遠い昔の話をしよう。この国の都が奈良・平城京から、京都へと移された頃のことだ。
当時、海の向こうの大国である唐の文化や制度を日本に持ち帰っていたのが遣唐使であった。
630年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣で始まり、894年に菅原道真の提案によって廃止されるまでの約264年間、日本と唐を行き来した遣唐使は合計で16回と記録されている。
遣唐使船の全長は約30m、幅は7〜8m、帆柱が2本で平底箱型。組立に関しては、鉄釘はほとんど用いず、平板がつぎあわせによるものだった。これが、当時は最先端の造船技術だったのだろうが、現在の造船と比べてみると、やはり問題点は多い。まず平底による波切りの悪さと不安定さが挙げられる。また不安定ゆえに、強風や波浪にも弱い。しかも、この船に120人もの人間と大量
の荷物が積み込まれるのである。遣唐使船には難破がつきものだったが、船の性能や航海術に問題があったのはもちろんのこと、定員オーバーや積載オーバーもまた難破の引き金となったのだ。
さて、ここで鶏の話題である。奈良時代から平安初期まで、この国に存在していた鶏はいわゆる地鶏であった。もちろん、一種類だけではない。正確な記録が残っているわけではないが、その地方その地方の環境に適した何種類もの地鶏が存在したことが想像できる。庶民はこれらの鶏たちを庭先で飼い、卵をもらい、時にはつぶし、ハレの日の食としていたのだ。
奈良時代はもちろん平安時代に入っても、庶民と鶏とのこうした関係が変わることはなかった。しかし、宮中での鶏の扱いは、「生活の中の存在」としてではなかった。鶏たちは「鶏合わせ」のための鶏であった。
「鶏合わせ」とは今でいう闘鶏で、宮中の貴族たちにとって最高の娯楽だった。また、当時の「鶏合わせ」はいわゆる天覧試合として行われることもあり、強い鶏を持っていることは最高の名誉だったのである。
庶民の生活の鶏に対して、宮中の闘鶏。目的には大きな隔たりがあるが使用されていた鶏は同じ地鶏だった。もちろん、日本人の細やかな性格から考えて、強い鶏を作るため少々の改良を加えていたとしても不思議ではない。だが、いずれにせよ今のような軍鶏ではなく、地鶏同士で名勝負を繰り広げていたのが、当時の「鶏合わせ」であった。
ところがである。この「鶏合わせ」事情がある鶏の出現によって、がらりと様相を変える。正確な年代はいまだ定かではないが、遣唐使が帰国の際、ある鶏を持ち帰ったからである。
遥か大陸の地よりやって来たその鶏は、今で言う"白藤"と呼ばれる色彩
を持ち、尾羽は豊かに盛り上がり、長い蓑は風のようになめらかに流れていた。美しいのは姿形だけではなかった。曙光差す空を震わせる声もまた美しく長く、気品にあふれていた。
遥か大陸の地よりやって来たその鶏は、今で言う"白藤"と呼ばれる色彩を持ち、尾羽は豊かに盛り上がり、長い蓑は風のようになめらかに流れていた。美しいのは姿形だけではなかった。曙光差す空を震わせる声もまた美しく長く、気品にあふれていた。
後に、畔田翠山が著書の「古名録」において、この鶏のルーツを中国の寧波昌国だったとしているが、遣唐使が運んできた鶏はやがて「小国鶏(しょうこく)」と呼ばれるようになった。
「小国鶏」の登場は、宮中に大きな衝撃を与えた。風雅さを好む平安人の美的感覚にマッチしただけではない。宮中の貴族たちは美しさよりもむしろ、その強さに注目したのだ。
小国鶏はその端麗な容姿に似合わず、野性的で好戦的だった。俊敏な身のこなし、高い跳躍力、優れた持久力など、戦いに必要な能力は、地鶏のそれをはるかにしのいでいた。
そして、この実力はただちに活躍の舞台を得た。天皇貴族が見守る「鶏合わせ」で連戦連勝を演じてみせたのである。以来、小国鶏は「鶏合わせ」の花形選手として君臨することになるのだ。
想像力で補った部分も多々あるが、以上が平安の世に咲いた小国鶏の物語である。
平安時代に描かれた
鳥羽曾正の『鳥獣戯画』には、
地鶏(右)と 小国鶏(左)が
描かれている。