コンテンツにスキップ
Wikipedia

「ヒップホップ音楽の歴史」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
(26人の利用者による、間の38版が非表示)
1行目: 1行目:
'''ヒップホップ音楽の歴史'''(ヒップホップおんがくのれきし)、または'''ラップの歴史'''は、[[1970年代]](削除) 前半 (削除ここまで)から(削除) 存在したものが、後半に音楽シーンに登場し、今日 (削除ここまで)まで(削除) 続いている。[[ (削除ここまで)ヒップホップ(削除) ]] (削除ここまで)(削除) 4要素([[ディスクジョッキー|DJ]]、[[ブレイクダンス]]、[[グラフィティ]]<ref>http://www.smashingmagazine.com/.../tribute-to-graffiti-50-b...</ref>、[[ラップ]])は、それぞれがグローバルなメディアの中 (削除ここまで)(削除) 溶け込んで (削除ここまで)(削除) った (削除ここまで)
'''ヒップホップ音楽の歴史'''(ヒップホップおんがくのれきし)、または'''ラップの歴史'''は、[[1970年代]](追記) 末 (追記ここまで)から(追記) 21世紀 (追記ここまで)まで(追記) の (追記ここまで)ヒップホップの(追記) 歴史 (追記ここまで)(追記) つ (追記ここまで)(追記) て記述する (追記ここまで)


[[ヒップホップ]]には4要素([[ディスクジョッキー|DJ]]、[[ブレイクダンス]]、[[グラフィティ]]<ref group="注">キース・ヘリング、ジャン・ミッシェル・バスキアらもグラフィティからスタートしたといわれている</ref>、[[ラップ]])があるとされている。この4要素にスクラッチを加える場合もある。ヒップホップは大都市ニューヨークで誕生し、世界へと拡散していった。
== 概要:ヒップホップのルーツ ==
ヒップホップ音楽のルーツの議論は、アフリカ文化の[[グリオ]]や、[[ラスト・ポエッツ]]、[[ギル・スコット=ヘロン]]といった、1960年代からの詩を朗読するミュージシャン、街中でよく聞かれた[[ダズンズ]]などの言葉遊び、あるいは[[ジャマイカ]]の[[ダンスホールレゲエ]]の影響について言及される。それらを端的に表現すれば、ヒップホップのルーツは[[西アフリカ]]の文化と[[ブラック・ミュージック|アフリカ系アメリカ音楽]]にあると言える。初期のラッパーの多くは、1970年代初期から中期に、全く独自に始まったものと主張している。レゲエには見られない[[ディスクジョッキー#スクラッチ|スクラッチ]]の手法は[[1977年]]、グランドウィザード・セオドア(Grandwizard Theodore)によって発明され、[[グランドマスター・フラッシュ]]の「Adventures on the Wheels of Steel」で出現した。ラップは言葉遊びに似ていたため、ヒップホップ文化の中でさえも一時的な流行と見なされていた。当初のラップは基本的にはDJのプレイの盛り立て役で、曲と曲の変わり目や、機材がトラブルで故障した時に盛り上げるためのものだった。


== 概要 ==
== 歴史:オールドスクール時代 (1970年代初め - 1983年) ==
ヒップホップ音楽のルーツには、[[ラスト・ポエッツ]]、[[ギル・スコット=ヘロン]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/gil-scott-heron-mn0000658346</ref> といった、1960年代からのポエトリー・リーディングのミュージシャン、街中でよく聞かれた[[ダズンズ]]などの言葉遊びや、[[ジャマイカ]]のトースティングからの影響などがあげられる。ジャマイカ出身のDJ[[クール・ハーク]]により、DJ、トースティングが東海岸に伝えられていた。[[ディスクジョッキー#スクラッチ|スクラッチ]]の手法は70年代後半に、グランドウィザード・セオドア(Grandwizard Theodore)によって発明され、[[グランドマスター・フラッシュ]]の「Adventures on the Wheels of Steel」で登場した。DJクールハーク、グランドマスター・フラッシュ、アフリカ・バンバータ<ref>Cite web |url=https://www.rollingstone.com/music/music-lists/the-50-greatest-hip-hop-songs-of-all-time-150547/afrika-bambaataa-the-soul-sonic-force-planet-rock-96659/ |title=Afrika Bambaataa & the Soul Sonic Force,‘Planet Rock’|website=Rolling Stone | accessdate=22 August 2020</ref>。はサウス・ブロンクスのブロック・パーティーに初期から参加していた。バンバータはインクレディブル・ボンゴ・バンドの「アパッチ」が、アメリカ国歌のように演奏されていたと証言している。
[[オールドスクール・ヒップホップ]]は、1970年代前半の[[ニューヨーク]]で、[[クール・ハーク]]などのブレイクビートをプレイするDJの出現とともに始まった。オールドスクールの時代は、例えば[[シュガーヒル・ギャング]]のように、[[ディスコ]]ミュージック、[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[ファンク]]の音源をしばしばサンプリングした。しかし多くはドラムマシンとブレイクのみでトラックが作られた。ラップの内容はほとんどがパーティや、地元ニューヨークが中心だったが、[[グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブ]]の「The Message」は例外で、その「メッセージ」性は後のラップに大きく影響した。


== 歴史:1970年代 ==
最初のラップ曲は、79年の[[ファットバック・バンド]]の「キング・テイム III (Personality Jock)」と、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」とされている。ゲットーの若者文化には根ざしてはいなかったが、「ラッパーズ・ディライト」は[[ビルボード]]のトップ40に入った。その後続いて、[[カーティス・ブロウ]]やグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブらの曲がリリースされた。「ザ・メッセージ」はニューヨーク周辺だけで約50万枚のヒットを記録する。シュガーヒル・ギャングは、ブロック・パーティに参加しているようなゲットーの若者から、局外者として扱われてしまう。


=== オールドスクール (1979 - 1983ごろ) ===
ヒップホップは[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]に影響を受けて、あるいはそれに反発をして発展した。カーティス・ブロウによると、初期のヒップホップはディスコ音楽を好むか嫌うかで2分されていた。「ラッパーズ・ディライト」は、テレビの利己的な演出(衣装、踊り、映像効果など)で登場した、まさにディスコに影響を受けた曲の一例だ。
[[オールドスクール・ヒップホップ]]は、1970年代の[[ニューヨーク]]で、[[クール・ハーク]]などのブレイクビーツをプレイするDJの出現とともに始まった。オールドスクールの時代のDJやラッパーは、[[ディスコ]]ミュージック、[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[ファンク]]の音源を使用した。ラップのライムの内容は、ほとんどがパーティや、地元ニューヨークに関する話題が中心だったが、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」(1982)は例外で、そのメッセージ性は後のラップに大きな影響を与えた。


最初のラップ曲は、79年の[[ファットバック・バンド]]の「キング・ティム III (Personality Jock)」と、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」<ref group="注">シックの「グッド・タイムズ」をネタにラップした曲である</ref> とされている。ブロンクスのグランドマスター・フラッシュやバンバータらからは局外者と見做されたが、「ラッパーズ・ディライト」は[[ビルボード]]のトップ40に入った。その後続いて、[[カーティス・ブロウ]]やグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブらの曲がリリースされた。「ザ・メッセージ」はニューヨーク周辺だけで約50万枚のヒットを記録したといわれている。
1970年代前半、多くの黒人専門ラジオ局はディスコの選曲に切り替えたが、アフリカ系アメリカ人コミュニティの多くでディスコに対する揺り戻しがあった。[[アフリカ・バンバータ]]によると、[[ブロンクス区|ブロンクス]]のヒップホップは、ラジオ局でプレイされるディスコに反対する運動そのものであったと言う。カーティス・ブロウによると、ディスコは中産階級のもので、ヒップホップはゲットーのものという意識の上での、「ディスコ・ラッパー」対「B-Boy」の戦争だったと言う。1980年前半に[[ワシントンD.C.]]で発生した[[ゴーゴー]]や、[[シカゴ]]における[[ハウスミュージック]]、[[デトロイト]]における[[ミニマル・ファンク]](後の[[テクノミュージック]])も揺り戻しの一例である。


1970年代、多くの黒人専門ラジオ局はディスコ中心の選曲に切り替えたが、アフリカ系アメリカ人コミュニティの中にはディスコに対する揺り戻しもあった。[[アフリカ・バンバータ]]によると、[[ブロンクス区|ブロンクス]]のヒップホップは、ラジオ局でプレイされるディスコに反対する運動としての側面があったという。ブロンクスのディスコ「クラブ371」ではDJハリウッドがレコードをプレイしており、ハリウッドのミックスや言葉遊びに魅了されたのが、ハーレムのカーティス・ブロウやブロンクスのグランドマスター・フラッシュらだった<ref>「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ著、p.344,早川書房</ref>
== ミドル・スクール (1984 – 1987) ==
オールド・スクールが若い黒人に飽きられたころに登場したのは、UTFO、LLクールJ、ランDMC、フーディニらの一連のラップ・アーティストたちだった。彼らは、ときに「ミドル・スクール」と呼ばれることもあった。当時のヒット曲にはUTFO「ロクサーヌ、ロクサーヌ」、ランDMC「ウォーク・ディス・ウェイ」などがある。


== (削除) ニュー (削除ここまで)・スクール(削除) とラップ黄金時代 (削除ここまで) ((削除) 1988 (削除ここまで)(削除) 1993 (削除ここまで)) ==
(追記) = (追記ここまで)== (追記) ミドル (追記ここまで)・スクール ((追記) 1984 (追記ここまで)(追記) 1986 (追記ここまで)) (追記) = (追記ここまで)==
オールド・スクールが若い黒人に飽きられたころに登場したのは、UTFO、LLクールJ、ランDMC<ref group="注">「ウォーク・ディス・ウェイ」が86年にヒット</ref>、フーディニらの一連のラップ・アーティストたちだった。彼らは、日本では「ミドル・スクール」と呼ばれることもあった。当時のヒット曲にはUTFO「ロクサーヌ、ロクサーヌ」、ランDMC「ウォーク・ディス・ウェイ」などがある。[[Run-D.M.C.]]が、ハードロックバンドの[[エアロスミス]]とコラボレーションした曲「[[ウォーク・ディス・ウェイ#Run–D.M.C.によるカバー|Walk This Way]]」は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲は[[MTV]]でヘビーローテーションとなり、ビルボードのトップ5に入った最初のヒップホップの楽曲となった。1984年、[[デフ・ジャム]]レコーディングスは、ランD.M.C.のジョセフ・シモンズの兄弟、[[ラッセル・シモンズ]]によって創設された。デフ・ジャムは、エンジョイやシュガーヒル・レコードの後継的なラップ・レーベルだった。また、[[Run-D.M.C.]]は、ハードロックバンドの[[エアロスミス]]とコラボレーションした曲「[[ウォーク・ディス・ウェイ#Run–D.M.C.によるカバー|Walk This Way]]」(1986)は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲は[[MTV]]でヘビーローテーションとなり、ビルボードの「トップ5」に入った最初のヒップホップの楽曲となった。
[[ゴールデンエイジ・ヒップホップ]]は、ニューヨークシティがシーンの中心で、Run D.M.C.の1986年のアルバム「[[レイジング・ヘル]]」の人気から始まり、1993年まで続いた。 この時期、[[デフ・ジャム・レコーディングス]]が最初のヒップホップのインディ・レーベルとして登場。1988年には、DJジャジー&フレッシュ・プリンス(現在の[[ウィル・スミス]])がラップで初のグラミー賞を受賞した。 尚、1993年以降は、[[Gファンク]]が隆盛を誇る時代へと移っていった。


=== (削除) デフ (削除ここまで)(削除) ジャム (削除ここまで) ===
=== (追記) ニュー (追記ここまで)(追記) スクール (追記ここまで) ===
[[Run-D.M.C.]]が、ハードロックバンドの[[エアロスミス]]とコラボレーションした曲「[[ウォーク・ディス・ウェイ (エアロスミスの曲)#Run–D.M.C.によるカバー|Walk This Way]]」は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲は[[MTV]]でヘビーローテーションとなり、ビルボードのトップ5になった最初のヒップホップの楽曲と考えられている。1984年、[[デフ・ジャム]]レコーディングスは、ランD.M.C.のジョセフ・シモンズの兄弟、[[ラッセル・シモンズ]]によって創設された、最初の独立系ヒップホップ・レーベルであった。デフ・ジャムからデビューした[[ビースティ・ボーイズ]]は、1987年のアルバム「Licensed to Ill」で、[[ブラック・サバス]]や[[レッド・ツェッペリン]]の曲をサンプリングした。続く1989年のアルバム「Paul's Boutique」でもサンプリングが多用され、ユーモラスなパンチラインとセンテンスがラップされた。このことは、ヒップホップ界に[[ブレイクビーツ]]や[[ディスクジョッキー#スクラッチ|スクラッチ]]という手法以上に、[[サンプリング]]の可能性を見せた。同レーベルからは[[LL・クール・J]]も成功を収めた。


=== (削除) 政治的自覚 (削除ここまで) ===
(追記) = (追記ここまで)=== (追記) 東海岸 (追記ここまで) (追記) = (追記ここまで)===
1989年にはデ・ラ・ソウル、ビッグ・ダディ・ケイン、ジャングル・ブラザーズ、スリック・リックらの曲がソウル・チャートや黒人ラジオでヒットし、ラップはそのピークを迎えた<ref>[https://www.allmusic.com/artist/slick-rick-mn0000748713 スリック・リック] 2023年4月28日閲覧</ref>。デラ・ソウルらのラップは「ニュー・スクール」と名付けられた。またNWAらのギャングスタ・ラップも、アルバム・チャートでビッグ・セールスを記録した。1980年代後半には、エリックB&ラキームほかによって、ヒップホップ界で[[サンプリング]]が多用されるようになった。デフジャムはパブリック・エネミー、[[LL・クール・J]]、スリック・リック、EPMD、ナイス&スムーズを擁し、レーベルとして全盛期を迎えた。1980年代後半の[[EPMD]]や[[ラキム|エリック・B&ラキム]]は、激しいドラムとリリックを信条とした。
この時代のヒップホップには、黒人の誇り、団結、自覚を促す大きなサークルが見られ、黒人コミュニティに影響を与えた。1987年、パブリック・エネミーの「Yo! Bum Rush the Show」、続いて1988年、ブギー・ダウン・プロダクションズの「By All Means Necessary」がリリースさる。どちらも政治的なメッセージの強い作品だった。[[KRS-ワン]](ブギー・ダウン・プロダクションズ)によって、ヒップホップとコミュニティにおいて暴力を終わらせようという運動も開始された。


この時代のヒップホップには、黒人の誇り、団結、自覚を促すサークルも見られ、黒人コミュニティに影響を与えた。1987年、パブリック・エネミーの「Yo! Bum Rush the Show」、続いて1988年、ブギー・ダウン・プロダクションズの「By All Means Necessary」がリリースされたが、どちらも政治的なメッセージの強い作品だった。[[KRS-ワン]](ブギー・ダウン・プロダクションズ)によって、アフロアメリカン・コミュニティの暴力を終わらせようという運動も開始された。
ネイティヴ・タン一派は、'80年代末から'90年代初頭にかけて、デ・ラ・ソウル、ジャングル・ブラザース、ア・トライブ・コールド・クエストを中心に、クイーン・ラティファ、モニー・ラヴ、ブラック・シープ、ビートナッツ、チ・アリといったアーティストへと引き継がれた、ゆるい集合体である。アフリカ中心主義的な思想を背景としたリリックと、ジャズなど多様な音楽にも広がるサンプリング・センスが特徴的で、そのメッセージは、その他アフリカ中心主義的考えを標榜するアーティストとともに「コンシャス・ヒップホップ」の文脈の中で一つの流れを形成した。「コンシャス・ヒップホップ」のルーツはグランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」のリリックにも見られ、それは後の[[アフリカ・バンバータ]]の汎アフリカ主義的な[[ズールー・ネーション]]のメッセージへと受け継がれて、ここに至っている。


ネイティヴ・タン一派は、'80年代末から'90年代初頭にかけて、デ・ラ・ソウル、ジャングル・ブラザーズ、ア・トライブ・コールド・クエストを中心に、クイーン・ラティファ、モニー・ラヴ<ref group="注">「イッツ・ア・シェイム」がソウル・チャートでヒット</ref>、ブラック・シープ、ビートナッツといったアーティストへと引き継がれた、ゆるい集合体だった。一部のグループはアフリカ回帰思想を含んだリリックをラップし、ジャズなど多様な音楽に広がるサンプリング・センスが特徴的で、そのメッセージは、同様の主張を持つアーティストとともに「コンシャス・ヒップホップ」として一つの流れを形成した。「コンシャス・ヒップホップ」のルーツはグランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」のリリックを引き継いだものだった。
政治色の強いラップは当時のニューヨークにおいて大きな流れの一つではあったが、その一方でマーリー・マールのコールド・チリン・レコーズが輩出したジュース・クルー(ビッグ・ダディ・ケイン、クール・G・ラップ、ビズ・マーキーなど)に見られるようなパーティラップも存在し、ニューヨークのシーンにおけるアーティスト性については幅があった。


政治色の強いラップは当時のニューヨークにおいて大きな流れの一つではあったが、その一方でマーリー・マールのコールド・チリン・レコードが輩出したビッグ・ダディ・ケイン、クール・G・ラップ、ビズ・マーキーらのジュース・クルーに見られるようなラップも存在し、ニューヨークのシーンには多様性があった。またスクーリーDは、東部のギャングスタ・ラップのルーツとなった。トーン・ロック<ref group="注">「ワイルド・シング」がヒット</ref>、ヤングMC<ref group="注">「バスト・ア・ムーブ」がヒットした</ref>、[[MCハマー]]<ref group="注">「Uキャント・タッチ・ジス」などがヒットした</ref> といったラッパー達はポップ・ラップでヒットを放った。
=== 西海岸 ===
東海岸が支配力を持っていたにせよ、西海岸は確実にヒップホップの主流になる要素を持っていた。トーン・ロック、ヤングMC、[[MCハマー]]といったラッパー達は「ポップなラップ」というジャンルを確立した。


==== 西海岸 ====
とはいっても、この時期の西海岸も「楽しい」ラップの一面だけでは表せない。1986年、[[アイス・T]]の「6n' Da Mornin'」は、西海岸出身の最初の全国的なヒップホップのヒットとなった。この曲は、しばしばギャングスタ・ラップの始まりといわれる。[[N.W.A. (ヒップホップグループ)|N.W.A.]]はアルバム「[[ストレイト・アウタ・コンプトン|Straight Outta Compton]]」で一躍脚光を浴びたが、これはアメリカのゲットーで暮らすことの残酷さを歌ったものだった。[[アイス・キューブ]]も「AmeriKKKa's Most Wanted」と「Death Certificate」の2枚のアルバムで、政治的な内容を歌った。[[2パック]]は様々な問題をリリックにして、1990年代のギャングスタ・ラップの先鞭を取った。
西海岸ではアイスTが「アイム・ユア・プッシャー」<ref group="注">カーティス・メイフィールドの曲を使用していた</ref> でソウル・ヒットを放った。アイスTのラップは、ギャングスタ・ラップのルーツといわれ、彼のアルバム「パワー」(1987)はアルバム・チャートでヒットした。[[N.W.A. (ヒップホップグループ)|N.W.A.]]はアルバム「[[ストレイト・アウタ・コンプトン|Straight Outta Compton]]」(1988)で一躍脚光を浴びたが、当初はギャングによるキワモノというネガティヴな評価が多かった。しかし、このアルバムは白人支配のアメリカにおける、ゲットー生活の厳しさをラップしたアルバムだった。


== 1990年代以降 ==
サンフランシスコ・ベイエリアでは、1980年代末から[[モブ・ミュージック]]と呼ばれるスタイルが流行した。トラックはファンクを基本に、シンセサイザーと超低音、[[ローランド・TR-808]]のドラム音で制作された。後の南カリフォルニアでの[[Gファンク]]の源流とも言える。1980年代前半から活躍していた[[トゥー・ショート]]など、多くのベイエリアのアーティストがこのスタイルに関わった。
セカンドアルバム『Niggaz4Life』もヒットし、ギャングスタラップのスターになったNWAに続くグループやソロ・アーティストも現れた。ギャングスタラップは、ヒップホップが若者向けの音楽で主流になる上でも重要な役割を果たした。Eazy-E<ref group="注">イージーEはエイズで死去している。なお、感染は同性愛セックスによるものではないと、声明が出された</ref>のアルバム『Eazy-Duz-It』など、Gラップはヒットアルバムを連発した。<ref> [https://www.allmusic.com/style/gangsta-rap-ma0000002611/artists ギャングスタ・ラップ] 2023年4月28日閲覧</ref>その結果、ギャングスタラップは、以前はゲットーの状況に気づかなかった白人に、政治的および社会的メッセージを広めた。。N.W.A.からソロデビューした[[ドクター・ドレー]]は[[1991年]]、[[シュグ・ナイト]]と共同で[[デス・ロウ・レコーズ]]を設立した。同年[[2パック]]も[[インタースコープ・レコード]]から『[[2パカリプス・ナウ]]』を発表しデビュー。ドレーが[[1992年]]に発表した『The Chronic』は、その後のギャングスタ・ラップを主流に押し上げた画期的なアルバムとなった。『The Chronic』やウォーレン・Gが1994年に発表した『Regulate... G Funk Era』などは[[Gファンク]]と呼ばれ、[[1970年代]]のPファンク([[パーラメント (バンド)|パーラメント]]と[[ファンカデリック]])などのサンプリングと、スロー、ミディアムのライムが特徴だった。[[カラーギャング]]出身の[[DJクィック]]も[[ブラッズ]]のテーマカラーである赤を取り入れたファッションで人気を博した。他にアバーブ・ザ・ロウ、MCエイトのコンプトンズ・モスト・ウォンテッドらが人気となった。Gファンクのサウンドはソウルフル、リリックは反抗的で、若いファンの間で大流行した。西のヒップホップは巨大化し、シーンを牽引した。 [[スヌープ・ドギー・ドッグ]]は[[1993年]]にデス・ロウから『Doggystyle』をリリースしてヒットを記録した。ヒップホップ音楽は後に、より幅広い人口統計にアピールしているが、メディア評論家は社会的および政治的に意識のあるヒップホップは、主流のアメリカによってほとんど無視されてきたと主張している。[[アイス・キューブ]]も「AmeriKKKa's Most Wanted」と「Death Certificate」の2枚のアルバムで、政治的な内容を歌った。元デジタル・アンダーグラウンドの[[2パック]]は、アフロアメリカンの若者が抱えていた問題をライムにして、西海岸ハードコアの一翼を担った。


サンフランシスコ・ベイエリアではトラックはファンクを基本に、シンセサイザーやドラム・マシーンを使用していた。後のカリフォルニア州での[[Gファンク]]の源流とも言える。「ザ・ゲットー」を発表した[[トゥー・ショート]]やアント・バンクス、スパイス1など、多くのベイエリアのアーティストが活躍した。[[チカーノラップ]]と呼ばれるジャンルも登場した。[[キッド・フロスト]]、[[メロウ・マン・エース]]らはこのジャンルのパイオニア的存在で、[[サイプレス・ヒル]]のヒットも注目を集めた<ref>[https://www.mixcloud.com/whatsupfoolpodcast/ep-11-baby-bash-kid-frost-chicano-rap-old-school-and-new-school/ チカーノ・ラップ・オールド・スクール] 2023年5月1日閲覧</ref>。ギャングスタ・ラップ、Gファンクと同時期に、彼らは英語とスペイン語で[[チカーノ]]の現実をリリックにした。ベイエリアの[[E-40]]、[[トゥー・ショート]]、アント・バンクス、スパイス1らは、[[ピンプ]]、マック、女性、ドラッグ・ディーラーなどについてラップし、ソウル・アルバム・チャートでヒットを出した。<!-- 内容が重複しています [[1988年]]の[[N.W.A. (ヒップホップグループ)|N.W.A.]]のアルバム『Straight Outta Compton』は、[[1990年代]]から現在までの「[[ギャングスタ・ラップ]]」というスタイルを提示した。N.W.A.からソロデビューした[[ドクター・ドレー]]は -->
=== サウスへの波及 ===
この時期には南部にもヒップホップが飛び火する。ニューヨークやロサンゼルスほどの都会のマーケットがなかったため、メジャーレーベルはなかなか南部に触手を伸ばすことがなかった。多くのサザン・ヒップホップのアーティストたちは、自主レーベルから出すことを強いられ、地域への流通はミックステープが中心だった。


=== 東海岸の逆襲 ===
[[フロリダ州]][[マイアミ]]を拠点にした2ライブ・クルーは、ベース音の大きいトラックの上に、セックスに関するリリックを歌った[[ベース・ミュージック|マイアミベース]]を進化させた。1989年の悪名高い「Nasty As They Wanna Be」はフロリダ州当局に発売禁止の処分を受け、さらにクルーは、わいせつなショーのため逮捕された(後に釈放されたが)。マイアミベースは、大部分のヒップホップファンのリスペクトを得られる内容ではなかった。
1990年代、[[アメリカ東海岸]]のラップは、リリック、サウンドともに激しいものになった。EPMDは1990年代初頭に[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]出身の[[レッドマン]]を含む[[デフ・スクワッド]]を集め、さらに[[ハードコアヒップホップ]]路線を押しすすめた。


ニューヨーク市や[[フィラデルフィア]]出身のラッパーが次々とアルバムをリリースした。[[1993年]]には[[ウータン・クラン]]の『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』、[[オニクス]]の『Bacdafucup』が、[[1994年]]には[[ナズ]]の『[[Illmatic]]』と[[ノトーリアス・B.I.G.|ノトーリアス・B.I.G.(ビギー)]]の『Ready to Die』が発表された<ref> [https://www.allmusic.com/album/ready-to-die-mw0000118068/credits Ready to Die] 2023年5月6日閲覧</ref>。[[1995年]]にはモブ・ディープの『The Infamous』、レイクウォンの「『Only Built 4 Cuban Linx』がリリースされ、再びシーンの注目はニューヨークへと向いた。ナズにはラキムの影響、ビギーには[[ショーン・コムズ]]が取り入れた西海岸のギャングスタ・ラップの影響が見られた。
ニューヨーク、ロサンゼルスの次にヒップホップで突出した都市は、[[テキサス州]][[ヒューストン]]だった。[[ゲトー・ボーイズ]]は1989年にローカルデビューした後、デフ・ジャムのプロデューサーの[[リック・ルービン]]に注目され、[[1990年]]に全国デビューを果たした。[[1991年]]には「Mind Playin' Tricks on Me」がヒット。この曲の成功で、ヒューストンはサザン・ヒップホップの中心地となった。1980年代後半には[[UGK]](テキサス州[[ポートアーサー (テキサス州)|ポートアーサー]]出身)や[[8ボール&MJG]]([[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]出身)らがヒューストンに移住し、ラッパーとしてのキャリアを始めた。彼らのリリックは、西海岸と同様にストリートのリアリティを表現したものだった。


1994年頃を境にして、ウータン・クランからは、レイクウォン、[[ゴーストフェイス・キラー]]<ref>Bonce 1997年2月号 p.118</ref>、[[オール・ダーティ・バスタード]]、[[メソッド・マン]]、[[GZA]]等、次々とラップ・スターが生まれた。彼らのリリックの内容は、[[銃]]、[[麻薬]]、セックスをテーマにする傾向が強まった。
この時期、[[テネシー州]]では、[[アレステッド・ディヴェロップメント]]がアルバム「3 Years, 5 Months & 2 Days in the Life Of...」をリリースし、記録的なヒットとなる。マイアミのパーティーラップ、ヒューストンのギャングスタ・ラップとは全く離れたスピリチュアルな内容で商業的な成功を収めた。

== 1990年代 ==
=== ウェスト・コースト ===
[[1988年]]の[[N.W.A. (ヒップホップグループ)|N.W.A.]]のアルバム『Straight Outta Compton』は、[[1990年代]]から現在までの「[[ギャングスタ・ラップ]]」というスタイルを一般に見せつけた。N.W.A.からソロデビューした[[ドクター・ドレー]]は[[1991年]]、[[シュグ・ナイト]]と共同で[[デス・ロウ・レコーズ]]を設立した。同年[[2パック]]も[[インタースコープ・レコード]]から『[[2パカリプス・ナウ]]』を発表しデビュー。 ドレーが[[1992年]]に発表した『The Chronic』は、その後のギャングスタ・ラップを主流に押し上げた金字塔的なアルバムである。『The Chronic』やウォーレン・Gが1994年に発表した『Regulate... G Funk Era』は[[Gファンク]]と呼ばれ、[[1970年代]]のPファンク([[パーラメント]]と[[ファンカデリック]])のサンプリングと、比較的スローペースのライムで特徴付けられる。Gファンクの音はシンプルで踊りやすく、リリックは反権威的で、若いファンはすぐに飛びついた。西のヒップホップは無視できないほど大きくなり、シーンを牽引した。 [[スヌープ・ドギー・ドッグ]]は[[1993年]]にデス・ロウから『Doggystyle』をリリースしてヒットを記録した。

[[チカーノラップ]]と呼ばれるサブジャンルも登場した。[[キッド・フロスト]]、[[メロウ・マン・エース]]らはこの分野のパイオニアで、[[サイプレス・ヒル]]のヒットは注目を集めた。ギャングスタ・ラップ、Gファンクと平行して、彼らは英語とスペイン語で[[チカーノ]]の現実をリリックにした。

ベイエリアの[[E-40]]、[[トゥー・ショート]]は、[[ピンプ]]と[[ドラッグ・ディーラー]]という[[ギミック]]を一貫して演じ、シーンの一定の支持と人気を築いた。[[カラーギャング]]出身の[[DJ QUIK]]も[[ブラッズ]]のテーマカラーである赤を取り入れたファッションで人気を博した。

=== イースト・コースト ===
1990年代は、[[ニューヨーク市]]と[[アメリカ東海岸]]の音は、リリックの内容とともに暗く激しいものになった。

1980年代後半の[[EPMD]]や[[ラキム|エリック・B&ラキム]]は、激しいドラムとリリックを信条とした。EPMDは1990年代初頭に[[ニュージャージー]]出身の[[レッドマン]]を含む[[デフ・スクアッド]]を集め、さらに[[ハードコアヒップホップ]]路線を押しすすめた。これは当時商業的に成功していた[[MCハマー]]に対する意識的な戦略であったと見られる。

ニューヨーク市や[[フィラデルフィア]]出身のラッパーが次々と生まれた。[[1993年]]には[[ウータン・クラン]]の『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』、[[オニクス]]の『Bacdafucup』が、[[1994年]]には[[ナズ]]の『Illmatic』と[[ノトーリアス・B.I.G.|ノトーリアス・B.I.G.(ビギー)]]の『Ready to Die』が、[[1995年]]にはモブ・ディープの『The Infamous』、レイクウォンの「『Only Built 4 Cuban Linx』がリリースされ、再びシーンの注目はニューヨークへと向いた。ナズにはラキムの影響、ビギーには策士[[ショーン・コムズ]]が取り入れた西海岸のギャングスタ・ラップの影響が見られた。

1994年頃を境にして、ラップ産業はグループよりもソロアーティストの作品へとシフトしていく。結果としてウータン・クランからは、レイクウォン、[[ゴーストフェイス・キラー]]、[[オール・ダーティ・バスタード]]、[[メソッド・マン]]、[[GZA]]等、次々とスターが生まれた。彼らのリリックの内容は、[[銃]]、[[麻薬]]、セックス、金をテーマにする傾向が強まった。


=== 東西の対立 ===
=== 東西の対立 ===
ニューヨークのシーンが(削除) ヒップホップの主流に独自性を見せて (削除ここまで)再浮上したことは、(削除) すぐに (削除ここまで)東海岸と西海岸、そしてそれぞれの主要なレーベル同士の(削除) 避けられない (削除ここまで)(削除) 決 (削除ここまで)(削除) 大量に (削除ここまで)生み出した。(削除) 売り上げ (削除ここまで)の対立関係は、(削除) 最 (削除ここまで)後に(削除) は (削除ここまで)個人的な対立関係へと変わり、(削除) ヒ (削除ここまで)ップ(削除) ホ (削除ここまで)ップの(削除) 歴史 (削除ここまで)(削除) 中 (削除ここまで)(削除) も過去に例 (削除ここまで)(削除) 見な (削除ここまで)(削除) 惨 (削除ここまで)(削除) へとつながって (削除ここまで)いく。
ニューヨークのシーンが再浮上したことは、東海岸と西海岸、そしてそれぞれの主要なレーベル同士の対(追記) 立 (追記ここまで)を生み出した。(追記) グループ (追記ここまで)の対立関係は、後に個人的な対立関係へと変わり、(追記) 惨事へと発展した。[[ノトーリアス・B.I.G.]]は、「Who Shot Ya」を1995年後半にリリース。[[トゥパック]]よりもシュグ・ナイトがバッド・ボーイと対立していたことが、悲劇の原因となった。ただ、トゥパックのラ (追記ここまで)ップ(追記) の過激な内容は、対立をあおってしまった側面がある。当時のメディアはラ (追記ここまで)ップの(追記) 東西戦争と報道した。1996年3月に[[マイアミ]]で行われたソウル・トレイン・アワード (追記ここまで)(追記) 授賞式 (追記ここまで)(追記) は、両レーベルの取り巻きが、銃 (追記ここまで)(追記) ぶら下げて対峙すると (追記ここまで)(追記) う (追記ここまで)(追記) 態を招 (追記ここまで)(追記) た。そして1996年9月7日、トゥーパック・シャクールは[[ラスベガス]]で数回撃たれ、数日後の9月13日の金曜日に死亡した。[[1997年]][[3月9日]]には、ノトーリアス・B.I.G.がロサンゼルスで射殺された。両方の事件は未解決で、多 (追記ここまで)(追記) の噂が広まった (追記ここまで)


トゥーパックの死後、多くの目立ったアーティストはデス・ロウを去り、シュグ・ナイトは刑務所に入り、西海岸ラップの勢いはやや弱まった。かつての西海岸の象徴だったスヌープ・ドッグは南部のレーベル(ノー・リミット)と契約した。ドクター・ドレーは自身のレーベル、[[アフターマス・エンターテインメント]]を創設し、東海岸出身のナズやファームといったアーティストとの仕事を始めた。ドレーは[[MTV]]のビデオアウォーズの授賞式で、「ギャングスタ・ラップは死んだ」と発言した。2パックの死後もマキャベリ名義で、ヒット作が発表された<ref>Bonce 1997年2月号 p/118</ref>。
==== 対立関係の概要 ====
1995年秋のソース・アワードの授賞式に居合わせた西のデス・ロウ・レコーズのCEO、[[シュグ・ナイト]]は、東のバッド・ボーイ・レコーズのCEOで、当時パフ・ダディと名乗っていた[[ショーン・コムズ]]が、自身のアーティストのビデオ内や曲中に登場し過ぎることを嘲る内容のコメントをした。その晩のショーでは、当時デス・ロウのアーティストであったドクター・ドレーとスヌープ・ドッグのショーにニューヨークのファンからブーイングが起こった。


パフ・ダディの成功によって、ヒップホップのサウンドはストリート賛歌から、より踊りやすいクラブ向けのパーティ・ラップへ移行することを主張していた。これは他のラッパーにとって、売り上げの増加へと結びついた。
[[ノトーリアス・B.I.G.]]は、「Who Shot Ya」を1995年後半にリリース。[[トゥパック]]はこの曲を、自身に対する銃撃未遂はバッド・ボーイが差し向けたものと解釈した。これに対してトゥパックは、翌[[1996年]]初め、悪名高いシングル「Hit 'Em Up」をリリースする。この曲は、彼がビギーの妻、[[フェイス・エヴァンス]]と性的関係を持ったことを示唆し、ビギーとパフ・ダディを脅迫する内容であった。このスキャンダラスな内容は、対立を別次元に持っていった。ビギーは決して直接に言及しなかったにもかかわらず、当時のメディアはラップの東西戦争と煽り立てた。


=== 黎明期 ===
1996年3月に[[マイアミ]]で行われたソウル・トレイン・アワードの授賞式では、両レーベルの多数の取り巻きが、銃をぶら下げて対峙するという深刻な事態を招いた。その少し後のヴァイブ・アワードでは、トゥパックがナズに対して、次回作でディス(dis。曲中の歌詞に相手を中傷した言葉を織り交ぜて攻撃する行為)している部分を取り除けばこちらもディスをしない、という交渉を持ちかけていたことが、多くの人に証言されている。
デス・ロウの崩壊後、Gファンクの人気は下降した。ショッキングな銃撃事件によって、有力なラッパーを何人も失なったこともあり、勢力分布は変化した。1990年代初頭には、ヒップホップは他のジャンルの音楽と融合し、[[ヒップホップ・ソウル]]を生んだ。1990年代後半までには、南部はヒップホップの中心地域になり、それは21世紀まで続いている。[[アウトキャスト]]、グッディ・モブ他アトランタを拠点にしたラッパーも商業的に成功した。


[[1998年]]のビッグ・パン(ビッグ・パニッシャー)が登場した。2000年に肥満で死ぬ前に、ビッグ・パンは仕掛けなし、スキルのみでラップ・ファンの注目を集めた。その年、DMXがデビュー作『It's Dark and Hell Is Hot』をリリース。パフ・ダディやジェイ-Zのような、ライフスタイル志向のラップでヒットした。
そして1996年9月7日、トゥーパック・シャクールは[[ラスベガス]]で数回撃たれ、数日後の9月13日の金曜日に死亡した。[[1997年]][[3月9日]]には、ノトーリアス・B.I.G.がロサンゼルスで銃撃され殺された。これら両方の事件は未解決で、多くの噂が広まった。中には、シャクールはまだ生きているという説まである。

==== 事件の余波 ====
トゥーパックの死後、多くの目立ったアーティストはデス・ロウを去り、シュグ・ナイトは無関係の違反行為で刑務所に入り、西海岸はシーンの主流から落ちた。かつての西海岸の象徴だったスヌープ・ドッグは南部のレーベル(ノー・リミット)と契約した。ドクター・ドレーは自身のレーベル、[[アフターマス・エンターテインメント]]を創設し、東海岸出身のナズやファームといったアーティストとの仕事を始めた。ドレーは[[MTV]]のビデオアウォーズの授賞式で、「ギャングスタ・ラップは死んだ」と発言した。1997年、[[ネーション・オブ・イスラム]]の指導者、[[ルイス・ファラカーン]]のもとに数名のラッパーが訪れ、トゥーパックとビギーの死への許しを誓約した。

パフ・ダディの成功によって、ヒップホップのサウンドは、ストリートの賛歌から、もっと踊りやすいクラブに馴染んだパーティジャムへ移行すべきことを知らせた。これは他のラッパーにとって、結局は売り上げの増加を伴った。[[アトランタ]]の[[マスター・P]]率いる[[ノー・リミット]]レーベルの躍進によって、バッド・ボーイの支配的な人気も多少は落ちた。しかし彼自身は、P・ディディ、更にショーン・コムズと改名し、なおシーンの中心に存在し続けている。

== サウスの時代 (1998年 – 現在) ==
デス・ロウの崩壊後、Gファンクの人気は急激に衰えた。スキャンダラスな銃撃事件によって、ヒップホップ産業を取り巻く環境は変化した。西海岸のギャングスタ・ラップへの社会的な印象は非常に悪くなっていた。

1990年代後半、南部のヒップホップはノー・リミットやキャッシュマネーレーベルの活躍で広く知られるようになった。1990年代は、ヒップホップの要素は他のジャンルの音楽、例えば[[ネオ・ソウル]]と合体し、多くのスターがコラボレートされた。

[[1998年]]のビッグ・パンの出現はシーンの一つのエポックだった。2000年に肥満で死ぬ前に、ビッグ・パンは「ギミック」やマーケティングの仕掛けなしで、スキルのみで大きな注目を集めた。その年、DMXがデビュー作『It's Dark and Hell Is Hot』をリリース。パフ・ダディやジェイ-Zのような、ライフスタイル志向のラップでヒットした。


[[1999年]]、ドクター・ドレーは、シングル『Forgot About Dre』で[[エミネム]]をフィーチャーしてチャートの上位に登った。続いて、エミネムのデビュー作『The Slim Shady LP』は、多くの郊外在住の白人の若年層の共感を得て、100万枚を売り上げた。続くアルバムも大ヒットし、マイノリティに支配されていたシーンには白人のファンが入ってきた。エミネムはポップカルチャーのアイコンとなり、2002年にアカデミー賞を受賞する。
[[1999年]]、ドクター・ドレーは、シングル『Forgot About Dre』で[[エミネム]]をフィーチャーしてチャートの上位に登った。続いて、エミネムのデビュー作『The Slim Shady LP』は、多くの郊外在住の白人の若年層の共感を得て、100万枚を売り上げた。続くアルバムも大ヒットし、マイノリティに支配されていたシーンには白人のファンが入ってきた。エミネムはポップカルチャーのアイコンとなり、2002年にアカデミー賞を受賞する。


[[(削除) 2004年 (削除ここまで)]](削除) 、[[カニエ・ウェ (削除ここまで)(削除) ト]]のアルバム『The College Dropout』は (削除ここまで)、[[トゥイスタ]]、[[(削除) コモン (削除ここまで)]](削除) といった長年のアーティストと共に (削除ここまで)[[シカゴ]]のシーン(削除) を改めて (削除ここまで)注目(削除) させ (削除ここまで)た。[[2005年]]、[[ザ・ゲーム (ラッパー)|ザ・ゲーム]]がデビューすると、再び西海岸、特にベイエリアにスポットライトが当てられた。
[[(追記) コモン (追記ここまで)]](追記) (元コモンセン (追記ここまで)(追記) ) (追記ここまで)、[[トゥイスタ]]、[[(追記) カニエ・ウェスト (追記ここまで)]](追記) らは、 (追記ここまで)[[シカゴ]]の(追記) ラップ・ (追記ここまで)シーン(追記) に (追記ここまで)注目(追記) を集めることに成功し (追記ここまで)た。[[2005年]]、[[ザ・ゲーム (ラッパー)|ザ・ゲーム]]がデビューすると、再び西海岸、特にベイエリアにスポットライトが当てられた。


[[リル・ジョン]]&ザ・イーストサイド・ボーイズ、スリー6マフィア、[[8ボール&MJG]]、[[ヤングブラッズ]]など彼らに続く、クランク系のグループが多く輩出されている。
=== サザン・ラップの台頭 ===
1990年代後半までには、アトランタはヒップホップの主要都市になり今日まで続いている。[[アウトキャスト]]、グッディ・モブ他アトランタを拠点にしたラッパーは商業的に成功し、ニューオーリンズのラッパーでレーベルオーナーのマスター・Pは、アーティスト性よりも商業的なアピールにより焦点をしぼった「バウンス」サウンドで人気を得た。


2000年代に入ると、[[テキサス州]][[ヒューストン]]から、[[リル・フリップ]]、[[スリム・サグ]]、[[マイク・ジョーンズ]]、[[カミリオネア]]、[[ポール・ウォール]]など若手の実力派ラッパーが登場し、テキサス州出身で[[ミズーリ州]][[セントルイス]]育ちの[[ネリー (ラッパー)|ネリー]]のデビューアルバム『[[:en:Country Grammar|カントリー・グラマー]]』が注目された。カニエ・ウェストは、ドナルド・トランプ支持、反ユダヤ発言、大統領選挙出馬などにより、人気が急降下した。2010年代以降は、[[ケンドリック・ラマー]]、ドレイク、チャイルディッシュ・ガンビーノ、カーディBらが活躍した。
マスター・P率いるノー・リミットレーベルはミスティカル、シルク・ザ・ショッカーを売り出し、今や西海岸の大物であるスヌープ・ドッグの本拠地となった。ホット・ボーイズを擁するキャッシュ・マネーレーベルと競った。この争いに加わったのは、[[トリック・ダディ]]を擁するマイミのスリップン・スライドレーベルであった。これらのレーベルは[[ダーティ・サウス]]と名付けられたひとつのブームとなりこの10年で急成長した。CDのジャケットイメージは[[Adobe Photoshop|画像処理ソフト]]で激しく加工され、ライナーノーツは通常すべて関連商品の広告というスタイルだった。


== 脚注 ==
アトランタ以外でも、[[リル・ジョン&ザ・イーストサイド・ボーイズ]]、[[8ボール&MJG]]、[[ヤングブラッズ]]、[[スリー・6・マフィア]]など彼らに続く、いわゆるクランク系のグループが多く輩出されている。
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}


== 和書 ==
2000年代に入ると、[[テキサス州]][[ヒューストン]]から、[[リル・フリップ]]、[[スリム・サグ]]、[[マイク・ジョーンズ]]、[[カミリオネア]]、[[ポール・ウォール]]など若手の実力派ラッパーが登場して来ている。
* 『HIP HOP』(シンコー・ミュージック・エンタテイメント)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hip hop music}}
* [[ファンク]]
* [[ファンク]]
* [[R&B]]
* [[R&B]]
106行目: 82行目:
* [[ジョージ・クリントン]]
* [[ジョージ・クリントン]]
* [[Pファンク]]
* [[Pファンク]]


== 出典/参考文献 ==
* 『HIP HOP』(シンコー・ミュージック・エンタテイメント)

== 脚注 ==
{{Reflist}}

{{Commonscat|Hip hop music}}
{{音楽}}


{{デフォルトソート:ひつふほつふのれきし}}
{{デフォルトソート:ひつふほつふのれきし}}
[[Category:ヒップホップ|*(削除) れきし (削除ここまで)]]
[[Category:ヒップホップ(追記) の歴史 (追記ここまで)|*]]
[[Category:音楽史|ひつふほつふ]]

[[bg:История на хип хоп музиката]]
[[en:History of hip hop music]]
[[es:Historia del hip hop]]
[[it:Storia dell'hip hop]]

2024年3月17日 (日) 13:47時点における最新版

ヒップホップ音楽の歴史(ヒップホップおんがくのれきし)、またはラップの歴史は、1970年代末から21世紀までのヒップホップの歴史について記述する。

ヒップホップには4要素(DJブレイクダンスグラフィティ [注 1] ラップ)があるとされている。この4要素にスクラッチを加える場合もある。ヒップホップは大都市ニューヨークで誕生し、世界へと拡散していった。

概要

[編集 ]

ヒップホップ音楽のルーツには、ラスト・ポエッツギル・スコット=ヘロン [1] といった、1960年代からのポエトリー・リーディングのミュージシャン、街中でよく聞かれたダズンズなどの言葉遊びや、ジャマイカのトースティングからの影響などがあげられる。ジャマイカ出身のDJクール・ハークにより、DJ、トースティングが東海岸に伝えられていた。スクラッチの手法は70年代後半に、グランドウィザード・セオドア(Grandwizard Theodore)によって発明され、グランドマスター・フラッシュの「Adventures on the Wheels of Steel」で登場した。DJクールハーク、グランドマスター・フラッシュ、アフリカ・バンバータ[2] 。はサウス・ブロンクスのブロック・パーティーに初期から参加していた。バンバータはインクレディブル・ボンゴ・バンドの「アパッチ」が、アメリカ国歌のように演奏されていたと証言している。

歴史:1970年代

[編集 ]

オールドスクール (1979 - 1983ごろ)

[編集 ]

オールドスクール・ヒップホップは、1970年代のニューヨークで、クール・ハークなどのブレイクビーツをプレイするDJの出現とともに始まった。オールドスクールの時代のDJやラッパーは、ディスコミュージック、ソウルファンクの音源を使用した。ラップのライムの内容は、ほとんどがパーティや、地元ニューヨークに関する話題が中心だったが、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」(1982)は例外で、そのメッセージ性は後のラップに大きな影響を与えた。

最初のラップ曲は、79年のファットバック・バンドの「キング・ティム III (Personality Jock)」と、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」[注 2] とされている。ブロンクスのグランドマスター・フラッシュやバンバータらからは局外者と見做されたが、「ラッパーズ・ディライト」はビルボードのトップ40に入った。その後続いて、カーティス・ブロウやグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブらの曲がリリースされた。「ザ・メッセージ」はニューヨーク周辺だけで約50万枚のヒットを記録したといわれている。

1970年代、多くの黒人専門ラジオ局はディスコ中心の選曲に切り替えたが、アフリカ系アメリカ人コミュニティの中にはディスコに対する揺り戻しもあった。アフリカ・バンバータによると、ブロンクスのヒップホップは、ラジオ局でプレイされるディスコに反対する運動としての側面があったという。ブロンクスのディスコ「クラブ371」ではDJハリウッドがレコードをプレイしており、ハリウッドのミックスや言葉遊びに魅了されたのが、ハーレムのカーティス・ブロウやブロンクスのグランドマスター・フラッシュらだった[3]

ミドル・スクール (1984 – 1986)

[編集 ]

オールド・スクールが若い黒人に飽きられたころに登場したのは、UTFO、LLクールJ、ランDMC[注 3] 、フーディニらの一連のラップ・アーティストたちだった。彼らは、日本では「ミドル・スクール」と呼ばれることもあった。当時のヒット曲にはUTFO「ロクサーヌ、ロクサーヌ」、ランDMC「ウォーク・ディス・ウェイ」などがある。Run-D.M.C.が、ハードロックバンドのエアロスミスとコラボレーションした曲「Walk This Way」は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲はMTVでヘビーローテーションとなり、ビルボードのトップ5に入った最初のヒップホップの楽曲となった。1984年、デフ・ジャムレコーディングスは、ランD.M.C.のジョセフ・シモンズの兄弟、ラッセル・シモンズによって創設された。デフ・ジャムは、エンジョイやシュガーヒル・レコードの後継的なラップ・レーベルだった。また、Run-D.M.C.は、ハードロックバンドのエアロスミスとコラボレーションした曲「Walk This Way」(1986)は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲はMTVでヘビーローテーションとなり、ビルボードの「トップ5」に入った最初のヒップホップの楽曲となった。

ニュー・スクール

[編集 ]

東海岸

[編集 ]

1989年にはデ・ラ・ソウル、ビッグ・ダディ・ケイン、ジャングル・ブラザーズ、スリック・リックらの曲がソウル・チャートや黒人ラジオでヒットし、ラップはそのピークを迎えた[4] 。デラ・ソウルらのラップは「ニュー・スクール」と名付けられた。またNWAらのギャングスタ・ラップも、アルバム・チャートでビッグ・セールスを記録した。1980年代後半には、エリックB&ラキームほかによって、ヒップホップ界でサンプリングが多用されるようになった。デフジャムはパブリック・エネミー、LL・クール・J、スリック・リック、EPMD、ナイス&スムーズを擁し、レーベルとして全盛期を迎えた。1980年代後半のEPMDエリック・B&ラキムは、激しいドラムとリリックを信条とした。

この時代のヒップホップには、黒人の誇り、団結、自覚を促すサークルも見られ、黒人コミュニティに影響を与えた。1987年、パブリック・エネミーの「Yo! Bum Rush the Show」、続いて1988年、ブギー・ダウン・プロダクションズの「By All Means Necessary」がリリースされたが、どちらも政治的なメッセージの強い作品だった。KRS-ワン(ブギー・ダウン・プロダクションズ)によって、アフロアメリカン・コミュニティの暴力を終わらせようという運動も開始された。

ネイティヴ・タン一派は、'80年代末から'90年代初頭にかけて、デ・ラ・ソウル、ジャングル・ブラザーズ、ア・トライブ・コールド・クエストを中心に、クイーン・ラティファ、モニー・ラヴ[注 4] 、ブラック・シープ、ビートナッツといったアーティストへと引き継がれた、ゆるい集合体だった。一部のグループはアフリカ回帰思想を含んだリリックをラップし、ジャズなど多様な音楽に広がるサンプリング・センスが特徴的で、そのメッセージは、同様の主張を持つアーティストとともに「コンシャス・ヒップホップ」として一つの流れを形成した。「コンシャス・ヒップホップ」のルーツはグランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」のリリックを引き継いだものだった。

政治色の強いラップは当時のニューヨークにおいて大きな流れの一つではあったが、その一方でマーリー・マールのコールド・チリン・レコードが輩出したビッグ・ダディ・ケイン、クール・G・ラップ、ビズ・マーキーらのジュース・クルーに見られるようなラップも存在し、ニューヨークのシーンには多様性があった。またスクーリーDは、東部のギャングスタ・ラップのルーツとなった。トーン・ロック[注 5] 、ヤングMC[注 6] MCハマー [注 7] といったラッパー達はポップ・ラップでヒットを放った。

西海岸

[編集 ]

西海岸ではアイスTが「アイム・ユア・プッシャー」[注 8] でソウル・ヒットを放った。アイスTのラップは、ギャングスタ・ラップのルーツといわれ、彼のアルバム「パワー」(1987)はアルバム・チャートでヒットした。N.W.A.はアルバム「Straight Outta Compton」(1988)で一躍脚光を浴びたが、当初はギャングによるキワモノというネガティヴな評価が多かった。しかし、このアルバムは白人支配のアメリカにおける、ゲットー生活の厳しさをラップしたアルバムだった。

1990年代以降

[編集 ]

セカンドアルバム『Niggaz4Life』もヒットし、ギャングスタラップのスターになったNWAに続くグループやソロ・アーティストも現れた。ギャングスタラップは、ヒップホップが若者向けの音楽で主流になる上でも重要な役割を果たした。Eazy-E[注 9] のアルバム『Eazy-Duz-It』など、Gラップはヒットアルバムを連発した。[5] その結果、ギャングスタラップは、以前はゲットーの状況に気づかなかった白人に、政治的および社会的メッセージを広めた。。N.W.A.からソロデビューしたドクター・ドレー1991年シュグ・ナイトと共同でデス・ロウ・レコーズを設立した。同年2パックインタースコープ・レコードから『2パカリプス・ナウ』を発表しデビュー。ドレーが1992年に発表した『The Chronic』は、その後のギャングスタ・ラップを主流に押し上げた画期的なアルバムとなった。『The Chronic』やウォーレン・Gが1994年に発表した『Regulate... G Funk Era』などはGファンクと呼ばれ、1970年代のPファンク(パーラメントファンカデリック)などのサンプリングと、スロー、ミディアムのライムが特徴だった。カラーギャング出身のDJクィックブラッズのテーマカラーである赤を取り入れたファッションで人気を博した。他にアバーブ・ザ・ロウ、MCエイトのコンプトンズ・モスト・ウォンテッドらが人気となった。Gファンクのサウンドはソウルフル、リリックは反抗的で、若いファンの間で大流行した。西のヒップホップは巨大化し、シーンを牽引した。 スヌープ・ドギー・ドッグ1993年にデス・ロウから『Doggystyle』をリリースしてヒットを記録した。ヒップホップ音楽は後に、より幅広い人口統計にアピールしているが、メディア評論家は社会的および政治的に意識のあるヒップホップは、主流のアメリカによってほとんど無視されてきたと主張している。アイス・キューブも「AmeriKKKa's Most Wanted」と「Death Certificate」の2枚のアルバムで、政治的な内容を歌った。元デジタル・アンダーグラウンドの2パックは、アフロアメリカンの若者が抱えていた問題をライムにして、西海岸ハードコアの一翼を担った。

サンフランシスコ・ベイエリアではトラックはファンクを基本に、シンセサイザーやドラム・マシーンを使用していた。後のカリフォルニア州でのGファンクの源流とも言える。「ザ・ゲットー」を発表したトゥー・ショートやアント・バンクス、スパイス1など、多くのベイエリアのアーティストが活躍した。チカーノラップと呼ばれるジャンルも登場した。キッド・フロストメロウ・マン・エースらはこのジャンルのパイオニア的存在で、サイプレス・ヒルのヒットも注目を集めた[6] 。ギャングスタ・ラップ、Gファンクと同時期に、彼らは英語とスペイン語でチカーノの現実をリリックにした。ベイエリアのE-40トゥー・ショート、アント・バンクス、スパイス1らは、ピンプ、マック、女性、ドラッグ・ディーラーなどについてラップし、ソウル・アルバム・チャートでヒットを出した。

東海岸の逆襲

[編集 ]

1990年代、アメリカ東海岸のラップは、リリック、サウンドともに激しいものになった。EPMDは1990年代初頭にニュージャージー出身のレッドマンを含むデフ・スクワッドを集め、さらにハードコアヒップホップ路線を押しすすめた。

ニューヨーク市やフィラデルフィア出身のラッパーが次々とアルバムをリリースした。1993年にはウータン・クランの『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』、オニクスの『Bacdafucup』が、1994年にはナズの『Illmatic』とノトーリアス・B.I.G.(ビギー)の『Ready to Die』が発表された[7] 1995年にはモブ・ディープの『The Infamous』、レイクウォンの「『Only Built 4 Cuban Linx』がリリースされ、再びシーンの注目はニューヨークへと向いた。ナズにはラキムの影響、ビギーにはショーン・コムズが取り入れた西海岸のギャングスタ・ラップの影響が見られた。

1994年頃を境にして、ウータン・クランからは、レイクウォン、ゴーストフェイス・キラー [8] オール・ダーティ・バスタードメソッド・マンGZA等、次々とラップ・スターが生まれた。彼らのリリックの内容は、麻薬、セックスをテーマにする傾向が強まった。

東西の対立

[編集 ]

ニューヨークのシーンが再浮上したことは、東海岸と西海岸、そしてそれぞれの主要なレーベル同士の対立を生み出した。グループの対立関係は、後に個人的な対立関係へと変わり、惨事へと発展した。ノトーリアス・B.I.G.は、「Who Shot Ya」を1995年後半にリリース。トゥパックよりもシュグ・ナイトがバッド・ボーイと対立していたことが、悲劇の原因となった。ただ、トゥパックのラップの過激な内容は、対立をあおってしまった側面がある。当時のメディアはラップの東西戦争と報道した。1996年3月にマイアミで行われたソウル・トレイン・アワードの授賞式では、両レーベルの取り巻きが、銃をぶら下げて対峙するという事態を招いた。そして1996年9月7日、トゥーパック・シャクールはラスベガスで数回撃たれ、数日後の9月13日の金曜日に死亡した。1997年 3月9日には、ノトーリアス・B.I.G.がロサンゼルスで射殺された。両方の事件は未解決で、多くの噂が広まった。

トゥーパックの死後、多くの目立ったアーティストはデス・ロウを去り、シュグ・ナイトは刑務所に入り、西海岸ラップの勢いはやや弱まった。かつての西海岸の象徴だったスヌープ・ドッグは南部のレーベル(ノー・リミット)と契約した。ドクター・ドレーは自身のレーベル、アフターマス・エンターテインメントを創設し、東海岸出身のナズやファームといったアーティストとの仕事を始めた。ドレーはMTVのビデオアウォーズの授賞式で、「ギャングスタ・ラップは死んだ」と発言した。2パックの死後もマキャベリ名義で、ヒット作が発表された[9]

パフ・ダディの成功によって、ヒップホップのサウンドはストリート賛歌から、より踊りやすいクラブ向けのパーティ・ラップへ移行することを主張していた。これは他のラッパーにとって、売り上げの増加へと結びついた。

黎明期

[編集 ]

デス・ロウの崩壊後、Gファンクの人気は下降した。ショッキングな銃撃事件によって、有力なラッパーを何人も失なったこともあり、勢力分布は変化した。1990年代初頭には、ヒップホップは他のジャンルの音楽と融合し、ヒップホップ・ソウルを生んだ。1990年代後半までには、南部はヒップホップの中心地域になり、それは21世紀まで続いている。アウトキャスト、グッディ・モブ他アトランタを拠点にしたラッパーも商業的に成功した。

1998年のビッグ・パン(ビッグ・パニッシャー)が登場した。2000年に肥満で死ぬ前に、ビッグ・パンは仕掛けなし、スキルのみでラップ・ファンの注目を集めた。その年、DMXがデビュー作『It's Dark and Hell Is Hot』をリリース。パフ・ダディやジェイ-Zのような、ライフスタイル志向のラップでヒットした。

1999年、ドクター・ドレーは、シングル『Forgot About Dre』でエミネムをフィーチャーしてチャートの上位に登った。続いて、エミネムのデビュー作『The Slim Shady LP』は、多くの郊外在住の白人の若年層の共感を得て、100万枚を売り上げた。続くアルバムも大ヒットし、マイノリティに支配されていたシーンには白人のファンが入ってきた。エミネムはポップカルチャーのアイコンとなり、2002年にアカデミー賞を受賞する。

コモン(元コモンセンス)、トゥイスタカニエ・ウェストらは、シカゴのラップ・シーンに注目を集めることに成功した。2005年ザ・ゲームがデビューすると、再び西海岸、特にベイエリアにスポットライトが当てられた。

リル・ジョン&ザ・イーストサイド・ボーイズ、スリー6マフィア、8ボール&MJGヤングブラッズなど彼らに続く、クランク系のグループが多く輩出されている。

2000年代に入ると、テキサス州 ヒューストンから、リル・フリップスリム・サグマイク・ジョーンズカミリオネアポール・ウォールなど若手の実力派ラッパーが登場し、テキサス州出身でミズーリ州 セントルイス育ちのネリーのデビューアルバム『カントリー・グラマー』が注目された。カニエ・ウェストは、ドナルド・トランプ支持、反ユダヤ発言、大統領選挙出馬などにより、人気が急降下した。2010年代以降は、ケンドリック・ラマー、ドレイク、チャイルディッシュ・ガンビーノ、カーディBらが活躍した。

脚注

[編集 ]

注釈

[編集 ]
  1. ^ キース・ヘリング、ジャン・ミッシェル・バスキアらもグラフィティからスタートしたといわれている
  2. ^ シックの「グッド・タイムズ」をネタにラップした曲である
  3. ^ 「ウォーク・ディス・ウェイ」が86年にヒット
  4. ^ 「イッツ・ア・シェイム」がソウル・チャートでヒット
  5. ^ 「ワイルド・シング」がヒット
  6. ^ 「バスト・ア・ムーブ」がヒットした
  7. ^ 「Uキャント・タッチ・ジス」などがヒットした
  8. ^ カーティス・メイフィールドの曲を使用していた
  9. ^ イージーEはエイズで死去している。なお、感染は同性愛セックスによるものではないと、声明が出された

出典

[編集 ]
  1. ^ http://www.allmusic.com/artist/gil-scott-heron-mn0000658346
  2. ^ Cite web |url=https://www.rollingstone.com/music/music-lists/the-50-greatest-hip-hop-songs-of-all-time-150547/afrika-bambaataa-the-soul-sonic-force-planet-rock-96659/ |title=Afrika Bambaataa & the Soul Sonic Force,‘Planet Rock’|website=Rolling Stone | accessdate=22 August 2020
  3. ^ 「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ著、p.344,早川書房
  4. ^ スリック・リック 2023年4月28日閲覧
  5. ^ ギャングスタ・ラップ 2023年4月28日閲覧
  6. ^ チカーノ・ラップ・オールド・スクール 2023年5月1日閲覧
  7. ^ Ready to Die 2023年5月6日閲覧
  8. ^ Bonce 1997年2月号 p.118
  9. ^ Bonce 1997年2月号 p/118

和書

[編集 ]
  • 『HIP HOP』(シンコー・ミュージック・エンタテイメント)

関連項目

[編集 ]
ウィキメディア・コモンズには、ヒップホップ音楽の歴史 に関連するカテゴリがあります。

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /