容易に観察することができることから家族連れなどの観光客にも人気がある。一方で、火山活動の影響が少なかった海域では数年間人間の活動が無かったことから、[[イセエビ]]などが豊富に棲む良い環境になっている。
[[御蔵島]]同様、[[ミナミハンドウイルカ]]の生息が確認されている。また、[[八丈島]]同様、三宅島でも[[2018年]]から冬・春季の[[ザトウクジラ]]の目撃が急増しており、[[ホエールウォッチング]]への活用を模索している<ref>{{Cite web|url= https://www.miyakejima.gr.jp/info/whales2020/ |title= ザトウクジラの目撃情報を募集しています! |publisher= 三宅島観光協会 |date= 2020年01月06日 |accessdate= 2024年03月14日 }}</ref><ref name=Miyake>{{Cite web|和書|author=後藤豪 |date=2023年04月30日|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/247187 |title=三宅島に現れたザトウクジラ ドローンで「噴気」キャッチ! クジラの生態の謎に迫る|website=[[東京新聞]]|access-date=2023年12月13日}}</ref>。一帯では他の[[鯨類]]も確認されており{{efn|[[ニタリクジラ]]、[[マッコウクジラ]]、[[コビレゴンドウ]]、[[オキゴンドウ]]、[[カズハゴンドウ]]、[[ハナゴンドウ]]、[[スジイルカ]]、[[シャチ]]など<ref>{{Cite web|url= https://www.fmyokohama.jp/keep/2022/05/4-10.html |title= 三宅島のクジラ 沖山雄一さん4 |work= Keep Green & Blue |publisher= Fm yokohama |date= 2022年05月12日 |accessdate= 2024年03月14日 }}</ref><ref>{{Cite video|date=2023年04月07日 |title=【大群!!】1000頭近いカズハゴンドウの群れと戯れるザトウクジラ!! |url=https://www.youtube.com/watch?v=rxuoyTuPuao |medium=YouTube |language=ja |publisher=earth wind & 三宅島 |accessdate=2024年03月14日 }}</ref><ref>[http://nagaimasato.com/Ogamaru/index.html 小笠原(船中2泊3日)ツアー 観察記録] - 鳥くん(永井真人)</ref><ref>[http://nagaimasato.com/GeiruiIMG/geirui.html 鯨類・観察メモ(海驢類含む)] - 鳥くん(永井真人)</ref>。}}、中には非常に希少な種類も含まれている。[[2016年]]<ref>{{Cite web|url= https://blog.goo.ne.jp/suggertaro/e/14d38344bb94adc727a31416221884ff |title= すごい!こんなに近くに来るなんて!! ||author= Hitomi |website= sugger's blog@三宅島 |date= 2016年02月15日 |accessdate= 2024年03月14日 }}</ref>には[[コククジラ]]が{{efn|アジア系の[[コククジラ]]は、一度は絶滅したか、生存数が150-200頭前後と推測されている。[[2015年]]には、[[新島]]と[[神津島]]でも確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=8894|title=科博登録ID:8894|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2024年01月19日}}</ref><ref name=GrayJapan>{{Cite journal|和書|author=中村玄 |author2=加藤秀弘 |date=2014 |url=https://doi.org/10.11238/mammalianscience.54.73 |title=日本沿岸域に近年(1990-2005年)出現したコククジラ''Eschrichtius robustus''の骨学的特徴,特に頭骨形状から見た北太平洋西部系群と東部系群交流の可能性 |journal=哺乳類科学 |ISSN=0385437X |publisher=[[日本哺乳類学会]] |volume=54 |issue=1 |pages=73-88 |doi=10.11238/mammalianscience.54.73 |CRID=1390282679700616576 |access-date=2024年01月19日}}</ref>。}}、2016年と[[2023年]]には[[セミクジラ]]が陸上から観察されており<ref>{{Cite tweet|author=三宅島観光協会 |user=miyakejimaTA |number=1622844812356620289 |title=【2023年1月期・三宅島クジラ目撃情報】 先月(2023年1月)に、皆様からいただきましたクジラの目撃情報をマッピングしてみました。... |accessdate=2024年03月14日 }}</ref><ref>{{Cite video|date=2023年01月14日 |title=【希少種】まさかの!!背びれがない!頭部にコブ状の突起物が!〜三宅島沿岸にセミクジラが来遊!〜 |url=https://www.youtube.com/watch?v=9iqa49KQREg |medium=YouTube |language=ja |publisher=earth wind & 三宅島 |accessdate=2024年03月14日 }}</ref>、セミクジラの場合は同一人物が同じ場所で複数回目視する<ref>{{Cite web|url= https://blog.goo.ne.jp/suggertaro/e/e18603c9125619be58b5f7d2b6975f32 |title= なんと!希少種クジラが再び来遊! |author= Hitomi |website= sugger's blog@三宅島 |date= 2023年01月14日 |accessdate= 2024年03月14日 }}</ref>という稀有な事例である{{efn|[[セミクジラ]]は最も希少な大型鯨類の一種とされており、生存数・[[回遊]]・[[分布]]のすべてが不明瞭であり、過去の捕鯨記録からも、本種が越冬や子育てをしていた海域が判明していない。周辺では、[[御蔵島]]で2008年に、[[新島]]で2011年に確認されている<ref>{{cite web|url=https://news.mongabay.com/2023/04/how-do-you-study-one-of-the-worlds-rarest-whales/|title=How do you study one of the world’s rarest whales?|publisher=モンガ・ベイ([[:en:Mongabay|英語版]])|access-date=2024年01月19日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=5744|title=科博登録ID:5744|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2024年01月19日}}</ref><ref>{{Cite web|url= http://niijima.jp/mt/archives/2011/03/post_326.html |title= クジラ出現! |website= Niijima.jp 新島島暮らし |date= 2011年03月04日 |accessdate= 2024年03月14日 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120602102259/http://niijima.jp/mt/archives/2011/03/post_326.html |archivedate= 2012年06月02日 }}</ref>。}}。
しかし、三宅島や周辺一帯{{efn|[[大野原島]]や[[神津島]]や[[新島]]や[[式根島]]や[[鵜渡根島]]など。}}にも生息していたとされる[[ニホンアシカ]]は絶滅したとされている<ref>{{Cite journal|和書|author=豊山恵子, 安藤まち, 田所忠弘, 一寸木宗一 |date=2003 |url=https://doi.org/10.2740/jisdh.14.66 |title=古文書にみられる八丈島の食生活に関する一考察―動物性食品について― |journal=日本食生活学会誌 |ISSN=1346-9770 |publisher=日本食生活学会 |volume=14 |issue=1 |pages=66-71 |doi=10.2740/jisdh.14.66 |CRID=1390282680175588352}}</ref><ref name=Nakamura>{{Cite journal|和書|author=[[中村一恵]] |date=1993-01 |url=https://nh.kanagawa-museum.jp/www/contents/1600215771764/simple/ull22_81-89_nakamura.pdf |format=PDF |title=三浦半島沿岸に生息していたニホンアシカについて |journal=[https://nh.kanagawa-museum.jp/www/contents/1600215771764/index.html 神奈川県立博物館研究報告. 自然科学] |ISSN=04531906 |publisher=神奈川県立生命の星・地球博物館 |issue=22 |pages=81-89 |CRID=1520853833567161472 |access-date=2024年06月28日}}</ref><ref>{{Cite book|和書|url=http://haraq.inumoarukeba.biz/ashika/niijima.htm|title=新島炉ばなし|author=武田幸有|publisher=新島観光協会|edition=増補改訂版|date=1974|asin=B000J9GLI2}}</ref>。
[[1960年代]]、島内に[[ノネズミ]]が繁殖して島の規模の小さな農業に大きな打撃を与えた。[[1970年代]]、村では他島の実績を踏まえて[[ニホンイタチ]]の放獣案が検討されたが、野鳥などに与える影響が大きいとして反対運動も行われた<ref>イタチ放すのは待って 貴重な野鳥に聞き 声からす米人教師『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月17日朝刊 12版 23面</ref>。村は、島民の生活と島の[[生態系]]の保護という板挟みに遭い、イタチのオスのみを放獣する折衷案を実行した。しかし、[[1980年代]]に入ると何者かがイタチのつがいを放獣したことを契機にイタチの繁殖が始まり、[[オカダトカゲ]]が捕食により減少するなど想定していない生態系の変化も見られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toho-u.ac.jp/sci/bio/column/0805.html |title=伊豆諸島におけるイタチ導入:歴史と事実と教訓 |publisher=東邦大学理学部生物学科 |date= |accessdate=2021年12月14日}}</ref>。
<div style="width:78%;">{{Miyake-jima weatherbox}}</div>
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[[江戸時代]]は[[流刑地]]で、[[江島生島事件]]の役者[[生島新五郎]]などの墓がある。
[[江戸時代]]は[[流刑地]]で、[[江島生島事件]]の役者[[生島新五郎]]などの墓がある。
噴火活動が盛んで、[[1085年]](応徳2年)以降、[[1154年]](久寿元年)、[[1469年]](文明元年)、[[1535年]](天文4年)、[[1595年]](文禄4年)、[[1643年]](寛永20年)、[[1712年]](正徳2年)、[[1763年]](宝暦13年)、[[1811年]](文化8年)、[[1835年]](天保6年)、[[1874年]](明治7年)、[[1940年]](昭和15年)、[[1962年]](昭和37年)、[[1983年]](昭和58年)、[[2000年]](平成12年)に噴火の記録がある。
本島の南約18kmの海上には[[御蔵島]]がある。人口300人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船[[えびね丸]]の基地が置かれた阿古地区には御蔵島会館が置かれ、御蔵関係の人々の利便を図ってきた。御蔵島の子供たちは島内の中学校を卒業した後、三宅島内、御蔵会館の寮で生活をしながら三宅島の高校に通うなど、両島は極めて密接な関係にあった。三宅島の商店や建設業者にとっては、競合相手の少ない御蔵島は重要なマーケットであり、漁業者にも地元の漁師が少ない御蔵島周辺海域は絶好の漁場であった。
[[1993年]]以降、御蔵島での[[ホエールウォッチング|イルカウォッチング]]がテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、三宅島の人々も続々参入し、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、イルカウォッチングに使う漁船の大きさで優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
しかし、2000年の噴火で状況は一変した。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として本州島側の東京都地域からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都庁と共同で[[エコ・ツーリズム]]の推進を打ち出し、[[ミナミハンドウイルカ]]など動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、三宅島の島民帰島後も御蔵島への船便はそのまま維持された。
船便の御蔵島就航継続に加え、三宅島と本州(東京都内)を結ぶ航空便の利便性が一時大幅に低下したため、三宅島は御蔵島への物資・交通の中継地という役割を大きく失うこととなった。
現在は三宅村と御蔵島村とがイルカウォッチングに関する協定を結び、両島が協定ルールに基づきイルカウォッチングを行っている。
行政面は噴火の前・後ともに一貫して変わっておらず、都の出先機関は御蔵島も含め三宅支庁であり、御蔵島駐在所は[[三宅島警察署]]の管轄である。建設業の主力も引き続き三宅資本である。
[[File:Miyakejima O-Yama Volcano crater.jpg|thumb|right|250px|雄山の火口]]
噴火活動が盛んで、[[1085年]](応徳2年)以降、[[1154年]](久寿元年)、[[1469年]](文明元年)、[[1535年]](天文4年)、[[1595年]](文禄4年)、[[1643年]](寛永20年)、[[1712年]](正徳2年)、[[1763年]](宝暦13年)、[[1811年]](文化8年)、[[1835年]](天保6年)、[[1874年]](明治7年)、[[1940年]](昭和15年)、[[1962年]](昭和37年)、[[1983年]](昭和58年)、[[2000年]](平成12年)に噴火の記録がある。
'''雄山'''(おやま)を中心としてしばしば激しく[[噴火]]をすることで知られ、[[火山噴火予知連絡会]]によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山([[常時観測火山]])に選定されている<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/47volcanoes.pdf |title = 火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山|publisher = 気象庁|accessdate = 2016年02月25日}}</ref>。また、[[日本]]の[[気象庁]]によって火山活動度ランクAの[[活火山]]に指定されている。
最近500年間では、平均50年の間隔で13回の噴火が起き、[[明治]]時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。
最近500年間では、平均50年の間隔で13回の噴火が起き、[[明治]]時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。
=== 1983年の噴火 ===
=== 1983年の噴火 ===
[[File:Ako Junior High School gym.jpg|thumb|right|250px|1983年の噴火で溶岩流に飲み込まれた阿古小中学校体育館跡]]
[[File:Ako Junior High School gym.jpg|thumb|right|250px|1983年の噴火で溶岩流に飲み込まれた阿古小中学校体育館跡]]
1983年に発生した噴火では、[[10月3日]](削除) 12:00( (削除ここまで)以下[[日本標準時|JST]])頃から、阿古地区などの島の南部で小さな[[地震]]が感じられるようになり、(削除) 13: (削除ここまで)58に北部の三宅島測候所で[[火山性地震]]を観測。そして、(削除) 15: (削除ここまで)23頃に南西山腹に生じた割れ目から噴火した。噴火が始まったのは七島展望台と二男山の間にある斜面と考えられている。噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていった。
1983年に発生した噴火では、[[10月3日]](追記) 正午( (追記ここまで) 以下[[日本標準時|JST]])頃から、阿古地区などの島の南部で小さな[[地震]]が感じられるようになり、(追記) 午後1時 (追記ここまで) 58(追記) 分 (追記ここまで) に北部の三宅島測候所で[[火山性地震]]を観測。そして、(追記) 午後3時 (追記ここまで) 23(追記) 分 (追記ここまで) 頃に南西山腹に生じた割れ目から噴火(追記) が発生 (追記ここまで) した。噴火が始まったのは七島展望台と二男山の間にある斜面と考えられている。噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていった。
割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩は、主に火口西方にある阿古方面、南西にある錆ヶ浜方面、南南西の粟辺方面の3つに分かれて流れ、阿古方面に流れた溶岩流は約1.7[[キロメートル毎時|km/h]]で流下し、(削除) 18:00 (削除ここまで)頃には民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込んだ。粟辺方面に流れた溶岩流は、(削除) 17: (削除ここまで)56に海に到達したことが確認されている。
割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩は、主に火口西方にある阿古方面、南西にある錆ヶ浜方面、南南西の粟辺方面の3つに分かれて流れ、阿古方面に流れた溶岩流は約1.7[[キロメートル毎時|km/h]]で流下し、(追記) 午後6時 (追記ここまで) 頃には民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込んだ。粟辺方面に流れた溶岩流は、(追記) 午後5時 (追記ここまで) 56(追記) 分頃 (追記ここまで) に海に到達したことが確認されている。
一方、(削除) 16: (削除ここまで)17に[[新澪池]]の北西で大噴煙が上がり、(削除) 16: (削除ここまで)38には最初のマグマ水蒸気爆発が発生。(削除) 17: (削除ここまで)10頃には島の南端、新鼻付近で爆発が発生し、(削除) 17: (削除ここまで)22には隣の[[御蔵島]]から新澪池の西方で火柱が目撃されている。その後、(削除) 19: (削除ここまで)17に新澪池北西から西方にかけて激しい爆発が発生し、(削除) 21: (削除ここまで)40には新鼻およびその東側で最も激しい水蒸気爆発が発生。翌4日未明にかけて爆発や噴火が相次いだ。これらの一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や東方の坪田方面に[[火山礫]]や[[火山灰]]が降下した。溶岩の流出は4日の早朝にはほぼ止まった。
一方、(追記) 午後4時 (追記ここまで) 17(追記) 分 (追記ここまで) に[[新澪池]]の北西で大噴煙が上がり、(追記) 午後4時 (追記ここまで) 38(追記) 分 (追記ここまで) には最初のマグマ水蒸気爆発が発生。(追記) 午後5時 (追記ここまで) 10(追記) 分 (追記ここまで) 頃には島の南端、新鼻付近で爆発が発生し、(追記) 午後5時 (追記ここまで) 22(追記) 分 (追記ここまで) には隣の[[御蔵島]]から新澪池の西方で火柱が目撃されている。その後、(追記) 午後7時 (追記ここまで) 17(追記) 分 (追記ここまで) に新澪池北西から西方にかけて激しい爆発が発生し、(追記) 午後9時 (追記ここまで) 40(追記) 分 (追記ここまで) には新鼻およびその東側で最も激しい水蒸気爆発が発生。翌4日未明にかけて爆発や噴火が相次いだ。これらの一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や東方の坪田方面に[[火山礫]]や[[火山灰]]が降下した。溶岩の流出は4日の早朝にはほぼ止まった。
住宅の埋没・焼失は約400棟。山林耕地等に被害が出たが、幸いにも人的な被害はなかった。
住宅の埋没・焼失は約400棟。山林耕地等に被害が出たが、幸いにも人的な被害はなかった。
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=== 2000年の噴火 ===
=== 2000年の噴火 ===
[[File:Buried Torii of Shiitori Shrie.jpg|thumb|250px|right|2000年の噴火で泥流に埋もれた椎取神社の鳥居。埋没した社殿の屋根も奥に見える。]]
[[File:Buried Torii of Shiitori Shrie.jpg|thumb|250px|right|2000年の噴火で泥流に埋もれた椎取神社の鳥居。埋没した社殿の屋根も奥に見える。]]
[[File:Miyakejima (Feb 2000) Relief Map, SRTM-1 (+Cldera Rim by 2000 Eruption).jpg|thumb|250px|right|2000年の噴火前の三宅島地形図。点線はその噴火後のカルデラ縁を表している。]]
[[6月26日]]18:30過ぎから三宅島直下で激しい[[群発地震]]が始まった(地震の詳細は「[[伊豆諸島北部群発地震]]」を参照)。この活動は1983年の噴火直前と酷似しているとして、19:33に気象庁は噴火の恐れが高いと判断し「緊急火山情報」を出した。翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したが、群発地震の震源は島の北西の海底へ移動。[[6月27日]]9:00頃に島の阿古地区の西方沖約1kmで海面変色が[[海上保安庁]]により確認されるにとどまった。
[[File:Landsat Miyakejima Island.jpg|thumb|250px|right|[[ランドサット]]衛星写真。山頂部からの[[噴煙]]が確認できる。]]
[[2000年]][[6月26日]]午後6時30分過ぎから三宅島直下で激しい[[群発地震]]が始まった。この活動が1983年の噴火直前の現象に酷似しているとして、気象庁は午後7時33分に噴火が発生する可能性が高いと判断し「緊急火山情報」を出した。翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したが、群発地震の震源は島の北西の海底へ移動。[[6月27日]]午前9時頃に島の阿古地区の西方沖約1kmで海面変色が[[海上保安庁]]により確認されるにとどまった。
地震活動は沈静化することなく、三宅島西方海域から西北西に移動し、神津島近海に達する。[[7月1日]](削除) 16:00 (削除ここまで)過ぎ、一連の群発地震で最大となるM6.5の地震が[[神津島]]近海で発生、神津島では震度6弱を記録し、死者1人、負傷者15人を出した。
(追記) しかし、 (追記ここまで) 地震活動は沈静化することなく、三宅島西方海域から西北西に移動し、神津島近海に達する。[[7月1日]](追記) 午後4時 (追記ここまで) 過ぎ、一連の群発地震で最大となるM6.5の地震が[[神津島]]近海で発生、神津島では(追記) 最大 (追記ここまで) 震度6弱を記録し、死者1人、負傷者15人を出した。
噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴火は沈静化(削除) し (削除ここまで)、一方で(削除) 7月に入ると (削除ここまで)雄山火口直下の地震が[[7月4日]]から再び活発化した。[[7月8日]](削除) 18: (削除ここまで)41に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生、灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山の山頂が陥没して直径約800mの巨大な陥没火口([[カルデラ]])ができていることが翌(削除) [[7月9日]] (削除ここまで)朝になって(削除) から (削除ここまで)確認された。これは三宅島でおよそ2,500年前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さは500mにも達した。[[7月14日]]、[[7月15日|15日]]には再び水蒸気爆発が起こり、島内に大量の火山灰が降下した。
噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴火は沈静化、(追記) その (追記ここまで) 一方で雄山火口直下の地震が[[7月4日]]から再び活発化した。[[7月8日]](追記) 午後6時 (追記ここまで) 41(追記) 分 (追記ここまで) に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生、灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山の山頂(追記) 部 (追記ここまで) が陥没して直径約800mの巨大な陥没火口([[カルデラ]])ができていることが翌朝になって確認された。これは三宅島でおよそ2,500年前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さは500mにも達した。[[7月14日]]、[[7月15日|15日]]には再び水蒸気爆発が起こり、島内に大量の火山灰が降下した。
[[8月10日]](削除) の朝 (削除ここまで)6(削除) : (削除ここまで)30頃、山頂の陥没口からついに[[マグマ水蒸気爆発]]とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。その後の爆発は激しさを増してゆき、[[8月18日]]の大規模噴火では噴石を伴う噴煙が上空15,000mに達し、小規模な[[火砕サージ]]、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し[[火山弾]]は住宅地にも落下した。[[8月29日]](削除) 早朝の (削除ここまで)午前5(削除) :00 (削除ここまで)過ぎの大規模噴火では低温の[[火砕流]]が発生して火口の北北東にある神着地区、美茂井地区などを流下して海岸に達した。この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温のため死傷者は出なかった{{(削除) Refnest|group=注 (削除ここまで)|この時の火砕流の様子を島民の女性がリアルタイムでインターネットの掲示板<ref>[http://www.miyakejima.net/0903/members/myaru20000903.html 死線を越えて]</ref>([[千葉達郎]](削除) 氏 (削除ここまで)の掲示板[http://www.arukazan.jp/Hal.T_bkup/ 「ある火山学者のひとりごと」]への書き込み)に書き込んでおり、話題となった。火砕流内の温度は40°C程度だったと見られている。}}。この噴火では6(削除) :00 (削除ここまで)過ぎに反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達し、更に雨による泥流も頻発した。
[[8月10日]](追記) 午前 (追記ここまで) 6(追記) 時 (追記ここまで) 30(追記) 分 (追記ここまで) 頃、山頂の陥没口からついに[[マグマ水蒸気爆発]]とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。その後の爆発は激しさを増してゆき、[[8月18日]]の大規模噴火では噴石を伴う噴煙が上空15,000mに達し、小規模な[[火砕サージ]]、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し[[火山弾]]は住宅地にも落下した。[[8月29日]]午前5(追記) 時 (追記ここまで) 過ぎの大規模噴火では低温の[[火砕流]]が発生して火口の北北東にある神着地区、美茂井地区などを流下して海岸に達した。この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温のため死傷者は出なかった{{(追記) efn (追記ここまで) |この時の火砕流の様子を島民の女性がリアルタイムでインターネットの掲示板<ref>[http://www.miyakejima.net/0903/members/myaru20000903.html 死線を越えて](追記) - 有珠山ネット 藤井 (追記ここまで) </ref>([[千葉達郎]]の掲示板[http://www.arukazan.jp/Hal.T_bkup/ 「ある火山学者のひとりごと」]への書き込み)に書き込んでおり、話題となった。火砕流内の温度は40°C程度だったと見られている。}}。この噴火では(追記) 午前 (追記ここまで) 6(追記) 時 (追記ここまで) 過ぎに反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達し、更に雨による泥流も頻発した。
小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m<sup>3</sup>と推定されており、[[御蔵島]]だけでなく100km以上離れている[[八丈島]]でも降灰が確認されている。
小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m<sup>3</sup>と推定されており、[[御蔵島]]だけでなく100km以上離れている[[八丈島]]でも降灰が確認されている。
(削除) 火山の (削除ここまで)噴火活動は18日(削除) のもの (削除ここまで)をピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも[[刺激臭]]がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに[[二酸化硫黄]]の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した(後述)。火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。
噴火活動は18日をピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも[[刺激臭]]がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに[[二酸化硫黄]]の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した(後述)。火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。
火山ガスの放出は[[2004年]]7月20日(削除) に (削除ここまで)観測(削除) されたのを最後 (削除ここまで)1日あたり1万トンを下まわるようになり<ref name=kishocho1 />、翌年2月には全島避難が解除された(後述)。しかしその後も火山ガスの放出は継続し、[[2011年]](削除) の (削除ここまで)半ばになって(削除) ほぼ (削除ここまで)1日あたり(削除) 1000 (削除ここまで)トンを下回った。[[2013年]][[1月22日]]を最後に噴火活動は認められていない<ref name=kishocho2>{{Cite web(削除) (削除ここまで)|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20150605140011_320.html |title=火山名 三宅島 噴火予報:警報解除 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017年11月28日}}</ref>。(削除) ガスの放出も (削除ここまで)[[2016年]]夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている<ref name=kishocho1>{{Cite web(削除) (削除ここまで)|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/320_So2emission.htm |title=三宅島 火山ガス(二酸化硫黄)放出量 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017年11月28日}}</ref>。
火山ガスの放出は[[2004年]]7月20日(追記) の (追記ここまで) 観測(追記) 以降 (追記ここまで) 1日あたり(追記) およそ (追記ここまで) 1万トンを下まわるようになり<ref name=kishocho1 />、翌年2月には全島避難が解除された(後述)。しかしその後も火山ガスの放出は継続し、[[2011年]]半ばになって(追記) ようやく (追記ここまで) 1日あたり(追記) およそ1,000 (追記ここまで) トンを下回った。[[2013年]][[1月22日]]を最後に噴火活動は認められていない<ref name=kishocho2>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで) |url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20150605140011_320.html |title=火山名 三宅島 噴火予報:警報解除 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017年11月28日}}</ref>。[[2016年]]夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている<ref name=kishocho1>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで) |url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/320_So2emission.htm |title=三宅島 火山ガス(二酸化硫黄)放出量 |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2017年11月28日}}</ref>。
==== 噴火と島民 ====
==== 噴火と島民 ====
8月18日の噴石の到来と29日の火砕流発生により島民から、すぐにもの島外避難の要望が村議会や都庁にも多く寄せられていたが、当時の都知事[[石原慎太郎]]と[[火山噴火予知連絡会|火山噴火予知連]]との間で避難開始判断を譲り合う場面を多くのマスコミが報道した。2000年[[9月2日]]から全島民が島外へ避難を開始した。天皇・皇后は恒例だった9月の[[葉山御用邸]]での静養を取りやめた。避難が長期化した避難指示期間中の[[2004年]]度には、[[日本放送協会|NHK]]が島の1,280世帯、2,303万4,000円分の[[NHK受信料]]を免除した<ref>(削除) [ (削除ここまで)https://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/pdf/hisaishiennichiran050614.pdf 三宅島噴火(削除) 及び新島・神津島近海地震 (削除ここまで)に対してとった措置(削除) ] (削除ここまで)</ref>。
8月18日の噴石の到来と29日の火砕流発生により島民から、すぐにもの島外避難の要望が村議会や都庁にも多く寄せられていたが、当時の都知事[[石原慎太郎]]と[[火山噴火予知連絡会|火山噴火予知連]]との間で避難開始判断を譲り合う場面を多くのマスコミが報道した。2000年[[9月2日]]から全島民が島外へ避難を開始した。天皇・皇后は恒例だった9月の[[葉山御用邸]]での静養を取りやめた。避難が長期化した避難指示期間中の[[2004年]]度には、[[日本放送協会|NHK]]が島の1,280世帯、2,303万4,000円分の[[NHK受信料]]を免除した<ref>(追記) {{Cite web|url= (追記ここまで) https://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/pdf/hisaishiennichiran050614.pdf(追記) |title= (追記ここまで) 三宅島噴火(追記) 災害の被災者 (追記ここまで) に対してとった(追記) 支援 (追記ここまで) 措置(追記) 一覧 |website= 防災情報のページ |publisher= 内閣府 |date= 2005年04月01日 |accessdate= 2024年03月14日 }} (追記ここまで) </ref>。
[[File:080430 Miike Miyakejima.JPG|thumb|250px|三宅島三池地区の倒木群。2008年]]
[[File:080430 Miike Miyakejima.JPG|thumb|250px|三宅島三池地区の倒木群。2008年]]
日本においては人為的に発生する二酸化硫黄の量が(削除) 、 (削除ここまで)1日あたり約3,000トンとされるが、観測結果からこれを目安に[[2005年]][[2月1日]](削除) 15:00 (削除ここまで)を(削除) 以 (削除ここまで)て、全島避難指示から4年5ヶ月に(削除) およ (削除ここまで)ぶ(削除) 一部を除き (削除ここまで)[[避難指示]]が解除された。[[5月1日]]から観光客の受け入れが再開され、[[2006年]]3月には[[上皇明仁|天皇]]、[[上皇后美智子|美智子]][[皇后]]が島民の慰労に訪れた。避難が長期間にわたったため、生活基盤を三宅島外の伊豆諸島、東京都、本州島内などに移した人々も多く、[[住民基本台帳]]によれば[[2007年]]1月時点での[[人口]]は約3,800人となっていた。2010年現在では約3,000名が帰島している。
日本においては人為的に発生する二酸化硫黄の量が1日あたり約3,000トンとされるが、観測結果(追記) など (追記ここまで) からこれを目安に[[2005年]][[2月1日]](追記) 午後3時 (追記ここまで) を(追記) もっ (追記ここまで) て、全島避難指示から4年5ヶ月に(追記) 及 (追記ここまで) ぶ[[避難指示]]が(追記) 一部を除き (追記ここまで) 解除された。[[5月1日]]から観光客の受け入れが再開され、[[2006年]]3月には[[上皇明仁|天皇]]、[[上皇后美智子|美智子]][[皇后]]が島民の慰労に訪れた。避難が長期間にわたったため、生活基盤を三宅島外の伊豆諸島、東京都、本州島内などに移した人々も多く、[[住民基本台帳]]によれば[[2007年]]1月時点での[[人口]]は約3,800人となっていた。2010年現在では約3,000名が帰島している。
数mの火山灰が積もったままだった雄山中腹の公共牧野付近も[[2011年]]には山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限が解除された。[[2015年]]2月1日、帰島10周年を迎えた。6月5日、気象庁の噴火警戒レベルが1になり火口周辺も含め立ち入り規制が解除された<ref name=kishocho2 />。
数mの火山灰が積もったままだった雄山中腹の公共牧野付近も[[2011年]]には山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限が解除された。[[2015年]]2月1日、帰島10周年を迎えた。6月5日、気象庁の噴火警戒レベルが1になり火口周辺も含め立ち入り規制が解除された<ref name=kishocho2 />。
==== 伊豆半島デタッチメント仮説 ====
==== 伊豆半島デタッチメント仮説 ====
東京大学地震研究所の[[瀬野徹三]](削除) も (削除ここまで)、この噴火活動に先立ち神津島沖で地震を伴って発生したマグマの移動(削除) ( (削除ここまで)「神津-三宅の[[岩脈]]貫入事件」とよばれる(削除) ) (削除ここまで)を、[[本州]]列島に衝突する[[伊豆半島]]を乗せたプレートが、ストレスにより新たに[[せん断]]が発生し、これが南側に断層として現れて大規模な貫入が起きたとする「伊豆半島デタッチメント仮説」を説いている<ref>{{Cite web(削除) (削除ここまで)|url=http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/people/seno/Japan.index.html |title=東京大学地震研究所 教員紹介 瀬野徹三 |accessdate=2017年11月28日}}</ref>。実際に2000年7月時点で噴火で噴出した質量(およそ300万トン)よりもカルデラ形成を引き起こした地下の質量欠損が非常に大きかった(およそ7億トン)と考えられており{{sfn|早川|2000|ref=hayakawa}}、大規模なマグマ移動が起きたことを示唆している。
東京大学地震研究所の[[瀬野徹三]](追記) は (追記ここまで) 、この噴火活動に先立ち神津島沖で地震を伴って発生したマグマの移動(追記) {{efn| (追記ここまで) 「神津-三宅の[[岩脈]]貫入事件」とよばれる(追記) 。}} (追記ここまで) を、[[本州]]列島に衝突する[[伊豆半島]]を乗せたプレートが、ストレスにより新たに[[せん断]]が発生し、これが南側に断層として現れて大規模な貫入が起きたとする「伊豆半島デタッチメント仮説」を説いている<ref>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで) |url=http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/people/seno/Japan.index.html |title=東京大学地震研究所 教員紹介 瀬野徹三 |accessdate=2017年11月28日}}</ref>。実際に2000年7月時点で噴火で噴出した質量(およそ300万トン)よりもカルデラ形成を引き起こした地下の質量欠損が非常に大きかった(およそ7億トン)と考えられており{{sfn|早川|2000|ref=hayakawa}}、大規模なマグマ移動が起きたことを示唆している。
2000年の噴火による火山ガスや噴火による泥流によって、周辺海域を含めた島の広範囲が影響を受けており、環境が激変している。かつては200種以上の[[野鳥]]がおり、「バードアイランド」と呼ばれ、[[バードウォッチング]]の愛好者が良く訪れていた。火山活動が比較的緩やかになったことで、これらの野鳥も回復しつつあるという。[[ツグミ科]]の[[アカコッコ]]は[[固有種]]で、「アカコッコ館」があり、島の象徴になっている。
[[ジャック・モイヤー]]が魅了された三宅島周辺海域は、[[魚類]]などが豊富で、様々な[[地形]]を有することから、[[スキューバダイビング]]が楽しめる場所でもあり、首都圏から多くのダイバーが訪れる。島周辺には多くのダイビングポイントがあり、約600種類以上海水魚が生息している。約90種類のサンゴが生息する北限域である。
「長太郎池」は天然の閉鎖性磯場で、[[ハゼ]]や[[タカノハダイ]]から[[ウツボ]]、[[ガンガゼ]]、[[ヤドカリ]]、[[ヒトデ]]など、さまざまな海洋生物が容易に観察することができることから、家族連れなどにも人気がある。一方、火山活動の影響が少なかった海域では数年間人間の活動が無かったことから、[[イセエビ]]などが豊富に棲む良い環境になっている。
[[御蔵島]]同様、[[ミナミハンドウイルカ]]の生息が確認されている。[[八丈島]]同様、三宅島でも2010年代下旬から冬季の[[ザトウクジラ]]の目撃が急増した<ref>[https://www.miyakejima.gr.jp/info/%E3%82%B6%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%9B%AE%E6%92%83%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%92%E5%8B%9F%E9%9B%86%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%EF%BC%81/ ザトウクジラの目撃情報を募集しています!]</ref>。
[[1960年代]]、島内に[[ノネズミ]]が繁殖して島の規模の小さな農業に大きな打撃を与えた。[[1970年代]]、村では他島の実績を踏まえて[[イタチ]]の放獣案が検討されたが、野鳥などに与える影響が大きいとして反対運動も行われた<ref>イタチ放すのは待って 貴重な野鳥に聞き 声からす米人教師『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月17日朝刊 12版 23面</ref>。村は、島民の生活と島の[[生態系]]の保護という板挟みに遭い、イタチのオスのみを放獣する折衷案を実行した。しかし、[[1980年代]]に入ると何者かがイタチのつがいを放獣したことを契機にイタチの繁殖が始まり、[[オカダトカゲ]]が捕食により減少するなど想定していない生態系の変化も見られた<ref>{{Cite web |url=https://www.toho-u.ac.jp/sci/bio/column/0805.html |title=伊豆諸島におけるイタチ導入:歴史と事実と教訓 |publisher=東邦大学理学部生物学科 |date= |accessdate=2021年12月14日}}</ref>。
[[File:Izumisaki_Lighthouse.jpg|thumb|伊豆岬灯台。1909年点灯であり、伊豆諸島初の[[灯台]]および現役の灯台としては都内最古である。]]
避難生活が始まる前は[[漁業]]([[くさや]]・[[テングサ]]が有名)・[[農業]]([[アシタバ|明日葉]]が有名)のほか、豊かな自然を生かした観光業が盛んであった。
避難生活が始まる前は[[漁業]]([[くさや]]・[[テングサ]]が有名)・[[農業]]([[アシタバ|明日葉]]が有名)のほか、豊かな自然を生かした観光業が盛んであった。
避難解除後も漁業生産についてはキンメダイ、マグロ類を中心に復活が著しい。農業については明日葉やパッションフルーツの栽培が盛ん<ref>{{Cite web|title=三宅支庁産業課|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/sangyouka/1sangyouka.html|website=(削除) https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/sangyouka/1sangyouka.html (削除ここまで)|accessdate=2018年12月13日|publisher=}}</ref>。観光業については数年間島が閉鎖状態にあったこともあり好漁場として釣り客が多数来島している。頻繁に起こる噴火活動が作り上げた独特な地形を目的に、地質学者や火山学者が多く訪れる。
避難解除後も漁業生産については(追記) [[ (追記ここまで) キンメダイ(追記) ]] (追記ここまで) 、(追記) [[ (追記ここまで) マグロ(追記) ]] (追記ここまで) 類を中心に復活が著しい。農業については明日葉や(追記) [[ (追記ここまで) パッションフルーツ(追記) ]] (追記ここまで) の栽培が盛ん<ref>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで) |title=三宅支庁産業課|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/sangyouka/1sangyouka.html|website=(追記) 東京都総務局 三宅支庁 (追記ここまで) |accessdate=2018年12月13日|publisher=}}</ref>。観光業については数年間島が閉鎖状態にあったこともあり好漁場として釣り客が多数来島している。頻繁に起こる噴火活動が作り上げた独特な地形を目的に、地質学者や火山学者が多く訪れる。
一般観光では時期によって来島する客層が大きく異なり、釣り(10月〜5月)、ダイビング(5月〜11月)、バードウォッチング(2月〜6月)、海水浴(7月〜9月)、キャンプ(5月〜11月)、その他、が客層別のピーク月となっている。
[[バードウォッチング]]、[[スキューバダイビング]]、[[ホエールウォッチング]]・[[ドルフィンスイム]]、[[ジオトレッキング]]、[[サイクリング]]、[[ボルダリング]]・[[フリークライミング|クライミング]]、[[釣り]]など、[[エコツーリズム]]を中心とした自然環境を活かした観光資源に恵まれている。
一般観光では時期によって来島する客層が大きく異なり、ダイビング(5月〜11月)、バードウォッチング(2月〜6月)、[[ホエールウォッチング]](12月〜4月)海水浴(7月〜9月)、キャンプ(5月〜11月)、釣り(10月〜5月)、その他、が客層別のピーク月となっている。
[[File:Izumisaki_Lighthouse.jpg|thumb|right|200px|伊豆岬灯台。1909年点灯の伊豆諸島初の[[灯台]]で、現役の灯台としては都内最古。]]
[[東京港|東京]]・[[竹芝埠頭|竹芝]]から、[[東海汽船]]の[[旅客船|客船]]「[[橘丸 (東海汽船・3代)|橘丸]]」が1日1往復就航している<ref>"[https://www.tokaikisen.co.jp/ourship/tachibana-room/ 大型客船橘丸のご案内|伊豆諸島 三宅島・御蔵島・八丈島へ|東海汽船]". 2023年4月3日閲覧。</ref>。[[調布飛行場]]から[[三宅島空港]]へ、[[新中央航空]]の[[飛行機]]便が1日3往復就航している<ref>{{Cite web|title=三宅島及び御蔵島へのアクセス : 東京都三宅支庁公式ホームページ|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/access.html|website=www.soumu.metro.tokyo.lg.jp|accessdate=2018年12月13日|publisher=}}</ref>。大島、御蔵島間には[[東邦航空]]が運航する[[ヘリコプター]]、[[東京愛らんどシャトル]]が毎日就航している。
島内には「大久保浜」「錆ヶ浜」「三池浜」「大船戸」「長太郎池」などの[[海水浴場]]があり、それぞれ無料シャワー・トイレが整備されている。<!--2013年7月1日より山頂付近立入り禁止指定区域を除き、ガスマスクの携行は原則不要。-->他にキャンプ場や日帰り温泉施設等もある。
[[釣り]]、[[バードウォッチング]]、[[スキューバダイビング]]、[[ドルフィンスイム]]、[[ジオトレッキング]]、[[サイクリング]]、[[ボルダリング]]・[[フリークライミング|クライミング]]。島内には「大久保浜」「錆ヶ浜」「三池浜」「大船戸」「長太郎池」などの[[海水浴場]]があり、それぞれ無料シャワー・トイレが整備されている(長太郎池を除く)。<!--2013年7月1日より山頂付近立入り禁止指定区域を除き、ガスマスクの携行は原則不要。-->他にキャンプ場や日帰り温泉施設等もある。
== (削除) 御蔵島との関係 (削除ここまで) ==
== (追記) 交通 (追記ここまで) ==
[[東京港|東京]]・[[竹芝埠頭|竹芝]]から、[[東海汽船]]の[[旅客船|客船]]「[[橘丸 (東海汽船・3代)|橘丸]]」が1日1往復就航している<ref>{{Cite web|url= https://www.tokaikisen.co.jp/ourship/tachibana-room/ |title= 大型客船 橘丸のご案内|伊豆諸島 三宅島・御蔵島・八丈島へ |publisher= 東海汽船 |accessdate= 2024年03月14日 }}</ref>。[[調布飛行場]]から[[三宅島空港]]へ、[[新中央航空]]の[[飛行機]]便が1日3往復就航している<ref>{{Cite web|和書|title=三宅島及び御蔵島へのアクセス |url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/access.html |website=東京都三宅支庁公式ホームページ |accessdate=2018年12月13日 }}</ref>。大島、御蔵島間には[[東邦航空]]が運航する[[ヘリコプター]]、[[東京愛らんどシャトル]]が毎日就航している。
本島の南約18kmには、[[御蔵島]]がある。人口300人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船[[えびね丸]]の基地が置かれた阿古地区には御蔵島会館が置かれ、御蔵関係の人々の利便を図ってきた。御蔵島の子供たちは島内の中学校を卒業した後、三宅島内、御蔵会館の寮で生活をしながら三宅島の高校に通うなど、両島は極めて密接な関係にあった。三宅島の商店や建設業者にとっては、競合相手の少ない御蔵島は重要なマーケットであり、漁業者にも地元の漁師が少ない御蔵島周辺海域は絶好の漁場であった。
[[1993年]]以降、御蔵島でのイルカウォッチングがテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、三宅島の人々も続々参入し、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、イルカウォッチングに使う漁船の大きさで優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
しかし、2000年の噴火で状況は一変した。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として本州島側の東京都地域からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都庁と共同で[[エコ・ツーリズム]]の推進を打ち出し、[[イルカ]]など動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、三宅島の島民帰島後も御蔵島への船便はそのまま維持された。
船便の御蔵島就航継続に加え、三宅島と本州(東京都内)を結ぶ航空便の利便性が一時大幅に低下したため、三宅島は御蔵島への物資・交通の中継地という役割を大きく失うこととなった。
現在は三宅村と御蔵島村とがイルカウォッチングに関する協定を結び、両島が協定ルールに基づきイルカウォッチングを行っている。
行政面は噴火の前・後ともに一貫して変わっておらず、都の出先機関は御蔵島も含め三宅支庁であり、御蔵島駐在所は[[三宅島警察署]]の管轄である。建設業の主力も引き続き三宅資本である。
2000年に発生した火山の噴火による災害の復興策として、主に観光客誘致などを目的として[[イギリス]]の[[マン島]]で行われている[[マン島TTレース]]を参考に、当時東京都知事であった[[石原慎太郎]]が[[オートバイ]]([[二輪車]])レースの開催を提唱し、[[2007年]][[11月16日]]から[[11月18日]]に[[チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル]]が開催された。
2000年に発生した火山の噴火による災害の復興策として、主に観光客誘致などを目的として[[イギリス]]の[[マン島]]で行われている[[マン島TTレース]]を参考に、当時東京都知事であった[[石原慎太郎]]が[[オートバイ]]([[二輪車]])レースの開催を提唱し、[[2007年]][[11月16日]]から[[11月18日]]に[[チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル]]が開催された。
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開催当時も火山ガスが噴出する地域があるなど、観光客誘致の起爆剤となるかどうかは未知数とされているが、第2回が[[2008年]][[10月17日]]から[[10月19日]]に、第3回が[[2009年]][[10月24日]]、[[10月25日]]に開催された。第4回に当たる[[2010年]]は『WERIDE 三宅島』(ウィーライドみやけじま)と命名され、[[11月6日]]と[[11月7日]]の2日間で行われた。この回は山腹中央に設置されたオフロードコースで行われた[[エンデューロレース]]などが実施されたが、島を一周するパレードやラリーは行われなかった。
開催当時も火山ガスが噴出する地域があるなど、観光客誘致の起爆剤となるかどうかは未知数とされているが、第2回が[[2008年]][[10月17日]]から[[10月19日]]に、第3回が[[2009年]][[10月24日]]、[[10月25日]]に開催された。第4回に当たる[[2010年]]は『WERIDE 三宅島』(ウィーライドみやけじま)と命名され、[[11月6日]]と[[11月7日]]の2日間で行われた。この回は山腹中央に設置されたオフロードコースで行われた[[エンデューロレース]]などが実施されたが、島を一周するパレードやラリーは行われなかった。
現地を視察した石原はこのエンデューロレースを成功と強調し、参加者からの肯定的な意見も寄せられているが<ref>(削除) 47NEWS (削除ここまで) (削除) 共同通信2011年11月6日配信 (削除ここまで) (削除) [ (削除ここまで)http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110601000525.html 三宅島で初のバイクレース 溶岩地形を疾走(削除) ] (削除ここまで)</ref>、三宅島の復興や観光振興への寄与という目的の達成度はまだ不明確で、海外の有名レーサーの参加による国際的なレースの開催も実現されないままである。
現地を視察した石原はこのエンデューロレースを成功と強調し、参加者からの肯定的な意見も寄せられているが<ref>(追記) {{Cite (追記ここまで) (追記) news|url= (追記ここまで) http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110601000525.html(追記) |title= (追記ここまで) 三宅島で初のバイクレース 溶岩地形を疾走(追記) |newspaper= 47NEWS |agency= 共同通信 |publisher= 株式会社全国新聞ネット |date= 2010年11月06日 |accessdate= 2024年03月14日 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20101109224356/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110601000525.html |archivedate= 2010年11月09日 }} (追記ここまで) </ref>、三宅島の復興や観光振興への寄与という目的の達成度はまだ不明確で、海外の有名レーサーの参加による国際的なレースの開催も実現されないままである。
WERIDE三宅島はその後毎年開催されており(2017年現在)、エンデューロレースの他にもサイクリングイベント、ヒルクライム、親子サマーキャンプなど一連のイベントの総称となっている。
WERIDE三宅島はその後毎年開催されており(2017年現在)、エンデューロレースの他にもサイクリングイベント、ヒルクライム、親子サマーキャンプなど一連のイベントの総称となっている。
== マラソン大会 ==
(追記) = (追記ここまで) == マラソン大会 (追記) = (追記ここまで) ==
三宅島商工会女性部の発案により2011年から始まった。「三宅島レディース・ラン」という名称で、10kmの他、5kmと3kmの部があった。「レディース・ラン」と銘打っているが3kmの部に限り男性も参加可能で、女性は全部門に於いて島外からも参加可能だった。当初は盛況で、エンデューローレースに続く島の起爆剤として期待されていたが、島外からの参加者が思いの外少なく、2015年の第5回を以て終了した。
三宅島商工会女性部の発案により2011年から始まった。「三宅島レディース・ラン」という名称で、10kmの他、5kmと3kmの部があった。「レディース・ラン」と銘打っているが3kmの部に限り男性も参加可能で、女性は全部門に於いて島外からも参加可能だった。当初は盛況で、エンデューローレースに続く島の起爆剤として期待されていたが、島外からの参加者が思いの外少なく、2015年の第5回を以て終了した。
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{{Reflist(追記) |30em (追記ここまで) }}
* [[国立天文台]]編 『[[理科年表]] 平成20年』 [[丸善]]、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7。
* [[国立天文台]]編 『[[理科年表]] 平成20年』 [[丸善]]、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7。
* {{Cite web(削除) (削除ここまで)|url=https://cais.gsi.go.jp/YOCHIREN/history/2-3-1_miyake2000.pdf |format=PDF |title=三宅島・神津島・新島近海における地震活動(2000 年(削除) 6 (削除ここまで)月(削除) 〜8 (削除ここまで)月) |work=[[山岡耕春]] |(削除) pubsliher (削除ここまで)=[[地震予知連絡会]] |accessdate=2017年11月28日|ref=yamaoka}}
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* [[チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル]]
* [[チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル]]
* [[つうかあ (アニメ)]] - 2017年のテレビアニメ。三宅島を舞台とする[[サイドカー#モータースポーツ|サイドカーレーシング]]が描かれる。
* [[つうかあ (アニメ)]] - 2017年のテレビアニメ。三宅島を舞台とする[[サイドカー#モータースポーツ|サイドカーレーシング]]が描かれる。
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**[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/ 三宅支庁(東京都総務局)ホームページ] [https://twitter.com/miyakeshicho twitter] [https://www.facebook.com/東京都三宅支庁-1589338174613302/ facebook]
**[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/14miyake/miyakehp/ 三宅支庁(東京都総務局)ホームページ] [https://twitter.com/miyakeshicho twitter] [https://www.facebook.com/東京都三宅支庁-1589338174613302/ facebook]
** [https://www.miyakejima.gr.jp/ 三宅島観光協会]
** [https://www.miyakejima.gr.jp/ 三宅島観光協会]
* {{Cite web(削除) (削除ここまで)|url=http://www.hayakawayukio.jp/news/2000/miyake/remarks/fact.html |title=三宅島-神津島2000-2001年ファクト |date=2010年07月22日 |publisher=[[早川由紀夫]] |accessdate=2017年11月28日|ref=hayakawa}}
* {{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで) |url=http://www.hayakawayukio.jp/news/2000/miyake/remarks/fact.html |title=三宅島-神津島2000-2001年ファクト |date=2010年07月22日 |publisher=[[早川由紀夫]] |accessdate=2017年11月28日|ref=hayakawa}}
* {{ウィキトラベル インライン|三宅島|三宅島}}
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[[Category:三宅村の地理]]
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[[Category:伊豆諸島]]
[[Category:伊豆諸島]]
[[Category:火山島]]
[[Category:(追記) 日本の (追記ここまで) 火山島]]
[[Category:成層火山]]
[[Category:成層火山]]
[[Category:日本のカルデラ]]
[[Category:日本のカルデラ]]
2024年9月5日 (木) 15:03時点における最新版
三宅島 (みやけじま)は、伊豆諸島 の島 である。島の全域が富士箱根伊豆国立公園 となっており、行政区画は島全体が東京都 三宅村 に属する。
伊豆諸島 の地図。
東京都の本州島側地域から南海上175km、伊豆大島 の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした島。伊豆-小笠原海嶺 の上にあり、第四紀 更新世 の後期(約1万 - 15万年前)になってこの付近の海底で噴火 が始まり、島が形成されたと考えられている。
島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえるひとつの火山体であり、玄武岩 質の成層火山 である。頂上部に直径約3.5kmの桑木平カルデラ と、その内側に3,000年前の八丁平噴火(噴出量0.37 DRE km3 )の際に直径約1.6kmの八丁平カルデラが形成された。雄山はその中央火口丘であったが、2000年の噴火によって新たに直径約1.6kmのカルデラが形成され八丁平カルデラは消滅している。
玄武岩質マグマ起源の溶岩 は粘性が低いため溶岩流 となり、過去何度か流下している。1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。このほか、山腹には割れ目噴火 も発生しており、線上に並ぶスコリア丘 や、海岸付近ではマグマが海水と接して発生するマグマ水蒸気爆発 による爆裂火口地形(マール )がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
1983年の測量では最高点の標高は814mだったが、2000年に始まった噴火によって、火口 が直径約500m以上の範囲で陥没し拡大した事で、現在の最高点の標高は775m[ 1] となっている。2007年には日本の地質百選 に選定された。
雨温図
三宅島
雨温図 (説明 )
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
気温(°C )
総降水量(mm)
インペリアル 換算
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
気温(°F )
総降水量(in)
他の伊豆諸島 の島々と同様に、基本的には年間を通して穏やかで温かく、降水量も少なくない。
しかし、台風 の影響を受けやすく、大陸や大型の島嶼から離れた小さな島であり、概して平地も少ないなど、風水害が起きやすい。
三宅村神着(三宅島特別地域気象観測所、標高38m)の気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
最高気温記録 °C (°F )
20.1 (68.2)
21.8 (71.2)
22.6 (72.7)
24.9 (76.8)
28.1 (82.6)
31.1 (88)
32.0 (89.6)
32.8 (91)
32.3 (90.1)
29.4 (84.9)
25.7 (78.3)
23.8 (74.8)
32.8 (91)
平均最高気温 °C (°F )
12.1 (53.8)
12.4 (54.3)
15.0 (59)
18.6 (65.5)
21.9 (71.4)
24.2 (75.6)
27.8 (82)
29.1 (84.4)
26.7 (80.1)
22.9 (73.2)
19.0 (66.2)
14.6 (58.3)
20.4 (68.7)
日平均気温 °C (°F )
9.9 (49.8)
10.0 (50)
12.3 (54.1)
15.8 (60.4)
19.2 (66.6)
21.8 (71.2)
25.3 (77.5)
26.6 (79.9)
24.5 (76.1)
20.8 (69.4)
16.8 (62.2)
12.5 (54.5)
18.0 (64.4)
平均最低気温 °C (°F )
7.1 (44.8)
6.9 (44.4)
9.2 (48.6)
12.7 (54.9)
16.2 (61.2)
19.5 (67.1)
23.2 (73.8)
24.3 (75.7)
22.2 (72)
18.4 (65.1)
14.1 (57.4)
9.7 (49.5)
15.3 (59.5)
最低気温記録 °C (°F )
−1.2 (29.8)
−1.4 (29.5)
−0.2 (31.6)
2.8 (37)
7.4 (45.3)
12.1 (53.8)
14.8 (58.6)
18.2 (64.8)
14.1 (57.4)
8.9 (48)
3.7 (38.7)
0.9 (33.6)
−1.4 (29.5)
降水量 mm (inch)
150.9 (5.941)
170.9 (6.728)
275.6 (10.85)
229.3 (9.028)
243.3 (9.579)
349.7 (13.768)
240.2 (9.457)
206.6 (8.134)
330.9 (13.028)
418.9 (16.492)
234.2 (9.22)
171.1 (6.736)
3,024.7 (119.083)
平均降水日数 (≥0.5 mm)
10.7
11.2
15.7
12.7
12.5
14.8
11.4
10.0
15.2
14.9
13.7
11.7
154.9
% 湿度
65
66
70
73
79
86
87
86
83
78
72
67
76
平均月間日照時間
114.8
117.9
133.5
166.7
181.8
126.8
182.8
221.9
136.0
103.9
107.2
108.7
1,693.3
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1942年-現在)[ 2] [ 3]
東側の海上から見た三宅島。2008年
2000年の噴火による火山ガスや噴火による泥流によって、周辺海域を含めた島の広範囲が影響を受けており、環境が激変している。かつては200種以上の野鳥 がおり、通称「バードアイランド」と呼ばれる程にバードウォッチング の愛好者が良く訪れていた。なお、火山活動が比較的緩やかになったことで、これらの野鳥も回復しつつあるという。ツグミ科 のアカコッコ は固有種 で、「アカコッコ館」があり、島の象徴になっている。
ジャック・モイヤー が魅了された三宅島周辺海域は、魚類 などが豊富で、様々な地形 を有することから、スキューバダイビング が楽しめる場所でもあり、首都圏から多くのダイバーが訪れる。島周辺には多くのダイビングポイントがあり、約600種類以上海水魚が生息している。約90種類のサンゴが生息する北限域である。
「長太郎池」は干潮時は外からの波が入って来ない[ 4] 天然の閉鎖性磯場であり、ハゼ やタカノハダイ からウツボ 、ガンガゼ 、ヤドカリ 、ヒトデ など、さまざまな海洋生物を容易に観察することができることから家族連れなどの観光客にも人気がある。一方で、火山活動の影響が少なかった海域では数年間人間の活動が無かったことから、イセエビ などが豊富に棲む良い環境になっている。
御蔵島 同様、ミナミハンドウイルカ の生息が確認されている。また、八丈島 同様、三宅島でも2018年 から冬・春季のザトウクジラ の目撃が急増しており、ホエールウォッチング への活用を模索している[ 5] [ 6] 。一帯では他の鯨類 も確認されており[ 注釈 1] 、中には非常に希少な種類も含まれている。2016年 [ 11] にはコククジラ が[ 注釈 2] 、2016年と2023年 にはセミクジラ が陸上から観察されており[ 14] [ 15] 、セミクジラの場合は同一人物が同じ場所で複数回目視する[ 16] という稀有な事例である[ 注釈 3] 。
しかし、三宅島や周辺一帯[ 注釈 4] にも生息していたとされるニホンアシカ は絶滅したとされている[ 20] [ 21] [ 22] 。
1960年代 、島内にノネズミ が繁殖して島の規模の小さな農業に大きな打撃を与えた。1970年代 、村では他島の実績を踏まえてニホンイタチ の放獣案が検討されたが、野鳥などに与える影響が大きいとして反対運動も行われた[ 23] 。村は、島民の生活と島の生態系 の保護という板挟みに遭い、イタチのオスのみを放獣する折衷案を実行した。しかし、1980年代 に入ると何者かがイタチのつがいを放獣したことを契機にイタチの繁殖が始まり、オカダトカゲ が捕食により減少するなど想定していない生態系の変化も見られた[ 24] 。
島名の由来はいくつかある。事代主命 (ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、付近の島々を治めたという伝説から宮家島といった説、8世紀 に多治比真人三宅麿 が流されたことから三宅島とした説、火山が噴火することから御焼島に由来する説などがある。
江戸時代 は流刑地 で、江島生島事件 の役者生島新五郎 などの墓がある。
本島の南約18kmの海上には御蔵島 がある。人口300人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船えびね丸 の基地が置かれた阿古地区には御蔵島会館が置かれ、御蔵関係の人々の利便を図ってきた。御蔵島の子供たちは島内の中学校を卒業した後、三宅島内、御蔵会館の寮で生活をしながら三宅島の高校に通うなど、両島は極めて密接な関係にあった。三宅島の商店や建設業者にとっては、競合相手の少ない御蔵島は重要なマーケットであり、漁業者にも地元の漁師が少ない御蔵島周辺海域は絶好の漁場であった。
1993年 以降、御蔵島でのイルカウォッチング がテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、三宅島の人々も続々参入し、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、イルカウォッチングに使う漁船の大きさで優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
しかし、2000年の噴火で状況は一変した。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として本州島側の東京都地域からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都庁と共同でエコ・ツーリズム の推進を打ち出し、ミナミハンドウイルカ など動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、三宅島の島民帰島後も御蔵島への船便はそのまま維持された。
船便の御蔵島就航継続に加え、三宅島と本州(東京都内)を結ぶ航空便の利便性が一時大幅に低下したため、三宅島は御蔵島への物資・交通の中継地という役割を大きく失うこととなった。
現在は三宅村と御蔵島村とがイルカウォッチングに関する協定を結び、両島が協定ルールに基づきイルカウォッチングを行っている。
行政面は噴火の前・後ともに一貫して変わっておらず、都の出先機関は御蔵島も含め三宅支庁であり、御蔵島駐在所は三宅島警察署 の管轄である。建設業の主力も引き続き三宅資本である。
雄山の火口
噴火活動が盛んで、1085年 (応徳2年)以降、1154年 (久寿元年)、1469年 (文明元年)、1535年 (天文4年)、1595年 (文禄4年)、1643年 (寛永20年)、1712年 (正徳2年)、1763年 (宝暦13年)、1811年 (文化8年)、1835年 (天保6年)、1874年 (明治7年)、1940年 (昭和15年)、1962年 (昭和37年)、1983年 (昭和58年)、2000年 (平成12年)に噴火の記録がある。
雄山 (おやま)を中心としてしばしば激しく噴火 をすることで知られ、火山噴火予知連絡会 によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山(常時観測火山 )に選定されている[ 25] 。また、日本 の気象庁 によって火山活動度ランクAの活火山 に指定されている。
最近500年間では、平均50年の間隔で13回の噴火が起き、明治 時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。
1983年の噴火で溶岩流に飲み込まれた阿古小中学校体育館跡
1983年に発生した噴火では、10月3日 正午(以下JST )頃から、阿古地区などの島の南部で小さな地震 が感じられるようになり、午後1時58分に北部の三宅島測候所で火山性地震 を観測。そして、午後3時23分頃に南西山腹に生じた割れ目から噴火が発生した。噴火が始まったのは七島展望台と二男山の間にある斜面と考えられている。噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていった。
割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩は、主に火口西方にある阿古方面、南西にある錆ヶ浜方面、南南西の粟辺方面の3つに分かれて流れ、阿古方面に流れた溶岩流は約1.7km/h で流下し、午後6時頃には民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込んだ。粟辺方面に流れた溶岩流は、午後5時56分頃に海に到達したことが確認されている。
一方、午後4時17分に新澪池 の北西で大噴煙が上がり、午後4時38分には最初のマグマ水蒸気爆発が発生。午後5時10分頃には島の南端、新鼻付近で爆発が発生し、午後5時22分には隣の御蔵島 から新澪池の西方で火柱が目撃されている。その後、午後7時17分に新澪池北西から西方にかけて激しい爆発が発生し、午後9時40分には新鼻およびその東側で最も激しい水蒸気爆発が発生。翌4日未明にかけて爆発や噴火が相次いだ。これらの一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や東方の坪田方面に火山礫 や火山灰 が降下した。溶岩の流出は4日の早朝にはほぼ止まった。
住宅の埋没・焼失は約400棟。山林耕地等に被害が出たが、幸いにも人的な被害はなかった。
国土地理院 の測定によると、噴出物の総量は、溶岩流が5 - × ばつ 106 m3 × ばつ 106 m3 、計2,000万t であった。噴火前後に、計101回の有感地震が発生し、そのうちの最大は3日22:33に発生したM 6.2の地震で、三宅高校 では震度 5を観測した。
2000年の噴火で泥流に埋もれた椎取神社の鳥居。埋没した社殿の屋根も奥に見える。
2000年の噴火前の三宅島地形図。点線はその噴火後のカルデラ縁を表している。
ランドサット 衛星写真。山頂部からの噴煙 が確認できる。
2000年 6月26日 午後6時30分過ぎから三宅島直下で激しい群発地震 が始まった。この活動が1983年の噴火直前の現象に酷似しているとして、気象庁は午後7時33分に噴火が発生する可能性が高いと判断し「緊急火山情報」を出した。翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したが、群発地震の震源は島の北西の海底へ移動。6月27日 午前9時頃に島の阿古地区の西方沖約1kmで海面変色が海上保安庁 により確認されるにとどまった。
しかし、地震活動は沈静化することなく、三宅島西方海域から西北西に移動し、神津島近海に達する。7月1日 午後4時過ぎ、一連の群発地震で最大となるM6.5の地震が神津島 近海で発生、神津島では最大震度6弱を記録し、死者1人、負傷者15人を出した。
噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴火は沈静化、その一方で雄山火口直下の地震が7月4日 から再び活発化した。7月8日 午後6時41分に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生、灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山の山頂部が陥没して直径約800mの巨大な陥没火口(カルデラ )ができていることが翌朝になって確認された。これは三宅島でおよそ2,500年前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さは500mにも達した。7月14日 、15日 には再び水蒸気爆発が起こり、島内に大量の火山灰が降下した。
8月10日 午前6時30分頃、山頂の陥没口からついにマグマ水蒸気爆発 とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。その後の爆発は激しさを増してゆき、8月18日 の大規模噴火では噴石を伴う噴煙が上空15,000mに達し、小規模な火砕サージ 、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し火山弾 は住宅地にも落下した。8月29日 午前5時過ぎの大規模噴火では低温の火砕流 が発生して火口の北北東にある神着地区、美茂井地区などを流下して海岸に達した。この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温のため死傷者は出なかった[ 注釈 5] 。この噴火では午前6時過ぎに反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達し、更に雨による泥流も頻発した。
小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m3 と推定されており、御蔵島 だけでなく100km以上離れている八丈島 でも降灰が確認されている。
噴火活動は18日をピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも刺激臭 がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに二酸化硫黄 の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した(後述)。火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。
火山ガスの放出は2004年 7月20日の観測以降1日あたりおよそ1万トンを下まわるようになり[ 27] 、翌年2月には全島避難が解除された(後述)。しかしその後も火山ガスの放出は継続し、2011年 半ばになってようやく1日あたりおよそ1,000トンを下回った。2013年 1月22日 を最後に噴火活動は認められていない[ 28] 。2016年 夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている[ 27] 。
8月18日の噴石の到来と29日の火砕流発生により島民から、すぐにもの島外避難の要望が村議会や都庁にも多く寄せられていたが、当時の都知事石原慎太郎 と火山噴火予知連 との間で避難開始判断を譲り合う場面を多くのマスコミが報道した。2000年9月2日 から全島民が島外へ避難を開始した。天皇・皇后は恒例だった9月の葉山御用邸 での静養を取りやめた。避難が長期化した避難指示期間中の2004年 度には、NHK が島の1,280世帯、2,303万4,000円分のNHK受信料 を免除した[ 29] 。
三宅島三池地区の倒木群。2008年
日本においては人為的に発生する二酸化硫黄の量が1日あたり約3,000トンとされるが、観測結果などからこれを目安に2005年 2月1日 午後3時をもって、全島避難指示から4年5ヶ月に及ぶ避難指示 が一部を除き解除された。5月1日 から観光客の受け入れが再開され、2006年 3月には天皇 、美智子 皇后 が島民の慰労に訪れた。避難が長期間にわたったため、生活基盤を三宅島外の伊豆諸島、東京都、本州島内などに移した人々も多く、住民基本台帳 によれば2007年 1月時点での人口 は約3,800人となっていた。2010年現在では約3,000名が帰島している。
数mの火山灰が積もったままだった雄山中腹の公共牧野付近も2011年 には山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限が解除された。2015年 2月1日、帰島10周年を迎えた。6月5日、気象庁の噴火警戒レベルが1になり火口周辺も含め立ち入り規制が解除された[ 28] 。
東京大学地震研究所の瀬野徹三 は、この噴火活動に先立ち神津島沖で地震を伴って発生したマグマの移動[ 注釈 6] を、本州 列島に衝突する伊豆半島 を乗せたプレートが、ストレスにより新たにせん断 が発生し、これが南側に断層として現れて大規模な貫入が起きたとする「伊豆半島デタッチメント仮説」を説いている[ 30] 。実際に2000年7月時点で噴火で噴出した質量(およそ300万トン)よりもカルデラ形成を引き起こした地下の質量欠損が非常に大きかった(およそ7億トン)と考えられており、大規模なマグマ移動が起きたことを示唆している。
伊豆岬灯台。1909年点灯であり、伊豆諸島初の灯台 および現役の灯台としては都内最古である。
避難生活が始まる前は漁業 (くさや ・テングサ が有名)・農業 (明日葉 が有名)のほか、豊かな自然を生かした観光業が盛んであった。
避難解除後も漁業生産についてはキンメダイ 、マグロ 類を中心に復活が著しい。農業については明日葉やパッションフルーツ の栽培が盛ん[ 32] 。観光業については数年間島が閉鎖状態にあったこともあり好漁場として釣り客が多数来島している。頻繁に起こる噴火活動が作り上げた独特な地形を目的に、地質学者や火山学者が多く訪れる。
バードウォッチング 、スキューバダイビング 、ホエールウォッチング ・ドルフィンスイム 、ジオトレッキング 、サイクリング 、ボルダリング ・クライミング 、釣り など、エコツーリズム を中心とした自然環境を活かした観光資源に恵まれている。
一般観光では時期によって来島する客層が大きく異なり、ダイビング(5月〜11月)、バードウォッチング(2月〜6月)、ホエールウォッチング (12月〜4月)海水浴(7月〜9月)、キャンプ(5月〜11月)、釣り(10月〜5月)、その他、が客層別のピーク月となっている。
島内には「大久保浜」「錆ヶ浜」「三池浜」「大船戸」「長太郎池」などの海水浴場 があり、それぞれ無料シャワー・トイレが整備されている。他にキャンプ場や日帰り温泉施設等もある。
東京 ・竹芝 から、東海汽船 の客船 「橘丸 」が1日1往復就航している[ 33] 。調布飛行場 から三宅島空港 へ、新中央航空 の飛行機 便が1日3往復就航している[ 34] 。大島、御蔵島間には東邦航空 が運航するヘリコプター 、東京愛らんどシャトル が毎日就航している。
2000年に発生した火山の噴火による災害の復興策として、主に観光客誘致などを目的としてイギリス のマン島 で行われているマン島TTレース を参考に、当時東京都知事であった石原慎太郎 がオートバイ (二輪車 )レースの開催を提唱し、2007年 11月16日 から11月18日 にチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル が開催された。
当初の石原の構想では、島を一周する全長約30kmの都道212号線で公道レースを実施するというものであった。しかし、火山ガスの噴出が続く島での開催には安全面からの不安が指摘され、日本の主要オートバイメーカーが軒並み協賛を見送るなどの結果、当初の構想からは規模が縮小し、これは当時の石原都政への批判材料ともなった。結局、レーシング・マシンの走行は、阿古地区の2.5km周回コースでの時速70kmの速度制限付きとなった。パレードやラリーでは島全周が、公式レースであるドラッグレース では閉鎖中の飛行場が使われた。
開催当時も火山ガスが噴出する地域があるなど、観光客誘致の起爆剤となるかどうかは未知数とされているが、第2回が2008年 10月17日 から10月19日 に、第3回が2009年 10月24日 、10月25日 に開催された。第4回に当たる2010年 は『WERIDE 三宅島』(ウィーライドみやけじま)と命名され、11月6日 と11月7日 の2日間で行われた。この回は山腹中央に設置されたオフロードコースで行われたエンデューロレース などが実施されたが、島を一周するパレードやラリーは行われなかった。
現地を視察した石原はこのエンデューロレースを成功と強調し、参加者からの肯定的な意見も寄せられているが[ 35] 、三宅島の復興や観光振興への寄与という目的の達成度はまだ不明確で、海外の有名レーサーの参加による国際的なレースの開催も実現されないままである。
WERIDE三宅島はその後毎年開催されており(2017年現在)、エンデューロレースの他にもサイクリングイベント、ヒルクライム、親子サマーキャンプなど一連のイベントの総称となっている。
三宅島商工会女性部の発案により2011年から始まった。「三宅島レディース・ラン」という名称で、10kmの他、5kmと3kmの部があった。「レディース・ラン」と銘打っているが3kmの部に限り男性も参加可能で、女性は全部門に於いて島外からも参加可能だった。当初は盛況で、エンデューローレースに続く島の起爆剤として期待されていたが、島外からの参加者が思いの外少なく、2015年の第5回を以て終了した。
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