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連休を利用して実家に顔を出した。
「後期高齢者医療制度」による年金からの天引きが、両親ともに始まっていた。
二人合わせれば月あたり相当の減収だという。
親を経済的に援助するなど、未だ出来得ぬわたしだが、それとこれとは関係がない。
「後期」なんて言葉をつけて、国保から強制的に排除し、
制度自体が「現代の姥捨て山」だと批判され、
あわてて、とってつけたような「長寿医療制度」なるニックネームをでっち上げ、
HPで以下のような能書きをたれる厚労省。
「長寿医療制度は、75歳以上の方々に『生活を支える医療』を提供するとともに、
長年、社会に貢献してこられた方々の医療費をみんなで支える
『長寿を国民皆が喜ぶことができる仕組み』です。」
誰がこんなおためごかしを信じるか!
年金からぶんどって、行政側の手間やリスクだけはなくす、
障害者は65歳から「後期」に入れる、とにかく金はいただく。
重度障害者に「強制」 3418人が加入拒否
となるのは当たり前だ。
新制度は応能負担の要素が強くなるなどと説明する向きもあるようだが、
現実はまったく逆だろう。
障害者自立支援法しかり、世の中、金持ちが自分の金だけは取られたくない、
政治はその金持ちの理屈にのって、ひたすら「応益負担」という名の暴力を振るう、
そんな方向にどんどん向いている。
なんで、「あまっているところからとって、ひつようなところにわける」という、
単純な理屈が、もう少し政策や制度に入ってこないんだろう。
わたしの理解がどこか根本的に間違っているのだろうか。
というわけで、悔しいので、そんな理屈をたてて教えてくれる本を書いてもらい、
作っていくしかない、というのが本日の結論。
投稿者: 高橋 日時: 2008年05月09日 15:44 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
(少しは)広くて(少しは)安く、と思い立ち、自宅を引っ越した。「幡ヶ谷? なんでそんな近いところに越したの」と聞いてきた人がいる(わたしがこれまで使っていた駅は笹塚)。わたしの滑舌(この言葉が変換できないとは知らなんだ)が悪いのがいけないのだが、それは聞き間違いというものである。
それはともかく、賃貸の住居契約の保証人ってなんで未だに「親」じゃないといけないのか。80に手が届こうという親に頼むのが、申し訳ないやら、恥ずかしいやら。ただ、この問題、わたしが恥ずかしいだけの話ではもちろん済まない。親がいない、虐待されて逃げ出してきた、障害を持っていることで囲い込まれている、「日本人」とやらじゃない......「家族」という形から抜けたり、壊したりすることで、あるいは単身者・単独者であることを自ら選んだり、選ばなくともそうであったり、そうした中で「自立」していこうとする人たちがたくさんいるのに、「家族」「保護者」という担保に社会がしばられているために、部屋すら借りられない、借りられたとしても選択の幅が思い切り狭められて、我慢して住むしかない。
社会の安寧やら、安全やらということが言われるあまり、自由度が極端に低くなる世の中っていかがなものか。誰に気兼ねすることなく、見張られることなく、気に入った棲みかに棲み、いやなことがあったりしたら、出ていってまた気に入った棲みかを探す。そんな当たり前のことが誰にも保障されてほしい。
先週末、幡ヶ谷ではないところに越して、そんなことを少し考えた。
投稿者: 高橋 日時: 2008年05月22日 17:48 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)