アートアクセス版 粋人粋筆探訪 文・坂崎重盛



戦後のの粋人粋筆系が続いたので、このへんで、独立、流浪的文芸人の紹介へと移ろう。まずは『ブラリひょうたん』の高田保。
高田渡ではない。演劇と文芸の人、高田保。
戦後の高田保の家庭内でのスナップ。パンにバターを塗って、愛妻、愛犬とお茶のひとときか。(昭和25年・創元社刊『ブラリひょうたん(第1集)』の口絵) 美しくも、おっとりした愛妻は、もとカフェー・ライオンの女給さん、綾子さん。左の写真と同じ日に撮ったものでしょう。(昭和28年・要書房刊『ブラリひょうたん日記』口絵)
随筆好きの読書人なら、この高田保という名は気になる存在でしょう。しかし、今日、どれだけの人が実際に、この人の著書を読んでいるだろうか。『ブラリひょうたん』が名エッセーらしいことはなんとなく知っているつもりにはなっているものの、はたして、ちゃんと、その文章を読んでいるだろうか。
人ごとの話ではない。ぼく自身もまた、そのひとり。
恩地孝四郎の装丁による創元社からの『ブラリひょうたん』(昭和25年〜26年刊)の全3巻は当然持っている。
戦後の高田保の名を高めた『ブラリひょうたん』の装丁。さすが恩地孝四郎、一見地味だが凝っている。バックがひょうたんの葉に恩地体といえる書き文字のタイトル。
同じ創元社、同じ装丁家による『人情馬鹿』(昭和27年刊)。戦後初の随筆集『風話』(昭和23年・和敬書店刊)。車谷弘(『文藝春秋』編集長)の編による『ブラリひょうたん日記』(昭和28年・要書房刊)。
高田保の死の直前に刊行された、巻末に永井龍男の「高田さんのこと」という文が寄せられている安井曾太郎装画『いろは歌留多』(昭和27年・文藝春秋新社刊、じつはこの本、先の『風話』を改題したもの)。
敗戦後3年目、昭和23年・和敬書房刊『風話』。高田保、戦後初の随筆集。 昭和28年、ということは高田の死後1年、車谷弘の編による要書房刊『ブラリひょうたん日記』。装丁は友人の石原龍一。この人、かの求龍堂の創業者。
そして、少し前、神保町で取材を受けている最中、均一棚を物色するフリをしているときにたまたま目にとまった『我輩も猫である』(高田の友人の宮田重雄装画・昭和27年・要書房刊)──などが手もとにあるが、きちんと読んでいない。

高田保を知る貴重な1冊。夏堀正元『風来の人 小説・高田保』(昭和60年・文春文庫刊)。 しかし、高田保の唯一の評伝・夏堀正元『風来の人 小説・高田保』(昭和60年・文春文庫刊)は、かなりしっかり読んでいる。(その証拠にフセンがペタペタ貼られている)
といったありさまだったのだが、今回、この稿のために、さすがに、あれこれ拾い読みしました。(1冊1冊、頭から終わりまで、ぴっしりとは読まない。このての本は律儀な完読はしない。随筆は随読だ。読む気になった文章を気分にしたがって読む)
で、その結果なのですが......この高田保という人の文章は、和洋のうんちくに富み、ヒネリの効いた、したたかなエッセーだが、はたして「粋筆」なのだろうか、ということに、あらためて気づかされた。たしかにこの人、存分に、粋人ではあるらしい。
飄々として、反骨、しかも複数回の女性との出入がある。武張ったところがなく、ニコヤカにしてニヒリスティック。ダダやアナーキーな気配もある。
しかし、彼の文章に接すると、ユーモア、エスプリ、諷刺、皮肉はあるが、お色気方面は、たまにしかない。拍子抜けするくらい真面目なのだ。
まさに「マジかよ!?」。「マジ」なのだった。
ご本人は粋人ではあるが、その随筆のほとんどは粋筆とはいいがたい。はてさて......と、思索はしたものの、著作の口絵に付せられている高田保さんの、どれも貧乏文士くさいポートレートの、なんともいい雰囲気。
この「著者近影」(といっても50代の最晩年!)を見ていただくだけでも、この欄に取り上げる価値あり、と思い定めることとした。
高田保といえば、戦後の『ブラリひょうたん』であり『我輩も猫である』他の随筆集だろうが、この人、どうやら、かつては典型的なモダンボーイだったフシがある。
講談社選書メチエの1冊、武田信明『〈個室〉と〈まなざし〉菊富士ホテルから見る「大正」空間』は、本郷にあった「菊富士ホテル」をアパートのように利用した文人・主義者たちの動向から「内向するまなざしの欲望を明るみにだす」(カバーコピーより)大正文壇史であり都市論。
高田保の追悼本といえる『人情馬鹿』(昭和27年・創元社刊)の口絵。いい感じの風貌ですねぇ。
ここに大杉栄、伊藤野枝、竹久夢二、三宅正太郎、正宗白鳥、尾崎士郎、宇野千代、宇野浩二、広津和郎、直木三十五、坂口安吾といった強者の面々が宿泊者(それも長期)として登場するが、他ならぬ高田保の名もその中に見える。しかも、ちょっとした主役級のエピソードの持ち主として。
「菊富士ホテルの双眼鏡」の項から引用する。
高田保は今では忘れ去られようとしている文士の一人であるが、全盛期の浅草オペ
ラ金龍館を皮切りに戯曲作家、演出家として活躍(中略)プロレタリア劇運動の前
線で活躍したが、一九三〇(昭和五)年検挙され「転向」宣言を発表した。宇野浩
二とは早稲田の同級であり、演劇仲間でもあった。
その宇野浩二が「菊富士ホテル」に入居することとなったのは、高田保の紹介によるものという。二人はともに1923(大正12)年にこの宿の住人となる。

武田信明『〈個室〉と〈まなざし〉』(平成7年・講談社刊)。あの本郷・菊富士ホテルに集った大正の群像。その中に高田保も。 ところで、ここでの高田保だが──
菊富士入居後のある日、高田保は以前から欲し
かった時計を買いに出かけたが、時計の代わりに
ツァイスの十六倍陸軍用望遠鏡を購入してしまう
。時間を知りたければ向かいの帝大の時計を望遠
鏡で見ればよい。
しかし、この望遠鏡購入には心ときめく余禄があった。引用を続ける。
しかもそれ以外に、近所の女子美術学校の寄宿舎
や菊の湯まで見えるのである。宇野浩二や三宅周
太郎らの同宿人も彼の望遠鏡にひかれて高田保の
部屋をしばしば訪れたという。
そして、「昭和三年のカール ツァイス社カタログ」の図版が掲載され、さらに、高田保と生涯の交遊を続けた広津和郎が、この望遠鏡のことについて書いたエッセーを紹介している。
高田保の大正初年から昭和初期のモボぶりは夏堀正元の『風来の人』でも紹介されている。
このホテルでも、高田はその剽軽な性格から一種の人気者になっていった。人を
笑わせるのが好きで話上手の彼の部屋には、謹厳で小心な演劇評論家三宅正太郎、
三味線の下手さ加減では宇野といい勝負だが、その自覚がないという点では宇野に
まさるショウペンハウエル学者の増富平蔵、フランス文学専攻から作家に転じよう
としている石川淳ら、五、六人の同宿者が入れ替わり立ち替り訪れて談笑していた

関東大震災後、年号が昭和に変わったころの高田保──
高田は奇妙な銀座散歩によって、"雑学の大家"への道をいつのまにか歩きはじ
めていた。その頭のなかにはくわしい銀座地図ができあがったばかりではなく、め
ぼしい店の創業時とその変遷、カフェーや酒場の数、女給の出入り、夜店の種類と
いったことまでわかってしまった。(中略)それに横光利一や川端康成の「文芸時
代」に拠って新感覚派の有力な旗手として活躍していたかつてのライバル片岡鉄兵
が"左傾"した、というような話まで銀座散歩から拾ってくる。
『人情馬鹿』に付された清水崑による高田保の似顔絵。 これもまた死の直後に刊行された『我輩も猫である』(昭和27年・要書房刊)。猫の挿画と追悼「あとがき」は宮田重雄。
高田保の没後、数ヶ月もたたぬうちに刊行された『人情馬鹿』の巻末に寄せられた広津和郎の追悼文「高田保の死」に、モボ時代の姿が書き留められている。
前から顔を知つてゐたが、親しくつきあひ始めたのは菊富士ホテル時代、約二十
二三年前からであつた。気軽に銀座を歩いてゐた彼、コリントゲームの好きであつ
た彼、互に金がないのに夜遅くまで町をほつつき歩いて時間だけを互に浪費し合つ
た彼、「人情馬鹿」とみずから称して、何処かにズバ抜けて純情なものを持つてゐ
た彼、権力が嫌ひで、町の人間と誰とでも友達になつてゐた彼、誰からも保つちや
んと呼ばれてにこにこしてゐた彼。 ところで、この『人情馬鹿』に高田保は自身をモデルにした女出入の話を書いている。
あいつはいい奴だ。まつたく愛すべき奴だ。誰だつて妻として夫のそれを望まん奴
があるものか。それはよろしい。だがしかし彼女はどうなるか? 僕の望んでいる
ごとく、生活をプロレタリアの方へ! これの出来る女なのか? 考えても見給え
。彼女は三代のブルジョアなのだ。祖父さんというものが身上を起して、親父がそ
れを受けついでだからあいつは生まれ落ちるときからお嬢様で──
と、最初の妻(入籍はせず)のことが語られるが、この女性こそ、常盤座、金龍館、木馬座などのオーナー、浅草の興行主、根岸一家の娘なのである。
その彼女は高田より年長。となると高田保はヒモといわれてもしかたがないだろう。しかもそんな彼が、集中してシナリオを書くために投宿した田舎の温泉芸者と、ぬきさしならぬ関係になる。しかも彼女は重度のモルヒネ中毒患者であった、と知る。
さて、その結末は──。この本文か、『風来の人』にあたっていただきたい。
なお、この後、高田は銀座のカフェー・ライオンの女給をしていた女性と入籍、彼女が高田保を見とることとなる。
では、高田保の名を戦後にとどめた『ブラリひょうたん』を見てみよう。
第1集の巻頭に「著者から」の一文がある。
ぶらりとしてゐてもへうたんはへうげて円く世間をわたる、身はたながりの月雪
花......。とこれは小唄の文句である。東京日日新聞紙上をかりた一日一文、題して
「ブラリひようたん」、としたが、その日その日のうかれ鼻歌、他人からみれば、
キザでもあろうしコッケイの骨頂かもしれぬ。けつして月雪花などという風流では
ない。
とある。敗戦後3年、昭和23年12月26日からはじまるこのコラムの一節を引用、紹介しようとページを繰ってみたが、この種の文章──気配の推移、起承転結のリズム、着地の出来、不出来が命──ということになるので、部分引用が無意味であることを知った。
では、どうする。せめてタイトルを紹介しておこう。「入墨コンクール」「闘争」「平沢・今昔物語」「所得税撤廃案(上・下)」「大臣と詩人」「首斬り」「身上判断詩(上・下)」「ブラリズム」(以下略)
昭和27年1月・文藝春秋新社刊の『いろは歌留多』。この本、じつは『風話』と同じ本。病中の高田のために永井龍男が企てたか。 高田保による「富士に雲かかりて暮れて枯野かな」の句。「歳末大船に行く綾子同道して」と添え書き。「綾子」とは、犬とバターの写真の彼女(妻)である。
『いろは歌留多』(昭和27年1月刊)巻末の永井龍男による「高田さんのこと」の一部を引用したい。この本が刊行された1ヶ月少し後の昭和27年2月に高田は没している。事態は切迫していたのだ。
あの瘠せた掌の平を擦り合はすと、そこからひよつこりと随筆が生れる。この手品
は、種のないのが、他に見られぬ特徴である。種のない処から、不思議な随筆がい
くらでも生れる。
正面を切ることの、あれ程嫌ひだつた高田さんが、いつの間にか舞台の中央へ押し
出されてゐた。当然のことである。 戦後、『ブラリひょうたん』で奇跡のように復活、ブレイクした高田保。しかし、このとき彼に残された命は4年に満たなかった。
(次回は夏休みが入って9月1日の予定。)
坂崎重盛(さかざき・しげもり)
しかく略歴
東京生まれ。千葉大学造園学科で造園学と風景計画を専攻。卒業後、横浜市計画局に勤務。退職後、編集者、随文家に。著書に、『超隠居術』、『蒐集する猿』、『東京本遊覧記』『東京読書』、『「秘めごと」礼賛』、『一葉からはじめる東京町歩き』、『TOKYO老舗・古町・お忍び散歩』、『東京下町おもかげ散歩』、『東京煮込み横丁評判記』、『神保町「二階世界」巡リ及ビ其ノ他』および弊社より刊行の『「絵のある」岩波文庫への招待』などがあるが、これらすべて、町歩きと本(もちろん古本も)集めの日々の結実である。

全368ページ、挿画満載の『「絵のある」岩波文庫への招待』(2011年2月刊)は現在四刷となりました。ご愛読ありがとうございます。
くろまる知られざる超逸品を掘り出す!くろまる
さてさて、今回は超サプライズショー。私の人生最初にして最後(?)の、驚愕の掘り出し物の体験。
季節は、ちょうど今ごろ。とある場所で、サマーフェスティバルの骨董市が開かれていました。ま、欲しいものに出合えることなどないだろう、と思いつつも、いつもの習い性で軽くクルージングしていると、珍しくも、入口すぐ左にステッキが数本立てかけてある。
中の1本が、ちょっと気になる。(えっ、まさか? いや、ありえないよな)と自分の思いを自分で否定。
しかし......気になる。ま、こういうときは、本命はさりげなく無視するフリをする。 別の、イカニモというスコッチテリアかなにかの犬の顔がヘッドの杖の値段を聞いたりする。
その店はギターやゴルフクラブetcの雑貨中心。店長は40代サーファー?答えは、
「18000円」。
(高いよ、高い、高い。どっちみち、買う気なんか最初からないんだけど)心の中でつぶやく。
で、他のステッキも、かなり買う気がなさそうに、あれこれ聞く。ま、完全に、暇つぶしのシヤカシの客ですな。
最後に、全体に、うっすらとホコリがかぶった、なんの変哲もないようなステッキを手にする。
ヤバイ!この重さは!
密度の高い材は当然、重い。最高級のステッキ材として用いられる紫檀や黒檀は、重い。もちろん、値段もしっかり重く、これらを入手しようと思えば、サイフは極めて軽くなる。ひとケタの万の単位では無理でしょう。
私が、ヤバイ!と思ったのは、その重さ、と同時に、ホコリとまぎれてうっすらと見えるムラムラの蛇紋、らしきもの。
一見、なんでもないステッキだが ところが蛇のようなガラが



カーブが美しい
もしや、幻のステッキ材とも呼ばれる、肌が蛇の模様のようなスネイク・ウッド!?
そんな気配は完璧に消して、(これ、かなりフツーのデザインですねぇ)などと、店の人に話しかける。
相手も、(まあ、こういうのが、いちばん使いやすいんですよ)と、あちらも、気のない対応。
(ふーん)とか言って、また、さっきの犬顔のステッキを手に取ったり、戻したりして、世間話的に(こっちは、いくらくらい?)と、本命の持ち重りのするステッキの値段を聞く。ただ、聞いてみる、という雰囲気で。
「7000円」。相手はめんどくさそうに即答。こちらを相手にしているのがカッタルクなってきたか。
「7000円ですかぁ」
(仮に、これがスネイク・ウッドのマガイモノとしても、この重さは半端ではない。軸の中が鉄の芯だったりしても、オモシロイではないか。これが7000円はメチャ安い)
が、表面は、ちょっと渋顔をつくり、
「うーん、5000円だったら、もらっていくけど」
と、ダメモトの値切りをすると、相手は、あっさりと、
「いいスよ、5000円で」。
新聞紙にくるんでくれようとするのを、
「そのままでいいですよ、ついて帰るから」と受け取って、ゆっくり、素早く、店から離れる。
(知らないな、あの店長、ステッキのことなど。めったに扱わないだろうし)
そして目指したのは、公園の水飲み場。ステッキの軸に水をかけて、手でていねいにホコリを流す。
で、で、出てまいりました。まぎれもなく、蛇紋!スネイク・ウッドです。柄の先端の錆びついたような金属部分にも繊細な細工が!それに、汚れていた石突きは、象牙ではありませんか!
「タハーッ......」。しばし、茫然。
近頃、スネイク・ウッドのステッキなど、デパートなどでも絶対に見かけない。もし、あったとしたら......普通のレベルの品で、2〜30万?いや、いや、それ以上?ましてや、材も細工も質の高い時代ものの、となると......。
この杖だけは、酔っぱらってなくしたくないなぁ。
柄の先には、ブロンズに細工がほどこされている
石突きは象牙!ときた

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