高原所系図は、高原(現宮崎県高原町)が島津家領となった天正四年(1576)前後から明治四年廃藩置県迄の郷史を記述している。 表紙に天保四年(1833)、持主永濱武助師次となっており、日付はこの郷史を上梓した時で著者は永濱師次と思われるが、弘化年間(1845)の記事に「私永濱善太左衛門」、安政年間(1855)に「拙者永濱万兵衛」とあるので書き継いだのかも知れない。 永濱家は近世には代々高原郷の噯(郷士年寄)や与頭(組頭)を勤めている事から見て有力郷士の家系である。
戦国時代が終った元和元年(1615)江戸幕府の一国一城令に基づき、鹿児島藩でも各地域の城は破却したが、夫々の城に勤務した武士に土地を与えて衆中(後の郷士)と呼び、その地を外城(郷)と称した。 夫れ迄の城主に相当する郷の地頭は藩の重役が兼務し、現地に常駐しないことが多いので、実際の郷運営は噯(郷士年寄)、与頭(組頭)、横目(警察)を郷の三役として、その地の郷士を任命して日常の郷運営を任せていた。
所系図では高原における地頭の変遷は勿論だが、噯役と与頭名も細かく記録しており、又江戸時代初期に薩摩、大隅、日向の各地からの高原に移住した人々の名前を記録している。 又郷内の事に限らず、鹿児島藩の事、幕府の事など重大事項を記録している。
特に貴重と思われる記録は江戸時代中期の検地の模様、藩による古文書調査、享保の新燃大噴火後の復興作業、後期では伊能忠敬の地図測量隊を迎えた時の事、藩主の巡回の対応、幕末の異国船騒動や戊辰戦争への高原郷士の出張状況などの記録である。 著者は感情を抑えて淡々と記しているが、幕末から明治初年に掛けての藩の徹底した廃仏毀釈には無念の思いを滲ませている。
又江戸後期の天明飢饉の辺りから明治初めにかけて所々の米価を中心とする物価動向は貴重な資料である。 但しこの貨幣表示の文、貫が一般の銭一貫文ではなく鈖一貫文という表示をしており、銭一貫文の六―七割位の価値である。 江戸時代後期には通常金一両は銭で六千文(六貫文)前後だが、この書では金一両で鈖九貫文が公定のようだが、実際には鈖四文で銅銭壱文というような記述もあり、かなり低額貨幣の様である。鹿児島藩では幕末に琉球通宝の発行を幕府から許可を得たが、その鋳型を使い天保通宝百文の贋金を大量に作り、他藩との取引にも使ったのは有名である。 しかし琉球通宝鋳造以前から前述の貨幣は使っていたようであり更に研究を要する。
尚この高原所系図の解読にあたっては、以前高原町史の編纂に携われた黒木長英氏(2019年6月逝去)より借用した原本コピー(A4用紙80枚)を底本とし、宮崎県史史料編の翻刻を参考にした。
原文を解読し現代文に訳すに当り、次の点を考慮した。
1 年代の目次を付けて見やすくした。
2 原文の記述は概ね年代順だが、前後する記述もあるので入れ替えできるものは年代順に編集した。
3 註釈を所々入れた。
4 翻刻文(全文)を巻末に付けたが、記述順は原本通りとした。
参考文献
薩藩旧記雑録 国会図書館
薩州旧伝記 国立公文書館
小林誌 小林図書館
製本版があります →こちら
高原町史 高原図書館
宮崎県史(史料編近世5) 都城図書館
takaharu_syokeizua5v2.pdf