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{{ポルトガル語圏の姓名|デ・ジェズス|ドス・サントス}}
(削除) [[File:ChildrensofFatima.jpg (削除ここまで)|(削除) thumb|right|200px|[[ (削除ここまで)ルシア・ドス・サントス(削除) ]] (削除ここまで)(左)、フランシスコ、[[(削除) ヤ (削除ここまで)シンタ・マルト|(削除) ヤ (削除ここまで)シンタ]]。1917年撮影(削除) ]] (削除ここまで)
{{Infobox 聖人
'''ルシア・デ・ジェズス・ドス・サントス'''('''Lúcia de Jesus dos Santos''' [[1907年]][[3月22日]]-[[2005年]][[2月13日]])は[[ポルトガル]](削除) ・ (削除ここまで)[[ファティマ]]における[[聖母の出現|聖母出現]]の目撃者の一人で、[[カトリック教会|カトリック]]の[[修道士|修道女]]([[カルメル会]])。ルシアは3人の目撃者の中で唯一、長命であった。
|名前=ルシア・ドス・サントス
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|(追記) 画像コメント= (追記ここまで)ルシア・ドス・サントス(左)、フランシスコ、[[(追記) ジャ (追記ここまで)シンタ・マルト|(追記) ジャ (追記ここまで)シンタ]]。1917年撮影
|称号=尊者
|他言語表記=Lúcia de Jesus dos Santos
|生誕地={{PRT1830}}<br />[[ファティマ]]
|生誕年(日)=[[1907年]][[3月22日]]
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|死去年(日)=[[2005年]][[2月13日]]
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'''ルシア・デ・ジェズス・ドス・サントス'''('''Lúcia de Jesus dos Santos''' [[1907年]][[3月22日]]-[[2005年]][[2月13日]])は(追記) 、 (追記ここまで)[[ポルトガル]](追記) の (追記ここまで)[[ファティマ]]における[[聖母の出現|聖母出現]]の目撃者の一人で、[[カトリック教会|カトリック]]の[[修道士|修道女]]([[カルメル会]])。ルシアは3人の目撃者の中で唯一、長命であった。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
ルシアはカトリック信者である両親のもと、ファティマで生まれる<ref>{{citeweb|url=https://agencia.ecclesia.pt/portal/irma-lucia-1907-2005/|title=Irmã Lúcia (1907-2005)|publisher=Agência Ecclesia|date=2007年03月29日|accessdate=2023年06月25日}}</ref>。ルシアが最初に不思議な経験をし始めるのが[[1915年]]4月から10月にかけてのことである。友人と一緒に遊んでいるときに天使を幻視する。その後、[[1917年]][[5月13日]]の日曜日。従兄妹である[[フランシスコ・マルト]]と[[ジャシンタ・マルト|ジャシンタ]]の兄妹と一緒に羊の番をしているときに3人の前に『聖母』が現れた。その『聖母』は3人の子供たちに予言を残し消えていった。それから毎月13日にかけて聖母は現れた<ref>{{citeweb|url=https://web.archive.org/web/20160310054409/http://es.aleteia.org/daily-gospel/amad-a-vuestros-enemigos-y-rogad-por-los-que-os-persigan/#saint-of-the-day|title=Beatos Jacinta Y Francisco Marto, Pastorcitos De Fátima|publisher=Aleteia|date=|accessdate=2023年06月25日}}</ref>。([[ファティマの聖母]])
ファティマの農村で生まれ育ったルシアは両親共に敬虔なカトリックで、特に幼い頃からその影響を受けていた。それが後に[[聖母マリア]]の出現につながってゆくこととなる。


(追記) 聖母の予言通り、フランシスコは[[1919年]][[4月4日]]、ジャシンタは[[1920年]][[2月20日]]に流行の病でそれぞれこの世を去る。ルシアはドロテア(Doroteia)修道会に入り、カトリックの修道女となる。[[1948年]]、カルメル会に入会する。 (追記ここまで)[[1981年]]、教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が銃撃され、一命をとりとめたのは、[[ファティマの聖母]]の記念日である5月13日であった。回復後、教皇は摘出された弾丸を聖地となったファティマに奉納し、[[2000年]]にフランシスコ、(追記) ジャ (追記ここまで)シンタ兄妹を[[列福]]した。また、ルシアは後年ヨハネ・パウロ2世と会っている。ルシアは[[2005年]]2月13日(追記) に (追記ここまで)死去した(追記) <ref>{{citeweb|url=https://www.theguardian.com/news/2005/feb/16/guardianobituaries.religion|title=Sister Lúcia dos Santos|publisher=The Guardian|date=2005年02月16日|accessdate=2023年06月23日}}</ref> (追記ここまで)
ルシアが最初に不思議な経験をし始めるのが[[1915年]]4月から10月にかけてのことである。友人と一緒に遊んでいるときに天使を幻視する。その後、[[1917年]][[5月13日]]の日曜日。従兄妹である[[フランシスコ・マルト]]と[[ヤシンタ・マルト|ヤシンタ]]の兄妹と一緒に羊の番をしているときに三人の前に『聖母』が現れた。


『聖母』が残した予言の中で3つが有名で、1つ目が[[第一次世界大戦]]の終結、2つ目が[[ロシア帝国]]の崩壊と[[共産主義]]の台頭、(追記) 3 (追記ここまで)(追記) 目 (追記ここまで)(追記) 「第3の秘密」である。 (追記ここまで)長年の間[[バチカン]]によって封印されてきた。(追記) 2000年6月、教皇庁 (追記ここまで)(追記) 教皇ヨハネ・パウロ2世の決定により、 (追記ここまで)ファティマ(追記) 第3 (追記ここまで)(追記) メッセージ (追記ここまで)(追記) 正式に発表した{{sfn|カトリック中央協議会|2001|p=3-6}} (追記ここまで)
その『聖母』は3人の子供たちに予言を残し消えていった。それに驚いたルシアは急いで両親にその出来事を伝えた。両親も最初は信じなかったがやがて村全体、その近郊の町に伝わり、小さな村でしかなかったファティマは大勢の参拝客で賑わった。それから毎月13日にかけて聖母は現れた。[[ファティマの聖母]]

(削除) 聖母出現の出来事は[[ヨーロッパ]]全土にまで伝わり、賛否両論のセンセーショナルを巻き起こした。 (削除ここまで)『聖母』が残した予言の中で3つが有名で、1つ目が[[第一次世界大戦]]の終結(削除) で (削除ここまで)、2つ目が[[ロシア帝国]]の崩壊と[[共産主義]]の台頭(削除) と (削除ここまで)(削除) もう一 (削除ここまで)(削除) の予言 (削除ここまで)が長年の間(削除) 、 (削除ここまで)[[バチカン]]によって封印されてきた。(削除) ''それについての詳細 (削除ここまで)(削除) [[ (削除ここまで)ファティマの(削除) 聖母]] (削除ここまで)(削除) 参照 (削除ここまで)(削除) '' (削除ここまで)

その後、聖母の予言通り、フランシスコは[[1919年]][[4月4日]]、ヤシンタは[[1920年]][[2月20日]]に流行の病でそれぞれこの世を去る。

一人残されたルシアはドロテア(Doroteia)修道会に入り、シスター(カトリックの修道女)となる。ここでの彼女は同僚からの羨望と嫉妬に苦しんでいたがそれでも2人の弔いと自分の使命を全うした。[[1948年]]、[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]によってカルメル会に転属される。

[[1981年]]、教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が銃撃され、一命をとりとめたのは、[[ファティマの聖母]]の記念日である5月13日であった。回復後、教皇は摘出された弾丸を聖地となったファティマに奉納し、[[2000年]]にフランシスコ、(削除) ヤ (削除ここまで)シンタ兄妹を[[列福]]した。また、ルシアは後年ヨハネ・パウロ2世と会っている。ルシアは[[2005年]]2月13日(削除) 、心不全で (削除ここまで)死去した。


== 死後 ==
== 死後 ==
彼女の死後3年が経過して、[[2008年]]2月13日には教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が彼女の列福調査の開始を許可した。通常、列福調査は該当者の死後5年経過しないと始まらないが、教皇はルシア修道女に関して特別に免除した。早期列福の調査は前教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]、[[マザー・テレサ]]に次ぐものとなる。
彼女の死後3年が経過して、[[2008年]]2月13日には教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が彼女の列福調査の開始を許可した。通常、列福調査は該当者の死後5年経過しないと始まらないが、教皇はルシア修道女に関して特別に免除した。早期列福の調査は前教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]、[[マザー・テレサ]]に次ぐものとなる(追記) <ref>{{citeweb|url=https://web.archive.org/web/20120927020314/http://www.zenit.org/article-21764?l=english|title=ISTER LUCIA'S BEATIFICATION PROCESS TO BEGIN|publisher=ZENIT|date=2008年02月13日|accessdate=2023年06月25日}}</ref> (追記ここまで)


2023年6月22日、教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]はルシア修道女の英雄的徳を認め、「尊者」の敬称を受ける事を教皇庁列聖省が発表した<ref>{{Cite news|title=ファティマの牧童の一人、ルシア修道女、尊者に|url=https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2023-06/promulgazione-decreti-suor-lucia-le-virtu-eroiche.html|publisher=VATICAN NEWS|date=2023年6月22日|accessdate=2023年6月23日}}</ref>。
== 陰謀論 ==
1948年3月にピオ12世の教皇特別許可のもと41歳のルシアはドロテア会から離れ、ポルトガルのコインブラ、カルメル会サンタテレサ修道院へと移動した。


== 脚注 ==
移動後はカルメル会の精神に基づいて社会との一切の関わりばかりでなく最も身近な肉親との会話さえも、会話が霊的でない限り必要最小限にとどめる事を要求された。これらの事は一部の人々、例えばファティマ・クルセードー[http://www.fatimacrusader.com/]の活動で有名なカナダ人のグルーナー神父(1942年5月4日〜2015年4月29日)[https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Gruner]らに、当時世界中のカトリック信者に絶大な影響力のあったルシアの口封じをするためのものだったのではないかと考えさせるに至った。
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
この1948年の移動後にルシアが偽物に置き換えられたという噂が存在する。偽物と思われる人物と本物と思われる人物の顔の各部分の写真を並べて比較検討したものがネット上で多数公開されている。歯並びや歯の大きさ、横顔などに同一人物とは思えない程度の相違点が認められ、現在教会の内外を問わず議論を巻き起こしている。また言動上の違いも注目されている。
*{{Citation|和書|last=カトリック中央協議会|translator=カトリック中央協議会福音宣教研究室|title=ファティマ第三の秘密: 教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書|publisher=カトリック中央協議会|date=2001-04|isbn=4877500952|ref=harv}}


==(追記) (追記ここまで)関連項目(追記) (追記ここまで)==
同じ年の1948年にはアンニバレ・ブニーニ[https://en.wikipedia.org/wiki/Annibale_Bugnini#Allegations_of_Freemasonry]が典礼改革委員会長官に同教皇によって任命されている。50年代には様々な教会改革・典礼改革[https://en.wikipedia.org/wiki/Liturgical_reforms_of_Pope_Pius_XII#Eucharistic_fast]が始まった。たとえば聖体拝領前の断食は1953年には真夜中から拝領前までだったのが拝領前3時間になり4年後にはさらに緩和された。1955年には聖週間の新しい典礼様式が発表され、1962年には次の新しい教皇によって公会議が開かれた。

しかし第三の秘密にいたっては60年代になってなおも公にされる事はなかった。

プロテスタントの神学者を多数迎えて行われた公会議[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0#.E3.83.94.E3.82.AA11.E4.B8.96]での改革派は、マリア論を警戒する傾向にあり、投票が行われた時の擁護者との票差はわずかなものだった。[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0#.E8.81.96.E6.AF.8D.E3.83.9E.E3.83.AA.E3.82.A2.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.8D.89.E6.A1.88]

公会議が閉会された1965年以降、1967年になってから『ルシア』は再びパウロ6世教皇のファティマ巡礼の折にファティマに姿を見せた。1967年、1982年、1992年、2000年の4回にわたって行われたそれぞれの時の教皇によるファティマ巡礼の折に『ルシア』は修道院から約87キロ離れたファティマにその都度戻っている。しかしこの『ルシア』が先の理由から本物かどうかという疑問が発せられている。

近年、機関紙であるインサイド・ザ・バチカン誌(2006年3月号)に替え玉と思われている人物の若い時の写真が誤って掲載されたことも一部の人々にこのような確信を深めさせた。[http://www.traditioninaction.org/HotTopics/g11htTwoSisterLucys_Horvat.htm]


==関連項目==
*[[聖母マリア]]
*[[聖母マリア]]
*[[聖母の出現]]
*[[聖母の出現]]
*[[ファティマの聖母]]
*[[ファティマの聖母]]
*[[(削除) ヤ (削除ここまで)シンタ・マルト]]
*[[(追記) ジャ (追記ここまで)シンタ・マルト]]
*[[フランシスコ・マルト]]


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[[Category:(削除) カルメル会 (削除ここまで)]]
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[[Category:21世紀のカトリック聖職者]]
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[[Category:20世紀ポルトガルの女性]]
[[Category:21世紀ポルトガルの女性]]
[[Category:1907年生]]
[[Category:1907年生]]
[[Category:2005年没]]
[[Category:2005年没]]

2024年4月9日 (火) 02:01時点における最新版

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はデ・ジェズス、第二姓(父方の姓)はドス・サントスです。
ルシア・ドス・サントス
ルシア・ドス・サントス(左)、フランシスコ、ジャシンタ。1917年撮影
尊者
他言語表記 Lúcia de Jesus dos Santos
生誕 1907年 3月22日
ポルトガル王国の旗 ポルトガル王国
ファティマ
死没 2005年 2月13日
ポルトガルの旗 ポルトガル
コインブラ
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ルシア・デ・ジェズス・ドス・サントス(Lúcia de Jesus dos Santos 1907年 3月22日-2005年 2月13日)は、ポルトガルファティマにおける聖母出現の目撃者の一人で、カトリック修道女(カルメル会)。ルシアは3人の目撃者の中で唯一、長命であった。

生涯

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ルシアはカトリック信者である両親のもと、ファティマで生まれる[1] 。ルシアが最初に不思議な経験をし始めるのが1915年4月から10月にかけてのことである。友人と一緒に遊んでいるときに天使を幻視する。その後、1917年 5月13日の日曜日。従兄妹であるフランシスコ・マルトジャシンタの兄妹と一緒に羊の番をしているときに3人の前に『聖母』が現れた。その『聖母』は3人の子供たちに予言を残し消えていった。それから毎月13日にかけて聖母は現れた[2] 。(ファティマの聖母)

聖母の予言通り、フランシスコは1919年 4月4日、ジャシンタは1920年 2月20日に流行の病でそれぞれこの世を去る。ルシアはドロテア(Doroteia)修道会に入り、カトリックの修道女となる。1948年、カルメル会に入会する。1981年、教皇ヨハネ・パウロ2世が銃撃され、一命をとりとめたのは、ファティマの聖母の記念日である5月13日であった。回復後、教皇は摘出された弾丸を聖地となったファティマに奉納し、2000年にフランシスコ、ジャシンタ兄妹を列福した。また、ルシアは後年ヨハネ・パウロ2世と会っている。ルシアは2005年2月13日に死去した[3]

『聖母』が残した予言の中で3つが有名で、1つ目が第一次世界大戦の終結、2つ目がロシア帝国の崩壊と共産主義の台頭、3つ目が「第3の秘密」である。長年の間バチカンによって封印されてきた。2000年6月、教皇庁は教皇ヨハネ・パウロ2世の決定により、ファティマ第3のメッセージを正式に発表した[4]

死後

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彼女の死後3年が経過して、2008年2月13日には教皇ベネディクト16世が彼女の列福調査の開始を許可した。通常、列福調査は該当者の死後5年経過しないと始まらないが、教皇はルシア修道女に関して特別に免除した。早期列福の調査は前教皇ヨハネ・パウロ2世マザー・テレサに次ぐものとなる[5]

2023年6月22日、教皇フランシスコはルシア修道女の英雄的徳を認め、「尊者」の敬称を受ける事を教皇庁列聖省が発表した[6]

脚注

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  1. ^ "Irmã Lúcia (1907-2005)". Agência Ecclesia (2007年3月29日). 2023年6月25日閲覧。
  2. ^ "Beatos Jacinta Y Francisco Marto, Pastorcitos De Fátima". Aleteia. 2023年6月25日閲覧。
  3. ^ "Sister Lúcia dos Santos". The Guardian (2005年2月16日). 2023年6月23日閲覧。
  4. ^ カトリック中央協議会 2001, p. 3-6.
  5. ^ "ISTER LUCIA'S BEATIFICATION PROCESS TO BEGIN". ZENIT (2008年2月13日). 2023年6月25日閲覧。
  6. ^ "ファティマの牧童の一人、ルシア修道女、尊者に". VATICAN NEWS. (2023年6月22日). https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2023-06/promulgazione-decreti-suor-lucia-le-virtu-eroiche.html 2023年6月23日閲覧。 

参考文献

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  • カトリック中央協議会 著、カトリック中央協議会福音宣教研究室 訳『ファティマ第三の秘密: 教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書』カトリック中央協議会、2001年4月。ISBN 4877500952 

関連項目

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カルメル会士
カルメル会関連人物
伝道施設
カルメル会系列

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