捕影問答
19世紀初頭の大槻玄沢による海防論
18世紀半ばイギリスの産業革命を契機に西洋諸国は近代化に向けて大きく動き出し、アジアにおける
市場競争と頻繁な戦争により国家間の再編成が進みつつあった。 この頃日本は修羅場の西洋から遠く
離れており鎖国政策を続けひとり平和を享受していたが、 西洋列強の影響が影の様にじわじわと忍び
寄ってきていたのがこの時代である。
江戸時代には国交はないがオランダを唯一西洋への窓口として日本は交易を続けてきたが、海上帝国
としてイギリスと覇を争ったオランダもフランス革命の影響を受け、1795年には本国そのものが消滅しフランス
の衛星国となってしまった。 フランスと敵対するイギリスはこの機会とばかりに旧オランダの資産である
オランダ東インド会社のインド各地の拠点を次々奪い海上も封鎖した。 その結果日本と交易を行っていた
ジャワの拠点に影響が及び長崎への定期交易船も出せなくなる。 そこでジャワではイギリスの封鎖を避ける
為中立国のアメリカ船を雇い長崎に派遣する様になった。
その頃アメリカは東部13州がイギリスから1776年独立して建国間もなく、国土は未だ太平洋迄到達して
いないが太平洋に活躍の場を求めていた。 叉ロシアはシベリアの開拓を進め18世紀中頃にはアラスカ迄
国土が広がり、其頃から南下を始め蝦夷と呼ばれたカラフトやエトロフでしばしば日本と接触する様になる。
オホーツク、カムチャッカ、アラスカのシトカを拠点として毛皮を中心にイギリスやオランダの東インド会社
拠点(広東など)へ輸出したが1799年にはロシアーアメリカ会社を設立している。 この毛皮の交易には
太平洋を渡るアメリカ船(ボストン、ニューヨーク、ボルチモア等母港とする)が加わっており、始めて日本に
立寄ったアメリカ船は1791年に熊野灘に来たレディ・ワシントン号(ボストン母港)で広東からの帰りと云って
いる。
オランダ船の場合は定期的に夏長崎に来て秋にはジャワに帰るコースだったが、アメリカ船を雇った事に
より長崎から更に遥か北方のカムチャッカやアラスカに向う船が日本海や太平洋側を北上する事になったので
日本のあちらこちらで異国船を見る事になった。
大槻玄沢が「捕影問答」を著したのはこの様な時である。 玄沢は近頃渡来するオランダ船はアメリカ船
と云うが実はイギリス船ではないか、最近日本の周囲で見かける船は皆イギリス船と思われロシアの南下を
助けているのではないか、イギリスこそ注意しなければならないと言っている。 この時点では玄沢の推測は
イギリスとアメリカを取違えているが、此書の翌年(1808年)本物のイギリス軍艦フェートン号が長崎に
押入り大騒ぎとなった。 恐らく玄沢はそれ見た事かと云ったに違いない。 叉この五十年後日本の堅い鎖国の
扉を力でこじ開けたのはロシアでもイギリスでもなくアメリカだった、と言うのも不思議な因縁である。
ヨーロッパを席巻したナポレオンが敗れた事により、1815年のウィーン体制の下でオランダは復活し日本交易も
元に戻った。
いずれにせよ冷徹な国際関係では一人だけが平和の理想を掲げても通用しないのが歴史から読み取れるので
はないだろうか。 玄沢は言う「疑って準備しておけば、時に及び慌てずに済む、侮って備えなければ泥棒を
見て縄をなう様なものだ」と。ところが今の世は縄さえもなう事に躊躇する人々がいるが将に歴史認識の欠如と
言えるのではないか(20140615)