嘉永3年(西暦1850年)3月27日 昼頃から小雨
午前7時頃、鹿児島城下前之浜で大祥丸に乗船。松岡喜左衛門殿、原田庄太夫殿、名越斧右衛門殿、名越伴次郎殿が別れに来られた。松岡殿と斧右衛門殿は午前10時に、他の二人は夜10時に帰った。
私の下で働いていた白浜小太郎・西村作次郎・山之内小助・同新太郎・田中権助・前田直太郎・野元休次郎・川村助市・塩田利兵衛・同亀太郎・同助太郎・福留吉左衛門・同正二・同吉太・同平左衛門・同万熊・辻元弥兵衛、その他に、甑島から奉公に来て寄食している村尾惣次郎、同じく市来から来ている中山善次郎も見送りにやってきた。
吉太郎と善次郎は船に泊まる。村田仲左衛門もやって来た。卯左衛門と小太郎が船に泊まる。伊藤万次郎殿も夕方やってきて、これも船中泊。花倉の次左衛門他一人が来た。皆それぞれ餞別の品物を持ってきた。夜11時、就寝。
一、家来の川村助次郎は、渡辺彦太郎の下男となり、大祥丸の商人である重に頼んで水夫(かこ)として乗船することを願い出ていた。夕方、その許可が下りたと言って船に乗り込んで来たのは嬉しかった。
一、木尾彦右衛門殿も来られた。
大勢の関係者や家来が見送りに来ています。中には船に泊まる者もいて、佐源太との別れを惜しんでいます。助次郎は大島到着後も何かと支えになる人物です。
それにしても、これだけ大勢の見送り人の名前をどうやって把握したのか。誰かに頼んで記帳しておくとか、自分でメモしておいて、後で整理したのでしょうが、遠島人という辛い立場にあるとは思えない冷静さです。
嘉永3年3月28日 朝のうち小雨 (陽暦5月9日)
朝6時起床。伊藤万次郎・白浜小太郎・村田仲左衛門・中山善次郎・福留吉太郎は、朝6時過ぎに帰る。塩田利兵衛・同亀太郎・川村助市が見送りに来る。昼時分から越伴次郎殿・原田庄太夫殿・名越善左衛門が来た。午後2時頃に福留吉左衛門・同万熊・村田仲左衛門も来た。
午後4時前に皆大祥丸から下船したが、吉左衛門と仲左衛門は、山川まで来るとのことで船に残る。午後4時頃、前之浜を出帆。北の順風を受け、夜10時頃山川湊に到着。
昨日船に泊まった者は帰り、昨日来た者がまた来て、その内二人は下船せず山川港まで着いて行きます。皆、別れを惜しんでいる様子です。
嘉永3年3月29日 晴
朝6時起床。8時頃、吉左衛門と仲左衛門が私の代理で開聞神社に参詣に出かけ、午後4時頃大祥丸に帰って来た。開聞神社で守り札とお神酒を貰った。船玉大明神からもお神酒を貰っている。一、興行丸で琉球へ行く村田右吉衛門が大祥丸に挨拶にやって来た。起炭(おこしずみ)などを世話してくれる。
一、9時頃、鹿児島から飛脚到着。父と式部殿(実弟)とおたね(妻)からの手紙と包物が届いた。それと、福留万熊が来た。
開聞神社は薩摩の一の宮枚聞神社のこと。船玉大明神は鹿児島城下の近くにある航海の安全を守る神様。
左源太は遠島人で船から降りることがかなわないため、昨日一緒に乗ってきた二人が、代わりにお参りに行ってお札と御神酒を貰ってきてくれました。
嘉永3年3月晦日 晴
朝6時起床。鹿児島から来た飛脚が7時頃に帰るため、急いで返事を書く。大鐘の頃から昼寝をし、目が覚めたのは、塩田政次郎が訪れた夕方近く。今朝10時に鹿児島を発ったと言う。よっぽど馬を飛ばして来たらしい。父上様その他からの手紙などが届いた。9時頃就寝。
「大鐘」とあるのが何時頃を指すのか、一説では午後6時頃とされますが、この例のように昼間のどこか(恐らく正午)を指す使い方もあり、必ずしも特定の時刻を指すとは限らないようです。大鐘は、この日以外に、全部で11回出現しますが、夕方の日暮れ前と推定できるのが7回、暁大鐘と称する夜明け前が1回、不明が3回です。
嘉永3年4月朔日 晴
朝6時前起床 。午後2時頃、山川港内から「渡り」と呼ぶたまり場まで船がいて、順風を待っている。
一、灸を据えた。
この日に記された、佐源太直筆の絵図です。
このような鳥瞰図は、実景を基に、頭の中で座標変換して書くものなのか、日頃の訓練でそういうテクニックを身につけていたのでしょう。
嘉永3年4月2日 晴
朝6時頃起床。11時頃島津八郎殿から手紙一通と茶箱ひとつが届いたので、その礼状を出す。福留吉左衛門・同万熊・塩田政次郎・村田仲左衛門らは、便船で鹿児島城下へと向かった。一、今日連絡のあった、沖瑞益殿へ貸してあった絵本一巻の返却について、幸便があり次第送るよう伝える。
当時奄美では、薩摩藩が強制した黒糖生産モノカルチャー政策の一環で、貨幣の流通が止められており、物々交換が主であったため、左源太はそのための細々としたもの(煙草、手拭、茶碗など)を大量に持込んだようです。後の日記に登場するように、そうした物は、頂き物のお礼として消費されました。
ここで送られてきた茶箱には、お茶が入っていたのか、あるいはそうした小物が詰められていたのか。
嘉永3年4月3日 晴
朝6時時頃起床。10時頃仲次郎という足軽が一刻来て帰ると聞いたので手紙を頼み、この二三日の様子を書く。一、船中にあった増補書状大成を借りて写す。
本を丸ごと、あるいは抜き書きで写すことが、この後も屡々出てきます。それによって、本の内容の理解が深まると同時に、形として残されたお陰で、後世の我々も恩恵を蒙ることができました。
嘉永3年4月4日
朝6時頃起床。今日から渡り付近で滞船。一、昨日から写していた「書状大成」を大鐘の頃写し終わった。
船のたまり場である「渡り」に来たのは4月1日ではなく、この日だったようで、それまでは港内のどこかに停泊していたことが、絵図に示された大祥丸の位置などから推定できます。
嘉永3年4月5日 晴
山川湊では卯の日には船を出さないというので終日滞船。勿論順風も吹かなかった。鵜ノ瀬があるために卯の日には船を出さない由、鵜ノ瀬より外に滞船した場合は、船を出しても差し支えないのだという。一、今日は船中の五、六人が鰻温泉へ、船員六、七人が湊へ出かけ、後は寂しいことである。
この日は「丁卯(ひのとう)」に当たります。干支(えと)は、十干と十二支を組み合わせた、60で一巡する暦法で、年月日や方位を示すために用いられました。
山川湾の出入り口にある鵜ノ瀬には、今でも「山川港鵜瀬灯標」が設置されています。
左源太は留守番で「淋しき事にて候」と書いていて、31歳の武士のイメージからは遠いかも知れませんが、その人となりは読み進める内に追々理解できるでしょう。
嘉永3年4月6日 雨
今日も渡りで、風を待ち滞船となった。風も吹かず天気も悪く、今日は一行だですけ。
嘉永3年4月7日
朝小雨、後止む。終日曇天。今日も昨日と同じく滞船。嘉永3年4月8日 晴 (陽暦 5月18日)
明け方、北西の風、渡りから出帆。午後2時頃、竹島の東7、8丁(100メートル)沖を通過。日暮れ前に屋久島を左に見、口永良部島を右に一里半ほどに見て通過。 南南西の方向へ船は進み、夜中ずっと同じ。おあつらえ向きの風が吹き、いよいよ出帆します。竹島を抜け、屋久島と口永良部島の間を抜けて、船は順調に南下しますが...。
嘉永3年4月9日 晴
朝から北北西の風で、泙(時化)になった。船は悪石島の東へ流され、昼頃には悪石島も見えなくなった。夜になり午前4時頃から強い南風に変わり、強い向かい風のためマギリ走りも難しい。船は口永良部島を目指して引き返したが、強い追い風なのに下り潮に向かい、船はなかなか進まなかった。口永良部島から悪石島にかけては、北上した黒潮が蛇行して西から東に流れており、トカラ列島は七島灘と呼ばれる航海の難所とされていて、佐源太が乗った大祥丸も東に流され、風向きも変わってマギリ走り(向かい風に対してジグザクに帆走して漸進する航法)も効かず、結局口永良部島に戻ることになりましたが、追い風なのに黒潮が邪魔してなかなか進めず、難儀をしています。
一連の航路について、高山信紀氏が考察した図を左コラムの「地図」「黒潮と航路」で見ることができます。
「泙」(ほう)について、「日本庶民生活史料集成第20巻(以下、「庶民生活史料」)の注では「宛字(当て字)で時化(しけ)のこと」としています。しかし、泙は本来、中国由来の「水勢の盛んなさま」を表す漢字で「時化」に近く、字形(さんずい+平)から来る日本的連想とは違うので、当て字と断ずる根拠は見当たりません。
嘉永3年4月10日 雨 南風強
今朝になっても南風が強く、波も大きく島影も見えない。船が何処へ進もうとしているのか分からない中、午後2時頃、かすかに諏訪之瀬島が見え、まもなく口之島が見えてきて心強くなる。4時頃になって屋久島が見え始め、まもなく口永良部島が見え、ようやく夕方、口永良部島の湊に着いた。大祥丸は、山川港から名瀬までの航路の2/3ほどに位置する悪石島付近まで達したものの、時化に遭って進めなくなり、1/3ほどに位置する口永良部島まで戻されたことになります。
二日にわたる時化を経て、島影を見つけ、口永良部島の避難港に入り、ようやく安堵した様子がうかがえます。もしかすると、船酔いがあったかも知れず、上図の最後の方はスケッチが簡単になっているようです。
上図を詳細に見ると、四枚目にある口永良部島の山頂付近に「煙」と書かれていて、当時噴火していたことが分かり、左端に「このところ温泉」と記されていて、今もある湯向(ゆむぎ)温泉と推定され、この図は島の北東方向から見て描いたものと分かります。
同じく四枚目の屋久島の図には「雲懸かる この島高山にて、雲懸からざることは余りこれなく候なり」と添え書きされています。
「南西諸島史料集 第二巻」松下志朗編(以下、「南西諸島史料集」) p.56によれば、五枚目にある中之島(左上)と諏訪之瀬島(右下)の図が逆になっていて、船員から間違って教えらられたのではないか、とのことです。
なお、中之島の御岳(979m)は屋久島以南では最高峰になります(一般的には、屋久島以南の最高峰は奄美大島の湯湾岳(694m)とされていますが、それは、屋久島をトカラ列島を含む薩南諸島と捉え、それより南にある琉球諸島の最高峰、という意味に置き換えての結論です)。
左の「地図」「全体地図」を開くと、航路が推定できます。但し竹島の名は地図に記されていません。
嘉永3年4月11日 朝小雨 風前日と同じ 昼過ぎ北北西の風 夕方北風
今日は終日、口永良部島で滞船となる。夜中までとても波が高かった。琉球や他の島へ下る大型船が10艘引き返してきて滞船。今日、船の乗組員はすべて陸へ上がり、天気を占う賭けをした。「天気を占う賭け」は、原文で「天気勝負」となっており、庶民生活史料では、「天気うらないを賭けること」となっています。サイコロなどを使った賭け事をして、その結果から翌日以降の天気を占うという、時間つぶしの気晴らしかと推定します。
嘉永3年4月12日 晴
北東の風が吹いて、朝6時過ぎ口永良部湊を出帆。10里程進んだところで東風になり、風が思わしくないので船は引き返した。途中でまた南風になり、追い風で昼頃口永良部湊に入る。今日も振り出しに戻り、なかなか思うように行きません。「鹿児島の湊と薩南諸島」松下志朗編 によれば、口永良部湊は、奄美や琉球に向かう船が、ここに停泊して「日和見」をし良風を得て出航する場所で、薩摩藩が番所を置いていたそうです。下記する絵図の三枚目に「この家、代官所」とあるのがそれかと。
「日本残酷物語」宮本常一他 によると、薩摩藩は口永良部島で清国との密貿易だけでなく、秘密の洋館を建設し、ここに仮住まいしているイギリス人を通じてイギリスと交易していた、とのことです。当時、上記の代官所の近くに洋館があったはずですが、絵には出てきません。佐源太は、藩の重職にありながら、そういう機密情報からは距離を置いていたのか、それとも承知しながら見て見ぬフリをしたのか、いずれにしろ、口永良部湊が単なる避難港ではなかったことは、とても興味深い歴史的事実です。
嘉永3年4月13日 晴
順風を待ち滞船。昼過ぎ、漁師の小屋の方に風呂を立てるので、陸へあがらないかと、私の監督を務める足軽や船頭たちから言われた。遠島者が陸に上がるのはいかがかと言うと、他の船の遠島者も上がっているし、差し支えないという。私は他の遠島人と違うと言うと、身分の低い漁師たちばかりなのでそんなことは分からないし、何も問題ないと言う。護送役が許すのだからと思って、 陸に上がって風呂に入った。風呂が沸くまでの間、後の山で筍を掘った。島外から鰹漁に来ている漁師たちのとても粗末な小屋が、建っている。20軒もあろうか。その向こう、10丁(1km)ばかり先に村があった。これは島民の集落で、それ相応の家を建てて住んでいる。
村へは遠慮して足を踏み入れなかった。木や竹、畠などが多く、よく手入れがなされている。みんな鰹漁で暮らしているとのこと。家に、鰹節、塩辛やせんじ(煎汁)などが豊かにあると聞いて感心した。
百世帯に満たない他の島民の住居も同様とのこと。島の女性は、お歯黒はしているが老婆でも眉を剃っていない。言葉は桜島の言葉くらいであろうか。どうも発音が違うようで聞き取りにくい。
風呂に入るため、陸に上がる上がらないのやり取りから、佐源太の律儀さが推量されます。
口永良部湊での停泊場所が、現在の向江浜あたりと仮定すると、左コラムの「地図」「口永良部島」にある様に、近くに今でも竹林があって筍採りが容易だし、10丁(1km)ばかり先にある村が現在の本村(ほんむら)集落と推定できるので、辻褄が合います。南西諸島史料集でも、これと全く同じ推定をしています。
なお、前述の湯向温泉は島の反対側で陸路では行けないし、近くに温泉がなかったのか、沸かし湯だったようです。風呂の話が次に出てくるのは、許されて帰る船で風待ちをしている時であり、島での生活では行水程度で風呂に入る習慣なり設備がなかったのかも知れません。
「せんじ」は、庶民生活史料によれば『煎汁。鰹節を煮たあとの汁を煮つめて飴状の食物にする。薩人好んでこれを、湯豆腐・おつゆに入れて味つけ賞味する。延喜式にもその名が見え、 薩藩の重要な海産物の一つである。』とのことです。6月7日にも出てきます。
言葉が分かりにくいと言いながら、島民の生活をつぶさに観察し記録するところに、佐源太の類い希なる探究心と記録魔の本領が発揮されており、これが嚆矢となって今後に続きます。言葉のこと、奄美に行くとさらに分からなかったはずですが、持ち前の探究心と柔軟性のお陰で、特別に習ったりもして、順応していったようです。
嘉永3年4月14日 晴
今日も風向きが前日と同じで、滞船。一枚目の絵図は、前述(前日)した「現在の向江浜」と考えられ、地図に対応しています。本村はこの絵図の左端付近か。「ここの小川、船中の者共風呂立て候場所」と記されていて、前日の記載に対応します。
三枚目および四枚目の図右側の集落が本村と見られます。
嘉永3年4月15日 晴 沖はえ風
今日も同じく潮待ちしていた。琉球下りと三島(喜界島・大島・徳之島)下りの船員たちで海路の平安を祈って日和角力を取るのだと言って、船中の者達が陸へ上がった。私は留守番をした。沖はえ風(沖南風)がこの後屡々登場しますが、単なる南風(はえ)とどう違うのか不明です。 梅雨明けに吹く風をしろはえ(しらはえ)、梅雨入りの頃の曇天に吹くのを黒はえ、梅雨の最盛期に吹く激しい南風を荒はえと言って、俳句の季語になっています。しからば沖南風とは何か?航行中の10日には南風と書いていることから、陸にいて沖の様子を想定しているのかも知れませんが、なぜ南風だけそうするのか。読み進む間の課題としましょう。
原文の潮掛はしおがかりで、名うての黒潮が列島を横断する場所であることから、単なる風待ちの意味だけでなく、潮流の変化についても見ているのかも知れません。少なくとも、黒潮を強く意識して、どう航行するかを想定していることは間違いないでしょう。
琉下りは沖縄へ行く船、三島下りの三島は喜界島、徳之島、大島のこと。沖永良部島や与論島を含めた奄美諸島は、琉球へ向かう途中にあるということで「道の島」と呼ばれていました。
日和角力は、庶民生活史料によれば「海路順風平安を祈るため、船人たちの催す角力」とのことです。
嘉永3年4月16日 前日と同じ天気 同じ風
柳盛丸・明恵丸・金山丸が、一昨日この湊へ入ってきて、都合13艘の船が潮待ち。風待ち、潮流待ちの船がどんどん増えているのは、どうしようもない気象状態だということでしょう。風さえ吹けばアッという間に目的地に着けることを、皆承知だからこその「潮掛(潮待ち)」でしょうが、いつ終わるとも知れない滞船は不慣れな者にとって苦痛でしょうし、先の見えない流刑者には心細さが増すばかりだったかと想像されます。
嘉永3年4月17日 晴 沖はえ風
同じく潮待ち。嘉永3年4月18日 晴 南東の風
前日と同じ。嘉永3年4月19日 前日と同じ天気 同じ風
同じく潮待ち。嘉永3年4月20日 前日と同じ天気 沖はえ風
同じく潮待ち。今日はしばらく陸に上がり、風呂に入るなどした。嘉永3年4月21日 半天(晴時々曇) 沖はえ風
同じく潮待ち。南西の風で、同じく潮待ちである。正午頃雨が少し降った。「半天」について、「古日記天候記録のデータベース化とその意義」吉村 稔 歴史地理学 55-5 2013年によれば、「時間的変化が含まれている」として「晴折々曇り」と推定しているので、一般的な表現の「晴時々曇」としました。「半曇」が「曇時々晴」とのことです。
嘉永3年4月22日 沖はえ風
同じく潮待ち。嘉永3年4月23日 南西の風
同じく潮待ち。夜中の2時頃から夜明け方まで雨。午前4時頃から西南西の風になった。嘉永3年4月24日 雨 西風
日暮れ頃から晴れたが、夜に入って泙(時化)。同じく潮待ち。嘉永3年4月25日 半天(晴時々曇) 南風
同じ場所で潮待ち。 夜、 願いを込めて歌を一首詠んだ。一首詠むとありますが、歌は残されていません。
無聊をかこつ日々が続けば続くほど、佐源太の頭に浮かぶのは、このような境遇に陥った経緯と自責の念だったか、残してきた家族への想いだったか、これから向かう流刑地での生活に対する不安だったか、おそらくそれらすべてだったでしょうが、密談に加わった者の中で自分だけが切腹を免れた、その主な理由が家格の高さ、すなわち父親始め先祖の徳によるものという現実に思い至れば、罪の意識だけでなく感謝の念が湧き、持ち前の進取の精神が作用して前向きな姿勢に変化して行った、ということも考えられます。。
嘉永3年4月26日 時々小雨 沖はえ風
今日も同じ場所で潮待ち。午後4時頃、沖南風が強く吹き始めたが日暮頃から西風に変わる。沖南風は、陸上では弱いが沖では強い風、という仮説は、この日の表現で崩れました。
嘉永3年4月27日 朝小雨 終日曇天 西風
今日も一日中、潮待ち。嘉永3年4月28日 雨 西風 午前10時頃から北西の風、昼過ぎから北風(陽暦6月8日)
今日北西から北の風になり、船中が勢いづいた。正午頃、潮待ちをしていた13艘の船が一斉に帆を上げ、竹崎岬の方へ向かって出帆。間もなく北風になり、追い風で順風よろしく、日暮れ頃には悪石島近くを通り、夜中ずっと追い風を受けて帆八合(順調帆走)。まさに「待てば海路の日和あり」で、実に17日間にわたり滞船した後にやっと出帆しました。口永良部島から名瀬まで約240kmあり、悪石島はほぼ中間になるので、昼過ぎに出帆して日暮頃に通過したとすれば、約6時間で120km帆走したことになり、非常に順調な船足と言えるでしょう。
「帆八合」とあるのは、帆柱に対する帆の上端の位置が、最速走行する場合の位置である8分目になっているという意味だそうです(「船絵馬にみる弁才船の操帆法」日本財団図書館)。因みに、帆の上端を帆柱の一番上にするのは、難船時あるいは入港時だけだとか。
嘉永3年(西暦1850年)4月29日 小雨 北風 (陽暦6月9日)
前日同様、順風よろしく、午前10時過ぎ大島名瀬間切りの代官所に着船。津口横目の代理として河野元與殿が来て、長期の船住まいでお疲れのことと思う、当座の宿を用意したので、住む場所が決まるまではそこに居て欲しいが、今晩は勝手にして良い、と言われたので、もはや日も落ち雨風や波も相応にあるので、今夜は宿へは行かず、明朝早くにしようと考えていると、まもなく、島津登殿の家来とのことで二人の者が来た。一人は元遠島人で、赦免後もこの島に居着いている柴工左衛門という人で、代官所の仕事に就き、五日前から代官中山甚五兵衛殿の下で働いているとのこと。もう一人は富寿丸船頭の鳥越伝左衛門という人で、この島の女に家を建ててやり、島に来る時はいつもそこへ行くのだという。
今晩は雨風も少々あるが、長々の船暮らしで疲れているだろうから、伝左衛門の所に場所を用意したので、そこに泊まるようにと言うので、この天気に夜中わざわざ来てもらい大変かたじけなく思うが、先ほど津口横目から、宿は用意したが泊まらない方が良いように聞き、明日上陸すると伝えたので、伝左衛門の所に行ったのではどうなるか分からず、親切はありがたいが断ると言った。
すると、津口横目にはすぐに届を出すので差し支えないし、明日上陸すると、鹿児島の会所に相当する場所に行き、与人が詰めている前で、間切横目から指示などあろうとのこと。今晩上陸すれば、船中にいてやつれた姿の拙者は、そういう場に出なくて済むし、自分達二人がいながら出るようなことになれば甚だ残念なので、津口横目にはまたまたよろしく言っておくとして、是非今晩から伝左エ門のところに来るようにと言う。(その説得を受け入れ)すぐに行くと、吸い物二つと取り肴とどんぶり五つ、それに焼酎が出て大変丁寧にしてもらい、幸せの至りであった。
夜10時過ぎ頃に終了した。河野氏と田中直次(護送役人)も泊った。
前日の帆走速度が維持されたとすれば、夜の内に名瀬沖に着いたものと推定されるので、午前10時には湾の奥にある名瀬の港に余裕をもって着船したことでしょう。先月の28日に前之浜を出帆して以来、実に31日かけて、ようやく目的地に着きました。
ここに出てくる島役人(島民から選ばれる)の分担は以下のようです(詳しくは奄美各島の役人体制参照)。
「津口横目」(つぐちよこめ)は港の出入りや船舶の管理を担当
「与人」(よひと)は7間切(まぎり)13方(ほう)の、方ごとに一人の総括者
「間切横目」は与人の補佐役で、警察官を兼ねる
あまりに手回しが良いことから察するに、佐源太の知己である代官の中山甚五兵衛は、事前に藩からの連絡を受けて、柴工左衛門と鳥越伝左衛門に対応を指示し、二人は島津登の名前を出して近づいたのではないかと。なお、島津登は、名越左源太親族付帳(鹿児島県史料_名越時敏史料七)などによれば、佐源太の妻(おたね)の実父、則ち佐源太の岳父です。
旧暦では、この月は小の月で30日がありません。月の満ち欠けの周期が29.5日なので、30日ある大の月と組み合わせますが、必ずしも交互ではなく年によって変わり、来月も小の月です。小の月の晦日は29日ですが、この日記では大の月の最後の日のみ晦日と表示しています。
嘉永3年5月朔日 雨天
6時起床。今日は、工左衛門と伝左衛門が、あちこち走り廻り、色々丁寧にしてくれる。一、(代官の)中山氏と(見聞役の)伊地知氏から、すぐに見舞いたく思うが、役所の仕事があるのですぐには行けないとの伝言があった。伊地知氏はわざわざ伝左衛門を呼んで、私が不自由にしている物はないか、何をどれ程持ってきたかなど聞かれたというので、さしあたり格別不自由なものはないこと、米は四俵持ってきて、一俵は船で食べてしまったがまだ少し残っていることを伝左衛門に伝えると、下人を連れてきたのでは、米が少なくなるのではないかと聞かれた。下人は船員ということで連れてきたが、また返すと説明した。そうであるなら、しばらくは米も続くであろうとのこと。皆、丁寧で幸せである。
一、助次郎は飯炊きのほか召し使うべき用もなく、私の生計もこころもとないので、大祥丸船頭の児玉惣左衛門を呼んで、面倒をかけるが、また大和へ連れ帰ってくれるように頼んだところ、請合ってくれて幸せである。追々、子どもへ手習いなどを教え、七、八人にもなれば飯は彼らに順番にやりくりしてもらえばいいだろうし、こうなった以上は自分で飯を炊くのも、かえって楽しくなることと思う。
一、仁礼隆仙殿、相良荘一郎殿、谷山岩次郎殿が来られた。暮れ過ぎに、中馬甚右衛門殿が来て驚かれ、これはこれは奇妙なこともあったものだ、もはやわたしなどに会うことはないだろうと思っていた所、思いがけないことだと申される。わたしは、いまだに門より外へ出ていない。
一、昼、弟子丸喜角殿が見舞に来られた。 以前から今日まで書き写していたものを差し上げる。
「伊地知氏」の職名は正確に言えば、御横目です。それは「南西諸島史料集第2巻」 松下志朗編 にある詰役名簿にある通りで、代官に次ぐ職名が、その後見聞役という呼称に変わったので、便宜上そちらで表示しています。
文中の「見舞」は、病気などの場合に限らず、挨拶や面会など広く人同士が接触する場合に用いられていますが、それに相応しい訳語が見当たらず、そのまま使うことにします。
藩政時代に奄美大島に派遣される役人を総称して「詰役」と言い、南西諸島史料集によれば、佐源太が流されていた期間中に在任したのは、詰役名簿にある人達でした。余録が多かったからか、居心地が良かったからか、代官の中山氏を初め、重任する人が多かったようです。
名瀬には、薩摩藩から詰め役以外にも様々な立場の武士が来島して住んでおり、位の高い佐源太に敬意を表して面会に訪れます。その一人である中馬甚右衛門は、この後も度々登場しますが、どういう人なのかよく分かりません。この日の記述からすると、奄美に居ついて骨を埋めようと覚悟している人のようです。
嘉永3年5月2日 風雨
今日も鳥越伝左衛門宅の所へ滞在。色々と丁寧にしてくれ、夜は取肴を仕立て、焼酎を出してくれる。日暮に、河野氏と足軽が来たが、足軽は午後10時頃に帰り河野氏は泊まる。工左衛門も日暮から来た。「河野氏」は、29日に着船した際に、津口横目の代理で来た河野元與です。「足軽」両人は、左源太の護送の二人でしょう。落ち着き先を確認するまでは、任務が終わらないのでしょう。
嘉永3年5月3日 晴
今日も鳥越伝左衛門へ滞在。いろいろと叮嚀にしてもらい、夜には取肴を仕立、焼酎を出してくれる。当地は魚は特に不自由の場所柄であるが、肴・豚など毎日ご馳走にあずかり、また、絹糸「二反かな」も呉れた。主人と同じような扱いで、誠に恐縮である。借家のこと、中山氏から内々に津口横目に働きかけ、伝左衛門が動いててくれているが、座敷を借家にするのは困難らしい。空き家は一軒もなく、米を四石くらい出せば買えるものが一軒あると聞いたが、これは断った。三畳間でも借りられるようにと、伝左衛門に細々と頼んでいる。少しすれば何とかなるだろうと考えている。
鳥越氏のところに長々と滞在し、毎日ご馳走になっているのは、甚だためらわれることではあるが、宿が決まるまでの間は、どのみち、やむを得ないことである。
遠島人の流謫先は大島以外を含め各地に及んでいますが、ここでも忖度が働いているのか、代官所のある名瀬およびその周辺で探しているようです。それもあってか、落ち着き先がなかなか決まらずにいます。
絹糸の「かな」とは、糸の単位の一つで、「かせ」と同じようなもののようです。
嘉永3年5月4日 晴
6時起床。10時過ぎ頃河野元與殿、荒武伊右衛門殿が来られ、飯など出し、程なく帰られた。暮から伝左衛門がいつもの通り焼酎、取肴をご馳走してくれた。10時頃就寝。伝左衛門の連日のもてなしに対し、貨幣経済が停止されている奄美でもあり、罪人の立場にある佐源太が対価を支払うことはできず、何らかの形で公費が支出されているものと推定されますが、焼酎まで出るのは格別の意図が働いているからでしょう。
嘉永3年5月5日 晴
朝6時起床。10時過ぎ田中直次が来る。暮から伝左衛門がいつもの通り取肴と焼酎のご馳走で、誠に痛み入る。一、わたしの住む草庵の借り出しは難しいらしい。はなはだ困り果て、歌を詠む。
八重遠き浪のうき間のうきよりも おきどころなきうるま嶋やま
さだむべきわら屋もなくていける身を いかがはしてかいきて住むべき
「うるま」は、庶民生活史料によれば、本来は琉球の意味ながら、奄美群島を小琉球と呼ぶことから、ここでは奄美大島を指す、とのことです。
なお、元の歌に濁点はありませんが、理解の便を考えて付加することにします。
嘉永3年5月6日 雨
今日も伝左衛門の所に滞在。源登之が見舞いに来る。夕方から源登志の祖母、冨寿丸片船富盛丸の船頭、与三兵衛という者が来る。皆10時頃帰る。一、源登之父子から塩肴一匹、ふき、木瓜、焼酎一徳利を貰う。お礼に、小杉糸一束、鬢付け五竿、刻み煙草五包みを遣わす。
一、登殿へ奉公した家来分という直太郎という島人から、瀬魚一匹、ねぎ、焼酎一徳利を貰う。お礼に巻煙草三つ、鬢付け五竿、刻み煙草三包みを遣わす。
一、富盛丸船頭の與三兵衛から、鳩二匹と肴を貰う。
一、わたしの監督役である足軽両人へ、サバ干物十匹を遣わす。
一、大祥丸船頭へサバ干物五匹を遣わす。親司へもサバ干物五匹を遣わす。
一、同船の遠島人下町人喜太郎という者からサバ肴五匹を貰う。お礼にひしゃくを二本遣わす。
「親司」は、庶民生活史料によれば、船頭の下で船員を束ねる役です。
以後頻出する「遣わす」には、相応しい訳語が見当たらず、そのままにしましたが、直接手渡すのではなく誰かの手を介したり持たせるイメージが感じられます。贈答品のやり取りの記録が、この日記では大きな部分を占めています。この現代語訳では、原文に忠実にすべて記載しますので、煩雑になることをお許し下さい。
貨幣の流通が停止されていた奄美では、経済活動の多くを物々交換によっていたのですが、この日記に書かれているのは「いただきもの」とその「お礼」であって、欲しいものを何かと交換で手に入れる、というスタイルには見えません。現代の沖縄などにつながる「贈答文化」「贈り物経済」の側面が先行しているわけです。
ところで、鳩二匹、これは食べ物だったのでしょうか?
嘉永3年5月7日 雨
今日も伝左衛門方へ滞在。朝、富盛丸船頭が見舞いにきた。昼、直太郎の母親が訪ねて来たらしいが会わなかった。大祥丸の船頭と親司が来る。河野元与殿も来られた。「直太郎」は前日に「登殿へ奉公した家来分」と称して訪れた島人ですが、鹿児島に奉公に出ること自体非常に困難なのでマユツバと考えたのか、今日来た母親には会わなかったようで、直太郎はこの後登場しません。色々な人がいるものです。
伝左衛門の所に滞在するのは、今日で8日になりました。
嘉永3年(西暦1850年)5月8日 晴
朝、(護送役の)足軽二人が見舞に来た。大祥丸船頭の児玉惣左衛門も見舞に来る。一、これまでは何処へも出かけず、もちろん門外に一歩も足を踏み出していなかったが、(代官)中山氏の尽力により、代官所から一里余り離れた小宿村という所の藤由気(とうゆき)という者の家を借りることになった。そこへ行く途中、相良荘一郎殿の所に寄って挨拶した。他にこれまで見舞ってくれた中馬氏・弟子丸氏・荒武氏・仁礼氏の所には行かなかった。もちろん荒武氏はこの村にはおらず、少し離れているという。遠島人は、互いに行き来しないことになっていること、よくよく心得えている。
一、10時頃、伝左衛門と一緒に歩いて小宿村に行く。もちろん小宿からも、藤由気の養子である嘉美行(かみゆき)が案内のために来た。藤由気の家に着いたところ、図面の通り全部提供すると言うので、自分一人が住むにはたいそう広すぎる、これほどは必要ないと断ったが、既に家主は住まいを移しており、多人数用の台所や住居を明け渡してくれた。
一、藤由気の所へ着いたのは正午頃であったか、あれこれご馳走してくれた。献立は次のとおり。
一、茶菓子 型菓子
一、大しゅんかん(蓋付陶磁器椀)に百合のせん(根の澱粉)を白砂糖でたてたもの
一、吸い物四つ(玉子、塩煎、味噌、豚)
一、丼四つ(塩魚 □しろいしかく□しろいしかくの切り身に酢かけ、塩辛に木瓜、数の子の小丼、びな塩辛か)
一、肴 干物
一、硯蓋一面(盛り具は、こが(玉子)焼き、牛蒡(ごぼう)、豚、刻み昆布、こぐし焼)
飯は鶏の汁で、入り具は、木瓜と牛蒡 。漬物はみそ漬大根
一、藤由気の兄の藤進(とうしん)、藤温(とうおん)、藤温の子の藤和志(とうわし)が来る。藤温から硯蓋と焼酎を貰う。
一、伝左衛門は、日暮前に出立し帰った。
小宿は、地形図にあるように、名瀬の北西方向約3km(道なりで約4km)の位置にある、深い入江に面した小集落で、名瀬の近郊と言っても、標高約80mの峠を二つ越えて行く必要があります。大和浜など島の西南方面と陸路で行き来する場合に、必ず通る村です。
借家について「図面の通り」とあるものの、原文でも十センチほどの空白があるのみで記入しそこねた模様(庶民生活史料)とのことです(残念)。家については後日(5月23日)もう一度出てきますので、そこで詳しく考察します。
ようやく住む家が決まりました。これから左源太は5年もの月日を、この小宿村で過ごすことになります。残っている日記はその内の約6ヶ月分ですが、日記以外に南島雑話などの著作を残してくれています。
家主の藤由気(三男)・藤進(長男)・藤温(次男)の三兄弟と、藤由気の養子である嘉美行は、この日記の主要な登場人物です。藤由気は、後述の通り代官所に勤務していることから、位の高い遠島人の流謫先が見つからず困っていると知り、一族とも相談した上で申し出て、自分が引き受けることにした可能性があります。本当にそうなのかどうかは、読み進める内に分かるでしょう。
このもてなしは、さすが豪農一族だけあって、非常に手の込んだ素晴らしいものですが、それを細大漏らさず記述するのが佐源太の面目躍如たるところで、小宿到着初日を飾るにふさわしい、本遠島日記を代表する名シーンとなっています。
個々の解説は後日再登場した際とし、ここでは次のみにします。
「数の子」の親であるニシンの分布北限は富山県および茨城県とされるので、まさに珍味であり、この後は見られません。
「硯蓋」は、硯箱の蓋のような盆状の器および、それに盛られた食物を指します。
嘉永3年5月9日 晴
朝6時起床。藤由気と嘉美行が出てきて、型菓子と百合のせんを立ててくれた。藤進と藤和志も見舞に来た。藤進が孫一人を連れてきて、手習いをしてくれと頼む。今年8歳とのこと。今日、伝左衛門の手配により荷物が届く。大福丸に乗る護送の足軽へ宿許状を頼んだ。藤由気や嘉美行は同じ敷地内にいるためか、他の者と違い「出る」という表現が多いので、「出てくる」と訳しています。
「型菓子」は、米を炒粉にして、黒砂糖と混ぜ合わせ、木型に詰めて打ち出して作るもので、らくがんのような菓子です。この日記では全部で18回登場するメジャーな菓子で、かた菓子、形菓子などとも表記されますが、この訳では型菓子に統一します。後出する煎粉餅などと異なり、南島雑話にも絵が登場しないのは、鹿児島と同じだったからではないか、と『名越佐源太の見た幕末奄美の食と菓子』の著者の今村規子氏は推定しています。
「百合のせん」は『幕末奄美の食と菓子』によれば、ユリの根を澱粉にしたもので これに熱湯を加えて練って供することを「百合のせんをたてる」と言います。南島雑話にある百合の説明に、根を採って葛と同様にして食べるとあります。奄美の百合はテッポウユリやカノコユリなどですが、加計呂麻島方面の特産であるウケユリ(学名: Lilium ukeyuri)について、南島雑話では"雅品にして最上の食物なり"と絶賛しています。今村氏によれば「せん(シン)」は、鹿児島・五島列島・島根などの方言とのこと、ネットで誰でも閲覧できる『大琉球語辞典』では、『百合澱粉(ユリヌシン)』と表示しています。
藤進が連れてきて手習いを頼んだ孫は、後出の安千代と思われ、一族で受け継がれてきた藤野家家系図にあるように、藤進の長男藤安の長男です。藤一族は、明治になって姓を届け出でる際に、代々名前の前に藤をつけていたことに鑑み、従来の差別的一文字姓を嫌い、野を付け加えて藤野としたものと考えられます。因みに、訳者はその末裔(安千代(藤喜温)の弟である東増(藤増)の子孫)であり、その縁でこの遠島日記に係わっています。
薩摩藩は、宿泊許可制度を取っていたので、佐源太は律儀に許可証(宿許状)の発行を求めたもののようです。翌日も伝左エ門に頼んでいます。
嘉永3年5月10日 晴
朝6時起床。午前10時頃、この村の住人と言って、実建(さねけん)・実満(さねみつ)・亀蘇応(きそおう)が来た。亀蘇応の息子も来た。代官所から常福も見廻りに来た。今日、伝左衛門が来たので、(代官の)中山氏へ宿許状を頼んだ。宮之原藤助も伝左衛門と一緒に来て泊まる。一、藤由気が漁に出てさわらという大魚を一匹釣ってきて、開いてくれた。
昨日まで止められていたのか、今日から村の人たちが挨拶に来ます。とは言っても、きちんと順序付けされているようで、先ずはユカリッチュを代表する二家の登場です。ユカリッチュ(由縁人、良人)とは、琉球王朝ないしそれ以前から認められていた各地域の名家のことで、小宿では藤進を代表とする一族(後の藤野家)、実建(実健)の一族(後の日置家)および亀蘇応の一族(後の稲家)です。
『奄美・小宿集落誌』大津幸夫著 によると、彼等は小宿の『御三家』であり、それぞれの屋敷の位置に因み、奥の家(オクマシント)、中の家(ナヌヤ)および下の家(シャヌヤ)と呼ばれ、いずれも多くの家人(ヤンチュ、債務奴隷)を抱える豪農でした。名瀬の近郊に位置する小宿には、後の大津家など立身出世で名を成す家系が複数ありましたが、由緒あるユカリッチュの御三家は別格だったようです。
文中、亀蘇応と息子(後出の亀蘇民)とあるのは、実は逆で、父の名が亀蘇民、息子の名が亀蘇応であることは、『奄美大島諸家系譜集・名瀬麓家他』や一族内で受け継がれている日置・稲家 家系図でも明らかですが、この日に親子揃って行ったのが禍して、佐源太に取り違えて記憶され、本人達を含め誰も間違いを指摘しなかったらしく、最後まで間違ったままなので、読む方も亀蘇応とあれば父、亀蘇民とあれば子と解釈することになります。
例えば『南島雑話 補遺』に出てくる『牛房之事』と題する一文の出だしは『名瀬間切小宿村に亀蘇応と言えるあり。年々牛房を能く作る。』となっていて、状況からして父親のことと考えられ、誤解したままです。なお牛房はごぼうのことで、篤農家だったわけです。
実際の場面でよく混乱がなかったものと感心しますが、佐源太以外の皆が頭の中で置き換えて対応していたのでしょう。ずっと後、佐源太が許されて鹿児島に帰ってから、亀蘇民(父)から送られた書状が残されていますが、さすがにその頃になれば佐源太も自分の間違いに気づいたはずで、在島時の島人の気遣いに思いを馳せたことでしょう。
5月8日の解説で藤由気が役所勤めと書きましたが、漁の腕前も一人前のようです。その「さわら」は、『幕末奄美の食と菓子』によれば、木材や貝などを材料に小魚に似せて作った疑似餌を水面近くで動かし、それを狙って浮き上がってくるのを魚突きで突いて獲るのだそうで、仲々巧妙かつダイナミックな漁法です。
「釣って」となっていますが、南島雑話にも『四月より鰆(さわら)突く』とあり、この時点では佐源太の知見がそこまで及ばなかったための記載と見られます。
嘉永3年5月11日 晴
一、朝6時起床。家主の藤由気から六曲一双の屏風絵を描いて欲しいと頼まれたので、その下絵を描いた。昼に中馬氏が見舞に来られた。大和浜という所へ行くとのこと。夕方から藤由気と一緒に浜辺に散歩に出た。それから亀蘇応と実建の所へ見舞に行く。藤進の所へも先日の礼に寄ったが留守だったので、帰ろうとしたら、門口で藤進に行き会った。次男(藤温)が漁に出てさわらを釣ったので、食べさせたいから必ず来るようにと言われて出かけ、程なく帰った。
原文で亭主となっているのを、実態に鑑み家主と訳すことにしました。必ずしも戸主個人に限らず、例えば戸主の妻が食物を用意し誰かが持参するなど、家主一家全体を示す場合も見受けられます。
左源太は多芸多才な人ですが、絵も得意で、「南島雑話」にも実に沢山の絵を残しています。ただ、この遠島日記では、前段の海や島の絵以外、ほとんど描かれていません。その多能ぶりは、永井亀吉編「高崎くづれ大島大島遠島録、名越佐源太翁小伝」によれば、次のようです。「槍術は鏡智流、兵学は機山流、剣道は天真流、弓は日置流といずれも奥儀を窮め、側ら和歌を善くし、絵に巧に又医術にも通じて居られたが、特に書法は肥州の秋山玉山先生の筆跡に似ると評せられる。」
小宿の浜は、今では埋め立てられて地形図のようになっていますが、当時は遠浅の砂浜で、汀線は今よりずっと手前にありました。佐源太がいた家は、一族が「オクマシント(奥の家)」と呼ばれるだけあって、集落の奥の方にあり、地形図に示す位置に「名越佐源太居住地跡」の表示が置かれています。
嘉永3年5月12日 曇時々雨風
一、朝6時起床。8時過ぎに藤助が赤木名の方へ帰った。10時頃藤進が来て、午後2時頃帰る。今日は家主の藤由気から頼まれた屏風絵を一日描いていた。夕方、立田川の絵が完成。
一、藤由気が、漁に出たそうで、はだらざこと木瓜2本をくれた。
一、藤進から煎粉餅を重に2つ貰った。 煎粉餅の形は右の通り。
一、藤由気へ百田紙(ももだがみ)1束・錦絵5枚・花簪1本・扇子2本・刻み煙草5包を遣わす。花染め手拭い1つと団扇1本も。
一、船頭伝左衛門へ百田紙1束・髪付け油6竿・刻み煙草5包み・花染め長手拭を1枚、袋を1つ遣わす。
一、柴工左衛門へ刻み煙草・手拭い・鬢付け油を遣わす。
一、藤進へ、巻煙草4つ・藤巻筆1本・鬢付け油5竿・鯖の干物3つ遣わす。
一、藤進の次男藤養志(とうようし)へ、刻み煙草5包・鬘付け油7竿・鯖の干物2つを遣わす。
一、藤進から煎粉餅を重に2つ貰った。 煎粉餅の形は右の通り。
一、藤由気へ百田紙(ももだがみ)1束・錦絵5枚・花簪1本・扇子2本・刻み煙草5包を遣わす。花染め手拭い1つと団扇1本も。
一、船頭伝左衛門へ百田紙1束・髪付け油6竿・刻み煙草5包み・花染め長手拭を1枚、袋を1つ遣わす。
一、柴工左衛門へ刻み煙草・手拭い・鬢付け油を遣わす。
一、藤進へ、巻煙草4つ・藤巻筆1本・鬢付け油5竿・鯖の干物3つ遣わす。
一、藤進の次男藤養志(とうようし)へ、刻み煙草5包・鬘付け油7竿・鯖の干物2つを遣わす。
「はだらざこ」のハダラはサッパ(瀬戸内海地方でママカリ)の九州地方呼称で、汽水域に生息する体長10〜20cmの小魚、小骨が多いため酢漬けに加工して食することが多い(Wikipedia)とのこと、はだらざこは、ハダラという小魚という意味かと推測されます。 後日の記述で、味噌煮にしたり炙ったりして食しています。
「木瓜」は、南島雑話の『嶋産菜』にもあり、普通の胡瓜にくらべて太くて大ぶりで、奄美大島で古くから栽培されている『島うり』と考えられます。『生木瓜を輪切りにして塩も付けずそのまま小皿に』盛る、と書かれていて、爽やかな味わいと歯ごたえの良さを活かし、生食の他に漬物、和え物や煮物にします。5月25日の糠漬けを作る話に繋がります。
「煎粉餅」は"米の炒粉と砂糖に熱湯を加え練り合わせた餅です。鹿児島などでも作られますが、奄美では様々な形に装飾整形するのが特徴で、祝儀と不祝儀で形を変えるとの話もあります(『幕末奄美の食と菓子』)。南島雑話にも、他の菓子と併せ上記と同様の煎粉餅が描かれています。
上記著書のまえがきによれば、虎屋菓子資料室に勤務されていた著者の今村規子氏が遠島日記に興味を持つきっかけになったのが、この煎粉餅の絵だったそうで、同氏のブログのお陰で当現代語訳が可能となったことを考えれば、煎粉餅は、神棚に祀り毎日拝礼して然るべき存在、とも言えます。
百田地区のページによれば、「百田紙」は、福岡県八女市立花町下辺春(へばる)百田(ももだ)で始められた楮(こうぞ)を原料に粘土を漉き込んだ高級和紙で、筆の滑りが良く長持ちし、製造技術が薩摩から琉球に伝わり、公用紙として使用された、とのことです。
9日に届いた荷物の整理が終わったのか、これまでお世話になったお礼に、あちこちへ贈り物をしています。
嘉永3年5月13日 晴
朝6時起床。10時過ぎ鍛冶屋へ行き、しばらく見物。それから浜へ少し出て、直ちに帰った。一、朝、百合のせんを大しゅんかんにたて、家主がくれる。藤由気が漁に出て、はだらざことえぶなをくれたので、えぶなをむた和えに、はだらざこは味噌で煮て、藤由気父子に酒を飲ませた。藤由気父子は私の宿の家主である。
「浜へ出て直ちに帰る」という表現からは、住まいが村の奥にあるため、浜からどこの家にも寄らず真っ直ぐに、という意味合いがくみ取れます。
「百合のせん」は小宿到着日の歓迎宴にも登場しましたが、テッポウユリの根を臼で搗き水を入れて沈殿物を干して粉にした澱粉で、湯でといて供する上品な食べ物です。「しゅんかん」(笋羹または春羹 )は8日にも登場した蓋付陶磁器椀ですが、年始を祝うお節料理にかかせない「煮しめ料理」の一種である鹿児島の郷土料理のことでもあり、容器と料理が同じ名前です。
「えぶな」はボラの幼魚で、「むた和え」で生食しています。この後にも出てくる「むた和え」は、ぬた和え(酢味噌で和える料理法)を指すものと考えられます。ボラと言えば、南島雑話にある『嶋人投網して坊良(ボラ)を取る図』はなかなか風情があります。
嘉永3年5月14日 朝小雨 後晴
朝6時起床。10時過ぎ鍛冶屋へ行き、しばらく見物。それから藤進宅に顔を出し、浜へしばらく出て帰る。一、今日は法成院様の忌日なので、かんざらしの団子に胡麻と砂糖をかけて霊前に供えた。
一、朝、団子汁を藤由気へ出した。昼、漁に出た由で、ちぬ鯛の小魚をくれた。
一、藤温へ刻み煙草七包、鬢付け油の七つ竿をひとつ、鯖の干物二匹をやる。礼を言いに来た。
一、藤進が来て、孫が大勢いると言うので、女の子がいるかと聞くと、女ばかりで男は二人と答えたので、簪二本をやる。
一、夕方、庭を掃除し、馬場の草を取った。
「法成院」は佐源太の祖先の誰かのようで、「忌日」は命日のことなので、仏壇ないしそれに相当するものを室内に設けていた(元々そういうスペースがあった)もののようです。この後も、お供え物をよくしていて、そのお下がりを頂くような記載が出てきます。
「かんざらしの団子」は、もち米を寒風にさらして作る白玉粉で作る団子のことです。
前述した藤野家家系図から推測して、藤進の男の孫二人は、長男の藤安の子供である安千代(8才、後の藤喜温(孝芳))と藤増(東増、数え年2才(墓誌から推算))かと思われます。なお、簪は当時成人を含め男女共に使用したので、男の孫にくれるのは不自然ではないのですが、女の孫がいるかと聞く理由は不明です。
「馬場」は、敷地外の通路を意味し島内の集落には不相応な表現ともとれますが、「奄美大島諸家系譜集」亀井勝信編 によると、当時から七十年程前に小宿に流謫されていた徳田邕興(とくだゆうこう、兵法家)の影響で、他の集落には見られない整然とした武家屋敷風の家並が残っていたようなので、そのまま「馬場」と訳すことにします。
嘉永3年5月15日 晴 風あり
朝6時起床。8時頃藤温が来た。10時過ぎ、家主の藤由気と助次郎で連れ立って浜に行く。藤由気は網を打ち、私たちは貝掘りをした。私は二、三十個掘ったが、助次郎は二個。掘り比べだなと笑った。午後1時頃帰宅。読書、その後、絵本を調べた。一、家主の嫡子である嘉美行が、夕暮れ畑から帰って、木瓜をみやげにくれた。昼はまた、はだらざこをくれた。あぶって自分で煎りつけにしたが、とても良い加減にできた。また、団子を作って茶を入れてくれた。とてもとても丁寧にしてくれ、恐縮である。
私からも干菓子など取り混ぜて遣わす。藤由気が昼過ぎに来たので、酒を澗鍋ひとつ飲ませた。酒はとても大切で、鹿児島で泡盛を飲むように少しずつ飲む。
一、夕方、庭の掃除をした。
一、10時頃就寝。
藤由気の「嫡子」は後出する嘉勇田ですが、病弱で(だから養子を迎えたのでしょうが)畑などには行かないはずなので、養子の嘉美行と書くべきところを間違えたか、後に誤写があったものと考えられます。
「酒」は、焼酎と区別して書かれているので、日本酒と考えられ、奄美では造れない貴重品をどうやって入手したのか、鹿児島から持参したのか、一切不明ですが、罪人に相応しくない扱いだったことの現れのひとつです。
嘉永3年5月16日 晴、風あり
朝6時前に起きて庭と馬場の掃除をした。それから夜具等たたみ、髪を結い、陀羅尼経を拝読した。昼の内に、藤進・藤和志・藤寿・佐喜明が来た。一、家主から、朝は木瓜二本、夕方に砂糖を少し貰う。私からも、子供へ菓子をあげた。
一、今年は稲作への鼠の害が特に多く、稲穂を食い切るのだとか、今日はその祈祷のために村中揃って浜へ出て、家には留守番を一人ずつ置くと言うので、私が留守番をした。また、今日は一日中火を使ってはならないというので、朝、一日分の飯を炊いておいた。10時頃から皆浜へ出かけ、網を日除けにし、三味線を鳴らし踊りをして、賑やかなことである。夕方、子供たちが馬駆けをするというので見物人の片隅に入ったが、子供の馬駆けはなく、若者二人が馬を走らせた。しばらく見物してから帰る。日暮から嘉美行に大島言葉を習った。
一、今日は5月16日なので、たんたどう(靼韃鼕)の野屋敷へ、父上様などが山の神祭りに出かけただろうかと助次郎と話した。式部殿も来られただろうか。
愚詠一首
夢覚めて草の枕におもふかな わがたらちをのあしたゆふべを
(たらちを=父)
もう一首
故郷をおもふもつらし独りすむ 柴の庵に袖はしぼれて
「陀羅尼経」は、Wikipediaにあるように、密教系の仏教で主に用いられる呪文の一種で、比較的長いものを指し、通常は意訳せずサンスクリット語原文を音読して唱えます。ダーラニーとは「記憶して忘れない」という意味で、繰り返し唱えることで雑念を払い、無念無想の境地に至ることを意図します。その拝読は、これからほぼ毎日登場する朝の日課の一つで、流罪に伴う不安定な精神状態を落ち着かせるのに有用な手段だったようです。
「藤寿」は藤温の次男で、藤和志の弟です。関係が分からなくなったら、左コラムの家系図藤野家をご覧下さい。「佐喜明」はこれから度々出てくる、公務にも携わっている近所に住む人です。
南島雑話によれば、鼠の害を防ぐ祈祷をする「甲子祭」なるものがありますが、今日は丁未の日なので、これに準ずる「浜下り」と称して、村中の家が留守番一人を残してすべて浜に出て、終日男女酒宴遊興しているようです。佐源太が来島した年は鼠の害が深刻だったが、翌年は椎の実が豊富で鼠が出ると聞かないと書いています。「奄美生活誌」 恵原義盛著 によれば、近年はハマオレの日と称し、夜明け前に作ったご馳走を重箱に詰めて浜に降り、稲の害虫や病気を除く祭をした後、酒宴になるとのことです。
「たんたどう(靼韃鼕)の野屋敷」は、城北の坂元村(現在の鹿児島市東坂元付近)にある名越家の別邸ですが、佐源太が遠島となった原因である於由良騒動の首謀者に謀議の場を提供した、その場所なので、諸々のことに思いを馳せながら話していたことでしょう。なお、佐源太は晩年をこの別邸で過ごしました。
「式部殿」は、名越左源太親族付帳(鹿児島県史料_名越時敏史料七)にあるように、佐源太の実弟の町田式部を指します。佐源太の三才下で、父右膳の実兄、則ち伯父である町田勘解の養子になっています。名越家と町田家は相互に縁組みする親戚関係にあります。
歌や本文に父親や両親は頻出しますが、それ以外の家族はあまり出てきません。しかし、この日記とは別の、見た夢を書き残した『夢留』には、家族が次々に登場します。決して忘れたり無視しているわけではないので、ご安心下さい。
嘉永3年5月17日 雨風、後風和らぐ
朝6時起床。庭と馬場の掃除。家に入り、床をたたみ屋内の掃除をし、髪を結い陀羅尼経一篇を拝読。部屋の明かり障子の腰の部分を張った。田の土に墨を加えて杉原紙に絵を描き、一枚づつ貼った。その後に雨風が強くなり縁側まで濡れたので、裸になって助次郎と二人で縁側から柱まで洗った。何処に行っても縁側の黒いこと、台所の棟木のようなので奇妙なことだ。我が家も同じだったが、今日洗ったので美事になった。それから、中山氏に頼まれた絵を描いた。夜10時頃、就寝。
一、今日、亀蘇民・藤寿が見舞にきた。二人ともこの村の者である。
一、先日、ハブに咬まれた川房という老人が門前を通りかかったが、哀れな様子だったので呼び寄せて菊油をやったところ、すぐその夜からとても具合が良くなったと言って、翌日魚を一匹くれた。聞けば、近隣の者とのこと。刻み煙草を三包遣わしたところ、とても嬉しがって、今日はその礼にやってきた。みな少しのことでとても喜んでくれる。
一、今日は昼、団子の落とし入れを家主が出してくれた。夕方、家主に酒を飲ませた。家主の藤由気は焼酎が大好きだが、酒はとても大切にして小さな茶碗に半分ぐらいづつ入れては五,六杯ほど、ゆっくり飲む。
一、盗人蜘蛛(アシダカグモ)が毎晩出て、いかにも気持ちが悪い。先日から毎晩七、八匹ずつ取っている。この二晩は四、五匹だ。はやく根絶やしにしなくては、ハブより気味が悪い。ハブは、山際等に行かないよう気をつけていれば、容易に見ることもできない。屋内に鼠を捕りに入ってくるらしいが、それは極めて稀なことである。山近くでは年に三、四度入ってくるとの由。私の住んでいる辺は滅多に来ないようだが、油断は禁物なので、念には念を入れて、少しでも鼠が騒いだらすぐ硫黄を焚くことにする。家の中でハブに咬まれるというのは、老人でもあまり覚えがないと聞いた。
一、村中の者が、次々に見舞に来て、皆丁寧にしてくれる。 とても幸せなことである。
「杉原紙」は当時一般的に使われていた和紙です。鎌倉時代以降、武家を象徴する高級品だったものが、幕末までには広く普及したようです。
「ハブに咬まれる」話は、南島雑話に出てくるハブに打たれた者の図に繋がります。南島雑話には「嶋中男女、反鼻蛇(はぶ)のために打たるる者、年分2,30人、過半は死す」との記述があります。ここに出てくる川房老人は、幸いにも重症でなかったようですが。
「盗人蜘蛛(アシダカグモ)」(Heteropoda venatoria)は、巣を張らず、歩き回りながら餌を探す徘徊性のクモでは日本最大種で、全長15cmほどになります。佐源太は気味悪がっていますが、家の中にいる虫を食べてくれる益虫であり、鹿児島にもいたはずで単なる住環境の違いなのですが、意外なところに潔癖症が露呈しています。
「とても幸せなことである」は原文では『別て仕合に御座候』となっていて、 こうした謙虚な感謝の気持ちが、周囲の人たちに通じないはずはなく、日増しに村の暮らしに溶け込んで行きます。
嘉永3年5月18日 昼過ぎから時々雨
朝6時から馬場と庭の掃除。家に入り、夜具と衣装一枚をたたむ。それから屋内の掃除、月代(さかやき)を剃って、陀羅尼経一篇を拝読した。それから、午後2時頃まで、家主から頼まれた絵を描く。飯を出してもらい、助次郎を連れて浜へ出て貝を掘ったりして心を慰めていたが、雨が降り出した。帰ったが寂しいので、助次郎と酒を呑んだ。
そんな折、藤由気が漁に出たと言って、えぶな、はだらざこをくれた。早速むたあえにして、酒を飲ませたところ、持参した焼酎を呑み、日暮に帰った。10時前に就寝。
一、今朝、家主から米粉で作った白団子を少し貰った
一、今朝、嘉美行が段々花を採ってきたので、すぐ床の間に活けた。
一、今朝、この村に住む者だといって、前養志という人が見舞に来た。
「月代(さかやき)」を剃らせない罰もあった中、きちんと手入れして武士の矜持を保つことができたこと自体、特別待遇の一環と見ることができます。
左源太は、ホームシックになったことを隠そうとしません。小宿の浜は北方の鹿児島に向かって開けているので、浜に出るのは気分転換以上の意味があるわけです。そういう心境を察してか、嘉美行が野の花を採ってきてくれました。
「段々花」は、南島雑話にある山丹花(サンタンカ)ではないか、と推定できる理由があります。ひとつは、この絵で花が二段に描かれていることで、もうひとつは、Wikipediaによれば、中国南部が原産ながら沖縄などでは古くより逸出して野生状態でも見られたこと、江戸の中期に琉球から江戸に入り三段花と呼ばれていたことです。実はこの三段花、後日出てくるのでお楽しみに。
「前養志」は、小宿のユカリッチュ御三家に並ぶ存在の家柄の人らしく、この後も母親共々、度々登場します。
嘉永3年5月19日 雨風
朝6時起床。夜具と帷子二枚をたたみ、屋内の掃除、髪を結い、陀羅尼経一篇を読んでいるところに藤由気が来て、しばらく茶など飲んだ。頼まれていた雛の絵を完成させ、あとは読書。夕方、藤由気がフロウ(ささげ)の初物を魚と煮たものを持参して、自前の焼酎を飲み、自分はひどい下戸でなどと言いながら、酒を少しずつ頂いていた。藤温も夕方しばらく顔を出した。夜に入って藤和志と嘉美行がしばらく喋って行った。
一、今朝、寝床の中で詠んだ歌
暁の鐘も響かぬむら里は いとど淋しき独り寝の床
花の香や紅葉の色に増りつつ わが故郷のたよりをぞ待つ
一、今日の昼時分、藤由気の妻がスノリ(モズク)を海苔の汁のようにして、大島の素麺でアリヲル(ですよ)と言って出してくれた。なるほど素麺のようで美味しく食べた。
一、今日、椎の蒸菓子を貰った。美味しかった。
「フロウ」は庶民生活史料によれば『フロ豆、ささげのこと』とあります。これは『奄美群島生物資源Webデータベース』にあるほろまめないしナガササゲと呼ばれる在来作物のようです。沖縄で『ふーろー豆』と呼ばれるものと同じとすれば、長さが30〜60cmにもなる長いサヤが特徴の豆です。
鹿児島では時の「鐘」を身近に生活していたのに、それがないのは寂しいと同時に、非常に不便で、鶏の声や日の出日の入りを除けば、体感するしかないはずなのに、日記では時刻が示されていて、特に夜の10時とか12時とかをどう識別していたのか、時計に慣れた現代人には見当がつきません。但し、ほとんど総ての時刻に「時分」「頃」「前」「過ぎ」などを付加していて、「昼過ぎ」「夕」「夕方」「暮」などの表現も多用しています。
明治になって現在の定時法になる前の日本では、不定時法が使われていました。これは、日の出の約30分前を明け六つ、日没の約30分後を暮れ六つとし、その間を昼夜それぞ六等分して一刻(いっとき)とするもので、季節により・昼夜により一刻の長さが変動しますが、生活実態に沿うものなので実用的でした。時刻と言うより時間帯と捉えるべきかと。
「スノリ」はオキナワモズク(奄美大島〜西表島に分布)の方言で、モズク(北海道以外の日本及びアジアなど広く分布)とは別種であり、南島雑話に『海蘊(スノリ)モヅクより筋太く、味も亦よし』と記されている通りですが、現在、モズクと称して広く流通しているのはオキナワモズクの方なので、混乱し勝ちです。奄美に来て初めて口にした佐源太は気に入ったようで、何事にも興味を持ち積極的に受け入れる姿勢が、食わず嫌いという悪循環に陥ることを回避してくれるようです。
「アリヲル」を含む奄美の方言は、ここにのみ記載されていますが、多くの住民は方言しか話せなかったはずで、佐源太と会話できるのは、それなりの教育を受けた一部の人に限られていたでしょう。佐源太もこの16日には嘉美行に大島言葉を習っており、意思疎通の重要性を認識していたことが分かります。
「椎の蒸菓子」は、南島雑話に『椎の実のこと』という項目があり、『餅米と半々交えて製す。至りて宜し』と記される蒸し菓子です。『形菓子に製すれば、粉しごく細抹にして、葛にて製したる菓子に似て最上なり』と続きます。椎の実の有用性に関する記述には、佐源太の強いこだわりが見られ、『島民これを天賦の穀物なりと、苦労しても拾うなり』と記し、『山中椎実を拾う図』を描いています。
嘉永3年5月20日 曇
朝6時、馬場の掃除をする。家に入って夜具をたたみ、屋内の掃除をして陀羅尼経一篇を拝読。それから絵刷毛(はけ)を作り直して、絵の練習をした。昼頃、河野元与殿が伊津部(名瀬)から来られた。木瓜と砂糖などをくれた。飯を出して、一緒に浜辺を散歩し、また我が家に戻って酒を飲む。絵を頼まれたので、百田紙に六七枚描いた。
夕方、元与殿が帰られた後、藤進が来て、日が暮れるまで茶飲み話をした。夕方、家主から米と椎を混ぜて作った蒸した菓子を貰った。毎日菓子類をくれ、本当に丁寧である。私のために毎日菓子類を作ってくれるのか、 あるいは、かねてからそういう習慣のある村里なのか、はっきりとは分からない。
一、今日家主から、木瓜を二本貰った。
一、亀蘇民から鶏一羽と木瓜三本、牛蒡一束を貰った。この村の住人。
一、暮れてから藤寿が来て、助二郎のところで話をしていた。(彼は)藤温の子で、同じく私に読み書きを習いたいとのこと、他にも少し習いたいという者がいるが、まだ教えてはいない。
「河野元与」は、佐源太が名瀬港に着いた時に、津口横目の代理として真っ先に登場した人物で、今日は佐源太の様子を見るためだけに来たようで、恐らく代官中山甚五兵衛の意向を受けて、様子見に来たものでしょう。
それにしても、毎日お菓子をくれる・・・!!!確かに、8日に藤由氣の家に入って以来、お菓子らしきものの記述がない日はほとんどありません。お菓子以外にも、訪ねてくる人たちが何やかやと手土産持参で、にぎやかなことです。
砂糖地獄と言われた当時の奄美の生活実態からすれば「菓子を毎日のように食べる習慣」が広くあったとは考えられず、ユカリッチュなど上流階級の一部に限られ、しかも毎日ではなかったものと推測されます。勿論、様々なお菓子を含む豊かな食文化が存在したこと、それはこの日記や南島雑話に縷々記載されている通りです。
関連して、南島雑話に記された奄美(小宿)の日々の食事の概要を『幕末奄美の食と菓子』にある現代語訳でご紹介します。但し、これは佐源太の身近にいる富裕層の暮らしを中心とする内容で、恵まれない下層や凶作時の粗食については『見聞するに忍びざる次第』としつつ、別に記録しています。なお、文頭で『小宿村は、島中にても至って勧農せるの善邑(農業に熱心な良い村)』と持ち上げてくれています。
5月10日に解説したとおり、亀蘇応一家は牛蒡作りの名人なので、今日は息子の亀蘇民が一束持参したようです。なるべく佐源太と接触して知見を深めるよう、亀蘇応が親心で仕向けているのでしょう。佐源太が子供達を集めて読み書きを教えるのは、後のことです。
嘉永3年5月21日 雨
朝6時起床、室内の掃除。帷子二枚をたたみ陀羅尼経を拝読。着物のほころびを縫った。朝食後藤温の家へ出かけ、しばらく噺をして帰る。部屋で袋を縫って色々な物を入れた。昼過ぎ神棚に供えてあった型菓子を助次郎と二人で食べた。夕方、宮之原藤助が来て泊まる。
一、藤進の所から、ゆでふ(茹でたサメ)を少し貰った。
一、藤助が、玉子と焼酎をくれた。
一、藤由気も今日漁に出てサワラ二匹を釣ったと、私にも少しくれた。今夜すぐに開き、藤由気にも食べさせた。 しばらくいて引き上げて行った。今夜は寝る前に、陀羅尼経一篇を拝読。
宮之原藤助は、佐源太と立場を共有する元遠島人のようで、先日から来ては泊まっていますが、後でちょっとした事件を起こします。
「ゆでふ」は、今村規子氏のブログ(現在停止)によれば、ゆでたサメの肉のことで、今でも鹿児島では酢味噌で食べる、とのことです。
嘉永3年5月22日 朝小雨、終日曇
朝6時起床。夜具をたたみ髪を結い、 陀羅尼経一篇を拝読。朝食後、亀蘇応が昨日の礼を言いに来た。昨日、巻き煙草三つ・刻み煙草五包み・団扇一本・鬢付け油五竿・鯖の干物三匹を遣わしたからである。
一、昨日亀蘇民から鶏肉と野菜などをもらったので、私も今日礼を言いに出かけ、帰りがけに前養志と真喜志の所へ寄り、家の入口で見舞に来てくれた礼を言った。真喜志は今朝初めて来てくれた。昼食後から短冊掛けを作る。竹で骨を作り紙を張り、日暮前に出来上がった。短冊掛けを作っている最中に藤進が来て、日暮に帰った。藤由気も夕方来て、日暮過ぎに帰った。藤由気は、私の和歌の弟子になるということで、古今和歌集を貸してやった。国許へ手紙を書いたので、就寝は夜中過ぎになった。
一、家主が、私の家敷に門を新しく立ててくれた。
一、藤助、今晩も泊まる。
5月25日の記載にあるように、この日記は翌日の午前中に書いているためか、「昨日」とか「今日」の表現が揺れ動いているようで、実際には次のようです。
一昨日亀蘇民から鶏肉等を貰う → 昨日お礼の品を持って行く、その帰りに前養志と真喜志の家に寄り見舞の礼を言う → 今朝、亀蘇民の父の亀蘇応が礼を言いに来る。
つまり、真喜志が来たのは昨日ということになります。
「真喜志」は、この後度々登場しますが、食べ物をくれる場面ばかりで、どういう人なのかよく分かりません。
「短冊掛け」を器用に作っていますが、佐源太の身分からして、作った経験があるとは考えにくく、普段から見知っているものの構造を思い浮かべながら、工夫して自作しているようで、こうしたことの積み重ねで不遇な暮らしから解放されて行くのでしょう。
嘉永3年5月23日 雨
朝6時起床。夜具をたたんで屋内の掃除。今いる住まいの絵図面作りに取りかかる。朝食は準備してもらった。朝食後から短冊掛けに絵を描き、居宅絵図面を清書。今日は終日絵を描いて過ごした。今夜は9時頃に床に就いた。
一、今日は椎飯と肴、木瓜とフロウ(ささげ)の煮染めを家主から貰う。椎飯はとても美味いものであった。
一、藤助、今晩も泊まる。
この「居宅絵図面」が日記に残っていないのは残念ですが、南島雑話にある間取り図が参考になります。「奄美生活誌」恵原義盛著 によれば、二棟で一軒となっているのは普通の作りのようです。南島雑話にこの図の説明がないので分かりませんが、もしかすると佐源太の住いを写したものかも知れません。佐源太が来る少し前まで藤由気一家が住んでいて、5月8日の記載でも「多人数用の台所や住居」と書いていますから、この程度の規模でも不思議ではないでしょう。
嘉永3年5月24日 風あり晴
朝6時過ぎに起きる。助次郎を起こして馬場の掃除、手水鉢の水替え。嘉美行が庭を掃いてくれる。私は夜具をたたみ、帷子と襦袢を一枚ずつたたんで屋内の掃除をした。陀羅尼経一篇を拝読。朝食後、伊津部にいる鳥越伝左衛門の所へ嘉美行と一緒に助次郎を帰り船の相談に行かせる。2時過ぎに伝左衛門も一緒に戻る。午後4時頃、藤進が来る。藤由気も出て来た。夕方、伝左衛門と藤進が帰り、藤由気も引き上げた。入れ違いに嘉美行が来てしばらく噺をした。
一、助次郎について、大祥丸で帰せば問題はないのだが、大祥丸はいまだに砂糖積場を廻っており、順風がないため今は積場から10里ほど離れた大熊湊で潮待ちをしていて、いつごろ積場に行くか分からず、積み場に行ってからも、船たで(殺虫や除湿のために船底をいぶすこと)や砂糖の積み込みには相当の時間がかかる上、大祥丸は特に古い船なので苦労もある。大祥丸の船頭に頼んではいたが、大熊の新しい早船で帰国できないか相談したところ、旨く行きそうで幸いなことだ。明日は、大熊にいる富盛丸船頭与三兵衛に伝左衛門が頼みに行き、便船の話がついたら、大祥丸船頭児玉惣左衛門にも相談して助次郎の手形の件もよろしく取り計らうはずである。富盛丸は既に黒砂糖を積み込み順風を待っている。
一、実満という者から、椎の蒸菓子を重箱二つ、白砂糖を小重に一つ、葱、木瓜を貰った。
一、藤温から豆腐とフロウ(ささげ)を貰う。
一、夕飯の時、家主から、もずくの汁、きびなごと木瓜の皿を貰った。
一、今日は藤助に米を搗かせたところ、米搗きは初めてとのこと。誠に下手で、こぼしてばかり、その不調法なことといったら可笑しいくらいであった。 二升の米の半分も搗かないうちに手に豆を作ってしまい、残りを私が手伝ってようやく終えた。助次郎は伊津部へ使いに出してあったので、飯を炊くよう頼んだところ、飯炊きも初めてとのこと、水を入れながら米を洗うので米は少しも洗えない。私が水をためて洗い、飯を炊いた。ただただ腹を抱えて笑った。家主達もみな寄って来て、珍しい人だと笑った。藤助の暮しぶりは、手習いの弟子達三人の家へ時々行き、薩摩芋を貰って食べているとのこと。砂糖作りの頃は、砂糖を絞る歯車の中に砂糖黍を差し込む作業をしていて、その他には何も仕事がないという。今日も泊まる。
一、今日、大島紬の単衣と綿入れそれぞれ一枚ずつを、家主の家内が洗ってくれた。
助次郎を鹿児島へ帰す方策を、伝座右衛門を交えていろいろ相談しています。船は、砂糖の積込みや何やかやで時間がかかり、順風を待つしかないので、なかなか思うように行きません。佐源太達が乗ってきた大祥丸は当てにならないので、富盛丸という、風さえ吹けばすぐにでも出る船に変更することを検討しています。
「実満」は、佐源太が小宿に着いた翌々日に実建と一緒に来ていて、実建の身内ではないかと想像されますが、日置・稲家系図には見当たりません。他にも、実建一族と思しき名前が多数登場しますが、実建以外は系図で特定できず、とても残念です。
「豆腐」は、大豆の生産がそれほど多くない(『この島大豆別けて多事なき』南島雑話)はずなのに、おからと併せ度々貰っています。7月14日には油揚げのことでちょっとした騒ぎが起きます。
しばらく泊まっていた「藤助」が、精米や炊飯のひとつもできない、と家主一家共々、呆れています。暮らしぶりは堅実なような話ですが...。
嘉永3年5月25日 時々雨
朝6時前、月が冴え渡っているので、馬場と庭の掃除をし、家に入り、寝具等をたたみ屋内の掃除をした。嘉美行が手水鉢の水を替えた。10時前に藤助が自分の村へ帰って行った。この村から十里程あると言う。(この里程は、通常の三十六町一里ではなく)いわゆる五十町一里に該当し、歩行には相当の時間と労力を伴い、道もとても険しく難渋するとのことである。朝食後に日記を書いた。
昼頃から、助次郎を連れて浜へ盆石を拾いに出かけた。質の良い砥石が沢山あるので持ち帰ったところ、これは珍しいものだと家主などが言う。沢山あるのに、村の者達はまだ誰も知らないと言う。砥石を鹿児島から取り寄せ、砥石一斤を黒糖一斤と取り替えるそうだ。砥石一つで十斤あるので、砂糖十斤になる。12時頃から雨が降り始めたので帰り、唐詩選などを読む。
4時頃、宍太郎と安熊という子供二人が来たので、めいめいに絵を描いてやった。程なく帰って行った。夕方、藤由気の所に行くと、茶を入れ砂糖とラッキョウ等を出してくれた。木瓜の糠漬けを作ってあったので、助次郎に出させて皆に食べさせたところ、とても珍しがり、優れものだと誉められた。ここでは糠漬けを作らないのか聞くと、作らないと言う。これはどうやって作るのかと聞くので、教えた。夕暮れに自分の住まいに戻った。
一、 実建の所から猪肉の味噌漬け一切れと豆腐二重とおから一重を貰ったので、豆腐とおからを少しばかり家主に遣わす。
一、昨日、実満から色々取り合わせてくれた御礼に、今朝、刻み煙草と鬢付け油・急須・魚の干物を遣わしたところ、すぐ礼を言いに来た。
一、助次郎の、船を乗り換える相談ができず、仕方がないことだし、格別遅くならないとのことなので、またまた大祥丸で帰すことを考えている。
「五十町一里」という言い方は、平地にくらべて距離の割に時間がかかる峠道に対して、実距離を割り増しして表現する江戸時代の慣習です。藤助の居場所は、5月12日の日記に記載されているように赤木名なので、小宿からは道なりに約34km(8里半)ほどあり、五十町一里で言えば約12里になりますが、十里程と言っているのは、大和村方向ほど峠道がきつくないからかも知れません。
1斤は約600gなので、10斤(6kg)の「砥石」は、かなり大きなものです。興味深い発見で、6月4日に鹿児島向けに委ねた品の中には砥石をひとつ含めていて、専門家の評価を求めたのかも知れません。しかし、砥石の原料となる凝灰岩は奄美にも分布するものの、天草のような砥石の産地とはなっていません。
今村規子氏のブログ(その後閉鎖)で、次のように述べられています。
「黒糖地獄」とも呼ばれるほどの圧政が敷かれ、農民は疲弊していたと伝えられますが、左源太さんの日記にみられる、どこかのどかな雰囲気とのギャップは大きいですよね。豪農や役人という上層階級が回りにいたことは確かなのですが、それにしても。お茶のみに行くと砂糖が出たりするわけなので・・・。むむむ。
「宍太郎」は日置・稲家系図にあるように、亀蘇應の子どもで亀蘇民の弟です。後に、嘉美行と共に左源太に連れられ鹿児島に行くことになります。「安熊」はどこの子か分かりません。幼名が系図に書かれることは少ないため、特定し難いのです。
「ラッキョウ」は、砂糖漬けや塩漬けにして食するようで、南島雑話には『抱居の事』として『ダッキョ(ガクキョ)を多分に作りて家々塩漬にして朝夕飯の添物とす』と記し、四〜六月に植え、少し芽の出た頃、葉を薄くまいて火を付ければ最上の肥料となって、外に手入れは必要なく、翌年同じ頃に収獲できる、と紹介しています。島ラッキョウとも。
「糠漬け」は、気温の高い奄美では、作っても発酵が進んで長持ちせず、すぐに酸っぱくなるため、作る習慣がないものと考えられますが、美味しさはすぐに理解されたようです。28日には、噂を聞いたらしく欲しがった藤温に、木瓜の糠漬けを届けていますが、朝の内にしたのは、それなりの配慮があったのでしょう。糠床が保持できたのかどうか...。
南島雑話では『味噌の事』として多種多様な味噌を紹介しており、その中に『糠味噌』として『焼酎の垂槽の麹に、糠を蒸し、それを入れて搗く』とあります。しかしこれは味噌そのものであり、糠漬けとは異なるものなので、藤温始め皆が珍しがったのも肯けます。
嘉永3年5月26日 晴
朝6時過ぎ、夜具をたたみ屋内の掃除。助次郎が庭と馬場の掃除をし、嘉美行が手水鉢の水を取り替える。髪を結い、陀羅尼経一篇を拝読。家主が、私の居間の雨戸を新しく作り替えてくれて、今日建て付けた。夕食後、実満と実建の所へ一刻ずつ礼を言いに行き、藤進の所に寄ってしばらく噺して帰宅。夕方、藤温と真喜志が来た。真喜志は日暮れ前に帰る。藤温からソラフクという魚を三匹貰ったので吸い物にして酒を飲ませたところ、しばらくいて帰った。嘉美行もしばらく来ていた。
一、昼頃、丑太郎と安熊という子供二人が来て、絵を欲しがったのですぐに描いてやった。日暮時分に安熊が貝を掘ってきてくれた。夕方宍太郎が来た。
一、真喜志に、刻み煙草・鬢付け油・急須・小鯛の干物を取り合わせて遣わした。
一、昨日、家主へ豆腐を遣わしたところ、豆腐と豚肉を煮たものを一皿持ってきた。
一、藤温から、今日ふのりを貰った。
一、柴工左衛門が今日伊津部から屋喜内(焼内)へ帰るそうで立ち寄り、型菓子一重と魚の干物をくれた。
一、旅宿を出る時にはいつも刀を差していたことを思い出し、しばらく門に立たずんで、
今は我が腰のあたりのさびしくて いで行くかどに立ぞやすらふ
「ソラフク」は、『幕末奄美の食と菓子』で『カワハギの仲間?』となっているだけで、どういう魚か分かりませんが、すぐその場で吸物にして酒を出すというのは、仲々の気遣いで、そうしたところに佐源太が島民から親しまれる由縁があるのでしょう。翌日にもまた三匹貰っています。
安熊と同じく「丑太郎」もどこの子か分かりません。ただ、子供が勝手に来ることはないはずで、ユカリッチュの一族か相応の家の子に限って許されて来ているものと想像されます。絵を描いて貰ったらお返しすることも、きちんと躾けられているようで、さすがです。
南島雑話の「豚肉」にあるように、家毎に5匹、10匹と飼っていて、臘月(旧暦12月)に殺して新年を祝い、味噌漬けなどにして夏頃まで食べますが、客人に出したり贈り物にする貴重品でした。幕末の日本では豚肉食は極めて限定的で、薩摩藩でもごく一部に限られていたようですが、奄美では『近年本流球より製法を伝』とあってまだ歴史が浅いながら、既に広く普及しつつあった訳です。太らせるために牡豚を去勢するのは、琉球から来た人に依存していました。
Wikipediaの「ふのり」によれば、古くから食用の他に糊の材料として漆喰の壁などに使われてきたものの多くは、日本を中心に広範囲に分布しているフクロフノリです。大島紬織物の糊料として利用しているのはハナフノリですが、最近の研究で、その内南西諸島に分布するものは、やや小型でリュウキュウフノリという別種であることが明らかになりました。佐源太が後日実家に送る荷物に入れているフノリは、鹿児島などと少し形の違うリュウキュウフノリだったかも知れません。
細かなやりとりや行き来を通じて、近所づきあいが維持され、地域に馴染んでいく様がよく分かりますが、一方では、立ち寄った柴工左衛門の姿を見て、武士としての自負を取り戻しているようで、遠島人佐源太の揺れ動く心境が目に浮かぶようです。なお、武士の魂とも言うべき刀(銘正良)一式は鹿児島を出る際に取り上げられています(「名越時敏謹慎並遠島一件留」 鹿児島県史料 名越時敏 七)。
嘉永3年5月27日 晴
朝6時過ぎ起床、夜具をたたみ屋内の掃除をし、髪を結い、陀羅尼経一篇を拝読。10時頃、丑太郎が昨日の礼に貝を掘ってきてくれた。宍太郎も一刻来た。10時過ぎ頃、助次郎を連れて浜へ盆石を拾いに出かけたが、良い石が見つからず、小石や貝殻などを拾い、昼過ぎ戻る。宍太郎と安熊が浜へ出て貝殻などを拾い、私のところへ来て、庭でしばらく遊んで帰った。藤進の孫の安千代もしばらく来ていた。
実建も昼にしばらく来ていた。夕方、助次郎が馬場と庭の掃除をするので、しばらく馬場に出て、馬場に向う垣根が茂っているのを刈り払った。
一、今朝、真喜志が黒砂糖を一重くれた。
一、実建が、仙人草を四、五株くれた。
一、藤温が、ソラフクを三匹くれた。
一、家主が百合のせんを立てててくれた。
「盆石」は、黒塗りの盆の上に自然石や白砂を配し、自然の風景を表現する古来から続く縮景芸術で、それに使える石を探して、前々日にも浜に行っていますが、佐源太自身がものした様子はなく、父親への土産と考えているのかも知れません。
「仙人草」はキンポウゲ科のつる性で木質の多年草。夏に白い花を多数つけ涼し気に咲くので、庭に植えるようにとくれたのでしょう。実建一族の奥ゆかしさが感じられる計らいです。こうしたところにも、「砂糖地獄」という単純な歴史感では推し量れない、心の豊かさやゆとりある暮らしぶりが窺われます。
嘉永3年5月28日 晴
朝6時起床、夜具等をたたんで屋内の掃除、月代を剃り髪を結う。嘉美行が手水鉢の水を替え、助次郎が庭と馬場の掃除。朝、藤和志・佐喜明・真喜志・嘉美行が来た。実福と佐恵原が初めて来る。藤温が木瓜の糠漬けをとても珍しがったので、今朝漬物を持たせてやった。藤寿が来て、10時過ぎ頃に藤温が来たので、一緒に浜へ盆石を見に行こうというので出かけたが、格別に良い石は見つからず、二つだけ拾って帰った。紙袋を六つ自分で縫ってふのりを入れた。
4時過ぎに藤進が来て、晩に涼みに来ないかと言うので、差し支えないから行くと伝えておいたところ、夕前に藤温が来て、藤進の所に一緒に出かけた。小重に花ぼうろと一口香(いっこっこう)を入れ、藤進の孫達への土産にした。藤進のところへは亀蘇応と実建が来ていた。夜十時と思しき頃、助次郎に提灯を持たせて帰ってきた。
一、晩飯は家主の家内が炊いてくれ、汁・皿もくれた。汁は伊勢海老と木瓜で、皿はきびなござこだった。皿には伊勢海老の子も入れてくれた。昼時分には、しゅんかんに百合を立ててくれた。
実福と佐恵原は、この日だけで、他の日に記載はありません。
紙袋を縫うのは、腰の強い和紙ならではのことで、強度があり実用的なものでしょう。
夕涼みと言っても、御三家の当主揃い踏みともなれば、さぞ重厚な集まりになったことでしょう。月明かりのない夜、助次郎の持つ提灯を頼りに歩く佐源太の姿が目に浮かびます。
お土産に持参した「花ぼうろと一口香」は『幕末奄美の食と菓子』によれば、いずれも鹿児島から持参した菓子のようです。「花ぼうろ」は、南蛮菓子と言われる、小麦粉と砂糖を混ぜて焼いたもの、「一口香」は小さなお饅頭のような形で中が空洞という珍しいもの だそうです。
「伊勢海老の子」について、伊勢海老の外子と呼ばれる卵が、一般に6月末から7月にかけて見られるとのことで、旧暦の5月末なら合致するので、これだろうと考えられます。珍味なので、汁に入れる身から外して皿に入れてくれたのでしょうか。
嘉永3年5月29日 晴
朝6時起床。夜具等をたたみ屋内の掃除、髪を結い、陀羅尼経一篇を拝読。父上・母上様に向かってお辞儀をする。それから茶など呑み朝食をとった。紙袋を縫って茸を入れた。今日は、(見聞役の)伊地知八右衛門殿が見廻りに来るはずという噂で、少し肴の用意などして待っていたが来られなかった。2時頃、藤進の所へ前夜の礼を言いに一刻行き、藤温方へも顔を出す。4時頃から藤進と藤温が来て、茶飲み噺に花が咲く。日暮前から浜へ涼みに出ようというので、三人で出かけた。 茶・漬物・砂糖・焼酎 ・小丼二つを持参し、焼酎は藤温が一人で飲んでいた。日が暮れてから帰った。
明日、助次郎が大祥丸に乗船することになったので、酒など飲ませた。嘉美行も焼酎を出してくれ、私には茶をくれた。
一、庚申のお供えに、今日貰った砂糖をあげた。
一、藤進が、重の移りに砂糖を入れてくれた。
一、藤温が、盆石をくれた。
一、藤温が、ざことふのりをくれた。
一、実建が、蜷 (にな)を七つくれた。
一、今朝、安千代が藤進の使いで来た。
一、昼頃、佐恵常(さえつね)という者が初めて来た。
今日から、両親のいる鹿児島に向かってお辞儀をする、という記述が始まり、この後ずっと続きます。
藤進は、名家の総領に相応しく、教養があり気位の高い人柄のようで、面長で長身の姿が想像されます。藤温は、次男らしく活動的ながらやや内向きで酒好きのようで、骨太のいかつい姿が浮かびます。三男の藤由気は、何事につけ要領が良く人に好かれ、小柄な姿が似合いそうです。いずれのタイプも後代に引き継がれた遺伝的形質です。
ようやく「助次郎」が帰国の船に乗ることになったようです。富盛丸へ乗換えを検討しダメになったのが25日ですから、思ったより早く決まったようですが、実は...。
今日は、4月5日の注で解説した干支で「庚申」(こうしん)の日です。庶民生活史料によれば、薩摩藩では庚申講の集まりが盛んであったそうで、それを偲んでお供えをしたもののようです。
「重」などの容器に入れたものを貰った場合、何かお返しの品を入れて返しますが、それを「移り」と呼びます。めでたいことが移って(連鎖して)行くように、という意味だそうです。「蜷」(にな)には、川蜷と海蜷がありますが、小宿の川は小さく川蜷が採れるとは考えにくいので、後者であろうと推察されます。
藤進の孫の「安千代」がお使いで来るのは、以前から藤進が希望している手習いに結びつけたい気持ちの表れでしょう。こうした教育熱心な面は、古くから琉球や薩摩との交易が盛んで、進取の精神に富んでいた奄美独特の精神風土に基づくもので、明治になって開花し優れた人材の供給源になります。「佐恵常」は、名前からして佐喜明の同族かと思われ、二人とも今後度々登場しますが、特に目立つエピソードはありません。
嘉永3年(西暦1850年)6月朔日 晴
朝6時起床、夜具を畳み、蚊帳と衣装のほころびを繕う。帷子を二枚たたんでから屋内の掃除をし、両親にお辞儀申し上げる。陀羅尼経一篇を拝読。助次郎が大祥丸へ乗船する予定で、大熊(だいくま)というここから二里余りのところへ行くので、門から一町ばかり送った。今朝、亀蘇民・真喜志・藤温が来た。昼時分、藤温が来て一緒に浜へ貝掘りに出かけ、それなりに採った。2時過ぎに帰宅すると、藤進が来た。4時頃、藤温が来て日暮まで茶飲み噺をして帰る。
日が暮れて、藤和志・藤由気・嘉美行が来て、助次郎が船に移ったので寂しかろうと焼酎と肴をくれる。私も酒と昼に採ってきた蜷貝を出した。十時頃に皆引き上げた。部屋を片付け、雨戸を立てた。
一、今夜の晩飯は家内の者が炊いてくれた。
一、藤温から雑魚を貰う
「大熊」(だいくま)は、小宿周辺地図の通り、小宿からは伊津部(名瀬)の先、そこまでとほぼ同距離をさらに行った、天然の良港に面した集落です。一人になって寂しかろうと、皆さんが来て焼酎や酒など呑みながら慰めてくれるのは、何ともありがたいことです。「部屋を片付け、雨戸を立てた」という表現に、孤独感が滲み出ているようです。
これまで飯炊きをしてくれた助次郎がいなくなったので、今晩は家主一同が気を使って代わってくれたようですが、この先、5月朔日の日記にあるように「自分で飯を炊くのも、かえって楽しくなる」という覚悟で臨むしかありません。謹慎期間中、遠島という裁断が予想された時点で、炊事はじめ一通りの家事を急遽教わったのかも知れません。習い事に慣れた佐源太は、メモなど取りながら熱心に学び、短期間で身につけたことでしょう。
5月朔日の日記にあった「米は四俵持ってきて、一俵は船で食べてしまった」ということは、1日一人約6合というハイペースで、単純計算だと残り二俵となり、一人になっても4ヶ月ほどで底をつくことになります。いずれにしろどこかで補給が必要になるので、遠島人の身で今後の生計をどう立てるか、心配なことではあります。
嘉永3年6月2日 朝曇、後晴
朝6時起床。庭と馬場の掃除。屋内に入り、夜具をたたみ、屋内の掃除をし、両親にお辞儀申し上げる。髪を結い、陀羅尼経一篇を拝読。10時から、富盛丸で鹿児島に送る手紙を書いた。夜に入ってから蝋燭を二本使った。昼頃、藤温が顔を出した。知名瀬(ちなじょ、女どもは「なきじょ」とも言うとか)から伊恵定が来たので、飯を出す。赤魚七匹と瓢箪ひとつを貰う。夜に入り寝るときにも、両親にお辞儀申し上げる。
一、藤温から、雑魚を少し貰う。
一、宿主の藤由気と藤温へ、茶家(ちょか)を一つずつ遣わす。
「知名瀬」は、小宿周辺地図の通り、小宿の西側、名瀬とは反対方向にある隣村です。伊恵定はどういう人か分かりませんし、この日の他には日記に登場しません。
この日から、夜就寝前にも「両親にお辞儀」との記述が始まり、この後ずっと続きます。
「富盛丸」は、鹿児島に帰る助次郎が乗り換えようとして何らかの理由でダメになった船ですが、故郷への便りを託すことについては合意が成立したようで、風さえあればいつでも出帆する状況から、急いで大量の書状を認めることになったのでしょう。このため、庶民生活史料によれば『贅沢品』である「蝋燭」を、惜しげもなく使っているようです。
鹿児島県史料 名越時敏史料七 「名越時敏関係書簡類」には、鹿児島に戻る直前、安政2年に大島から鹿児島の父宛に送られた5通の書状が残されていますが、残念ながらこの時期に送った書状は見当たりません。なお、名越時敏が本名で、佐源太は通称です。
「茶家(ちょか)」は『幕末奄美の食と菓子』によれば、急須に似た形の酒器で、焼酎の燗に使うものです。元々琉球から鹿児島に伝わったもので、薩摩焼で作られていたと思われる、佐源太の持ち込み品のようです。
嘉永3年6月3日 朝小雨灑(ぱらつく)、後晴
朝6時起床、両親にお辞儀申し上げ、陀羅尼経一篇を拝読。夜具をたたみ、すぐ手紙を書く。今夜もまた大ぶりの蝋燭二本を使った。封をするのは、大方嘉美行が手伝ってくれた。一、藤温から魚を貰う。
一、寝るときに両親にお辞儀申し上げる。
今日も朝から手紙を書き、夜までかかっていて、封を嘉美行が手伝っているところをみると、だいぶ沢山書いたのでしょう。父親宛だけでなく、見送りに来た人など、大勢の宛先に礼状と近況報告をしているものと思われます。
嘉永3年6月4日 晴
朝6時から手紙を書き、10時頃、大熊の方へ手紙・品物などを船に乗せてくれるように、嘉美行と藤和志に頼んだ。富盛丸へは紙包みをひとつ、中に反物五反、紙包みの箱ひとつに貝類を入れたもの。大祥丸へも、品物を頼んだ。手紙は後日渡す予定である。寝茣蓙を三枚と紙包みをひとつ、中にはふのりの袋を七つ、キノコの袋をひとつ、焼米の袋をひとつ入れた。すのり(モズク)入りの壺ひとつ、砥石をひとつ、型菓子を入れた紙包みをひとつ、箱二つ、仙人草一株も頼んだ。一、昼時分、丑太郎と安熊が来て、絵を頼むので描いてやる。
一、夕方嘉美行と藤和志が帰って来るのと一緒に、荒武伊右衛門殿が来られ、今夜泊まる。
一、夜10時過ぎ、両親へお辞儀申し上げて就寝。
一、今夜は甲子の日なのでお供えに砂糖を差し上げた。
一、今日は藤温と家主から蜷を貰った。
一、今日、川房からテピヨサという海老を貰った。自分で持ってきてくれた。
一、藤進が、午後二時頃から夕暮まで来ていた。
ここ数日書いていた手紙の他、色々な品物を送ります。袋を縫ってふのりやキノコを入れていたのは、鹿児島へ送るものだったわけです。いずれの品も乾燥したものなのでしょう。砥石は浜で拾ったもの、仙人草は実建から貰ったものでしょう。
「丑太郎と安熊」は、またまた絵のおねだりに来ていますが、他の子に頼まれたのかも知れません。「荒武伊右衛門」は名瀬に着いてすぐに、河野元與と一緒に挨拶に来た人です。先日来た河野氏は日帰りでしたが、荒武氏は一泊です。慰問と様子見を兼ねて来ているのかも知れません。
「甲子(きのえね)の日」は、60ある干支の1番目の日なので、物事を始めるのに適した縁起の良い日とされ、それでお供えをしたのでしょう。「川房」は先日ハブに咬まれて薬をあげた人で、また物を持って来てくれました。
嘉永3年6月5日 時々雨、夜に雨
朝6時起床。夜具を畳み屋内の掃除をして、両親にお辞儀申し上げ、陀羅尼経一篇を拝読。荒武氏へ朝と夕の食事を出した。朝食後、荒武氏も一緒に藤進と藤温の所へ行く。荒武氏は3時頃帰られた。それから、すぐ裸になって夜光貝を細工して盃を作ろうと、歌書を見ながら、夕暮まで摺ったが完成しなかった。夜八時頃、両親にお辞儀して早めに就寝。
一、 今日は亀蘇応と藤温から、蘇鉄のせんを砂糖で練ったものを貰った。とても美味しいが、一人では食べ切れないので、家主達へおすそ分けした。
一、亀蘇応には、茶を一袋遣わす。
一、藤温に、わかめを入れて容器を返した。
「夜光貝」は、この日は盃にする貝殻が主役ですが、普通は食用の身が主役です。本を読みながら作業するには、見なくても手が適切に動く必要があり、器用さの証拠です。古代より奄美産の夜光貝は南島の貢納品として都へもたらされ、『続日本紀』などに南島産貝の献上が記され、螺鈿装飾材として珍重されており、長い歴史を有する奄美の象徴です。
「歌書」は、佐源太の多芸さの一つである和歌の歌集や歌学書と考えられ、この後しばしば登場します。今日のように「見る」としたり、明日のように「読む」としたりで、意識して使い分けているのか、歌書にも複数あってそれによるのか、など不明な点もあります。
「蘇鉄のせん」は、普通には有毒で食用に適さないソテツの幹や実を、数週間から数ヶ月掛けて、水にさらす、発酵させる、乾燥させるといった工程を経て毒抜きし、澱粉を取り出したもの(ナリ)から、粒度の細かい上質な部分だけ選び出したものと推定されます。
南島雑話には、救荒作物としてのソテツの処理工程が、図入りで紹介されています。
嘉永3年6月6日 時々雨
朝6時起床。馬場と庭の掃除。夜具をたたみ屋内の掃除、両親へお辞儀申し上げ、髪を結い、陀羅尼経一篇を拝読。朝食後、伝左衛門から頼まれた寿老人と虎の絵を描いた。藤寿から頼まれた柳に馬の絵も描いた。12時頃、亀蘇民が一刻来た。私も亀蘇民の所に一刻行き、藤進の所でしばらく喋った。藤進の所で初めて長崎助六殿に会った。私の父が青木三次を通して書役に訴状を提出したことなどが話題に上った。2時頃家に帰り、歌書を読んだ。大鐘の頃、藤進と藤温が来て日暮過ぎに帰った。その後、嘉美行と読書し、午前2時頃に父母にお辞儀申し上げて就寝。
一、 家主から、菓子を貰う。
一、 家主から瓢箪とフロウ(ささげ)を貰った。
一、 藤進と藤温と家主へ、小さな茶碗一個ずつ遣わしたところ、大喜びだった。
七福神の一人の「寿老人」には鹿がつきものですが、鹿に替えて虎という組合せが一般にあったのかどうか、よく分かりません。「柳に馬」という組合せの絵や陶磁器は、中国にも日本にも多いようです。
「長崎助六」がどういう人なのか分かりませんが、鹿児島の状況に詳しいようです。日記にもう一度出てくるのは5年後の安政2年5月です。佐源太の父親が出したという『訴状』の内容やその結果は不明ですが、少なくとも佐源太を大いに励まし勇気づけたことは間違いないでしょう。
嘉永3年6月7日 晴
朝6時起床。夜具をたたみ部屋の掃除。真喜志が十時過ぎに来て、亀蘇民が夕食後、川房が午後4時頃来る。大祥丸の船員の太平次も来て喋って行く。私は朝から大鐘過ぎ頃までかけて、大祥丸で鹿児島に送る手紙を書いた。朝いつもの様に両親へ挨拶をし、髪を結い陀羅尼経を読む。夕方、道と庭の掃除。夜、藤由気と嘉美行が焼酎持参で来る。鰹のせんじを出す。焼酎を盃三四杯は飲んだ。藤由気は真夜中に帰る。両親への挨拶をして寝た。一、先日来、代官所へ出向いていた藤由気が今日帰って来た。
一、佐喜明から、蜷三個、木瓜二本貰う。
一、川房から、砂糖少々を貰う。
一、川房へ、茶を一包みやる。
いつもの記述と異なり、前後が入れ子になっていますが、あまり違和感はないかと。ここに出てくる「大鐘」は、午後6時頃を指すように推定されます。
「鰹のせんじ」は、4月13日の口永良部島で出てきたように、鰹節を製造する際などの煮汁を長時間煮詰めて飴状にしたもの、そのまま酒のつまみに好さそうです。11月3日に鹿児島から届いた品々の中に見えるので、この日出したのも持ち込みかも知れません。実際、南島雑話には、『鉛垂魚(かしをう)カツオ。多しと言う。島人取る事を知らず』と記されています。但し、安政2年5月14日には『手花部の喜祖盛から塩鰹一尾(を貰った)』とあり、疑問は残ります。なお、鰹節が奄美名産となるのは明治以降のようです。
藤由気の代官所勤務は、毎日通うのではなく、数日かそれ以上の期間行きっぱなしになるようで、代官所のある名瀬まで小宿から約一里あって、途中二ヶ所の峠を越すという距離からすると自然な成行だし、毎日仕事をするほどの重責ではなかったのでしょう。
「川房」は5月17日に菊油をあげた、ハブにかまれたという老人です。6月4日にもテビヨサという海老を持ってきてくれています。