鵜殿城跡は、熊野川河口に臨む小高い山の上に位置します。中世にこの地を本拠とし、熊野水軍や熊野新宮(熊野速玉大社)の運営に関わった鵜殿氏が築いた城と考えられます。南北朝期には、鵜殿氏は始め南朝方でしたが、1341年に北朝方へと転じ、1382年には鵜殿城で南朝勢力と交戦したとされます。
尾根上には、土塁で囲まれた径40mほどの曲輪が良好な状態で残されており、その両側には尾根を断ち切るように堀切が設けられています。ほかに明確な城郭遺構はみられませんが、尾根上や斜面に若干の平坦地があり、それらも城の一部であった可能性があります。
発掘調査は行われておらず、鵜殿城をめぐる考古学的な知見は得られていません。しかしながら、山麓の鵜殿西遺跡では、新宮紀宝道路建設に伴う発掘調査で鎌倉時代から室町時代にかけての屋敷地が発見され、有力者が居住していたことなどが分かってきています。
土塁に囲われた曲輪
堀切の様子
おもな時代:室町時代前期(南北朝期)
遺跡の所在地:紀宝町鵜殿