藤原浜成
藤原朝臣浜成
ふじわらのあそみはまなり
生没年
724(神亀1)~790(延暦9)
系譜など
麻呂
の子。『尊卑分脉』によれば母は因幡国八上郡采女、稲葉国造気豆の女(
安貴王
と姦通罪を犯した采女と同一人であろう)。兄弟に綱執・勝人、異母姉に藤原豊成の室百能がいる。子に永谷(母不詳)・継彦(母は多治比県守の女)・臣彦・大継・永之(以上、母不詳)・
豊彦
(母不詳。
永主
の女を娶る)がいる。初め
浜足
と称した。
略伝
751(天平勝宝3)年1.25、従五位下。天平勝宝9年6.16、大蔵少輔。772(宝亀3)年5月、日本最初の歌論書『歌経標式』を撰上。序文及び末尾に「上」「謹上」とあり、光仁天皇に献上されたものと推測される。同年11.1、大蔵卿。773(宝亀4)年、山部親王の立太子にあたり、その出自が渡来系であることを問題として、山部親王を推す藤原百川と対立し、尾張女王を母とする{稗}田親王({稗}は正しくは草冠あり)を推挙したという(水鏡)。宝亀5年1.9、正四位下。宝亀6年3.18、正四位上。同年4.27、参議。宝亀7年1.1、従三位。781(天応1)年4.17、大宰帥。同年6.16、成績不振を理由に員外帥に降格され、大弐佐伯今毛人らが代役に任ぜられる。これは、浜成の娘が聖武の皇女である不破内親王の唯一の子息(すなわち唯一人残された聖武の外孫)である
氷上川継
の妻であったことと関係あると思われ、おそらく翌年閏正月に行われる氷上川継追放の布石であったろう。777(宝亀8)年閏1.18、氷上川継の謀反の一味として参議・侍従を解任される。大宰員外帥のみ留任。790(延暦9)年2.18、大宰員外帥従三位のまま薨ず(67歳)。万葉に作歌は見られない。
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