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'''謝 雪紅'''(しゃ せつこう、1901年10月17日 - 1970年11月5日)は、[[(削除) 中華民国 (削除ここまで)]]・[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。[[台湾共産党]]、[[中国共産党]]に参加した。原名は'''謝 阿女'''(しゃ あじょ)。
'''謝 雪紅'''(しゃ せつこう、1901年10月17日 - 1970年11月5日)は、[[(追記) 日本統治時代の台湾 (追記ここまで)]]・[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。[[台湾共産党]]、[[中国共産党]]に参加した。原名は'''謝 阿女'''(しゃ あじょ)。


== 人物 ==
== 人物 ==
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== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== 出生 ===
=== 出生 ===
謝雪紅の原名は'''阿女'''であり製帽工の(削除) 子女 (削除ここまで)として生まれた。父母は共に[[文盲]]であり、経済的な理由により幼少にして学業を断念、12歳の時に両親を失うと[[台中市|台中]]の洪姓の家庭に[[シンプア]]として買われ両親の葬儀費用及び借金の返済に当たった。[[1917年]](一説には[[1918年]])、謝雪紅は洪家から逃亡、[[台南市|台南]]の製糖工場で女工として勤務した(彰化に戻ったという説もある)。その後台中の大地主である[[霧峰林家]]の親類にあたる張樹敏と出会い妾女となっている。
謝雪紅の原名は'''阿女'''であり製帽工の(追記) 娘 (追記ここまで)として生まれた。父母は共に[[文盲]]であり、経済的な理由により幼少にして学業を断念、12歳の時に両親を失うと[[台中市|台中]]の洪姓の家庭に[[シンプア]]として買われ両親の葬儀費用及び借金の返済に当たった。[[1917年]](一説には[[1918年]])、謝雪紅は洪家から逃亡、[[台南市|台南]]の製糖工場で女工として勤務した(彰化に戻ったという説もある)。その後台中の大地主である[[霧峰林家]]の親類にあたる張樹敏と出会い妾女となっている。


[[1919年]]、謝雪紅は[[(削除) 日本 (削除ここまで)]]に渡り、[[兵庫県]][[神戸市]]で[[日本語]]と漢文を習得する。その後[[中国]][[青島市|青島]]に移り現地で[[五四運動]]を体験し大きな思想的な衝撃を受け、台湾に戻った後には[[台湾文化協会]]に参加し台湾政治社会活動に投(削除) 身することとなっ (削除ここまで)た。
[[1919年]]、謝雪紅は[[(追記) 内地 (追記ここまで)]]に渡り、[[兵庫県]][[神戸市]]で[[日本語]]と漢文を習得する。その後[[中国]][[青島市|青島]]に移り現地で[[五四運動]]を体験し大きな思想的な衝撃を受け、台湾に戻った後には[[台湾文化協会]]に参加し台湾政治社会活動に(追記) 身を (追記ここまで)(追記) じ (追記ここまで)た。


=== 日本共産党台湾支部時代 ===
=== 日本共産党台湾支部時代 ===
[[1925年]]ごろに[[上海市|上海]]に渡った謝雪紅は[[五・三〇事件|五三〇運動]]に参加、'''謝飛英'''の偽名で[[上海大学]]社会学科に4(削除) ヶ (削除ここまで)月在籍した後、[[黄中美]]の紹介で[[中国共産党]]に入党、同年10月には{{仮リンク|林木順|zh|林木順}}とともに[[モスクワ]][[東方大学]]に留学している。
[[1925年]]ごろに[[上海市|上海]]に渡った謝雪紅は[[五・三〇事件|五三〇運動]]に参加、'''謝飛英'''の偽名で[[(追記) :zh:上海大学 (民国)| (追記ここまで)上海大学]]社会学科に4(追記) カ (追記ここまで)月在籍した後、[[黄中美]]の紹介で[[中国共産党]]に入党、同年10月には{{仮リンク|林木順|zh|林木順}}とともに[[モスクワ]][[東方大学]]に留学している。


[[1927年]]11月に上海に戻った謝雪紅は、翌年4月に上海で結党された(削除) 「 (削除ここまで)[[台湾共産党]](削除) 」 (削除ここまで)(日本共産党台湾民族支部)に参加、東京において日本共産党との連絡に当たった。台湾共産党が[[台湾共和国]]を建国し日本の帝国主義を打倒することを大綱に明記したのは、謝雪紅の農民及び労働者を植民地政府や資本家からの搾取から保護するという[[社会主義]]思想と合致していたが、反体制的なその言動が災いして[[治安維持法]]違反で逮捕、10年以上拘束されることとなった。
[[1927年]]11月に上海に戻った謝雪紅は、翌年4月に上海で結党された[[台湾共産党]](日本共産党台湾民族支部)に参加、東京において日本共産党との連絡に当たった。台湾共産党が[[台湾共和国]]を建国し日本の帝国主義を打倒することを大綱に明記したのは、謝雪紅の農民及び労働者を植民地政府や資本家からの搾取から保護するという[[社会主義]]思想と合致していたが、反体制的なその言動が災いして[[治安維持法]]違反で逮捕、10年以上拘束されることとなった。


=== (削除) 光復 (削除ここまで)直後の活動 ===
=== (追記) 終戦 (追記ここまで)直後の活動 ===
[[1945年]]10月、謝雪紅は台中で人民協会及び農民協を設立した。しかしこれらの組織は[[陳儀]]により解散させられると、新たに[[建国工芸学校]]を設立し青少年への教育を実施すると共に、『和平日報』を通して行政官であった陳儀に対する攻撃を加えた。
[[1945年]]10月、謝雪紅は台中で人民協会及び農民協を設立した。しかしこれらの組織は[[陳儀]]により解散させられると、新たに[[建国工芸学校]]を設立し青少年への教育を実施すると共に、『和平日報』を通して行政官であった陳儀に対する攻撃を加えた。


[[1947年]][[二二八事件]]が勃発すると謝雪紅は3月2日に台中において人民蜂起を目指し、台中警局及び公売局台中分局を占拠し人民政府を設立した。翌日には台中地区治安委員会作戦本部を組織、自ら指導者となり軍営を占拠し弾薬を強奪、それを[[嘉義市|嘉義]]や虎尾地区の蜂起軍に供給した。そして自らも6日に二七部隊を結成し9日に[[埔里鎮|埔里]]に侵入、山間部でのゲリラ戦を画策するが[[台湾原住民|原住民]]の拒絶に遭い計画は失敗、謝雪紅はアモイを経由して5月には香港に逃亡した。
[[1947年]][[二二八事件]]が勃発すると謝雪紅は3月2日に台中において人民蜂起を目指し、台中警局及び公売局台中分局を占拠し人民政府を設立した。翌日には台中地区治安委員会作戦本部を組織、自ら指導者となり軍営を占拠し弾薬を強奪、それを[[嘉義市|嘉義]]や虎尾地区の蜂起軍に供給した。そして自らも6日に二七部隊を結成し9日に[[埔里鎮|埔里]]に侵入、山間部でのゲリラ戦を画策するが[[台湾原住民|原住民]]の拒絶に遭い計画は失敗、謝雪紅は(追記) [[廈門市| (追記ここまで)アモイ(追記) ]] (追記ここまで)を経由して5月には香港に逃亡した。


=== 香港・北京 ===
=== 香港・北京 ===
香港に逃亡した謝雪紅は[[廖文毅]](削除) より「 (削除ここまで)[[台湾再解放連盟]](削除) 」組織を (削除ここまで)勧誘されるがこれを拒否、自ら[[1947年]]に(削除) 「 (削除ここまで)[[台湾民主自治同盟]](削除) 」 (削除ここまで)を結成し、主席の職責のまま中国共産党幹部への道を歩み始めた。
香港に逃亡した謝雪紅は[[廖文毅]](追記) から (追記ここまで)[[台湾再解放連盟]](追記) に (追記ここまで)勧誘されるがこれを拒否、自ら[[1947年]]に[[台湾民主自治同盟]]を結成し、主席の職責のまま中国共産党幹部への道を歩み始めた。


謝雪紅は[[1948年]]に中国大陸に進出、中国婦女聯合会副主席、人大代表、政協委員会などを歴任した。それでも台湾人としての意識は強く[[1951年]]には台湾問題を考慮する際には台湾の政治、経済文化環境を考慮すべきとの見解を示し、{{仮リンク|李純青|zh|李纯青}}など(削除) より (削除ここまで)地方主義と批判されている。
謝雪紅は[[1948年]]に中国大陸に進出、中国婦女聯合会副主席、人大代表、政協委員会などを歴任した。それでも台湾人としての意識は強く[[1951年]]には台湾問題を考慮する際には台湾の政治、経済文化環境を考慮すべき(追記) である (追記ここまで)との見解を示し、{{仮リンク|李純青|zh|李纯青}}など(追記) から (追記ここまで)地方主義と批判されている。


=== 文化大革命 ===
=== 文化大革命 ===
[[1957年]]に[[反右派運動]]が展開されると、謝雪紅はその他「民主党派」指導者と共に右派との批判を受けることとなった。内訌が存在していた台湾民主自治同盟は個人的な怨恨もあり謝雪紅に対し個人攻撃を加えた。厳しい闘争大会が10回も開かれ、「右派分子」「反革命分子」「地方民族主義者」として台盟主席解任、党籍剥奪の処分を受けた。[[文化大革命]]では再度、闘争対象とされ、台盟本部前で吊るし上げられ、紅衛兵に殴打された。1970年、肺癌のため北京で死去、享年69。
[[1957年]]に[[反右派運動]]が展開されると、謝雪紅はその他「(追記) [[ (追記ここまで)民主党派(追記) (中国)|民主党派]] (追記ここまで)」指導者と共に右派との批判を受けることとなった。内訌が存在していた台湾民主自治同盟は個人的な怨恨もあり謝雪紅に対し個人攻撃を加えた。厳しい闘争大会が10回も開かれ、「右派分子」「反革命分子」「地方民族主義者」として台盟主席解任、党籍剥奪の処分を受けた。[[文化大革命]]では再度、闘争対象とされ、台盟本部前で吊るし上げられ、紅衛兵に殴打された。1970年、肺癌のため北京で死去、享年69。


[[1986年]]に謝雪紅に対する名誉回復がなされ、遺骨が{{仮リンク|北京市八宝山革命公墓|zh|北京市八宝山革命公墓}}に移された。
[[1986年]]に謝雪紅に対する名誉回復がなされ、遺骨が{{仮リンク|北京市八宝山革命公墓|zh|北京市八宝山革命公墓}}に移された。
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謝雪紅
謝雪紅
プロフィール
出生: 1901年 10月17日
死去: 1970年 11月5日
中華人民共和国の旗 中国 北京市
出身地: 大日本帝国の旗 日本統治下台湾 台中州彰化市
(現:中華民国の旗 台湾 彰化県 彰化市)
職業: 政治家
各種表記
繁体字: 謝雪紅
簡体字: 谢雪红
拼音: Xiè Xuěhóng
ラテン字: Hsieh Hsüeh-hung
和名表記: しゃ せつこう
発音転記: シェ シュエホン
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謝 雪紅(しゃ せつこう、1901年10月17日 - 1970年11月5日)は、日本統治時代の台湾中華人民共和国政治家台湾共産党中国共産党に参加した。原名は謝 阿女(しゃ あじょ)。

人物

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謝雪紅は日本統治時代の台湾で台湾共産党(日本共産党台湾民族本部)を設立した活動初期には台湾独立運動を支持していたが、コミンテルンの解散、日本の敗戦などを経て中国共産党の指導を受けるようになり、二二八事件では謝雪紅は二七部隊 (中国語版)を率いて中国国民党に対抗するが失敗。廈門を経由して香港に逃れ、台湾民主自治同盟を結成して自ら初代主席に就任した。台湾民主自治同盟は中国の「八大民主党派」の一つであり、その中国共産党中央華東局軍政委員、中国全国婦女聯合会副主席を経て、1954年には全国人民代表大会の台湾省代表に就任している。1970年北京にて病没した。

謝雪紅本によれば台湾共産党結党以前の1925年に上海を訪問した際、黄中美の紹介で中国共産党に入党したとされる。文化大革命後には中国共産党によっても1925年からの党歴が認められている。

来歴

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出生

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謝雪紅の原名は阿女であり製帽工の娘として生まれた。父母は共に文盲であり、経済的な理由により幼少にして学業を断念、12歳の時に両親を失うと台中の洪姓の家庭にシンプアとして買われ両親の葬儀費用及び借金の返済に当たった。1917年(一説には1918年)、謝雪紅は洪家から逃亡、台南の製糖工場で女工として勤務した(彰化に戻ったという説もある)。その後台中の大地主である霧峰林家の親類にあたる張樹敏と出会い妾女となっている。

1919年、謝雪紅は内地に渡り、兵庫県 神戸市日本語と漢文を習得する。その後中国 青島に移り現地で五四運動を体験し大きな思想的な衝撃を受け、台湾に戻った後には台湾文化協会に参加し台湾政治社会活動に身を投じた。

日本共産党台湾支部時代

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1925年ごろに上海に渡った謝雪紅は五三〇運動に参加、謝飛英の偽名で上海大学社会学科に4カ月在籍した後、黄中美の紹介で中国共産党に入党、同年10月には林木順 (中国語版)とともにモスクワ 東方大学に留学している。

1927年11月に上海に戻った謝雪紅は、翌年4月に上海で結党された台湾共産党(日本共産党台湾民族支部)に参加、東京において日本共産党との連絡に当たった。台湾共産党が台湾共和国を建国し日本の帝国主義を打倒することを大綱に明記したのは、謝雪紅の農民及び労働者を植民地政府や資本家からの搾取から保護するという社会主義思想と合致していたが、反体制的なその言動が災いして治安維持法違反で逮捕、10年以上拘束されることとなった。

終戦直後の活動

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1945年10月、謝雪紅は台中で人民協会及び農民協を設立した。しかしこれらの組織は陳儀により解散させられると、新たに建国工芸学校を設立し青少年への教育を実施すると共に、『和平日報』を通して行政官であった陳儀に対する攻撃を加えた。

1947年 二二八事件が勃発すると謝雪紅は3月2日に台中において人民蜂起を目指し、台中警局及び公売局台中分局を占拠し人民政府を設立した。翌日には台中地区治安委員会作戦本部を組織、自ら指導者となり軍営を占拠し弾薬を強奪、それを嘉義や虎尾地区の蜂起軍に供給した。そして自らも6日に二七部隊を結成し9日に埔里に侵入、山間部でのゲリラ戦を画策するが原住民の拒絶に遭い計画は失敗、謝雪紅はアモイを経由して5月には香港に逃亡した。

香港・北京

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香港に逃亡した謝雪紅は廖文毅から台湾再解放連盟に勧誘されるがこれを拒否、自ら1947年台湾民主自治同盟を結成し、主席の職責のまま中国共産党幹部への道を歩み始めた。

謝雪紅は1948年に中国大陸に進出、中国婦女聯合会副主席、人大代表、政協委員会などを歴任した。それでも台湾人としての意識は強く1951年には台湾問題を考慮する際には台湾の政治、経済文化環境を考慮すべきであるとの見解を示し、李純青 (中国語版)などから地方主義と批判されている。

文化大革命

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1957年反右派運動が展開されると、謝雪紅はその他「民主党派」指導者と共に右派との批判を受けることとなった。内訌が存在していた台湾民主自治同盟は個人的な怨恨もあり謝雪紅に対し個人攻撃を加えた。厳しい闘争大会が10回も開かれ、「右派分子」「反革命分子」「地方民族主義者」として台盟主席解任、党籍剥奪の処分を受けた。文化大革命では再度、闘争対象とされ、台盟本部前で吊るし上げられ、紅衛兵に殴打された。1970年、肺癌のため北京で死去、享年69。

1986年に謝雪紅に対する名誉回復がなされ、遺骨が北京市八宝山革命公墓 (中国語版)に移された。

参考文献

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