大槻玄沢
おおつきげんたく
(1757〜1827)
一関藩医玄梁の長男で、12歳の時、建部清庵の門弟となり、その後、杉田玄白に蘭方医学を、前野良沢にオランダ語を学び、26歳で蘭学の入門書「蘭学階梯」を著わす。
後に長崎でオランダ語を研究し、わが国初の蘭学塾「芝蘭堂」を開く。
「解体新書」の改訳、「重訂解体新書」の完成など医学の進歩に貢献した。
大槻磐渓
おおつきばんけい
(1801〜1878)
大槻玄沢の二男で、早くから開国を唱えた和魂洋才の儒学者として活躍。
仙台藩の藩校・養賢堂の学頭に任じられ、戊辰戦争時には、藩政を左右するほどの思想的影響力を持ったが、戊辰戦争後は戦争責任を問われ投獄された。
開国論に与えた影響は大きいものがある。著書は「孟子解約」「近古史談」など多数。
大槻文彦
おおつきふみひこ
(1847〜1928)
大槻磐渓の三男として江戸で生まれる。
明治8年、29歳の若さで文部省から辞書の編さんを命じられ、16年の歳月をかけて、わが国最初の辞書「言海」を完成させた。「言海」は、大正末期までに400版余りを重ねており、日本辞書史上不朽の名著として名を残している。
昭和になってからは「大言海」に再編された。