(18人の利用者による、間の27版が非表示)
1行目:
1行目:
{{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|38.6795|140.3263}}|caption=猿羽根峠|width=256}}
'''猿羽根峠'''((削除) ''' (削除ここまで)さばねとうげ(削除) ''' (削除ここまで))(削除) と (削除ここまで)は、[[山形県]][[尾花沢市]]と[[最上郡]][[舟形町]]との間にある[[峠]](削除) である (削除ここまで)。標高150m。
'''猿羽根峠'''(さばねとうげ)は、[[山形県]][[尾花沢市]]と[[最上郡]][[舟形町]]との間にある[[峠]]。標高150m。
==(削除) 峠の (削除ここまで)歴史==
==(追記) (追記ここまで)歴史(追記) (追記ここまで)==
[[ファイル:Sinzyou-han kyouseki.jpg|thumb|240px|新庄藩境石]]
峠が初めて登場したのは古く、[[延喜式]]に駅亭(削除) ( (削除ここまで)水駅とされる(削除) ) (削除ここまで)の「避翼(削除) ( (削除ここまで)さるはね(削除) ) (削除ここまで)駅」の名がある。[[奈良時代]]の頃より道があったとされ、[[多賀城]]から[[城輪柵]]・[[払田柵]]・[[秋田城]]へと向かう峠道として存在していたとされる。
峠が初めて登場したのは古く、[[延喜式]]に駅亭(追記) ( (追記ここまで)水駅とされる(追記) ) (追記ここまで)の「避翼(追記) ( (追記ここまで)さるはね(追記) ) (追記ここまで)駅」の名がある。[[奈良時代]]の頃より道があったとされ、[[多賀城]]から[[城輪柵]]・[[払田柵]]・[[秋田城]]へと向かう峠道として存在していたとされる。
[[江戸時代]]には、[[新庄藩]]と[[天領]]であった尾花沢との境界になった。現在も藩境を示す石標が残されている。[[久保田藩]](削除) ( (削除ここまで)秋田藩(削除) ) (削除ここまで)が中心となって[[羽州街道]]の整備を行い、庄内・秋田・津軽の諸大名の[[参勤交代]]道として使われるようになった(削除) ( (削除ここまで)猿羽根峠から尾花沢にかけての区間は久保田藩によって開削されたとされ、かつては「佐竹道」と呼ばれていた(削除) ) (削除ここまで)。(削除) また、峠 (削除ここまで)の(削除) 麓にある舟形宿から (削除ここまで)は[[(削除) 出羽三山 (削除ここまで)]](削除) 参詣 (削除ここまで)路であった(削除) [[舟形街道]] (削除ここまで)が(削除) 分岐 (削除ここまで)し(削除) ており、全国の修験者も多く行き交っ (削除ここまで)てい(削除) た。幕末に (削除ここまで)な(削除) ると、維新の志士が多く行き交った (削除ここまで)。
[[江戸時代]]には、[[新庄藩]]と[[天領]]であった尾花沢との境界になった。現在も藩境を示す石標が残されている。[[久保田藩]](追記) ( (追記ここまで)秋田藩(追記) ) (追記ここまで)が中心となって[[羽州街道]]の整備を行い、庄内・秋田・津軽の諸大名の[[参勤交代]]道として使われるようになった(追記) ( (追記ここまで)猿羽根峠から尾花沢にかけての区間は久保田藩によって開削されたとされ、かつては「佐竹道」と呼ばれていた(追記) ) (追記ここまで)。(追記) こ (追記ここまで)の(追記) 道 (追記ここまで)は(追記) 現在の (追記ここまで)[[(追記) 東北中央自動車道 (追記ここまで)]](追記) ([[尾花沢新庄道 (追記ここまで)路(追記) ]])[[川原子インターチェンジ]]付近から峠へ直登するもの (追記ここまで)であったが(追記) 、ほとんど現存 (追記ここまで)していな(追記) い (追記ここまで)。
峠の麓にある舟形宿からは[[出羽三山]]参詣路であった[[舟形街道]]が分岐しており、全国の修験者も多く行き交っていた。幕末になると、維新の志士が多く行き交った。
⚫
明治時代になると、初代山形県令になった[[三島通庸]]は、東京から山形県を通り(削除) 、 (削除ここまで)[[青森県]]に(削除) いた (削除ここまで)る街道の重要さを認識したため、地元から費用と人足を徴用し、これまでの荷駄による輸送がせいぜいだった難路から、[[馬車]]の通行が可能な'''猿羽根新道'''を開削し、[[1878年]](削除) ( (削除ここまで)明治10年(削除) ) (削除ここまで)に開通した。これにより、山形県[[最上地方]]のみならず、東北北部全体が近代化に向けて発展することになる。猿羽根新道開通の翌年には、[[イギリス]]の女性旅行家[[イザベラ・バード]]が訪れ、峠の麓から見た[[最上川]]の風景を「日本奥地紀行」の中で絶賛し、猿羽根峠自体も立派な並木道を好印象を持って記している(削除) が、逆に舟形では、家々がみすぼらしく、板戸が閉じており陰鬱であるとした (削除ここまで)。
⚫
明治時代になると、初代山形県令になった[[三島通庸]]は、東京から山形県を通り[[青森県]]に(追記) 至 (追記ここまで)る街道の重要さを認識したため、地元から費用と人足を徴用し、これまでの荷駄による輸送がせいぜいだった難路から、[[馬車]]の通行が可能な'''猿羽根新道'''を開削し、[[1878年]](追記) ( (追記ここまで)明治10年(追記) ) (追記ここまで)に開通した。これにより、山形県[[最上地方]]のみならず、東北北部全体が近代化に向けて発展することになる。猿羽根新道開通の翌年には、[[イギリス]]の女性旅行家[[イザベラ・バード]]が訪れ、峠の麓から見た[[最上川]]の風景を「日本奥地紀行」の中で絶賛し、猿羽根峠自体も立派な並木道を好印象を持って記している。
⚫
(削除) その後、 (削除ここまで)[[奥羽本線]]の開通と共に交通の主役を鉄道に譲(削除) る (削除ここまで)が、戦後の[[モータリゼーション]]の中で復権を遂げ、[[1961年]](削除) ( (削除ここまで)昭和36年(削除) ) (削除ここまで)に(削除) 、舟形市街地から直接 (削除ここまで)猿羽根峠の下を貫通する[[国道13号]]'''猿羽根(削除) トンネル (削除ここまで)'''(削除) ( (削除ここまで)全長(削除) 433m) (削除ここまで)が(削除) 完成し、 (削除ここまで)かつての難所は、峠越えを意識することなく安全に(削除) 越えられる峠 (削除ここまで)へと変貌した。
⚫
さらに(削除) 、 (削除ここまで)[[東北中央自動車道]]の一部である(削除) [[ (削除ここまで)尾花沢新庄道路(削除) ]] (削除ここまで)が完成すると、猿羽根峠の区間には'''舟形トンネル'''(削除) ( (削除ここまで)全長1,(削除) 368m) (削除ここまで)が作られ、車道の勾配すらなく越えられるようになった。
[[ファイル:Sabane-zuidou.jpg|thumb|240px|猿羽根隧道]]
[[ファイル:Funagata tunnel.jpg|thumb|240px|舟形トンネル]]
⚫
[[奥羽本線]]の開通と共に交通の主役を鉄道に譲(追記) った (追記ここまで)が、戦後の[[モータリゼーション]]の中で(追記) 道路交通が (追記ここまで)復権を遂げ(追記) た。しかし猿羽根峠付近は狭小かつ屈曲が多いため (追記ここまで)、[[1961年]](追記) ( (追記ここまで)昭和36年(追記) ) (追記ここまで)に猿羽根峠の下を貫通する[[国道13号]]'''猿羽根(追記) 隧道 (追記ここまで)'''(追記) ( (追記ここまで)全長(追記) 433m) (追記ここまで)が(追記) 建設された。これによって (追記ここまで)かつての難所は、峠越えを意識することなく安全に(追記) 市街地を結ぶ道 (追記ここまで)へと変貌した。
⚫
さらに[[東北中央自動車道]]の一部である尾花沢新庄道路が完成すると、猿羽根峠の区間には'''舟形トンネル'''(追記) ( (追記ここまで)全長1,(追記) 368m) (追記ここまで)が作られ、車道の勾配すらなく越えられるようになった。
⚫
猿羽根峠の頂上には、猿羽根山地蔵堂が建立されている。「日本三大地蔵」の一つであり(削除) 1000 (削除ここまで)年の歴史があるといわれ(削除) る (削除ここまで)、良縁・子宝・長寿にご利益があるとされる。
⚫
猿羽根山地蔵尊の周囲は猿羽根山公園として整備されており、猿羽根[[スキー場]]、[[土俵]]、展望台、舟形町民俗資料館(削除) ( (削除ここまで)町内で発掘された[[縄文時代]]の8頭身の[[土偶]]が展示されている(削除) ) (削除ここまで)などがある。かつては、観覧車や遊具を備えた'''猿羽根山遊園地'''であったが、(削除) 20 (削除ここまで)年(削除) 前 (削除ここまで)に閉園となった。スキー場や展望台などは遊園地施設の流用である。
⚫
猿羽根新道は、未舗装ながら車道として現存しており、通(削除) り抜けが (削除ここまで)可能である(削除) ( (削除ここまで)頂上に車道を横切るようにチェーンが張られており、一般車両は通り抜けできないようになっている(削除) ) (削除ここまで)。また、猿羽根新道を縫うように、藩政時代からの旧道の一部区間が、半ば廃道化して残されている。
=== 隣のトンネル ===
=== 隣のトンネル ===
(削除) ( (削除ここまで)福島方面(削除) ) (削除ここまで)[[(削除) 西栗子 (削除ここまで)トンネル]] - '''猿羽根トンネル'''(削除) (削除ここまで)-(削除) (削除ここまで)主寝坂トンネル(削除) ( (削除ここまで)秋田方面(削除) ) (削除ここまで)
(追記) ( (追記ここまで)福島方面(追記) ) (追記ここまで)[[(追記) 上山バイパス#主なトンネルと橋|岩部山 (追記ここまで)トンネル]] - '''猿羽根(追記) 隧道'''・'''舟形 (追記ここまで)トンネル'''(追記) (追記ここまで)-(追記) [[主寝坂峠|主寝坂隧道]]・[[主寝坂道路|新 (追記ここまで)主寝坂トンネル(追記) ]] ( (追記ここまで)秋田方面(追記) ) (追記ここまで)
⚫
猿羽根峠の頂上には、猿羽根山地蔵(追記) 尊 (追記ここまで)堂が建立されている。「日本三大(追記) [[ (追記ここまで)地蔵(追記) 菩薩|地蔵]] (追記ここまで)」の一つであり(追記) 千 (追記ここまで)年の歴史があるといわれ、良縁・子宝・長寿にご利益があるとされる。
⚫
猿羽根山地蔵尊(追記) 堂 (追記ここまで)の周囲は猿羽根山公園として整備されており、猿羽根[[スキー場]]、[[土俵]]、展望台、舟形町民俗資料館(追記) ( (追記ここまで)町内で発掘された[[縄文時代]]の8頭身の[[土偶]]が展示されている(追記) )、農業体験実習館 (追記ここまで)などがある。かつては、観覧車や(追記) ミニ鉄道、 (追記ここまで)遊具を備えた'''猿羽根山遊園地'''であったが、(追記) 1988年(昭和63 (追記ここまで)年(追記) )頃 (追記ここまで)に閉園となった。スキー場や展望台などは(追記) 旧 (追記ここまで)遊園地施設の流用である。
⚫
猿羽根新道は、未舗装ながら車道として現存しており、通(追記) 行 (追記ここまで)可能である(追記) ( (追記ここまで)頂上に車道を横切るようにチェーンが張られており、一般車両は通り抜けできないようになっている(追記) ) (追記ここまで)。また、猿羽根新道を縫うように、藩政時代からの旧道の一部区間が、半ば廃道化して残されている。
⚫
==(追記) (追記ここまで)周辺(追記) (追記ここまで)==
⚫
*(追記) (追記ここまで)[[川原子インターチェンジ]]
* 藤原優太郎「羽州街道をゆく」無明舎出版、2002年 ISBN 4-89544-320-5
{{japan-geo-stub(削除) |さはねとうけ (削除ここまで)}}
{{japan-geo-stub}}
{{ウィキ座標度分秒|38|40|46|N|140|19|35|E|type:pass_region:JP-06|display=title}}
⚫
[[Category:(削除) 日本 (削除ここまで)の峠(削除) |さはねとうけ (削除ここまで)]]
(削除) [[Category (削除ここまで):(削除) 尾花沢市| (削除ここまで)さはねとうけ(削除) ]] (削除ここまで)
(追記) {{デフォルトソート (追記ここまで):さはねとうけ(追記) }} (追記ここまで)
⚫
[[Category:(追記) 山形県 (追記ここまで)の峠]]
2022年2月22日 (火) 21:25時点における最新版
猿羽根峠(さばねとうげ)は、山形県 尾花沢市と最上郡 舟形町との間にある峠。標高150m。
峠が初めて登場したのは古く、延喜式に駅亭(水駅とされる)の「避翼(さるはね)駅」の名がある。奈良時代の頃より道があったとされ、多賀城から城輪柵・払田柵・秋田城へと向かう峠道として存在していたとされる。
江戸時代には、新庄藩と天領であった尾花沢との境界になった。現在も藩境を示す石標が残されている。久保田藩(秋田藩)が中心となって羽州街道の整備を行い、庄内・秋田・津軽の諸大名の参勤交代道として使われるようになった(猿羽根峠から尾花沢にかけての区間は久保田藩によって開削されたとされ、かつては「佐竹道」と呼ばれていた)。この道は現在の東北中央自動車道(尾花沢新庄道路)川原子インターチェンジ付近から峠へ直登するものであったが、ほとんど現存していない。
峠の麓にある舟形宿からは出羽三山参詣路であった舟形街道が分岐しており、全国の修験者も多く行き交っていた。幕末になると、維新の志士が多く行き交った。
明治時代になると、初代山形県令になった三島通庸は、東京から山形県を通り青森県に至る街道の重要さを認識したため、地元から費用と人足を徴用し、これまでの荷駄による輸送がせいぜいだった難路から、馬車の通行が可能な猿羽根新道を開削し、1878年(明治10年)に開通した。これにより、山形県最上地方のみならず、東北北部全体が近代化に向けて発展することになる。猿羽根新道開通の翌年には、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが訪れ、峠の麓から見た最上川の風景を「日本奥地紀行」の中で絶賛し、猿羽根峠自体も立派な並木道を好印象を持って記している。
奥羽本線の開通と共に交通の主役を鉄道に譲ったが、戦後のモータリゼーションの中で道路交通が復権を遂げた。しかし猿羽根峠付近は狭小かつ屈曲が多いため、1961年(昭和36年)に猿羽根峠の下を貫通する国道13号 猿羽根隧道(全長433m)が建設された。これによってかつての難所は、峠越えを意識することなく安全に市街地を結ぶ道へと変貌した。
さらに東北中央自動車道の一部である尾花沢新庄道路が完成すると、猿羽根峠の区間には舟形トンネル(全長1,368m)が作られ、車道の勾配すらなく越えられるようになった。
(福島方面) 岩部山トンネル - 猿羽根隧道・舟形トンネル - 主寝坂隧道・新主寝坂トンネル (秋田方面)
猿羽根峠の頂上には、猿羽根山地蔵尊堂が建立されている。「日本三大地蔵」の一つであり千年の歴史があるといわれ、良縁・子宝・長寿にご利益があるとされる。
猿羽根山地蔵尊堂の周囲は猿羽根山公園として整備されており、猿羽根スキー場、土俵、展望台、舟形町民俗資料館(町内で発掘された縄文時代の8頭身の土偶が展示されている)、農業体験実習館などがある。かつては、観覧車やミニ鉄道、遊具を備えた猿羽根山遊園地であったが、1988年(昭和63年)頃に閉園となった。スキー場や展望台などは旧遊園地施設の流用である。
猿羽根新道は、未舗装ながら車道として現存しており、通行可能である(頂上に車道を横切るようにチェーンが張られており、一般車両は通り抜けできないようになっている)。また、猿羽根新道を縫うように、藩政時代からの旧道の一部区間が、半ば廃道化して残されている。
|
---|
通過市区町村 | |
---|
主要交差点 |
舟場町 - 八幡西 - 鍋田 - 飯田 - 松山 - あこや - 大野目 - 久野本 - 蟹沢 - 鳥越 - 五日町 - 新万石 - 表町4丁目 - 佐賀会沖田 - 安田 - 婦気 - 和合IC - 富士見町 - 上淀川橋 - 上淀川 - 臨海十字路
|
---|
バイパス | |
---|
道路名・愛称 | |
---|
道の駅 | |
---|
主要構造物 | |
---|
自然要衝 | |
---|
旧道 | |
---|
関連項目 | |
---|
座標: 北緯38度40分46秒 東経140度19分35秒 / 北緯38.67944度 東経140.32639度 / 38.67944; 140.32639