本土決戦に備え霧島神宮周辺に20カ所以上の戦車壕が築かれた。空襲警報が鳴った日の帰り道、中をのぞくと兵士の死体が転がっていた。いつの間にか戦車隊はいなくなったが、ひどい食糧難で関心もなかった【証言 語り継ぐ戦争】
2024年09月06日 18:00
■しかく山崎安則さん(91)霧島市霧島大窪
1945(昭和20)年春、霧島市霧島大窪の霧島神宮駅周辺に戦車壕(ごう)が数多く掘られた。大田国民学校高等科1年だった自分を含め地域の子ども約80人が4、5人の班に分けられ、兵隊が掘った土を運搬する作業を手伝わされた。
この頃、米軍の本土上陸がうわさされていた。吹上浜か、志布志湾か。本土決戦の防衛線がどこになるか分からず、中間にある霧島に戦車部隊を一時的に配備することになった、と聞いた。
たった2カ月の間で、霧島神宮駅周辺に20カ所以上の戦車壕が築かれた。完成した壕に3〜5台の戦車が収納されていた。駅から列車で積まれた戦車が移動しているのを見かけなかったのは、みんなが寝静まった頃に運んでいたからだろう。
ある日、やぶの中で1台の戦車を見つけた。誰もいない。好奇心が抑えられず、友達3人で駆け寄った。上部のハッチを開けて車内に入りハンドルをぐるぐる回すと、砲塔が旋回する。「豆戦車」と呼び、ひそかな遊びにしていた。
45年7月初旬の夕方、畑からの帰宅中、道ばたの防空壕の中から人の気配を感じた。午前中に空襲警報が鳴っていた。誰かが中にいるのかと、穴をのぞくと兵士の死体が転がっていた。あとで知ったが、米軍機が演習場に向かう戦車を狙い機銃掃射をし、戦車の操縦士が犠牲になったようだった。
それからほどなくして、戦車隊は霧島から離れていった。理由は分からない。いつの間にかいなくなっていた。そんなことよりも食糧難がひどく、関心はなかった。
農家だった父義則は44年6月29日に37歳で亡くなった。直前に3度目の召集を受け、徳之島町亀徳沖で米軍潜水艦に撃沈された富山丸に乗っていた。沖縄に向かう途上だった。日中戦争が始まった時から歩兵として参戦した父は、富山丸に乗る前に家族や近所の人たちへ「これからは内地も苦しまないといけない」と言っていた。その予想通りになった。
父が不在の間は長男の自分が一家の長。物心付いた時から農作業に明け暮れた。大田国民学校初等科6年に上がった頃には鉛筆が手に入らなくなり、勉強はしなくなった。家族6人で普段だったら3日分の食料を1週間かけて食べた。
戦況の悪化は戦車隊の装備を見ていても分かった。45年4月にやってきた最初の部隊の兵士は日焼けをした精悍(せいかん)な体つきで、軍服に軍刀、革靴だった。しかし、その後の増援部隊は色白で痩せ細り、上着の軍服以外はもんぺに地下足袋という急ごしらえのありさまだった。
その年には既に「一億総玉砕」と言われていた。当時は思想教育が激しかったため、絶対に誰も口には出さないが、日本が負けるかもしれないということを、うすうす感じていた。
腹をすかせ、汗水垂らして戦車壕を掘っていた時にはもう既に、日本の敗勢は決まっていたのだ。そう考えるとむなしさや悔しさを覚え、昔を思い出すこと自体が嫌になった。終戦後に自分たちが掘った戦車壕跡の前を通っても、何も感じないようにしていた。
終戦後は進学せず、農家を継いで家族を養うために必死だった。自分が何をしたいかとか、何になりたいかも考えなかった。戦争のない今の若者は幸せだ。一握りの為政者のために国民が犠牲になる戦争は絶対してはいけない。そう強く思う。
(2024年9月6日付紙面掲載)
1945(昭和20)年春、霧島市霧島大窪の霧島神宮駅周辺に戦車壕(ごう)が数多く掘られた。大田国民学校高等科1年だった自分を含め地域の子ども約80人が4、5人の班に分けられ、兵隊が掘った土を運搬する作業を手伝わされた。
この頃、米軍の本土上陸がうわさされていた。吹上浜か、志布志湾か。本土決戦の防衛線がどこになるか分からず、中間にある霧島に戦車部隊を一時的に配備することになった、と聞いた。
たった2カ月の間で、霧島神宮駅周辺に20カ所以上の戦車壕が築かれた。完成した壕に3〜5台の戦車が収納されていた。駅から列車で積まれた戦車が移動しているのを見かけなかったのは、みんなが寝静まった頃に運んでいたからだろう。
ある日、やぶの中で1台の戦車を見つけた。誰もいない。好奇心が抑えられず、友達3人で駆け寄った。上部のハッチを開けて車内に入りハンドルをぐるぐる回すと、砲塔が旋回する。「豆戦車」と呼び、ひそかな遊びにしていた。
45年7月初旬の夕方、畑からの帰宅中、道ばたの防空壕の中から人の気配を感じた。午前中に空襲警報が鳴っていた。誰かが中にいるのかと、穴をのぞくと兵士の死体が転がっていた。あとで知ったが、米軍機が演習場に向かう戦車を狙い機銃掃射をし、戦車の操縦士が犠牲になったようだった。
それからほどなくして、戦車隊は霧島から離れていった。理由は分からない。いつの間にかいなくなっていた。そんなことよりも食糧難がひどく、関心はなかった。
農家だった父義則は44年6月29日に37歳で亡くなった。直前に3度目の召集を受け、徳之島町亀徳沖で米軍潜水艦に撃沈された富山丸に乗っていた。沖縄に向かう途上だった。日中戦争が始まった時から歩兵として参戦した父は、富山丸に乗る前に家族や近所の人たちへ「これからは内地も苦しまないといけない」と言っていた。その予想通りになった。
父が不在の間は長男の自分が一家の長。物心付いた時から農作業に明け暮れた。大田国民学校初等科6年に上がった頃には鉛筆が手に入らなくなり、勉強はしなくなった。家族6人で普段だったら3日分の食料を1週間かけて食べた。
戦況の悪化は戦車隊の装備を見ていても分かった。45年4月にやってきた最初の部隊の兵士は日焼けをした精悍(せいかん)な体つきで、軍服に軍刀、革靴だった。しかし、その後の増援部隊は色白で痩せ細り、上着の軍服以外はもんぺに地下足袋という急ごしらえのありさまだった。
その年には既に「一億総玉砕」と言われていた。当時は思想教育が激しかったため、絶対に誰も口には出さないが、日本が負けるかもしれないということを、うすうす感じていた。
腹をすかせ、汗水垂らして戦車壕を掘っていた時にはもう既に、日本の敗勢は決まっていたのだ。そう考えるとむなしさや悔しさを覚え、昔を思い出すこと自体が嫌になった。終戦後に自分たちが掘った戦車壕跡の前を通っても、何も感じないようにしていた。
終戦後は進学せず、農家を継いで家族を養うために必死だった。自分が何をしたいかとか、何になりたいかも考えなかった。戦争のない今の若者は幸せだ。一握りの為政者のために国民が犠牲になる戦争は絶対してはいけない。そう強く思う。
(2024年9月6日付紙面掲載)
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