オランダ風説書(ふうせつがき)
−江戸で世界を知るー
風説書提出の経緯
オランダ風説書は江戸時代を通して幕府が世界情勢を知るための重要な情報源だった。
江戸時代初期、幕府は当時日本と交易があったスペインとポルトガルをキリスト教布教問題で
追い出した。 後継に欧米の中では唯一オランダに貿易の権利を与え、その代わりとして西洋諸国の
様子を報告させるオランダ風説書の提出を義務付けた。 これは三代将軍家光の末期1650年頃から
始まったといわれる。
オランダ交易船は毎年初夏の季節風に乗りジャワのバタビアから3-4週間掛けて長崎に渡来し、
秋口からの季節風に乗ってバタビアに帰るというパターンである。 従って風説書も毎年あり、
半年から一年遅れ位で世界の情報が分かる仕組みになっていた。 幕府が欧米主要国と通商条約を
結んだのが安政5年(1858年)だが、その前年まで続いたようである。 今では風説と云うと
何となく根拠のない噂の様にも聞こえるが、江戸時代では現代で言うニュース新情報と考えられ、
元のオランダ語でもNieuwsとなっている。
風説書の内容
文政10年(1827年)以後の風説書を幾つか紹介するが、 内容は交易船のバタビア出発日及び
長崎到着日、昨年帰帆の船のバタビア到着報告、航海中に見かけた船の有無等の定型文に続きオランダを
含むヨーロッパ各国の様子(王室の代替わり、婚姻、戦争)等である。 しかし1846年版は急に内容が
詳しくなり、後述の別段風説書との区別が無いくらいである。 しかし風説書としてはこの後は簡単な
定型文になり、別段風説書が情報提供の主流になる。
別段風説書
風説書と並び別段風説書があるが、これはアヘン戦争後従来の風説書と別にアヘン戦争について
詳細を報告する為に設けた名前で幕府からの要請と思われる。 アヘン戦争の最終段階で書かれた
天保13年(1842年)の風説書に、イギリスと清国の戦争については追って別段に報告する旨が記されて
いる。 その頃別段風説書ができた様だが、アヘン戦争に拘わらず1846年以降は世界中の事件や地誌の
詳しい報告となっている。 風説書はオランダ船船長やヘトル(事務長)の口頭の報告が基となって
いるが、別段風説書はバタビアの東インド政庁で作成したものを長崎に持たせたという事であり、
此頃になるとシンガポールや広東で発行されるイギリスの新聞がニュース源に加わったと云われており、
アヘン戦争以後の中国情勢や今迄余り話題にならなかったアメリカ合衆国の事等が加わってくる。
風説書の信憑性
解読して見て驚いた事は現代通説となっている歴史の一齣々々が究めて正確に記述されている事で
ある。又当時の通信手段を考えると決して旧聞ではなく当にNEWSに値する。 例えば1849年夏到着の
別段風説書では前年2月のフランス二月革命とその後共和制下でルイ・ナポレオンが大統領に選ばれた事、
更にヨーロッパ各国に自由主義、民族主義が波及し何れも大混乱になっている事などを当年の初めに
起きた事件迄記述している。 勿論オランダにとって都合の悪い事は書かないのは当然と思われるが、
イギリスのアへン戦争前後の清国に対する姿勢や東インド政庁管轄のオランダの植民地政策等は
ヨーロッパ人の立場で書かれている。
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掲載の風説書及び別段風説書
国立公文書館内閣文庫所蔵の天保雑記、弘化雑記、嘉永雑記、安政雑記、視聴草等の写本を取上げた。
解読に厄介な問題は地名、人名、官名等の固有名詞はオランダ語発音をカナにしてある事、又筆写時に
カナを誤記したと思われるものも多く、字は解読できても何の件か分からぬ物も少なからずある。
ここでは原文はそのままに翻刻して右側に可能な限り現代語訳をつけた。
下の表中各行の風説書又は別段風説書クリックで翻刻と現代語拙訳及び注を表示する。
参考:和蘭風説書集成上下 日蘭学会 吉川弘文館