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|名前=浦田 尚(削除) 気 (削除ここまで)
|名前=浦田 尚(追記) 希 (追記ここまで)
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|ユース年1=1990-1992|ユースクラブ1=[[武南中学校・高等学校|武南高(削除) 等学 (削除ここまで)校]]
|ユース年1=1990-1992|ユースクラブ1=(追記) {{Flagicon|JPN}} (追記ここまで)[[武南中学校・高等学校|武南高校]]
|ユース年2=1993-1996|ユースクラブ2=[[国士舘大学サッカー部|国士舘大学]]
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|年1=1997-2001|クラブ1=[[川崎フロンターレ]]|出場1=58|得点1=10
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⚫
|監督年(削除) 1 (削除ここまで)=(削除) 2011- (削除ここまで)2013|監督チーム(削除) 1 (削除ここまで)=[[(削除) 駿台学園 (削除ここまで)中学校・高等学校|(削除) 駿台学園 (削除ここまで)高(削除) 等学 (削除ここまで)校]]
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|監督年(追記) 2 (追記ここまで)=2013(追記) - (追記ここまで)|監督チーム(追記) 2 (追記ここまで)=(追記) {{Flagicon|JPN}} (追記ここまで)[[(追記) 埼玉平成 (追記ここまで)中学校・高等学校|(追記) 埼玉平成 (追記ここまで)高校]]
'''浦田 尚希'''(うらた なおき、[[1974年]][[6月27日]] - )は、[[埼玉県]]出身の元[[サッカー選手|プロサッカー選手]]、現サッカー指導者。現役時代は[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[川崎フロンターレ]]、[[ヴァンフォーレ甲府]]に所属した。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。
'''浦田 尚希'''(うらた なおき、[[1974年]][[6月27日]] - )は、[[埼玉県]]出身の元[[サッカー選手|プロサッカー選手]]、現サッカー指導者。現役時代は[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[川崎フロンターレ]]、[[ヴァンフォーレ甲府]]に所属した。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。
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高校は埼玉県の強豪・[[武南中学校・高等学校|武南高等学校]]に進学。1学年上に[[上野良治]]、同学年に[[室井市衛]]や[[浅利悟]]など、後にJリーグでも活躍する選手の中、フォワードとして活躍した。武南高校は浦田が在籍した3年間全てで[[全国高等学校サッカー選手権大会]]でベスト8以上の成績を残し、浦田が3年生だった[[1992年]]度の[[第71回全国高等学校サッカー選手権大会|第71回大会]]では準決勝に進んだ{{#tag:ref|チームメイトで、後に俳優としても活躍した[[江原淳史]]が8ゴールで大会得点王を獲得した。|group=注}}。卒業後は[[国士舘大学]]に進学し、同大学の[[国士舘大学サッカー部|サッカー部]]で活動。[[関東大学サッカーリーグ戦]]では3年生の1995年度第69回大会で優勝、続く1996年度は大学リーグ戦準優勝で得点王、続く[[第45回全日本大学サッカー選手権大会]]では同級生の[[今野章]]や[[佐藤尽]]、2学年下の[[熱田眞]]や[[金沢浄]]や[[鏑木享]]などと共にチームを初優勝に導き、自らも大会最優秀選手となった。
高校は埼玉県の強豪・[[武南中学校・高等学校|武南高等学校]]に進学。1学年上に[[上野良治]]、同学年に[[室井市衛]]や[[浅利悟]]など、後にJリーグでも活躍する選手の中、フォワードとして活躍した。武南高校は浦田が在籍した3年間全てで[[全国高等学校サッカー選手権大会]]でベスト8以上の成績を残し、浦田が3年生だった[[1992年]]度の[[第71回全国高等学校サッカー選手権大会|第71回大会]]では準決勝に進んだ{{#tag:ref|チームメイトで、後に俳優としても活躍した[[江原淳史]]が8ゴールで大会得点王を獲得した。|group=注}}。卒業後は[[国士舘大学]]に進学し、同大学の[[国士舘大学サッカー部|サッカー部]]で活動。[[関東大学サッカーリーグ戦]]では3年生の1995年度第69回大会で優勝、続く1996年度は大学リーグ戦準優勝で得点王、続く[[第45回全日本大学サッカー選手権大会]]では同級生の[[今野章]]や[[佐藤尽]]、2学年下の[[熱田眞]]や[[金沢浄]]や[[鏑木享]]などと共にチームを初優勝に導き、自らも大会最優秀選手となった。
[[1997年]]、大学卒業後に浦田は当時[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]所属の川崎フロンターレにプロ選手として加入。川崎には高校・大学で共に2学年先輩となる[[伊藤彰 (サッカー選手)|伊藤彰]]が所属していた。Jリーグ参入を目指して補強を強化していた川崎ではルーキーシーズンにプロ初得点を記録し、2年目からは試合の終盤に起用される[[スーパーサブ]]として出場試合数も増えた。川崎がJリーグ2部 (J2) に参加した[[1999年]]シーズンも浦田は好調で、[[11月5日]]の[[サガン鳥栖]]戦([[等々力陸上競技場|等々力]])では川崎のJリーグ1部 (J1) 昇格を決定付ける[[ゴールデンゴール|Vゴール]]を決めた<ref>{{Cite web|url=http://www.jleague.jp/video/detail/1653/|title=浦田のVゴールで川崎FのJ1昇格が決定!【マッチアーカイブ1999】|publisher=Jリーグ.jp|date=2016年04月08日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>。この1999シーズンが浦田のプロ生活にとってのベストシーズンとなった。
[[1997年]]、大学卒業後に浦田は当時[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]所属の川崎フロンターレにプロ選手として加入。川崎には高校・大学で共に2学年先輩となる[[伊藤彰 (サッカー選手)|伊藤彰]]が所属していた。Jリーグ参入を目指して補強を強化していた川崎ではルーキーシーズンにプロ初得点を記録し、2年目からは試合の終盤に起用される[[スーパーサブ]]として出場試合数も増えた。川崎がJリーグ2部 (J2) に参加した[[1999年]]シーズンも浦田は好調で、[[11月5日]]の[[サガン鳥栖]]戦([[等々力陸上競技場|等々力]])では川崎のJリーグ1部 (J1) 昇格を決定付ける[[ゴールデンゴール|Vゴール]]を決めた<ref>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://www.jleague.jp/video/detail/1653/|title=浦田のVゴールで川崎FのJ1昇格が決定!【マッチアーカイブ1999】|publisher=Jリーグ.jp|date=2016年04月08日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>。この1999シーズンが浦田のプロ生活にとってのベストシーズンとなった。
[[2000年]]、J1初挑戦となった川崎で{{#tag:ref|同シーズンに今野章が[[ジュビロ磐田]]から移籍した。|group=注}}、浦田は引き続き試合途中から出場して劣勢を挽回することを期待され、[[5月27日]]の1stステージ第17節・[[セレッソ大阪]]戦([[長居陸上競技場|長居]])でも後半途中から出場し、延長後半に相手のステージ優勝を阻止するVゴール([[我那覇和樹]]が出した背後からのクロスボールに対するダイレクトボレー)を決めた<ref>{{Cite web|url=http://www.fcjapan.co.jp/news/000528_01.html|title=Jリーグ1stステージ セレッソ無念のVゴール負け、マリノス逆転|publisher=FC JAPAN|date=2000年05月27日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>{{#tag:ref|この時の川崎は1stステージ最下位で、ホームでの試合で勝てば優勝となる首位セレッソの有利が予想されていた。この試合は後に「長居の悲劇」と呼ばれることになった<ref>{{Cite web|url=http://www.mycerezo.jp/news/column/14/00000444/|title=続 セレッソ・アイデンティティ 第7回:わたしの5.27 |publisher=まいど!セレッソセレッソ大阪公式ファンサイト|date=2015年05月27日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>。なお、この結果、上野良治が中心選手となっていた[[横浜F・マリノス]]が逆転でステージ優勝となった。|group=注}}。しかし川崎は同シーズンの年間順位で最下位(18位)に終わり、更に翌[[2001年]]シーズンはJ2で8位に終わってJ1復帰に失敗した{{#tag:ref|川崎のJ1復帰は2005年シーズンとなった。|group=注}}。浦田も負傷に苦しみ、2001年はJ2リーグ戦での試合出場ができず、同年末に川崎との契約が満了した。[[2002年]]は[[ヴァンフォーレ甲府]]に移籍して再びJ2で戦い、2シーズンぶりの公式戦ゴールも記録したが、甲府との契約は1シーズンで終了し、同年限りで現役を引退した。
[[2000年]]、J1初挑戦となった川崎で{{#tag:ref|同シーズンに今野章が[[ジュビロ磐田]]から移籍した。|group=注}}、浦田は引き続き試合途中から出場して劣勢を挽回することを期待され、[[5月27日]]の1stステージ第17節・[[セレッソ大阪]]戦([[長居陸上競技場|長居]])でも後半途中から出場し、延長後半に相手のステージ優勝を阻止するVゴール([[我那覇和樹]]が出した背後からのクロスボールに対するダイレクトボレー)を決めた<ref>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://www.fcjapan.co.jp/news/000528_01.html|title=Jリーグ1stステージ セレッソ無念のVゴール負け、マリノス逆転|publisher=FC JAPAN|date=2000年05月27日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>{{#tag:ref|この時の川崎は1stステージ最下位で、ホームでの試合で勝てば優勝となる首位セレッソの有利が予想されていた。この試合は後に「長居の悲劇」と呼ばれることになった<ref>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=http://www.mycerezo.jp/news/column/14/00000444/|title=続 セレッソ・アイデンティティ 第7回:わたしの5.27 |publisher=まいど!セレッソセレッソ大阪公式ファンサイト|date=2015年05月27日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>。なお、この結果、上野良治が中心選手となっていた[[横浜F・マリノス]]が逆転でステージ優勝となった。|group=注}}。しかし川崎は同シーズンの年間順位で最下位(18位)に終わり、更に翌[[2001年]]シーズンはJ2で8位に終わってJ1復帰に失敗した{{#tag:ref|川崎のJ1復帰は2005年シーズンとなった。|group=注}}。浦田も負傷に苦しみ、2001年はJ2リーグ戦での試合出場ができず、同年末に川崎との契約が満了した。[[2002年]]は[[ヴァンフォーレ甲府]]に移籍して再びJ2で戦い、2シーズンぶりの公式戦ゴールも記録したが、甲府との契約は1シーズンで終了し、同年限りで現役を引退した。
浦田は国士舘大学に教員免許を取得したこともあり、現役引退後は指導者の道を歩んだ。最初は出身地の埼玉県で中学校の[[体育#保健体育|保健体育]]の非常勤講師として1年間勤務した後、Jリーグのキャリアサポートセンターのあっせんを受けて[[石川県]][[金沢市]]の「スポーツクラブヴィテン」のインストラクターとしてサッカースクールを担当した<ref>Jリーグ公式サイト内、Jリーグキャリアサポートページ、2004年取材「[http://www.j-league.or.jp/csc/report/report_urata.html 浦田尚希さん]、2013年1月16日閲覧。</ref>。その後[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]にある[[駿台学園中学校・高等学校|駿台学園高等学校]]に指導者として招かれ、[[2011年]]度からは同高校サッカー部の監督を務めた<ref name="sundaiblog20110408">駿台学園高校サッカー部ブログ、2011年4月8日付「[http://blog.jplayers.jp/sundai-sc/daily/201104/08/ 入学式]」、2013年1月16日閲覧。</ref>。また、[[日本サッカー協会]]公認の[[日本サッカー協会指導者ライセンス|C級ライセンス]]、[[日本体育協会]]の公認指導員資格を保持している<ref name="sundaiblog20110408"/>。
浦田は国士舘大学に教員免許を取得したこともあり、現役引退後は指導者の道を歩んだ。最初は出身地の埼玉県で中学校の[[体育#保健体育|保健体育]]の非常勤講師として1年間勤務した後、Jリーグのキャリアサポートセンターのあっせんを受けて[[石川県]][[金沢市]]の「スポーツクラブヴィテン」のインストラクターとしてサッカースクールを担当した<ref>Jリーグ公式サイト内、Jリーグキャリアサポートページ、2004年取材「[http://www.j-league.or.jp/csc/report/report_urata.html 浦田尚希さん]、2013年1月16日閲覧。</ref>。その後[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]にある[[駿台学園中学校・高等学校|駿台学園高等学校]]に指導者として招かれ、[[2011年]]度からは同高校サッカー部の監督を務めた<ref name="sundaiblog20110408">駿台学園高校サッカー部ブログ、2011年4月8日付「[http://blog.jplayers.jp/sundai-sc/daily/201104/08/ 入学式]」、2013年1月16日閲覧。</ref>。また、[[日本サッカー協会]]公認の[[日本サッカー協会指導者ライセンス|C級ライセンス]]、[[日本体育協会]]の公認指導員資格を保持している<ref name="sundaiblog20110408"/>。
[[2013年]]度からは郷里の埼玉県にある[[埼玉平成中学校・高等学校|埼玉平成高等学校]]の監督を務めている<ref>{{Cite web|url=https://koko-soccer.com/column/25-minikoi/38-houmon02|title=オレたちを見に来い 埼玉平成高校編(埼玉県)|publisher=高校サッカードットコム|date=2014年09月27日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>。
[[2013年]]度からは郷里の埼玉県にある[[埼玉平成中学校・高等学校|埼玉平成高等学校]]の監督を務めている<ref>{{Cite web(追記) |和書 (追記ここまで)|url=https://koko-soccer.com/column/25-minikoi/38-houmon02|title=オレたちを見に来い 埼玉平成高校編(埼玉県)|publisher=高校サッカードットコム|date=2014年09月27日|accessdate=2016年11月06日}}</ref>。
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!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|[[Jリーグカップ|ナビスコ杯]]!!colspan="2"|[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]!!colspan="2"|期間通算
!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|[[Jリーグカップ|ナビスコ杯]]!!colspan="2"|[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]!!colspan="2"|期間通算
|1994||[[国士舘大学サッカー部|国士大]]||||-||colspan="2"|-||colspan="2"|-||||||||
|1994|(追記) |rowspan="2" (追記ここまで)|[[国士舘大学サッカー部|国士大]]|||(追記) |rowspan="2" (追記ここまで)|-||colspan="2"|-||colspan="2"|-||||||||
|1996||(削除) 国士大||||- (削除ここまで)||colspan="2"|-||colspan="2"|-||||||||
|1996||||colspan="2"|-||colspan="2"|-||||||||
|[[1997年のJFL|1997]]||[[川崎フロンターレ|川崎]]||24||[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]||4||2||colspan="2"|-||0||0||4||2
|[[1997年のJFL|1997]]|(追記) |rowspan="5" (追記ここまで)|[[川崎フロンターレ|川崎]]|(追記) |rowspan="2" (追記ここまで)|24|(追記) |rowspan="2" (追記ここまで)|[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]||4||2||colspan="2"|-||0||0||4||2
|[[1998年のJFL|1998]](削除) ||川崎||24||旧JFL (削除ここまで)||13||0||2||2||1||1||16||3
|[[1998年のJFL|1998]]||13||0||2||2||1||1||16||3
|[[1999年のJリーグ|1999]]||(削除) 川崎| (削除ここまで)|13||[[日本プロサッカーリーグ|J2]]||28||6||1||0||2||2||31||8
|[[1999年のJリーグ|1999]]||(追記) rowspan="3" (追記ここまで)|13||[[日本プロサッカーリーグ|J2]]||28||6||1||0||2||2||31||8
|[[2000年のJリーグ|2000]](削除) ||川崎||13 (削除ここまで)||[[日本プロサッカーリーグ|J1]]||13||2||2||0||0||0||15||2
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2024年9月19日 (木) 11:43時点における最新版
浦田 尚希(うらた なおき、1974年 6月27日 - )は、埼玉県出身の元プロサッカー選手、現サッカー指導者。現役時代はJリーグの川崎フロンターレ、ヴァンフォーレ甲府に所属した。ポジションはフォワード。
高校は埼玉県の強豪・武南高等学校に進学。1学年上に上野良治、同学年に室井市衛や浅利悟など、後にJリーグでも活躍する選手の中、フォワードとして活躍した。武南高校は浦田が在籍した3年間全てで全国高等学校サッカー選手権大会でベスト8以上の成績を残し、浦田が3年生だった1992年度の第71回大会では準決勝に進んだ[注 1] 。卒業後は国士舘大学に進学し、同大学のサッカー部で活動。関東大学サッカーリーグ戦では3年生の1995年度第69回大会で優勝、続く1996年度は大学リーグ戦準優勝で得点王、続く第45回全日本大学サッカー選手権大会では同級生の今野章や佐藤尽、2学年下の熱田眞や金沢浄や鏑木享などと共にチームを初優勝に導き、自らも大会最優秀選手となった。
1997年、大学卒業後に浦田は当時旧JFL所属の川崎フロンターレにプロ選手として加入。川崎には高校・大学で共に2学年先輩となる伊藤彰が所属していた。Jリーグ参入を目指して補強を強化していた川崎ではルーキーシーズンにプロ初得点を記録し、2年目からは試合の終盤に起用されるスーパーサブとして出場試合数も増えた。川崎がJリーグ2部 (J2) に参加した1999年シーズンも浦田は好調で、11月5日のサガン鳥栖戦(等々力)では川崎のJリーグ1部 (J1) 昇格を決定付けるVゴールを決めた[2] 。この1999シーズンが浦田のプロ生活にとってのベストシーズンとなった。
2000年、J1初挑戦となった川崎で[注 2] 、浦田は引き続き試合途中から出場して劣勢を挽回することを期待され、5月27日の1stステージ第17節・セレッソ大阪戦(長居)でも後半途中から出場し、延長後半に相手のステージ優勝を阻止するVゴール(我那覇和樹が出した背後からのクロスボールに対するダイレクトボレー)を決めた[3] [注 3] 。しかし川崎は同シーズンの年間順位で最下位(18位)に終わり、更に翌2001年シーズンはJ2で8位に終わってJ1復帰に失敗した[注 4] 。浦田も負傷に苦しみ、2001年はJ2リーグ戦での試合出場ができず、同年末に川崎との契約が満了した。2002年はヴァンフォーレ甲府に移籍して再びJ2で戦い、2シーズンぶりの公式戦ゴールも記録したが、甲府との契約は1シーズンで終了し、同年限りで現役を引退した。
浦田は国士舘大学に教員免許を取得したこともあり、現役引退後は指導者の道を歩んだ。最初は出身地の埼玉県で中学校の保健体育の非常勤講師として1年間勤務した後、Jリーグのキャリアサポートセンターのあっせんを受けて石川県 金沢市の「スポーツクラブヴィテン」のインストラクターとしてサッカースクールを担当した[5] 。その後東京都 北区にある駿台学園高等学校に指導者として招かれ、2011年度からは同高校サッカー部の監督を務めた[6] 。また、日本サッカー協会公認のC級ライセンス、日本体育協会の公認指導員資格を保持している[6] 。
2013年度からは郷里の埼玉県にある埼玉平成高等学校の監督を務めている[7] 。
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算
|
1994 |
国士大 |
- |
- |
- |
1996 |
- |
- |
1997 |
川崎 |
24 |
旧JFL |
4 |
2 |
- |
0 |
0 |
4 |
2
|
1998 |
13 |
0 |
2 |
2 |
1 |
1 |
16 |
3
|
1999 |
13 |
J2 |
28 |
6 |
1 |
0 |
2 |
2 |
31 |
8
|
2000 |
J1 |
13 |
2 |
2 |
0 |
0 |
0 |
15 |
2
|
2001 |
J2 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0
|
2002 |
甲府 |
11 |
10 |
1 |
- |
通算 |
日本 |
J1
|
13 |
2 |
2 |
0 |
0 |
0 |
15 |
2
|
日本 |
J2
|
38 |
7 |
2 |
0 |
日本 |
旧JFL
|
17 |
2 |
2 |
2 |
1 |
1 |
20 |
5
|
日本 |
他
|
- |
- |
総通算
|
68 |
11 |
6 |
2 |
- 上記の通り、プロ入り後の浦田はスーパーサブとして起用される場面が多かったこともあり、当時は「Vゴール」と呼ばれたゴールデンゴールとの縁が深い。大学サッカー選手権の決勝は鏑木享のVゴールで早稲田大学を破っての優勝となり[注 5] 、上記の通りチームのJ1昇格決定とセレッソ優勝阻止は自分のVゴールで決めた。
- 2013年、Jリーグ公式サイトによるリーグ戦開始20周年企画として行われた「歴代ベストゴール」Web投票の中で、セレッソ戦での浦田のゴールが候補の一つとして含まれ、動画が公開された [1]。
- ^ チームメイトで、後に俳優としても活躍した江原淳史が8ゴールで大会得点王を獲得した。
- ^ 同シーズンに今野章がジュビロ磐田から移籍した。
- ^ この時の川崎は1stステージ最下位で、ホームでの試合で勝てば優勝となる首位セレッソの有利が予想されていた。この試合は後に「長居の悲劇」と呼ばれることになった[4] 。なお、この結果、上野良治が中心選手となっていた横浜F・マリノスが逆転でステージ優勝となった。
- ^ 川崎のJ1復帰は2005年シーズンとなった。
- ^ この決勝で、浦田は延長戦に入る前に1得点を決めている。