落穂集8−9現代語訳

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阿部豊後守殿一字拝領
質問、台徳院(秀忠)様の時代に阿部豊後守殿が一字を戴き、夫より忠秋と
名乗られたそうで、当時は懇ろな上意であると世間では色々と評判になりましたが、
これは確実な情報であるか否か分りません。あなたはどのように聞かれていますか。
、この豊後守殿は若年寄になり、其の後老中職を仰付られましたがこれらは皆
大猷院(家光)様の時代、寛永三年と同六年の事です。従って一字拝領の事は
夫より前に台徳院様のお側近くに召仕れていた頃の事かと推量します。

一般に一字拝領などということは大変な事ですから穏便には済まされないものです。
しかし当時表立った拝領御礼と云ったものも無く、勿論一字拝領の広めで目出たい
とか悦びを申し上げたと言う事もありませんでした。 更に幕府の記録とか自分の
家譜にもこの一字の件は見えません。 但し書状等や判物等に名前を書く時に
忠秋と記させる様に指示があり、それから廿日程過ぎて一門の集まりが有った時、
料理や膳類等の様子が通常とはかなり違っているので、もしかしてこれは一字拝領
の祝儀披露の振舞か、と御家来衆も推察されました。 この通りですから一字を
下された懇ろな上意というのは必ずしも虚説とも考えられません。

この忠秋豊後守殿の噂に付いてある時に林道春が浅野因幡守殿へ雑談された
事があります。「私(道春)は昨日豊後守殿宅へ行きましたが、遠慮なく夕方ゆっくり
話すように云われ、細川頼之の咄をしました。
それは室町将軍の義満が未だ若年の頃、八月十五夜の月見遊宴が有り四職の
面々を始め、諸大名達何れも既に出席しているのに執事職の頼之が遅れて
いました。 時刻も過ぎているので将軍も出席され、既に酒宴も始まる頃になり
頼之が出席されたので、義満公は大変ご機嫌悪く、「私が若年であることで
軽んじ、あなどって時間に限りある会席へ遅れてきたのか、無礼であるので座る
必要はない、さっさと家に帰って閉居しておれ。」と云われ、土岐、佐々木の大名達
もとりなしはしたものの受け付けられず、やむを得ず頼之は退出し暫く蟄居して
いました。 其の後四職面々の願によって漸く赦免されました。
この時の様子を見た諸大名もそれ以来大いに恐れ敬い、義満公の威厳は
盛んになったと言い伝えられています。

これについては、当時義満公若年であった為に四職の面々を始め其の他
諸大名もあまり尊敬しないので、義満公へ頼之が内々に言い含めてわざと
遅れて来て諸大名の目の前で叱られ、面目を失って引込み義満公へ威勢を
付けたに違いない、と私は云いました。
豊後守殿が云われるには「其頼之の事は古今に稀なる賢臣と云われて
いる人である。 たとえ義満に内々に申し含めたにせよ、夫を再び口外へ出す
筈は無いので、頼之の口より出ないものを誰が知る事ができようか。

其頼之の足元へも及ばないこの豊後守も、あなたが知っての通り御幼君の御側
近くで奉公申上げるにはそのような心使いも常に必要である。 ましてや賢臣の
聞え高い頼之の事について、あなたの口よりそのような事をあからさまに述べる
とは散々の事である」と大きな咎めに逢い困惑しました。
真実は豊後守殿が云われる通りです。」 と林道春が語るのを、忍平右衛門
という因幡守殿近習の侍が其座に居合せたので聞いた、と私に話してくれました。


細川頼之(1329-1392)室町幕府管領、義満を補佐する、南朝と和睦を行う
林道春(1583-1,657)儒学者、藤原惺窩の弟子、慶長五年家康に仕え、幕府文書作成、
四代家綱まで仕える
四職 室町幕府の武家の家格、京都の軍事。刑事を司る侍所の長官で赤松、一色、京極、
]山名家の四家。 管領家の細川、斯波、畠山家と共に中央政治を司る。(三管四職)

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松平越中守殿乗物拝領
質問、何れの時代だったでしょうか、松平越中守殿が幕府より乗物拝領された
事があり、夫より同家では代々乗物の棒を黒くして乗られたと云う事です。
この乗物を下された時、懇ろな上意があった様だと世間では色々言われたよう
ですが、あなたはどのように聞いておられますか。
、この事で私が聞いておりますのは、大猷院様の時代に日光へ参詣された
帰りに下野の国宇都宮においての事です。 しかしその時の上意の内容について
は誰も知りませんでした。

詳しくは私が若い頃、浅野因幡守殿方で振舞があり、来客達の座中で越中守殿
の乗物拝領の話しがでました。 そのとき因幡守殿が客衆へ云われた事は、
「私は越中守殿とは縁戚でもあり、其上特に親しくしております。ある時乗物拝領
の時に直ぐに話しを聞けると思い尋ねましたがはっきりした事は聞けませんでした。
次に松平安芸守殿方で一家振舞の時、勝手座敷に越中守殿と私の二人だけに
なったので、再度乗物拝領の時の様子を尋ねました。
越中守殿が云われるには「あなたは前にもこの事を云いました。一般に乗物の棒を
黒ぬりにするのは法事等の場合は別として、武家方では以前は無かったものです。
私が乗物の棒を黒くさせて乗りあるくのは許されており、理由も何か有るのだろう、
と推量して下さい」との返答なので其後は尋ねていません。 従って現在世間で
あれこれ風説があるのは、全て推量から出たものと云う外はありません」と
因幡守殿が客人達に言われました。

前に述べた阿部豊後守殿が未だ微官少禄の時に一字拝領した事、越中守殿が
黒ぬりの乗物許可を得た事、などは他に例が無いので其時の上の懇意の次第を
外へ漏らされないのは当然とも云うべきです。これは私の様ないたらぬ者でも分る
事です。 世間一般に大抵の事は人にも話し、聞いて貰っても良いものですが、
自分自身にとって余りにも過分なひいきがある時などは、これが広く知られた場合、
主君の立場や更に同僚と交わりにも為にならないものです。 人によっては主人より
針の先程のひいきを得ると、それを棒ほどに大きく吹聴することがありますが良くない
事です。
その理由を言えば功を賞するにはその浅深、軽重を乱してはいけない、と言う事は
主を持つ人の慎の一ツです。 従って身に余る程の過分で忝いと思われるような
主君の懇意などは自分の心の底に納めて口外しないような慎みが無くては
なりません。


松平越中守定綱(1592-1652)家康異母弟孫、始め秀忠に仕える、美濃大垣6万石(1933)、
伊勢桑名11万石、室は浅野長政娘
浅野因幡守長治(1610-1672)長晟の長子、長政の孫、庶子のため浅野本家は継げず
三次藩五万石の初代藩主

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松平伊予守殿越前本家を相続
質問、寛永年中に松平三河守殿が乱心のため豊後国萩原へ流罪になり、越前の
本家が断絶となるので、御舎弟の伊予守殿へ本家相続が仰付られたとき時、
故中納言(秀康)殿が権現様より戴いた知行高が減って五拾万石になることで、
伊予守殿は不足と思われこれを請けずに退出された、と言う事が世間で云われて
いますがその通りでしょうか。
、時代も隔っていますので世間の噂も違っているものもありますが、とりわけ
あなたが今言われた事は全く違います。

越前本家相続の事を伊予守殿が仰付られた時は松平出羽守殿、同大和守殿、
同但馬守殿の三人の御舎弟達も出席されており、各々の知行を下されたので
伊予守殿が何の不足も思われる理由がありません。
元々御用があると言う事で召され、伊予守殿達は同道で登城されましたが何の
仰渡しも無く帰宅した事に付いてはそれなりの理由がありますので、私が聞いて
いる事をお話しします。

伊予守殿と言う方は故中納言殿秀康公の御次男で虎松殿と云い十一歳になった
時、権現様の上意により駿府へ呼ばれ、おかち殿と云う女中へ養子に下されました。
その年の内に江戸へ下り台徳院様へ御目見し、采地として上総国姉ヶ崎と云う所を
壱万石下され、本多佐渡守殿にお世話をするように云われ、台徳院様の御側で
成長されました。
大坂冬の陣では若輩ながらお供され、佐渡守殿の部隊で合宿され、翌年夏の
陣では、誰であろうと前髪の若い者達をお供に連れて行ってはいけない、という
雑談を聞かれたので、或夜若輩の小姓に言いつけ幕府にお伺いも無いまま前髪を
落して男に成られました。お付きの者達は非常に驚きましたが、どうにもならず
そのまま佐渡守殿へ報告し、更に上聞に達した處、「前髪のあるものを今度の供に
連れて行かない、と誰が虎松に言い聞かせたのだろう」との上意でお笑いになり
ました。 其後呼ばれ御前へ出たところ御覧になり「良い男になった、良く似合う」
と更にご機嫌よく、名は伊予守になられ、諱の字を下され、刀も拝領する事を
仰付られ、それより伊予守忠昌となりました。

大坂へも御供され五月七日に御舎兄三河守殿の配下として自身で首一ツ討取って
旗本へ差上られ、大坂城追手口へも三河守殿の家老本多伊豆と一手に押詰られ、
自身に旗を持って一番に城へ入られる比類なき働きがあり、両御前(家康、秀忠)様
も大変悦ばれました。
この戦が済んでから姉ヶ崎壱万石の上に常州下妻の三万石を下され、其後信州
松代の城地拾弐万石、まもなく越後高田城主に仰付られ弐拾五万石下されました。

そんな時に御舎兄、三河守殿が乱行で流罪となり、越前の本家が断絶になるので
伊予守殿に本家相続をせよとの事で召され登城されました。
御目見前に老中方何れも云われた事は「三河守殿は幕府の法規に触れて遠国に
流罪となりますが、故中納言殿の事を思われ今日あなたに御相続の事が仰付られる
べしとの事で召されました。 追って直接お話しがあるはずです。 まずはおめでたい
事でございます」とあるのを、伊予守殿が云われるのは「故中納言家を立てて下さるの
事は有り難いことです。 三河守は乱心により法規に従って処置されましたが、
仙千代と云う乱心以前の倅がございます。 私については大変御取立に預り只今は
高田の城地を拝領しており、これ以上の望みはございません。故中納言の事を思って
下さるのであれば、仙千代に相続を仰付下さるように御願致します」とあれば、老中方
は「あなたの言われる事も御尤もです。 三河守殿はあなたの同族ですが、通常の
乱心というものだけでもなく、厳しく御仕置に処された人の跡継ですから幕府の
法規もあり、その様になる事は難しいでしょう。中納言殿のお家相続は非常に重要な
事ですから早速お請されるのが良いでしょう。 仙千代殿の事はお上も放置できない
筋目の人ですから、そのうちに何か仰付られるでしょう」とあるので
伊予守殿が再度云われた事は「法規により、たとえ当分仰出が無くとも仙千代を
捨置く事はないと云う御内意でも聞かない限り、私が本家相続を請ける事は
でき難いことです」との事であり、今日のところ下がられるのも止むを得ない、と
伊予守殿が退出したので世間ではあれこれ尾ひれを付けて噂したものです。

其の後間もなく再度召されて伊予守殿が登城された時、老中方が云われるには
「先般あなたが言われた仙千代殿の事は上聞に達したところ、あなたの趣旨は
当然なのでその件については心配しないようにと伝えよ、との上意がありました」
とあり、伊予守殿も「ありがとうございます」と云われ、御前へ出られ本家相続の
事並びに三人の御舎弟の新しい知行が言い渡されました。

又質問、当時諸大名の中で革の油単を掛けた挟箱を持せられている方々が
見受けられますが、とりわけ越前家では残らず革の油単を掛けた挟箱を持たせ
られていますが何か理由があるのでしょうか。あなたはどう聞いておられますか。
、私が聞いておりますのは、故中納言殿は勿論、子息の三河守殿の代も今の
御三家と同様の挟箱だったようです。
松平伊代守殿は姉ヶ崎壱万石拝領の時より越後高田の城主となって
後も普通の挟箱ばかりを持たせていましたが、本家相続の以後は全ての事を
故中納言殿、三河守殿両人の通りと言う事で挟箱の覆なども金の葵の紋を付られ、
参勤の行列も前の両人の通りにとの事でした。

寛永二年に大猷院様より御三家同様に上野国に御鷹場の拝領を仰付られました。
江戸在府の間に退屈しないようにとの配慮でしたが、その時江戸内を通過する
所々の門や番所、又途中でも人々は御三家方と見間違え、歴々方でも下馬される
方々も多いため、伊予守殿はこれを難義と思われ、それより挟箱の紋所が見えない
様にと、革の油単を掛させました。 しかしこれは幕府よりの指示ではないので、
何時でも火事、騒動、人込み時には上の革油単をはずす事になっていました。

この油単について私が若い頃、浅野因幡守殿が丹羽左京太夫殿へ振舞に参られ
夜に入り帰宅する際に、屋敷内に詰番所と云って近所の侍達が詰めている所が
あり、そこを通る時に徒歩頭の者に言われました。 「其方配下の徒歩の者、梶川
次郎左衛門は、私の方に来る前は松平越前守殿の所に居たというがその通りか」
とあれば、「おっしゃる通りです」とのことでした。 「次郎左衛門を呼んでもらいたい」
と頼めば程なく次郎左衛門が出てきたので、因幡守殿は次郎左衛門に尋ねられ
「酉年(明暦)大火の際、越前守殿は龍の口の上屋敷から浅草辺へ立ち退かれた
時、挟箱に懸けてあった油単を取らせたとの事だがその通りか」と聞かれ、
次郎左衛門は答えて「越前守が立退く際に屋敷の内所々火の手が挙り予想以上に
急を要しました。 越前守は玄関の式台の上より馬に乗られると、供頭役の者を呼び、
「皮挟箱の油単をなぜ取らせないか、このような時に油単を取らなかったらその下の
金紋も役に立たない、急いで取らせよ」と云われましたがあまりにも火急の事でした
から歩行仲間の者達が寄り集まり、引き破って捨てました」と云うので因幡守殿は夫を
聞かれ、桑原宜済という儒者へ向われ、あの男の口上ではっきりした、と云われた
との事です。

寛永六年に台徳院様が御病気の時、在国の諸大名方が御機嫌伺として参向する
事は無用であると、京都大坂などへも通達されましたが、それでも参上する方も
あるので差留するように、」との事で、川崎へは伊奈半左衛門殿が、品川御殿迄は
御目付衆二名が出張されました。 時に伊予守殿は御機嫌伺として越前より
一騎がけの様に下向して来られましたが、川崎の宿で半左衛門殿の手代達が出て
云うには「当宿場より江戸の方へ大名方が行かれる事は禁止でございます。此処
から品川御殿で待機している御目付方へ御使者を立て御機嫌伺いが可能です」と
云うので、川崎浦から舟で江戸浅草の屋敷に到着して、その旨を老中方へ報告
したところ直ぐに上聞に達して、早々登城されるようにとありました。
即登城されたところ御側近くに召されたので、諸人に代わって御機嫌伺の参上と
言う事で大変悦ばれ懇ろな上意を下されました。
これ以来伊予守殿は今でも江戸参勤の際には、舟奉行壱人が舟に足軽を廿人宛
召連れてお供するようにと家法にあります。

又質問、伊予守殿が幼少の頃駿府にて、権現様の上意により養子に下された
おかち殿という女中はどんな筋目の人で、又後日はどうなったのでしょうか。
、私が聞いておりますのは北条家の侍で遠山四郎左衛門と云う者がありました。
北条氏康の代になり丹波守となり、武州江戸の城主に申付けられていました。
この丹波守の嫡子隼人正は戦死を遂げ、外に男子はなく女子ばかりでしたがこの
一人が武蔵国稲附の城主である太田新太郎康資の妻になりました。 康資には
二人の子があり、新太郎守政とその姉をおかちと云いました。

権現様が関東入国をされた後、このおかちを召し出され御側近くで召し使われて
いました。 京都聚洛の御屋形にて、おかち殿の腹に姫君壱人が生れましたが
五歳で早世されました。今程嵯峨清涼寺に権現様の姫君様として御影、御位牌
等が立っておりますのはこのおかち殿の腹の姫君様との事です。

其後は子に恵まれず或時、 権現様よりおかち殿へ上意があり「子も無いので養子
をとるべし」と、更に「其方の養子としては当城内で育った者であるべきで、従って
外の者でなく私の孫子供の中より取らせよう」との事でした。 上意によりこの
伊予守殿が当時十一才で虎松殿と云われていましたが、 駿河へ呼ばれおかち殿
へ養子に下されたそうです。
その時権現様よりおかち殿へ上意があったのは「虎松は来年は十二歳になるので
江戸へ差下し、将軍の側で成長させるように」とありました。 調度用事で江戸より
本多佐渡守殿が来られたので、おかち殿からの依頼で佐渡守殿に同道して虎松殿
は江戸へ到着されました。
台徳院様も早速御目見なされ、養育は佐渡守殿へ仰付られ、一万石の采地を
下され、 しばしば御城へも呼ばれ御側に置かれていました。

其後又駿府の御城内で懐妊の女中をおかち殿へ御預けになり「其方の部屋で
出産させ、男子にても女子にても其方の子として育てるように」との上意でこの女中
を直ぐにおかち殿が部屋へ引取りましたが、月も満ち男子が誕生されました。
健康に成長され、後に水戸中納言頼房卿と云われる方です。

おかち殿は権現様御他界後は英勝院殿と云い、江戸へ下向され田安の比丘尼
屋敷内に居住されました。 本丸よりも御懇意になされ、其上水戸頼房卿が実母
同様に扱われ、松平伊予守殿にとっても一旦は養母であり、筋目を立てるのに
努力されたので随分と豊かな暮らしをされました。 寛永拾九年九月卒去で
英勝寺に於て法事の節、仏参のため伊予守殿が鎌倉へ行くと御暇願した所、
老中方も関係をはっきり御存知なく、水戸家へ内々に問い合わせたところ総てが
分り早速御暇が出されたので伊予守も英勝寺へ参詣されました。

英勝院殿が元気で田安へ入られた頃、水戸頼房卿と松平伊予守殿御両人が一所
の振舞が度々有りました。 水戸殿は御叔父にあたり、其上御家柄であり英勝院方
で出合いの時は頼房卿が伊予守殿を慇懃にあしらわれるので実の御兄弟の様に
睦まじく、私は何時も決まって御相伴に預かって良く見ていました
と太田道顕老が常に話しておられました


松平三河守、故中納言: 巻4制外の家参照
油単: ふろしき

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新御番衆初の事
質問、御旗本の中で新番衆と云うのは何れの代の何時頃から始まった
のでしょうか。
答、私が聞いておりますのは大猷院様の時代で寛永の初め頃の事でしょうか、
老中方へ仰出されたのは「大奥の年寄女中を初め、其他主な役を勤める女中達の
弟、甥などの中で壱人宛採用して呉れるように、と願いが出ていないか」とお尋ね
がありましたが上意の通り、その事を奥向きの年寄達が御願しているのでしょう。
「女中ながらも昼夜一所懸命奉公をしている者達の願なので採用するのも尤です」
と老中方が申上げたところ「番入にしてはどうだろうか」と上意なので、土井
大炊頭殿が承り「大御番などへ仰付られますか」と申上げれば「女中達は大井川
や桑名の渡しなどを大変な難所の様に考えており、出張させるのは困るというので
大御番への組み入れ除いて考えるように」との上意がありました。 老中方何れも
即答ができずにおられたところ、重ねて上意があり「両番の中へ入れてはどうか」
とあったので大炊頭殿が「両御番については何れも三河時代以来数度の軍火の
下で働いてきた者達の子孫、更には御譜代大名の次男三男などを御奉公に
差上げたいと願いがあるところなので如何なものでしょうか」と同役の方々を見廻せ
ば、他の老中方も大炊頭が申上げた通り私たちも同意見ですと申上げられました。
其後仰出されたのは「両番入りについては皆が反対の様なので新番と名付けて
別に編成すべし」との上意があり、夫より新御番衆というものが始まりました。

其時老中方から宛がい扶持及び番頭、与頭等についてはどのように致しましょうか
とお伺いを立てたところ「宛がい扶持は両御番と大御番との中間の弐百五拾俵下し
置いて其かわりには馬を持たなくてよい、番頭には布衣の小姓衆、与頭には平の
小姓を仰付けるべし」との上意がありました。
そのような経緯から平の新番衆へも夜食が下され、番所も御庭近くにあり、所々の
お出かけ先でも両御番衆とのつりあいにおいても勝って見えました。

又質問、新御番衆の宛がい扶持を決められた時、両御番衆より五十俵少なくされ、
その分馬を持たなくてよいとの事です。と言う事は当時三百俵下される両御番衆とは
何れも馬を持って供された様に聞こえます。当時は現在に比べて米の直段も非常に
安かったのに、如何にして馬が飼えなくなって厩が空く事が無かったのでしょうか。
いっこうに合点がいきません。
答、それは前にも言いました通り時代柄というものでしてそれほど不思議な事では
ありません。 詳しく説明しますと以前には旗本で三百俵程取られる小身の人達の
生活の様子を聞いて見ますと、衣服等は番きる物と名付けて絹紬等で作ったもの
二ツ三ツ持ち、普段は布のもめんぬきを着ていました。
用意された長屋敷に住み自分の家居は持たず、何かさかな一種を購入しそれを
汁にし、近所の同番が飯を用意し、仲間たちが膳椀を用意して持ちより、皆で食べ
これを名付けて汁講と云い食事を済ませました。 このように物事総て質素で無用無益
のための出費を極力抑え、人馬にさへ事欠かさねば、という意地を尊ぶのはこれ皆
権現様の三河以来の家風が残っているものです。 それを一口で乱世時代の残り気風
と考えるのは大きな間違いと思います。 なぜなら乱世の最中にも上杉管領憲政や
今川氏真などの様に(奢侈な)家々もありました。
これは即ち乱世・治世に限らず各家々の武道の盛衰次第と考えられます。


大御番 将軍直属の部隊、一年交代で大坂城、京都二条城、江戸城警護
両番 書院番と小姓組を合わせ両御番という。書院番は将軍の直接護衛、平時は
江戸城内警護、小姓組はより将軍に近い所の警護を行う

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播州赤穂城築城の事
質問、播州赤穂は昔から城の無い地でしたが、寛永年中に浅野内匠頭殿が拝領
した際に御願して自力で今の城を築城されました。内匠頭殿も始めハ常陸の国
笠間に在城されていましたが、播州赤穂へ所替を命ぜられ城も召し上げられた上、
城の無い地へ行くのに困惑して自分で城を築城する事を御願したい、と浅野家
一門に相談しました。 ところが本家の松平安芸守殿を始めその他一門の人々皆、
内匠頭殿の気持ちは分るが、今そのような御願をするのは何かお上の心証を悪く
するので暫く見合わせたほうが良い、との意見で事は進みません。

そこで匠頭殿は譜代の仲間で日頃親しくしている水野監物殿へこの御願の取次ぎ
を頼んだところ、監物殿が云われるのに「御頼の趣旨は了解しますが先ずは御一門
中へ内談されるべきでしょう」と云われました。 内匠頭殿は「おっしゃる迄もなく一門
の者には相談しましたが、当分は差控たらと何れも云う為事が進まず、どうにも
成らないためあなたに御頼みするのです。 自分の費用での築城でも許可されない
場合は私も覚悟をきめております」と内匠頭殿も最後の御頼みとあるため、監物殿
にもそれではと月番の老中方へ伺われ此件を伝えられました。

暫くして御月番は監物殿を呼ばれて云われた事は、「先日言われた内匠頭が新城を
築く件ですが、同役達と相談し上に上げたところ赤穂の地に城は必要ないので築城
は仰付られません、その旨内匠頭殿へ連絡するように」との事だったので監物殿は
聞かれ「それでは今晩でも明朝でも内匠頭を同道いたしますので、この上意の内容を
あなたより直接話される方が良いでしょう」と云えば、御月番も「一般に何事でも取次ぎ
に聞かされた事を又取次ぎを通して返答するので、上意の趣旨はあなたから連絡
するのが当然です」とありました。

そこで監物殿は「上意の通りで有る以上はとやかく言う事もありません。今から急いで
内匠の方に行き、只今の上意の趣旨を申し聞かせます。 その結果内匠は勿論、
拙者も皆様にお目に掛かり、お暇する事になるのは止むを得ません」と、退出される
のを押し止められ「あなたが今言った事は理解できません、詳しく聞かせて下さる様に」
とあれば、監物殿聞かれ「その事は良くお考え戴く事ですから、私から申上げるまでも
ありません」といえば、「今あなたが言われる内匠の事は勿論、自分も共にこれを暇乞い
と言われる事は聞き捨てなりません。 そこを詳しく聞かせて下さる様に」とあるので、
監物殿が云われるのは「この様な事は申す迄も無い事ですが、お尋ねあるので
申します。 只今迄の内匠頭が居る笠間の城地は、権現様より浅野弾正大弼長政へ
隠居料とするようにとの上意により下され、其の子采女正より当内匠迄三代続いた
城地を取上げられ他人へ下され、内匠は城の無い地へ行かされます。 しかしこれも
止むを得ない事なので此上は自分の普請で築城したいとお頼みしたがこれも御許可
にならない、と言う事は内匠頭が城主の器量の者では無いと、お上のお考えだろうか
と世間で評判に成る事は間違いありません。 そのようになれば自分の立場も
無いので、領地をお返しして武士を辞めるより外に方法は無いと、深く覚悟を決めて
今度の御願をしたものです。
私がいたらず内匠頭の考えは尤と思い取次ぎをしましたが、この様な結果で内匠頭
壱人に身上を終らせるのを見物していては世間へ申し訳が立ちません。 第一に
浅野一門の人々が既に予想した通りになるので、私の岡崎の城地を返上し、内匠頭
と一緒に高野山に登り、武士を捨てざるを得ないと覚悟を決めています」といえば
「よく分りました。先程連絡の内匠殿方への口上について先ずのところ差控て
下さい、其内にこちらから連絡致します」との事で監物殿は帰宅されました。

其の後老中方より浅野内匠頭を同道して午前十時に御用があるので登城すべし、
と監物殿方へ奉書により連絡があり、両人共に登城されました。
老中方列席の中で仰渡された事は「今度拝領を仰付られた播州赤穂の地において、
新城を築く事聞き届けられたので願の通り仰付る、 然し彼の地に城はさして幕府と
して必要は無いので、拝借等は仰付られないが自分の普請であり自由に築城する
様に思召された、 尚新城の築立が済む迄は幕府の普請、手伝等に付いてはその
間免除する」とありました。

これにより御礼の為に内匠頭殿が老中方へ廻る際、月番之老中方の門前で監物殿が
内匠頭殿へ云われた事は「あなたは老中方を残らず廻ると思うがその時に私を同道
する必要はありません。先ずは悦ばしい事です」とありました。
内匠殿は「今度の事は偏にあなたのお世話で忝い次第です、老中方の挨拶を済ませ、
お礼に伺います」と言えば、監物殿は「決して私の方にはお礼にくる必要はないので、
老中方を廻ったら直ぐに小幡勘兵衛方へ行き、赤穂新城の設計等について
打ち合わせをお頼みするのが良い、善は急げと言います」と云われたそうです。
内匠頭殿の家来井口惣兵衛が語った事です


浅野内匠頭長直(1610-1672)初代赤穂藩主五万三千石、忠臣蔵浅野内匠の祖父。
浅野弾正長政(1576-1611))豊臣政権の奉行、関が原で東軍に属した嫡子幸長が浅野本家を
継いだ時に隠居料(茶の代わり)として常陸国真壁5万石拝領した。三男長重(采女正)が相続
赤穂築城 1649年開始翌年完成
水野監物 徳川譜代の臣、三河吉田4.5万石から1645年岡崎城主、五万五石となった水野忠善と
思われる
小幡勘兵衛景憲(1572-1663)武田家譜代の家柄、武田滅亡後徳川に属す。甲州流軍学者、
甲陽軍鑑の作者説もある

50
安藤右京殿え松平伊豆守殿入来
質問、安藤右京進殿が寺社奉行の時、ある朝老中の松平伊豆守殿が突然来られて
直に書院へ通られたので、右京進殿の家来達も大変驚いた由噂がありますがどの
ように聞いておられますか。
、それについて私が聞いておりますのは、其日の朝右京殿は小姓を呼ばれ、
松平出雲守殿へ手紙を持たせ、少々私宅にて相談したい事があるますので、後ほど
登城の途中でのお立寄りを待っております、旨を伝える様にと遣わせました。
其使の者は帰って来ましたが、手紙の返事は無く口答で、「御連絡の件は了承
しました、後ほどお話伺います」との事でしたが、同役の出雲守殿は見えずに松平
伊豆守殿が来られ、「右京殿は未だ御在宅か」と言われ直ぐに書院へ廻られたので
家来達は大変うろたへ、右京殿も不審に思われ、上下を漸く着て出て来られ、
「これは思いがけなくお出なさいまして」と申されれば伊豆守殿は「時間を間違え少し早く
出ましたので、此処で時間調整をしようと立寄りました」とあり、菓子だ、茶だ云っていると、
伊豆守殿は小姓を呼ばれ、家老達に逢いたいと言われるので、加茂下内記と云う家老が
出てきました。

伊豆守殿が云われるのは「私が今朝此処へ来たのは理由があり、其方達に頼みたい
がある。 今朝右京殿より登城の際に立寄る様にとの御手紙があり勿論上書は松平伊豆守
となっているが、きっとこれは松平出雲守殿へ出された手紙の上書きの書き違いと
思ったので、了解した旨口答で返答した。 右京殿が登城され出雲守殿に逢われれば
すぐに分ってしまう事であり、その手配をした者、手紙を書いた者達を右京殿が御しかりに
成るのは明らである、松平出雲守殿と松平伊豆守とは一字違いなので人はこの様な間違い
言違いも多い事である、其の事を言うだけのために私が来たので、この関係者を右京殿が
御叱りにならない様に其方達に頼んでおく、 それでも若し御しかりと言う事になれば、
其方達へ私から言う事がある。」と申されるので、内記は謹んで承り「御意の趣旨は
畏まりました、この事を関係者に申し伝えますがもったいなくも忝い事で御座います」と
云えば、右京殿も「さてさて忝い事です」と一礼されている内に午前十時となるので、
伊豆守殿と同道で登城されました。



安藤右京進重長(1600−1657)幕臣高崎城主5.6万意石、寺社奉行在任1635-1657
松平出雲守勝隆、幕臣上総佐貫藩1.5万石、寺社奉行在任1635-1659

落穂集巻8終


落穂集巻九

51
岡本玄冶法印新知拝領
質問、家光将軍が大変重い病気に罹られたのは何時頃の事と聞いておられますか。
、私が聞いて居りますのは寛永十年と同十四年の二度が重い病気との事で、
其内二度目のご病気は大変重かった様で、医師団の誰もが御快復はないのでは
ないかと申上げ、御三家方も心配しておられました。

前回の御病気の際にも岡本玄冶法印の薬で御快癒されたので今度も玄冶の薬を飲もう
と上意がありました。 玄冶は「以前の御病気とは違い、今回は大変重い状態であるので、
私としてはお薬は差上げられません」とお断りしましたが、「其方の薬を召し上がると
云われ、更に医師団もさじを投げているので、辞退する事はないと御三家方も言われて
いる」と老中方も云われるので、玄冶は薬を調合して差上げました。 その御薬を召上る
や否や快いと上意があり、その以後段々快復に向かわれたので、玄冶はそれ迄は五十
人扶持だったものを新たに千石を拝領することになりました。

このように御病気が重いときに、御城では井伊掃部頭殿が大目付衆を呼ばれ
「今度の御病気の節、御三家方、駿河大納言殿が御機嫌伺として毎日登城されている。
今の御三家方といえば正しく公方様の叔父様方であり、登城があっても特別以前に
変った様子は見られないが、この頃駿河殿が登城されると諸役人達が我も我もと目通り
へ出ていく様子に見える。 日頃からそうしていた者達であっても、此節は上様の
御病気で取り込み中であり、御目見えを遠慮するのが筋である。 ましてや日頃そうで
ない連中が出て行くのは見苦しい事である」 と苦々しく云われたのでそれ以後は日頃
出て行かれた者達も出られなくなりました。
これは永井日向守殿が雑談されたもので其前の御病気の時と思われます。


岡本玄冶(1587-1645)家光の侍医、京都、江戸に住み皇室からも信頼されていた。
玄冶店は岡本玄冶が拝領した江戸の土地に貸家を作り、この名前がついた。
駿河殿 家光の弟で子供の頃家光を差置き次期将軍候補だった、巻一御城内鎮守参照、
寛永九年改易

52
楠由井正雪の事
質問、以前由井正雪と云う浪人は反乱を企てましたが、訴えた者があり明るみに出て
一味は全て御仕置になりましたが、どのような経緯と聞いておられますか。
、これは大猷院様が御他界になった年の事と記憶しています。 私がまだ子供の
頃の事です。

正雪は仲間達と細かく打ち合せ、自身は駿府へ行き梅屋町とか云う所に居り種々の
悪企みをしておりましたが、江戸で訴えた者があり全て明らかになりました。 駒井
右京殿を駿河へ派遣し、彼地の町奉行、落合小平治と打ち合せ、正雪は是非とも生捕
にして江戸へ連行しようとしましたが、正雪及び仲間達は全員旅館で自殺しました。

同時に江戸では丸橋忠弥と云う浪人者が召捕へられ、数日の調査の上品川で一味は
残らず磔罪になりました。 この罪人達を連行する時、私たちも井伊掃部頭殿の屋敷前
で見物を致しました。 丸橋は先頭の馬でその後に列は延々と続き、妻子等迄も連行され、
中に大変小さな子供もあり、縄を結んで首にかけ手には風車人形などを持たせ、穢多に
抱かれて母親の乗っている馬の脇に付き添っていました。 外桜田門外で今は馬溜まりに
なっていますが、当時は上杉殿の向屋鋪があり、その門前迄丸橋の馬の先のぼりが来て
いるのに最後尾の紙のぼりは未だに麹町土橋に見える程長く、前代未聞の事であると
見物人達は言って居りました。

又質問、この正雪と云う者は苗字を楠と名乗り、先祖は楠判官正成から由来している
と言う事で門弟を集めて軍学を教え、当時世間で広く人に知られた者のようです。
その人となりはどのように聞いておられますか。
、私が聞いておりますのは、楠正成の正統等と云っている事は全て作り事であり、
元々は駿河国の由井と云う所の紺屋の倅に間違いないようです。 幼年の頃に同国の
清見寺へ出され、学問をさせて後々は出家にと両親は考えていたようですが、自身は
出家を嫌って江戸へやって来ました。 あちらこちらと廻り、牛込辺にいる内に段々
落ちつき、浪人を決め込みました。 その頃近隣には楠正成の嫡流と云い、一巻の書と
名付けた家伝の巻物なども所持している

年老いた孤独の浪人がいました。 この老人に正雪は親しく接し、朝夕の食事の世話
もするようになり益々親しくし、終には父子の契約も行い近所の者達へもその広めも
行いました。 そのうちに老人が病気になり死んでしまいましたが、その節も喪に服し、葬儀
法会を丁寧に行いました。
それ以後は楠正雪と名乗り、楠流の師と号して書物等も編纂し、門弟を集めて教育を
行い、世間に広く付き合い知人も多くなりました。 自身利発であったので、人々は知者
と思っておりましたが、結局武士道の真理を間違え、正しく理解しなかった為に、大悪
非道の反乱を企て、自身を滅ぼすだけでなく多くの人々も道連れにして死にました。
この悪党達の処刑が済んだ後、江戸では火薬の置場所の調査があり、駿河国久野の
御番付として榊原越中守殿へ新たに与力、同心を預けられました


榊原越中守 旗本三千石、代々久能山東照宮司を勤める、越中島に屋敷を拝領しており、
地名の語源となった


53
酉の年大火の事
質問、江戸のおける大火事は昔は稀だったというのは其通りでしょうか
、かなり昔に楠町より出火して新橋迄町並みに沿って焼けたことが有ったようです。
関東御入国以後当地での始めての大火だったので、当時の諸国大名は何れも御機嫌
伺いをしました。 是を桶町の火事といい私たちが若い頃は大変話題に上っていました。
そこへ明暦三年酉の年に江戸開闢以来の大火事があり、武家屋敷、町屋敷ともに全て
類焼しました。

又質問、酉の年の大火事といっても今から七十年以上前の事であり、はっきりと覚えて
いる人も少なくなったので詳しくお話を聞かせて下さい。
、この大火の時私は十九歳ですから大体は覚えて居ります。

正月十八日と十九日両日に大火がありました、先ず十八日の朝飯後の頃から北風が
強く、土埃を吹き付け五六間先は物の色も分らない程でした。そんな時本郷のはずれの
本妙寺という法華寺から出火し、御弓町、本郷湯島、はたご町、鎌倉河岸、浅草御門内
の町屋を全て焼きながら広がりました。
然し外桜田の辺り、即ち私たちの居る近所では誰も火事を知りませんでした。 それは
前に述べた土埃のため焼先も見えなかった事によるもので、下町辺から逃げて来る人々
があり初めて火事を知りました。

火は霊岸嶋、佃嶋を境にして通町を海端に沿って焼け、夜半過になり徐々に焼鎮り
ましたが、翌十九日にも前日の時間に北風が強く、焼場の灰混じりの土埃を吹き付ける
ので人々は心配していましたが、又もや小石川より出火して大火になりました。
土埃のため煙もよく見えず、始めの内ははっきりしない内に牛込門の内にある大屋敷
が残らず類焼し、竹橋門内の御堀端にある紀伊大納言殿、水戸中納言殿の大屋敷も
一度に焼けました。 その火は御本丸へ移り金のシャチホコが上がっている五重の天守
へ燃え移り、それから段々と焼広り、御本丸中の屋敷も残らず焼失しました。
更に火は大手門先へ燃え出し神田橋、常盤橋、呉服橋、数奇屋橋等の門や矢倉も焼け、
八重洲河岸を境に燃えつづけました。

其上同日午後二時頃またもや六番町付近で出火し、半蔵門外の松平越後守殿屋敷を
始め山王の社、井伊掃部頭殿屋敷へ移り、霞ヶ関辺や外桜田近辺の大名屋敷が残らず
類焼し、虎の門より愛宕下の増上寺門前から芝札の辻辺、海手を限度として焼けました。
江戸中では西丸、和田倉、馬場先、外桜田門の内だけが焼残ったような有様でした。

それ以後も江戸の火事は度々あり、その時は風も吹きましたがこの酉年大火の時のような
風は私が知る限り二度とありませんでした。 それは壱弐畳程の大きさの火の付いた
屋根のこけらを吹き飛ばす程でした。

又質問、この大火は御城でさへ類焼する程の事でしたから、幕府やその他色々変った
事もあったと思われますが何か聞いておられますか。
、ご質問の様に大変な時であり、この広い江戸中では恐らく色々変った事があったと
思いますが、私も当時は若く其上混乱していましたので詳しくは知り様もありませんが、
当時世間で話題に上った事など少々お話します。

(御城)
十九日の午前十時頃になり小石川より出火して大きく焼広がり、田安門内の大名屋敷へ
火が移ったので、松平伊豆守殿は御留守居衆を呼び「この風向きでは御城も非常に
心配な状態である、従って公方様も立ち退かれた方が良いので先ず女中方を上下ともに
早々に西丸の方へ立退せるのがよい。 上の方の女中方は表座敷の道筋に不案内の
筈なので、道通りの畳を壱畳づつ裏返しにして置き、それを道知るべに出て行くよう指導
するように」と指示されました。 その通りにしたので女中方も道に迷わずに無事に立ち
退いたと言う事です。

公方様もいよいよ御立退された方がよいと言う事になりました。その前に御徒目付壱人が
百人番所へ行き、老中方の指図であるとして「此番所へも恐らく火の粉が飛んで来る
だろうから、組の同心衆へ命令され十分に防ぐ様にとの事です」と伝えた所、その日は
横田次郎兵衛殿が当番でしたが番所の居られこれを聞き、その御徒目付衆へ向かい
「今この両日の大火は只事ではない、と思うので私は組の同心達にお預かりしている
鉄砲に火縄を掛けさせ、あの様に門を堅めているので火の粉等を払わせる者もいない
のでそれは出来ない」と言われました、御徒目付衆は「これは松平伊豆守殿のご指示
である」と言えば横田殿は「御老中ともあろう方がその様なばかな事云われて良いものか、
伊豆守殿の事はさて置いて、たとえ上意であったにせよこの次郎兵衛はその様にしない」
と言われるので御目付衆も面白からぬ様子で戻り、横田殿の申分の通りありのまま
報告しました。側に阿部豊後守殿が居合わせられ「当番は誰か」と聞かれるので
「横田次郎兵衛が当番の様でこのように云われました」と答えれば、豊後守殿は聞かれ、
「次郎兵衛ならそれはありそうな事だ」とお笑いになったと言うことです。

その後次郎兵衛殿は組の与力衆に向かい「此中で御本丸御屋形内の配置を知る者は
いないか」と尋ねた時、誰もが「御玄関より奥向の方は分りません」と言う事だったので、
「言訳は後にしよう、誰でも良いが二人で御本丸へ行き、御座敷のどこかで御老中方を
見掛け次第に伝えて欲しい、次郎兵衛は公方様が間もなく西の丸へお入りになるので、
拙者は大手の御番ですが、久世三四郎が組の者を引連れ下乗迄詰めておりますので、
大手御門の警護は三四郎へ渡し、私は蓮池の御門の番に廻り、御成先を堅めては如何
でしょうかと御窺いしてくれ」と言われ、与力衆二名が御本丸へ行きました。

調度その時西の丸へ移られると言う事で老中方も玄関前に居られたので、この趣旨
を伊豆守殿へ申上げたところ「それは良いところに気が付かれた、その様にされよ」との事
でしたので、横田殿は大手の御番を三四郎殿へ引渡し、蓮池の門へ詰められました。
間もなく公方様が移られる時、伊豆守殿は「次郎兵衛は大手の御番所勤務ですが、
上様が西丸へ移られるので、御番所は久世三四郎へ渡し、こちらへ詰めます」
と御披露され、公方様も特別にお言葉を掛けられたとの事です

(浅野因幡守家)
浅野因幡守殿は当時屋鋪が霞が関という今の松平安芸守殿の向屋敷にありました。
大火事の時には玄関へでられ、家中の侍達も一緒に詰めていましたが留守居役の
者に云われた事は「只今の大火と云い、その上御本丸も類焼の事であれば御機嫌
を伺いたいが、こんな時なので関係者に問合わす手段もないがどうしたものか」とある
ので留守居役の者は「御譜代の大名方は恐らく御機嫌伺いされるかもしれませんが
外様の方々はどうでしょうか」と云えば、用人達も「外様の大名方は
こんな場合は
差控えられものと思われます」と答えました。
因幡守殿は「何もはっきりとしている訳ではない、どうせ同じなら外様と云っても浅野家
は譜代も同前の説もある、外様者の身なのにでしゃばった事をするかと、後日になって
おとがめが有るとすればそれはそれ迄の事である、御本丸ガ類焼して公方様は何処
かへ行かれたに違いない、ご安否をお伺いしない理由は無い」と云われて外出用意を
され、式台の侍へ馬を引かせて乗出されました。

其の場に居合わせた侍達が残らずお供をする様子を馬上より見られ、振袖の小姓達は
全員残るべし、と申されるので子供は残りましたが、其の他の侍大勢の供廻りで外桜田門
へと馬を早められました。
先立の歩行士壱り戻ってきて「あれへ見えますのは井伊掃部頭様で御座います」と報告
したので、「それでは供の者達全員が御堀端へ座るように」と指示される内に間近くなり、
掃部頭殿は渋手拭の鉢巻をして供の侍十人程を馬の側に連れておられ、因幡守殿に
向かわれ 「昨日今日と大変な大火です。あなたはどちらへ行かれますか」とあり、
因幡守殿は「御本丸が類焼と聞いており、御機嫌伺をしたく出て参りました」と返答
されたところ、掃部殿は聞かれ「大変ごもっともの事です、御城内の御殿等は残らず
類焼しましたが、公方様は一段とお元気で西丸へ入られご安泰です、あなたは桜田門
まで行かれるのが良いでしょう、 そこの番担当は相馬長門守で岡野権左が加へられ
詰めておるので権左に御機嫌伺をして下さい、権左組の与力、同心達は土橋へ出張して
おり、御郭内には人を通さない筈ですが、掃部頭へ断ったと云ってください、供の人々は
門外に残され、手廻りだけでお乗通りしてよろしい」と、言われ自分の屋敷の方へ
行かれました。

因幡守殿は外桜田門御番所へ行かれ、権左衛門殿へ御機嫌を伺って帰宅され、玄関で
今日のこの内容など話し、用人達と雑談していると表門の屋根の上にいる足軽の者が
声を上げ、「番町辺より出火のようです」と報告するのを因幡守殿が聞かれ、「此風向き
で番町辺より出火とは心配である、よく見させなさい」、と言われる間もなく「松平越後様
の御屋敷へ火が移りました」と報告がありました。 「それでは此辺も火が止るとは思え
ないので家中誰もが立ち退く様に」、と因幡守殿自身が世話をやいているところに又
屋根の上から、「井伊掃部頭様の大台所が燃えていますと叫ぶので、是はもう隣の屋敷
だと言って騒ぎ出し、因幡守殿も退去し、家中の者達と共に久保町の方へと退きましたが、
虎の御門の舛形の中が大変込み合い侍分の者も怪家をし、小人、中間には死人が
七八人程出ました。 因幡守殿も落馬されましたが大した事もなく舛形の中を遁れました。

(阿部豊後守)
阿部豊後守殿の用人で高松左兵衛と云う者がその日桜田御門へやって来て、岡野
権左衛門殿へ云った事は「もしも御城廻りが出火と言う事になれば、麻布の下屋敷に
いる家来たちが皆駆付ける様にと豊後守が兼てから云っているので家中の侍達が
追々やってきます。今日はこの御門より内へは御人留と聞いて居りますが、私が此処
に居て人別改めをして通しますので、その様に心得て下さる様に」と云い、御門外の
土橋へ出張して、権左衛門殿の与力達へ申し入れ、兵衛自身で人改をして全て通した
後「御番所へ来る豊後守家来達は大方来ましたので私も上屋敷へ参ります、これ
以後豊後守の家来だと断る者が居ても壱人も通す必要はありません」と断り兵衛も
上屋敷へ行きました。

(保科肥後守)
十九日の晩方になり西丸では保科肥後守殿が松平伊豆守殿へ云われた事は「今日の
大火で御三家方を始め千代姫様、両典厩様方の御安否を聞いて居られますか」とあり、
伊豆殿は「その事ですが今日の取込で未だ関係先へ行っておりません」と言われれば、
肥後守は重ねて言われるには「公方様も今程直前にこの西の丸へ参られ、落ち着かれた
事です。 直ぐにでも御前よりお尋ねがあるかも知れません、その時にどう報告しますか、
早く状況を聞いて置く様に」とあるので、伊豆守殿も「たしかにおっしゃる通りです」と夫より
御徒衆を二名宛関係先へ送られたようです。

その時一座の人々が肥後守殿へ「今日の火事ではあなたの築地の御屋敷もきっと類焼
したのではありませんか、ご家族は無事に立ち退かれかどうかお聞きになられましたか」と
云われれば、「たしかに御推量の通りきっと私の屋敷も類焼した事と思います、さりながら
今あなたもお聞きの通り御三家方、両典厩様方の御安否さへ不明な状況ですから、
此肥後守などの妻子どころではありません」と言われたそうです。

(鎮魂)
正月廿四日は毎年将軍が増上寺へお出かけになるのですが、この大火のため
お出かけは中止となり、御名代として保科肥後守殿が行かれました。
その帰宅の途中京橋へ廻られ、去十八日と十九日両度の火事で焼死した者達の死骸
を一所に集め、山の様に積んであるのを見分されました。 供の侍をお呼びになり、
「浅草橋御門外にも焼死者の死骸を積んであるとの事なので、此処にある死骸の量と
比較して、その大体の数量を見分して帰るように」と指示されて帰宅されましました。

その者が帰り、「よく見ると京橋にある死骸の三分一程もありそうです」との報告を
聞かれた後登城され、掃部頭殿を始め各老中方へ云われた事は「私は増上寺へ
御代参として参詣し、帰宅の途中京橋へ行きこの度の焼死者を見分し、浅草橋へは
家来を遣して見て来させたところ、京橋にある死骸の三分一程もあり、全体の死骸数は
非常に多いものです。 江戸は公方様のお膝元であるため天下の万民が集まりましたが、
今度の災難に遭い横死した事は不憫な事です。 其上数万人の中にはどのような
人々が含まれているのかも分らないままに、全て外海へ流し捨てる事は如何なもので
しょうか、願くば幕府で取上げ、所々にある死骸を一所に集めて納めるようにしたい
ものです」と言われました。

掃部頭殿や其外の老中方も全くごもっともな事と、早速町奉行衆へ指示され、
穢多弾左衛門や車善七の手下の者達に仕事を与え、其者達へ幕府から船と宛がいを
下されたので、一週間の間に方々にあった焼失者の死骸ばかりか牛馬犬猫の死骸迄も
残りなく一所に集めて埋めました。
其後は寺社奉行へそこに常念仏堂を建立する様指示されました。
唯今の回向院無縁寺がこれです。

(復興)
この大火により御城を始め諸大名方の屋敷、寺社、町屋敷ともに同様に類焼しました
ので、全ての普請が一度に始まるはずと考えた者があり、江戸中の材木屋達が申し
合わせ、焼残った材木を確保し、地方から運んでくる材木など迄も買占め、売り惜しん
だため、諸材木の値段は予想以上に高値になりました。そのため御殿の普請は三ヵ年
の間延期なされ、必要な材木は山入を指示され、造営作業が始まっても市場からの
購入の木は一本もありませんでした。

諸大名方の屋敷も急いで造る必要は無いので夫々都合に合せる様にとの事でした。
松平伊豆守殿は一ツ橋の屋敷工事の材木を川越の知行所から杉丸太を切って持ち
込まれた、と言う事を伝聞き、諸大名を始め小身の人々に至る迄、皆が知行所の材木を
取寄せられたので、江戸中の材木の値段は大きく下がり、工事も楽にできるように
なったので町屋の方は間もなく立ち揃いました。
その頃井伊掃部頭殿は世田谷の地行所へ指示された様で雑木の丸太、竹、縄などを
取寄せ、屋敷の外廻りの囲いは高サ六尺余りに見えました。 塀の雨覆は丸太のみ
にして、外廻りの惣長屋が立揃う迄はこの囲いのままでした。 是を手本として江戸中
の諸大名方の屋敷の外囲いも手軽くせざるをえないようになりました。

(勤務評価)
この十九日の御本丸類焼に際し、旗本、諸役人及び諸番の各人の働きには良い人もあり、
全く不出来の人もあり、今後の調査で善悪の評価が発表されるのではないか、と人に
よっては大変気にしていました。
この調査の過程で、保科肥後守殿が云われたのは、「これから評価を下すのも尤の事
ではあるが、私には教えずに罪にすると云う道理に思える、理由は天正年中に権現様が
ご入国されてから七拾年になるが、この江戸で今度のような大火は未だ無く、従って
大火の時はどのように対応するかという、行動基準など用意されていない様に思える、
従ってこの度の事はそのままにして置かれ、以後大火の場合はその行動基準に照らして
どうかを評価する様にしよう」と、言われ今回は評定しない事になりました。
しかし幕府内部の事なので真実かどうかわかりませんが、このような風説がありました。


酉年の大火事 明暦三年(1657)死者10万余といわれる、「むさしあぶみ」1659版本に詳細記録ある
井伊掃部頭 (直孝1590-1659)井伊直政次男、幕命により兄直勝に代わり彦根藩井伊家三代目当主となる。
豪徳寺招き猫の話の殿様
保科肥後守 (正之1611-1673)二代将軍秀忠の四男、保科家へ養子、家光の遺言で幼君家綱を後見、
会津松平家の藩祖
両典厩殿 将軍家綱の弟、松平左馬頭綱重(甲斐15万石)及び松平右馬頭綱吉(甲斐15万石)
下線部分 底本から脱落しており、他本より加筆

落穂集巻九終




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