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櫻井光政『刑事弁護プラクティス』一部無料公開(1)

あるホームレスのこと

暴力行為等処罰に関する法律違反事件

オッサンの素顔

 正月気分も抜けきらない1月12日に当番で回ってきたのは東京・向島警察署の事件。50代男性の暴力行為等処罰に関する法律違反。場所と罪名、被疑者の性別、年齢からやくざ者の犯行に違いないと思った。それにしても、向島警察とは、事務所からも自宅からも遠すぎる。娘に電話して帰宅が遅くなると告げた。

接見室に入るとこざっぱりしたオッサンが出てきた。やくざにしては不貞腐れたところがない。いったい何をしたのか。

オッサンは昭和通り沿いの高速道路下で暮らすホームレスだった。前年の夏頃から同じホームレスの女性と一緒に生活するようになった。入籍はしないけれど、自分たちはもちろん、他人からも夫婦として認められていた。事実婚の夫婦だ。その妻が胸が苦しいといって倒れて救急車で病院に運ばれたのが1月5日だった。しかし病院の医師は、心電図はとってくれたものの、とくに異常はないといってそれ以上の処置をしてくれなかった。妻はしばらく病院のベッドで寝かせてもらったが、やがて看護婦が来て「いつまで寝ているのですか」と叱られて帰ることになった。妻の身を案じるオッサンは医師に何度も確認したが「どこも悪くない」とのことだった。

家(というのも変だが、一応彼らの住処(すみか)をこう呼ぶことにする)に帰ってからも不調を訴え不安がる妻に対して、オッサンは「病院の先生が大丈夫だとおっしゃったんだから心配するな」と励ました。自分の体のことは自分が一番よくわかるという言い方がある。このとき妻は自分の運命を予感していたのかもしれない。

ホームレスといってもオッサンは働いていた。土木工事の仕事に出たり、それにあぶれたときは駅のゴミ箱から雑誌を回収して売ったりしていた。1月9日もそうして雑誌集めをして家に帰って来た。よく働いた日はワンカップが自分への褒美だ。「じゃあハムを切ろうね」。そう言って包丁を持った妻は突然その場に倒れた。救急車が呼ばれて別の病院に運び込まれた。しかし妻は帰らぬ人となった。

原因は心破裂。心筋梗塞後にしばしば見られる結末だ。オッサンは、なにか心臓病の兆候がなかったかと聞かれた。おおありだ。4日前、心臓が苦しくて病院に運び込まれたばかりだった。ろくに診てももらえず、薬ももらえず、帰されたのだ。それでも妻は苦しがっていたのだから、別の病院に見せればよかった。オッサンは自責の念に駆られて家に帰り着いた。

妻のわずかな遺品に目をやると、ノートの切れ端に書置きがある。「おとうちゃん。私の身体はだめみたいです。ここにいるとおとうちゃんに迷惑をかけるから出ていきます。いままでありがとう」。妻は、なんでもないはずはないとわかっていたのだった。胸の痛みが心臓病の発作であることがわかっていたのだろう。さりとてオッサンに治療費の負担などできるはずもない。迷惑をかける前に出て行かなければと思いながら出て行けず、明日は出て行こうと思いながら数日を過ごしていたに違いない。妻の心情を思うとオッサンは矢も盾もたまらなくなった。

時刻はすでに深夜0時を過ぎていたが、最初に運び込まれた病院に怒鳴り込んだ。手には妻が最後に握り締めていた包丁を、箱に入れて携えていた。何事かと応対に出る事務員にオッサンはまくし立てた。「医者を出せ。女房は死んだぞ。俺たちがプータローだと思ってちゃんと見てくれなかったんだな」。箱に入った包丁を床に叩きつけ、かぶっていた野球帽を手に持って振り回しながら事務員に食ってかかった。興奮して振り回した帽子が事務員の顔をかすったとき、事務員は看護婦に110番通報を命じた。

これが事件のあらましだ。やくざなどではなかった。

罰金

 胸が苦しいというのは急性心筋梗塞の典型的な症状だ。そのような訴えがなされたら心筋梗塞を疑って診察しなければならない。心筋梗塞はいうまでもなく命にかかわる病だ。それだけに迅速で的確な診断が要求される。心電図もいつも定型的なグラフを描くとは限らない。だから診察は入念に行わなければならない。病院には明らかにそれが欠けていた。オッサンの怒りはもっともなものだ。けれどもオッサンはホームレスで、前科もある。深夜病院に包丁を持って押しかけたということで、問答無用で逮捕勾留されてしまったわけだ。普通のサラリーマンだったら、同じことをしても説教だけで帰宅が許されたことだろう。

オッサンは前科8犯、傷害などの粗暴犯も多い。また最後に無銭飲食で懲役に処せられてから3年しか経っていない。公判請求された場合は実刑を科せられる事案だ。さっそく不起訴の要請書を作成して検察官と面会する。迅速に不起訴の決定をされたい旨申し入れる。

新人の検察官は誠実に対応してくれたと思う。申入れの翌日には電話をくれた。上司と相談したが、この人の場合は前科もあるので不起訴というわけにはいかない。ついては略式罰金で処理したいので、弁護人のほうで罰金の準備が可能かどうか調査されたい。

さっそくオッサンと接見した。最初は身寄りはないと言っていたが、実際は埼玉県に兄弟がいると言うことを聞き出した。中小企業の管理職をしているらしい。罰金の立替えをお願いすることについてオッサンの了解を得た。しかしながら案の定というべきか、弟はとりつく島もなかった。今までさんざん迷惑をかけられたと言っていた。確かにそんなこともあっただろう。迷惑のかけられついでにあと30万円くらいいいだろうと言いそうになるが、言葉を飲み込んだ。そしてその後も何度か交渉したが、罰金は用立ててもらえなかった。

窮余の策

 それにしても、妻を失ったあげく、わずか30万円ばかりの金が用意できないために懲役刑に処せられなければならないなどということがあってよいのか。なんとかしてやりたいが、何をしてやれるだろうか。もちろん頑張れば、公判になっても情状を主張して罰金刑を得ることくらいはできなくはないだろう。それでも住所不定のオッサンは、裁判が終わるまでの1、2カ月間の勾留には甘んじなければならない。大学病院に無縁仏として保管されている妻の弔いもしてやりたいだろう。

神山弁護士に相談した。私が罰金を立て替えることもやぶさかではないが、弁護人の職務を逸脱することにならないかと思う。また、弁護士倫理は依頼者との金銭の貸借を禁じている。さりとてこのまま手をこまねいて公判請求をさせるわけにはいかない。二人で議論して出した窮余の策は、やはり私が罰金を立て替えるというものだった。ただし病院に対する慰謝料請求を行うこととし、得た慰謝料から立替金を支払ってもらう。慰謝料請求の弁護士費用は法律扶助協会から援助してもらう。そうすれば私の現実の負担も少なく、かつ回収の可能性も高いというわけだ。

さっそく検察官に連絡をとり、罰金の用意ができた旨告げる。オッサンは翌日無事に釈放された。数日後、法律扶助協会に赴き、病院に対する慰謝料請求につき扶助の決定を得た。

櫻井光政(著)『刑事弁護プラクティス』(現代人文社、2013年)61〜65頁

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