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花井清司さん花井清司さんは、前回お話をうかがった森みずりさんの同級生です。
花井さんは、成人してからも木曽岬町で暮らしていらっしゃったことから、幸運にもお話を伺うことができました。
花井さんは、当時小学生だったのですね?
5年生です。
伊勢湾台風の印象は?
もう本当に突然来たという印象です。数時間前までは穏やかな一日でしたから。
その穏やかな日が、とんでもないことになったわけですね。
当時の一般的な家屋は中二階の造りになっていて、二階はいわば物置でしたので、そこに避難しました。
避難勧告とか出なかったのですか?
そんなもの出ませんよ。当時は今みたいな防災体制にはなってなかったので、何の情報もありませんでした。
堤防も破堤して木曽岬町全体が浸水したと記録があります。
普通の雨水とは違う「濁水」で浸かったので、破堤したんだなと思いました。
鈴峰荘(鈴鹿市に設置された木曽岬町児童生徒避難所)へも行かれたのですね?
高田本山(津市一身田)からそちらに移りました。ただ、細かいことはほとんど覚えていないんですよね。
鈴鹿市庄野地区「庄野郷土史」(PDF:130KB)
ほぼ半世紀前の話ですからね。
その時の自分は、精一杯だったんだと思うんですよ。
何から何まで自分でしなければならないし、よそ事を考える余裕もなかったのでしょうね。
木曽岬町に帰ってからはどうでしたか?
地区割の二部制で、学校に通った記憶があります。まだまだみんな揃っては無理だったのでしょうね。
生活基盤が失われた方などは特にご苦労されたでしょうね。
私の実家は漁業で生計を立てていたのですが、なぜか台風の後は海苔が豊作で、子どもとしては大変でしたがその点では救われましたね。
農業はされていなかったのですか?
米を作っていました。台風で収穫できなかった家もたくさんありましたが、うちは幸運にも刈り取りが済んでいました。
でも、玄米を精米できなかったので結局食べられませんでしたね。
それからですよ、台風前に収穫する早稲品種に切り替わっていったのは。
何か他に覚えていることがあれば
水死された方の火葬を何箇所かで一斉に行ったことですかね。火葬した場所には記念碑が整備されてますよ。
町の1割の方が亡くなったわけですから、もうそうするしかなかったのだと思います。