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ペリー艦隊の再来
掲載解読文の元文書は添田家文書として残っているもので、横浜開港資料館フィルムの
コピーを古文書教室のテキストとして使用されたものです。 日誌の筆者、添田知通は当時
市場村(鶴見区生麦近辺)の名主を務めていた。
ペリーが1853年米国大統領の国書を携え4隻の軍艦で来日し浦賀に上陸、 国書を
幕府役人に手渡し返事を翌年頂きにくると言って帰国しましたが、本日誌は翌年1854年ぺりー
が再来し、その艦隊が見えたところから始まり、東京湾を去るところで終わります。 日誌の
後には筆者自身が入手した各種の情報がまとめられています。
この時に日米和親条約(神奈川条約)が締結され、筆者が交渉の経過と其の内容迄も
垣間見ている様子がわかります。 以外に思うのは江戸幕府の情報開示は結構進んでおり、
約半年前の第一次ぺリー来日で持参した大統領国書やペリー自身の書簡(英文のみならず
オランダ語、漢文で持参)などは再来の頃には公開されていたと見え、当時の知識階級の間に
は流布していたと思われます。
参考としてペリー持参の書簡(英文)、日米和親条約の原文(書き下し)及び解読文等
はじめ関連資料、注釈を逐次追加してゆきます。